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64話 バスティアンはピアノがあるサンルームに向かいました。
最後の音の残響の中で
拍手が沸き起こりました。
オデットはビクッとして、
その音が聞こえて来た方に
顔を向けました。
戸口に寄りかかったバスティアンが
手を叩いていました。
「バスティアン?」
オデットは急いで、
ピアノの前から立ち上がりました。
拍手を止めたバスティアンは、
ようやく、サンルームを
ゆっくり横切って来ました。
そして、後ろ手を組んで立つと
心のこもった素晴らしい演奏だったと
褒めて、丁寧に頭を下げました。
その優雅な仕草とは違って、
じっと見つめる目つきからは、
歪んだ悪戯心が滲み出ていました。
オデットは、
からかわれていることに気づきましたが
とりあえず、お礼を言い、
夫を喜んで迎える妻らしい微笑も
忘れませんでした。
オデットは、
知らせが間違って伝わったようだ。
確かに帰りが遅くなると聞いていたと
弁明しました。
バスティアンは、
仕事が予想より早く終わったと
抑揚のない単調な声で答えました。
ピアノをチラッと見た視線は
すぐに再びオデットに戻りました。
「ああ・・はい、そうですか」
と返事をすると、オデットは
自然に身を翻して立ち上がると、
譜面台に広がっている楽譜を
隠しました。
演奏技法を向上させるための
練習曲の教本でした。
母親にムチ打たれながら
完璧に習得した本でしたが、
長い間演奏をしていなかったため
手が硬くなってしまいました。
今は中級者レベルでも
手に負えない状況でしたが、
最後の練習曲では、
特に多くのミスをしました。
いくら音楽的鑑識眼が低いとしても、
あんな演奏に、心から感嘆するはずが
ありませんでした。
じっくり見てみると、
一番酷いことを言う時に、
一番丁重になる男でした。
オデットは、
来ていたことを知らなかったので
挨拶が遅くなる失礼をした。
次からは、あらかじめ、
気配を見せて欲しいと、
優しい笑みを浮かべながら、
了解を求めました。
「嫌だけど?」
じっと、彼女の顔を見下ろしていた
バスティアンの唇の端が
少し歪みました。
オデットの笑顔は冷たい壁。
心を開いたのではなく、
ただ警戒心と拒否感を表わす方法を
変えただけだということを
バスティアンは、もう確実に
分かったような気がしました。
妻の仕事に献身する瞬間にも、
オデットは依然として
忠実で礼儀正しい他人でした。
バスティアンは、これ以上疑いなく
その事実を受け入れました。
すると、
より明瞭な結論が下されました。
心がなくても、
いくらでも優しくなれる女でした。
言い換えれば、
あえて、この女の心を
手に入れなければならない理由が
ないという意味でもありました。
私は君が欲しい。
バスティアンは、
霧のような混乱が晴れた場所に残った
欲望を直視しました。
私の今日に、
昨日と同じ君がいて欲しい。
だから、オデットは昨日のように
ただ私のそばにいればいい。
甘い嘘だけでも申し分のなかった
昨日のように。今日も、一途に。
バスティアンはゆっくりと頭を下げ
オデットと、
視線の高さを合わせました。
当惑しながらも、オデットは
目を避けませんでした。
彼を湛えた青緑色の瞳は
心がこもっていなくても美しかったので
それで十分でした。
「出かける、オデット。 準備して」
バスティアンは首を伸ばして
命令しました。
そして、
豊かなレースとフリルで飾られた
ドレスを目にしたバスティアンは
目を細めて、
その服は少し困ると思うと
付け加えました。
オデットは、
一体、どういうことなのかと尋ねると
バスティアンは、
楽な服に着替えるように。
乗馬服くらいで十分だと
躊躇うことなく要求しました。
オデットの気持ちがどうであれ、
オデットが何を考えていようと、
それは、この結婚の
変化要因にはなりませんでした。
決定権を握っているのは
結局、彼でした。
すべてが自分の管轄下に
置かれているという事実を想起すると
この関係が、一層軽く
すっきり整理されました。
今のままでも十分でした。
心を与えない女という事実が
ある面では幸いでした。
得ることができなければ
失うものも、またないだろうから。
この女にとって自分は、
契約書に書かれた
数字に過ぎないという事実も
やはり同じでした。
バスティアンは、
数字で片付けられる人生に
慣れていました。
相手の要求が明確であればあるほど、
むしろ関係は容易になりました。
与えることができるものなら、
与えた分の対価を得られるなら、
与えればいい。
その単純で明確な算法に従う
日々が続けば、
いつか時間が与える答えに
向き合うことになるだろう。
不満そうな顔をしながらも、
オデットは、
「はい、分かりました」と返事をし
素直に頷きました。
口元をわずかに上げる、
曖昧な微笑を添えるのも
忘れませんでした。
服従を装った反抗だということを
知っているけれど、
バスティアンは気にしませんでした。
半分ほど背を向けたバスティアンは
突然、オデットの足元を見て
まさか、その犬も
連れて行くつもりではないですよねと
尋ねました。
いつの間にか近づいて来ていた犬が
自分の主人のように大胆不敵な目で
彼を見上げていました。
オデットは、
「マルグレーテです」と
社交界にデビューした淑女にでも
接するように、
拾ってきた犬を紹介しました。
バスティアンは、
最初、その大げさな名前を聞いた
瞬間のように失笑しました。
汚い雑巾のようだった時よりは
一層良くなったけれど、
ネズミが食い荒らしたように
毛が切られた姿も
やはり見苦しいのは同じでした。
首に巻かれたレースのリボンが
犬をもっと滑稽に見せていました。
その犬を大切に抱いたオデットは
メグと呼んでもいいと
代替案を提示しました。
しかし、バスティアンは、
犬は別の場所へ置いて来いとしか
言えませんでした。
背を向けた彼の背後で、
犬が吠えました。

的を付けた干し草の山が
庭と浜辺の境界に置かれました。
オデットは、
ぼんやりとした気分に囚われたまま
あっという間に作られた
射撃場を見つめました。
バスティアンが指示した位置に
的を移した使用人たちは
続いて銃器を運んできました。
ピストルと猟銃、ライフル。
色とりどりの大きさと形をした
多彩な銃が、
広々とした野外用テーブルを
埋めていきました。
もうこれ以上、
空きスペースがないように見える頃
倉庫にある銃も必要かと、
執事が驚くべき質問をしました。
バスティアンは、
これで十分だと思うと答えて
使用人たちを労うと、
彼らを退かせました。
それから、バスティアンは
テーブルの前に近づき、
陳列された銃を調べました。
テニスセーターという
カジュアルな服装をしていても
独特の鋭い雰囲気を和らげることは
できませんでした。
重さを確かめるように
ライフルを持ち上げて
下ろしたバスティアンは
射撃をしたことがあるかと
淡々と尋ねました。
視線は、依然として、
光り輝く銃身の上を
行ったり来たりしていました。
オデットは「いいえ」と返事をし
これからも
銃に触れることはないと思うと、
できるだけ婉曲に
拒絶の意を伝えました。
小型のライフル二丁を選んで
手に取ったバスティアンは、
残念そうに笑って体を回すと、
「どうしよう。あなたの考えは
間違っているようだ」と
言いました。
オデットは、なぜ自分が
射撃をしなければならないのかと
尋ねました。
バスティアンは、
銃を撃つのにいい天気だ。
今日でなければ、
こんな時間を作るのは難しいと思うと
高くて青い空を見渡しながら
普通に返事をしました。
両手に銃を握ったバスティアンは
「こっちへ来て、オデット」と言って
軽く顎を動かしました。
彼と衝突しないようにしよう。
オデットは、
何度もその呪文を繰り返してから、
ようやく、
喉元までこみ上げて来た熱い感情を
鎮めることができました。
元々、独断的な男だけれど、
今日は度が過ぎていました。
一体、彼の真意が何なのか、
もう見当もつきませんでした。
不当な要求だと思いましたが、
オデットは素直に
バスティアンのそばに近づきました。
必ずこの取引を成功裡に
終えなければなりませんでした。
その代価として与えられる
新しい人生を考えれば、
これくらい、いくらでも
我慢することができました。
オデットの身長と銃身の長さを
比較してみたバスティアンは、
二つのうち、
少し長いライフルを選びました。
繊細で優雅な金細工を施した
クルミ材の銃床を持つ銃でした。
バスティアンは、
旧型ではあるけれど、
練習用としては遜色がない。
持ってみてと言うと、
巧みに弾を装填したバスティアンが
振り向きました。
オデットは、
うっかり彼が差し出した銃を
受け取りました。
バスティアンは
「重いですか?」と尋ねました。
オデットは、
少し重たいぐらいだと答えました。
バスティアンは、
そのくらいがちょうどいいと言って
頷くと、返された銃を持って
オデットのそばに立ちました。
バスティアンは、
まず銃の構造と各部の名称、
操作方法を教えてくれました。
きちんと理解できなかったオデットが
同じ質問を繰り返しても、
彼は、じれったそうな様子を
見せませんでした。
何度も何度も落ち着いて教えてくれる
バスティアンの声は、
波のない今日の海のように
静かでした。
バスティアンは、
よく見ておくように。
銃だからといって、
いつも、あなたを
守ってくれるわけではないけれど
それでも、あの小刀よりは
頼りになるだろうと言って、
相変わらず、
何が何だか分からない顔をしている
オデットを見ると、
自ら、銃を持って的の前に立ちました。
「まさか、そのせいなの?」
熱意もなしに見守っていた
オデットの目が
丸く大きくなりました。
死んだ母犬を埋めた雨の夜。
落ちたバッグ。
こぼれた物を拾ってくれた時
小刀をあざ笑ったバスティアン。
記憶の欠片が一つに集まると、
初めて、この謎のような状況を
理解できました。
「覚えていたんですか?」
オデットは信じられなくて
聞き返しました。
片方の眉を少し上げたスティアンは、
何の返事もすることなく
再び的に向き合いました。
一体なぜ?
ずっと淡々としていた
オデットの眼差しが揺れ始めました。
あの小刀を持つようになったのは、
安い借家を探すために
治安が良くない下町を
転々とし始めた頃からでした。
まだ幼い年齢だったけれど、
オデットは、
質の悪い男たちが投げかける視線と
下品な冗談が何を意味するのか
ぼんやりと察していました。
最悪の場合、
どんな危険にさらされるかも
しれませんでした。
毎日のように
酒に酔っている無力な父親は、
決して自分とティラを
守ることができないという事実に
気づいた日、オデットは
引き出しの奥深くに放置されていた
小刀を見つけ出しました。
実質的な武器というより
切迫した意志のこもったお守りに
近いものでした。
それに気づいた唯一の人が
よりによって、あの男だという事実が
少し気になった瞬間、
バランスの取れた姿勢と銃を握る姿、
視線の位置まで全て、
彼が説明した通りでした。
あの男が有能な軍人だという事実を
実感した瞬間、
銃声が響き渡りました。
オデットは、
思わず小さな悲鳴を上げて
後ずさりしました。
命中。
バスティアンが撃った弾丸は、
正確に的の真ん中を貫通しました。
「どうぞ、今度はあなたの番です」
バスティアンは軽く笑いながら
オデットに近づいて
銃を差し出しました。
遅ればせながら、
恥ずかしくなったオデットは
本当に射撃が上手だと、
ぎこちない褒め言葉をかけながら
ライフルを受け取りました。
バスティアンは軽く笑うと、
足をもう少し広げて、
腰を真っ直ぐにし、
肩は下げなければいけないと言って
オデットの姿勢を直してくれました。
オデットは
「こうですか?」と尋ねました。
壊れたおもちゃの兵隊のように
動きがぎこちないオデットを見ていた
バスティアンは、
いいえ、そうではないと言うと
新たに穏やかなため息をつきました。
バスティアンは
「怖いですか?」と尋ねました。
オデットは一抹の悩みもなく、
「全然」と堂々と返事をしました。
コチコチの体と震える指先のせいで
あまり効果的な嘘には
なりませんでしたが。
これ以上の助言は無意味だと
判断を下したバスティアンは、
オデットの背後に近づきました。
胸と背中が触れ合い、
両腕と足も一直線上に置かれました。
一つに重なった大小二つの影が
一緒に銃を握った姿でした。
バスティアンは、
しきりに後ろを振り返る
オデットに向かって
「前を見て」と静かに命令しました。
続いて「顔を上げて」と言って
彼女の顎を持ち上げると、
再び銃身を握ったオデットの冷たい手を
包み込みました。
「息はゆっくり吸って、今、吐いて」
バスティアンは、
適切な速度を提示するように
ゆっくり呼吸をしました。
ついに呼吸まで一つになった頃、
オデットの緊張は、
かなり緩んでいました。
バスティアンは
「準備はいいですか?」と尋ねると
銃口の方向を調整して
的に照準を合わせました。
オデットは「たぶん」と
もう震えていない声で囁きました。
準備が完了すると、オデットは
「ところでバスティアン?」と
急いで名前を呼びました。
バスティアンは「うん?」と
平然と返事をしながら、
僅かにずれた、オデットの手の形を
直しました。
オデットは、
もしかして自分が知っておくべきことが
まだ残っているかと尋ねました。
バスティアンは
「うーん」と考えながら
目を細めて、
日差しの中の的を見つめました。
バスティアンは、
目をつぶらないでと答えました。
そして、
一緒に引き金に掛けた指に
力が入りました。
「それで結構です」
最後のアドバイスと共に
銃声が鳴り響きました。
オデットの生涯初の射撃でした。
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バスティアンは、
サンルームからオデットを
連れ出す時に、
彼女の身を守るために
射撃の練習をした方がいいと
一言、伝えれば、オデットは
それ程、混乱することがないのに
バスティアンは
言葉が足らないと思います。
もしかしたら、バスティアンは、
自分を強く見せるために
自分が誰かを心配するとか
思いやりを見せるとか、
情けをかけるとかいう類の感情を
安易に出してはいけないと
考えているのでしょうか。
それでも、オデットに小刀のことを
少しだけ話したことから、
彼女に対しては、少し心を
開き始めているのかもしれません。
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