![]()
157話 マティアスはレイラに水泳を教えると言いました。
来ないことを願っていた週末が
ついに訪れました。
レイラが抱いていた全ての希望が
崩れ去った、絶望的な約束の日でした。
最初、レイラは
エリーゼ・フォン·・ヘルハルトに
希望を抱きました。
彼女は今日、フェリックスを連れて
ティーパーティーに
出席する予定でした。
実家の家門の貴婦人たちに
ヘルハルト家の後継者を
披露するつもりでした。
普段なら、
自分も一緒に出席すべきかどうか、
気を揉んでいただろうけれど
今回だけは、その反対でした。
なぜか社交の集まりに興味を見せる嫁を
不思議に思ったのか、エリーゼも気軽に
一緒に行くことを提案してくれました。
しかし、マティアスはレイラよりも早く
その日、妻は自分との先約があると
返事をしました。
とても丁重だったけれど、そのせいで
より断固とした口調でした。
じっと二人を見ていたエリーゼは、
それなら仕方がないと、
大したことではないというように
承知しました。
しかし、エリーゼは、
すでに皆が、フェリックスに会うのを
心待ちにしているので、
フェリックスは、必ず
自分と一緒に行かなければならないと
主張しました。
マティアスは、喜んで
母親の意思を尊重しました。
レイラの希望は一筋の煙のように
消えました。
その後、新たにレイラは
マティアスに希望を抱きました。
休暇中にもかかわらず、
マティアスは相変わらず多忙でした。
業務について議論する電話が
頻繁にかかって来たし、
カルスバルにある会社の重役たちに
会うために外出する日も多く、
公爵に謁見するために、
アルビスを訪れる客も大勢いました。
まともに休暇を過ごせない彼が
気の毒だったけれど、今日だけは
どうかヘルハルト公爵の日課が
いつにも増して慌ただしいことを
願いました。
真夜中を過ぎて帰って来るなら
もっと良いかもしれないと思いました。
午後のティータイムになっても、
マティアスが帰宅しないと、
希望は、ますます大きく
膨らみつつありました。
静かに入って来た執事が、
ご主人様が帰って来ましたと
伝えたことで
虚しい夢に終わってしまいましたが。
カップを置いた老婦人は、
早く帰って来た孫を、
慈しみ深い笑みで迎えました。
礼儀正しく挨拶をしたマティアスは
軽く首を回して、
テーブルの向かい側に座っている
レイラを見つめました。
レイラの気持ちなど、
知るはずがない彼女は、
ああ、 今日はレイラと
約束があると言っていたと、
恨めしくも、
その約束を思い出させました。
老婦人は
一緒に出かけるのかと尋ねました。
マティアスは、それを否定し、
離れで水泳を教えてやることにしたと
答えました。
公爵夫人が川で泳ぐなんて
品位がないと、
眉を顰めながら言う老婦人を見る
レイラの胸は、胸いっぱいの期待感で
ドキドキしました。
そんな言葉が、このように
甘く聞こえることがあることに
レイラは初めて気づきました。
どうか老奥様が、
強硬な反対の意思を
示してくださいますように。
もう、それが、レイラに残った
最後の希望でした。
でも今日は、幸運の女神が
彼に向かって微笑む日なのか。
しばらく悩んでいた老婦人は
意外にも、寛大な態度を見せました。
彼女は、
確かに、自分たちの時とは
世の中が変わった。
公爵夫人が、大学にも通う世の中なのに
水泳を問題視するのはおかしいと
言いました。
「あの、おばあ様?」と
切なく呼びたい気持ちを抑えながら
レイラはスカートの裾を
ギュッと握り締めました。
老婦人は、
自分には理解できないことだけれど
それを、あなたたちに押し付けないと
言うと、とても緊張している
孫の嫁を慰めるように
穏やかな微笑を見せました。
そして、レイラに
楽しい時間を過ごして来るようにと
言いました。
レイラの最後の希望まで消えた瞬間、
マティアスが近づいて来ました。
何事もなかったかのように
手を差し出す彼は、
あたかも、獲物を目の前に置いた
捕食者のように、
満足そうに見えました。
やむを得ず、その手を握りながら
レイラは、声を出さずに
深いため息をつきました。
必ず約束を守る男、
マティアス・フォン・ヘルハルトが
多少、恨めしくなった瞬間でした。

時間を確認したマティアスは、
そろそろ、心の準備が
できているべき時間ではないかと
尋ねました。
その質問に、
バルコニーの手すりの前に立っている
レイラの肩が震えました。
彼女は、
もう少し、慎重に考えてみたいので
催促しないで欲しいと訴えました。
すっかり硬くなっている様子が
明らかなのに、
声だけはハキハキしていました。
もう少し寛容さを示すことにした
マティアスは、
椅子の背もたれに深く体を預けて、
緩く腕組みをしました。
テーブルの上に置かれた
レイラの分の茶は、
随分前に冷めていました。
もう一時間近く経っているのに、
レイラは敵にでも会ったかのように
川の水を睨んでいるところでした。
離れに来る途中までは、
かなり元気だったけれど、
いざ川の水に向き合うと
怖くなったようでした。
深く息を吸っては吐くことを
繰り返していたレイラは、
突然、振り向くと
人は必ず、水泳が
上手でなければならない理由は
ないのではないかと主張しました。
何を言うかと思っていたら、
レイラは、かなり深刻な顔で
変なことを
ぺちゃくちゃ喋りました。
レイラは、
溺れることがないように
気をつけて生きていけば
いいのではないかと主張しました。
マティアスは、
それでも、思わぬ状況が
起こり得るということを、
よく知っているではないかと
言い返しました。
反論する言葉を考えていた
レイラの目が細くなりました。
彼女は、
あの思いがけない状況は
あなたが作ったものではないかと
非難しました。
改めて考えても、腹が立つので、
レイラの声は、
自然と尖っていました。
マティアスは否定することもなく
かといって、慌てる様子も見せずに
レイラに向き合いました。
レイラは、
まさか忘れてはいないですよねと
尋ねました。
マティアスは、
覚えていると答えると、
組んでいた足を戻して、ゆっくりと
椅子から立ち上がりました。
そして、いつの間にか
レイラのそばに近づき、
だから水泳を教えたいと言いました。
手すりに背中をもたせかけて
立っているマティアスから、
この頃になると
川辺沿いに生い茂るミントに似た
香りがしました。
マティアスは、
レイラが本当に望まないのなら、
無理強いはできないと言いました。
マティアスは、
レイラが、どんな決定を下しても
喜んで尊重してくれそうな目で
レイラを見ました。
自分を注意深く見守る、
あの美しい川に似た目を見たレイラは
彼が、本当に
そうするだろうということが
分かりました。
レイラは、
よく、分からないと答えると、
手すりをしっかり握っていた手を
緩めて、彼の方へ体を向けて、
でも、嫌なわけではないと
言いました。
それだけは確かでした。
本当に望まなければ、
レイラはいくらでも
拒否することができました。
レイラは、
自分が水を怖がるようになったことに
もちろん、あなたも
一役買ってくれたけれど、
だからといって、それが
あなたのせいだとは限らないと言うと
恐怖の元凶となった記憶を隠すように
思わず、川の上に視線を移しました。
ここで暮らすためには、
入会の儀式を
澄まさなければならない。
無邪気で、尚且つ残忍だった
叔母の子供たちが、
脅しながら放った言葉が
耳元で響くようでした。
「嫌なら、今すぐ出て行け」
彼らの中で一番年上で
体格の良かった少年が、
レイラの三つ編みを掴んで
引っ張り始めると、ワハハと
息もできないほどの爆笑が
湧き起こりました。
何度も逃げましたが、
子供たちは必ず追いかけて来て
レイラを捕まえました。
川岸まで引っ張られて行った時は、
転んだり、転げ回ったりして
できた傷から流れた血と泥で
みすぼらしい格好になっていました。
そんな所で、
生きたくありませんでした。
ともすれば悪口を浴びせ、
鞭で打つ叔父も、
ひどくいじめる、その家の子供たちも
皆、嫌でした。
見つかれば、
また殴られることを知りながらも
家庭菜園を漁って、
野菜を盗んで食べる必要があるほどの
ひどい空腹もやはり同じでした。
しかし、それでも嫌だと、
今すぐ出て行くと
叫ぶことができませんでした。
この世のどこにも
行く所がなかったからでした。
レイラを最も深く傷つけたのは
まさにその事実でした。
川に投げ込まれて死にかけたのに
わあわあ泣きながら、あの家に
帰らなければならなかった道で、
水は、
あの日の無力な恐怖と悲しみの
象徴のように、レイラの胸に
刻み付けられました。
だからこそ、なおさら、
マティアスに
知られたくありませんでした。
考えてみれば、いつもそうでした。
レイラは早くから
自分の境遇を悟っていました。
人々の同情と憐憫も、淡々と
受け入れることができました。
しかし、たった一人、
この帝国で最も高貴な貴族と称えられる
男の前でだけは、決して、みすぼらしく
なりたくありませんでした。
到底そうすることができないことを
分かっているのに、
それを望みました。
落とした硬貨を彼が踏み、
それを拾って夢中で逃げた
あの日から今まで、いつも。
もしかしたら、これからも永遠に。
「レイラ」
マティアスが呼ぶ名前が、
想念の中に染み込みました。
確かに同じ名前なのに、
どうしてマティアスが呼ぶ名前は
まるで、全く別の名前のように
聞こえるのか、本当に不思議でした。
歌うような口調のせいなのか。
それとも、
低くて柔らかい声のせいなのか。
何度も繰り返した
その質問に対する答えは、
今日も見つけることが
できませんでしたが、
不安感は一層和らぎました。
レイラは、
本当に大丈夫だろうかと尋ねました。
再び手すりをつかむ代わりに、
レイラは拳をギュッと握りました。
彼女は、
水に浮く自信がないと訴えました。
レイラは真面目に尋ねたのに、
マティアスは、
人間が水に浮くのは、
自身が関与する領域に
あるのではないということくらい、
優秀な科学者様なら、
誰よりも、よく知っていると思うと
憎たらしく反論しました。
言葉に詰まったレイラは、
とぼけるように遠くの空を見ました。
体がふわっと浮き上がるのを感じたのは
まさにその時でした。
驚いたレイラが爆発させた悲鳴が
平穏だった空気を揺るがしました。
レイラは、力いっぱいもがきながら
「もう少し考えさせて!」と
叫びましたが、
彼女をしっかり抱きしめたマティアスは
眉一つ動かしませんでした。
バルコニーを離れた彼は、
川と直結している
ボート格納庫への階段を
のっしのっしと降り始めました。
駄々をこねる子供のように
振る舞っていたレイラは、
ぴちゃぴちゃした水の流れが
見える所に近づくと、一瞬で硬直して
おとなしくなりました。
青ざめた頬に、
軽くキスをしたマティアスは、
歩幅を広げて格納庫を出ました。
日差しで熱せられた木の板の上を
すれすれに通り過ぎた一人の男と
その男の胸に抱かれた女の影は、
船着き場の端まで来て
ようやく止まりました。
夏の午後。
日差しを湛えた水面は
眩しいほど輝いていました。

考えれば考えるほど、
レイラは自分が馬鹿みたいでした。
実際、それは、
客観的事実に近いと思いました。
こんなに情けない姿で、
こんなに、
しょんぼりと座っている愚か者。
船着き場の端を
うろうろしていたレイラは、
目に見えて沈鬱な表情で
川の向こうを眺めました。
水の流れに沿って泳いでいる
マティアスは、
煌めく水面の一部のように
輝いて見えました。
レイラが、
最後まで勇気を出せないでいると、
彼は快諾してくれました。
そして一人で平気で
水泳を楽しみ始めました。
レイラに残したのは、
もう帰ってもいいという、
あまりにも無情な言葉だけでした。
だから、帰ればいいのだけれど、
このように、同じ場所を
グルグル回っているなんて、
この上なく情けない馬鹿に
違いありませんでした。
しかし、考えてみれば、
あの男も本当に変でした。
このように放っておくなら、
なぜ、あえて約束をして
ここまで連れてきたのだろうか。
マティアスは今、
水の上に仰向けになり、
空を見上げていました。
とても自由で美しく見える姿でした。
唇を噛みしめたレイラは、
決意に満ちた動作で靴を脱ぎました。
ストッキングを脱ぐには、
もう少し時間がかかりましたが、
それでも問題なくやり遂げました。
しかし、ここまでが限界でした。
川の前に立つと、眩暈がして
全身が震え始めました。
帽子を取り戻すために
水の中に飛び込んだ、
あの日の、あの無謀な勇気を
また出してみたかったけれど、
レイラにできたのは、
船着き場の端に座って
両足を水に浸す程度が精一杯でした。
まだ、ここにいたのかと、
船着場に再び泳いで来た
マティアスが、
からかうように尋ねました。
水面の上に、
半分ほど現れている濡れた体からは
夏の日の木々が持つような
圧倒的な活力が感じられました。
あちこちに残った傷の跡も、
その体が持つ美しさを
損ねることはできませんでした。
レイラは、
とても楽しそうだと言いました。
マティアスは、
見ての通りだと答えると、
片腕を木の板の上に掛け、
斜めに頭を上げて、
レイラを見つめました。
レイラは、
それなら、ずっと
楽しんでいれば良かったのに、
なぜ戻って来たのか。
からかうつもりなのかと
尋ねました。
マティアスは、
望むならいくらでもと答えました。
さほど酷いいたずらではないと
分かっていながらも、
レイラはかっとなって
立ち上がりました。
その苛立ちと失望が向かった先は、
マティアスではなく彼女自身でした。
なぜ最後の一歩の勇気を
出せないのか?
レイラは憤りを抑えきれず
唇をかみしめた。
依然として、あの頃の記憶に
縛られている自分が嫌でした。
なんて滑稽なことか。
それ以上に大変で
苦しいことにも屈せずに
耐え抜いて来たのに。
そうやって、ここまで来たのに。
たった、こんなことで
弱気になるなんて。
むしろ、このまま川辺を
離れてしまいたかったけれど、
今回も違わず、
レイラは振り向きました。
そしてドスドスと、
力強い足取りで歩いて行って、
船着き場の端に立ちました。
マティアスは、相変わらずその場で
彼女を見守っていました。
その視線が与える緊張感を
振り払うように、レイラは
最初にメガネを外しました。
そしてブラウスやスカート、
スリップまで次々と、
きちんと脱いで行きました。
恥ずかしくて、
頭の中がぼーっとしましたが、
視界がぼやけたおかげなのか、
上手く耐えることができました。
しばらく躊躇った末、レイラは
ブラジャーとショーツまで脱いで
積み上げられた服の山の下に
隠しました。
完璧に煌めく光が揺らめきながら
レイラの一糸纏わぬ体を
包み込みました。
その光の中で、
それぞれ異なる理由で落ち着いた
二人の目が、互いを映し出しました。
レイラは、
もう準備ができたと言うと、
船着き場の端に座り、
再び川の中に両足を浸しました。
そして、
本当はダメなような気がするけれど
それでもやってみると言いました。
泣きたい気持ちでしたが、
必死に、ぐっと堪えました。
黙って見ていたマティアスは
彼女に向かって
ゆっくり手を差し出しました。
掴んでいた木の柱を放すと、
レイラは力いっぱい
彼の手を握りました。
「離さないでしょう?」
その切実な問いかけに、
マティアスは、喜んで頷きました。
「絶対に」と彼は約束しました。
レイラは信じました。
最後の躊躇いを消したレイラは
川の中に飛び込みました。
ザブーンという水しぶきの音と
甲高い悲鳴が、
川辺の平穏を揺るがしながら
響き渡りました。
![]()
![]()
満足に食事も与えられず、
叔父には鞭打たれ、
いとこたちには、
いじめられることが分かっていても
行く所がないから、
帰らなければならない。
小さな子供が背負うには
あまりにも辛くて苦しい重荷に
レイラは、よく耐えたと思います。
彼女は、
水に落とされたことよりも大変で
苦しいことにも屈せずに
耐え抜いて来たのに、なぜ?と
思っていますが、
それは、子供の時に
川の中に投げ込まれて死にかけた経験を
忘れることができないからだと
思います。
それでも、
ビルおじさんが買ってくれた帽子を
拾う時は、死への恐怖よりも、
帽子を失いたくないという気持ちが
勝っていたのではないかと
思います。
レイラがこんなに怖がっているのに、
マティアスが彼女に泳ぎを教えることに
固執しているのは、
いつか二人で船に乗って旅をしたいと
考えているからではないかと
思いました。
それにしても、レイラも
水着を着ないで泳ぐとは・・・
泳ぐ練習をすると分かっているのだから
せめて水着を買っておいてと
思いました。
でも、太陽の下で
一糸纏わぬレイラを見たマティアスは
新たにレイラの魅力を
発見したのではないかと思います。
![]()