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66話 オデットはサビネ洋品店にいます。
驚いて顔を上げたマリア・クロスは
犬を飼っているのかと尋ねました。
危うく落としそうになった
生地のサンプルを握り直した
手の甲の上の関節が
浮き出ていました。
オデットは、
一口飲んだ茶碗を下ろすと、
「はい、小さくてかわいい子犬です。
今度、お越しの際はお見せします」と
答えて微笑みました。
あの事について全く知らないのは
確かなようでした。
犬を飼うなんて!
マリアは作り笑いを浮かべながら
ソファーの背もたれに、
深く体をもたせかけました。
訳もなく、
周囲を見回していた彼女は
ある程度、考えを整理してから、
再びオデットに向き合いました。
他の客たちの静かな会話と笑い声が
洋品店のだるい空気に乗って
伝わって来ました。
バスティアンは、自分の妻に対して
過度に寛大なところがありました。
これまでは、
まさかと思っていましたが、
今は確信できそうでした。
今日のことだけでもそうでした。
バスティアンは、
たかが妻の冬服が必要だという理由で
サビネ洋品店の予約を
取ってもらえないかと、
自ら電話をかけて来ました。
寒さに弱いようなので、
暖かいコートが良さそうだと
付け加えながら。
もし、直接、話していなかったら、
誰かが甥を陥れているに違いないと
信じていたところでした。
一体どうするつもりなのか。
マリアは、
未だに隠すことができない
混乱と心配が滲み出た目で
オデットを観察してみました。
多くの男を魅惑する
美人だということを、
知らないわけではありませんでしたが
まさかバスティアンが、
その一人になるとは
夢にも思いませんでした。
その上、あの子は、その事実を
隠すつもりさえなさそうに
見えました。
あまりにも気兼ねしないので
むしろ彼女が
恥ずかしくなるほどでした。
もしかしたら、これもまた
計画の一部ではないかと
推測し始めた頃、
新しい客が現れました。
よりによってサンドリンでした。
客用の応接室に入ったサンドリンは
自分を歓迎する社交界の顔ぶれと
嬉しそうに挨拶を交わしました。
ついに彼女たちを発見したのは、
店員が、
マリア・クロスのドレスの仮縫いの番を
知らせに来た瞬間でした。
「おはようございます、クロス夫人!
オデットも一緒だったんですね」
サンドリンは、
明るい笑顔で近づいて来ました。
親しい友達にでも
会ったかのような態度で、
オデットに対する敵愾心は
どこにも見当たりませんでした。
騒がしい挨拶で、
周囲の耳と目を集中させ、
これ見よがしに、
親交を誇示しました。
事情を知らない人たちの目には、
信実な友情を分かち合う仲に
見えるような姿でした。
相変わらず
気に入らない女性でしたが、
ジェフ・クラウヴィッツにとって
テオドラがそうだったように、
バスティアンにとって
最も役に立つ花嫁候補という事実は
認めざるを得ないようでした。
顔色を窺っていた店員が
準備ができたと、
慎重にマリアを催促しました。
サンドリンは、
自分が代わりに、
オデットの話し相手になるので
心配しないで行って来てと、
待っていたかのように
オデットの隣の席に座りました。
彼女は、
自分とオデットは、
あまりにも好みが似ているので、
話が、よく合う間柄だ。
そうではないかと尋ねました。
一方的な強要をする瞬間も、
サンドリンは、
無邪気な笑みを失いませんでした。
じっと彼女を凝視していたオデットは
口元をそっと引き上げることで
代わりに返事をしました。
毒牙を剥き出しにした蛇の前に
投げられた餌食となった境遇とは
似つかわしくない余裕でした。
あまりにも純真と言うべきか、
無関心と言うべきか。
どうしても、
その本音が分からない姿が
彼女の夫と非常に似ていました。
バスティアンの二人の女性の間で
悩んでいたマリア・クロスは、
それでは、楽しい話をしてくださいと
ついに白旗を揚げました。
オデットには、少し申し訳ないけれど
この辺で、
サンドリンが前に出てくれるのも
悪くはありませんでした。
無駄な希望を抱いた偽の妻が、
長い年月をかけて
手間や心血を注いだ計画を
台無しにすることがないように。
適正ラインを越えた
バスティアンの好意を、
オデットに知らせないようにした方が
良いという決定をした理由も
やはり、そこにありました。
たとえ愛だとしても
何の意味があるだろうか?
バスティアンの本心が何であれ、
結論は変わらないだろうと
思いました。

社交界の噂と新しくできた帽子店。
好評を博しているオペラ。
サンドリンは、遠回しに、
熱意のない無駄な話をしていましたが
そう長くは経たないうちに
バスティアンが、
冬服を用意してくれるようですねと
本心を露わにしました。
オデットは今回も、
形式的な笑みだけを浮かべました。
これまでの経験からすると、
これが最も適切な処世術でした。
サンドリンは、相手の返事を
あまり重視しない話し方を
する方でしたが、
オデットとの会話では
特にそうでした。
サンドリンは、
ドレスのサイズが
変わるようなことがなかったのは
確かかと尋ねると、鋭い目つきで
オデットの下腹部を観察しました。
かなり露骨な方式の挑発でした。
オデットは視線を上げて
サンドリンをじっと見つめると
彼女は「あら、怖い」と言って
わざとらしく眉を顰めました。
そして、
せっかく新しい服を作ったのに、
お腹が大きくなって
着られなくなったら困るのを
心配しているからだ。
知っているように、サビネは
予約が取りにくい所なので
バスティアンが去った後、
今のような特別な恩恵を
享受し続けるのは大変ではないかと
ひそひそ話しました。
その声からは、鮮明な喜びが
滲み出ていました。
少なくともその感情だけは、
でっち上げた偽りではないことが
明らかでした。
じっくり考え込んでいたオデットは
それはどういう意味かと尋ねました。
自分を傷つけるために投げた
餌だということは分かっていたけれど
そのまま聞き流すには
あまりにも気になる言葉でした。
サンドリンは
「ああ、知らなかったんですか」と
答えると、満足そうに笑いながら
オデットのそばに近寄って座りました。
サンドリンは、
バスティアンの出征許可が下りたことを
いとこのルーカスを通じて知りました。
まだ服務申請書が
受理されていないとはいえ、
すでに結論が出たも同然のことでした。
バスティアンを、
再び危険地帯に送りたくなくて
気を揉んだ日もありましたが、
今は違いました。
その事実を知った瞬間、
サンドリンはむしろ安堵しました。
あの男にとって最も危険な場所は、
まさにここ、
この女の隣の席でした。
サンドリンは、
バスティアンが再び出征すると
話しました。
オデットが
「出征というと・・・」と呟くと
サンドリンは、
北海艦隊に戻る。トロサ海戦を行った
あの海外戦線のことだ。
海軍祭が終わり次第、
出発する予定だそうだと話しました。
オデットは微動だにせずに
サンドリンの説明に耳を傾けました。
相変わらず無表情でしたが、
目の光が微妙に揺れていました。
サンドリンは、
もう自分との相談を終えたので、
当然、あなたにも
話したと思っていた。
申し訳ないと謝りました。
オデットは「・・・そうですか」と
返事をしました。
サンドリンは、
バスティアンは本当に無情だ。
いくらなんでも、
心の準備をする時間くらい
与えてもいいと思う。
海外服務を終えて帰って来れば
契約期間も終わるので、あなたが
バスティアンの妻の役割をする日も
もうあまり残っていないわけだと
言いました。
そして、青ざめたオデットの顔を
確認したサンドリンは、
一層軽くなった気持ちで
お茶を飲みました。
適当に楽しんで、
時が来たら片付ける女。
ようやく、
その程度の意味に過ぎない
存在だったということを確認すると
気を揉んで過ごした時間が
ふと虚しくなりました。
こんなにもつまらない結末だなんて。
一人で空中に向かって、
拳を振りかざしていたような
気分でした。
サンドリンは、
だから、もう少し気をつけて
良い締めくくりにして欲しいと
オデットに頼みました。
そして、仮縫いの部屋から出てきた
マリア・クロスを見つけた
サンドリンは、
そのくらいで席を立ちました。
もう、そろそろ、
可哀想なクラウヴィッツ夫人の
話し相手を終えてもいい頃でした。
サンドリンは、
きれいな服をたくさん
もらって行くように。
バスティアンからの
最後のプレゼントになるからと
言うと、そっと握りしめていた
オデットの肩から手を離しながら
振り向きました。
完成したドレスを受け取って
洋品店を離れる瞬間まで、
サンドリンは一度も
オデットに目を向けませんでした。
もう、その必要性を
感じませんでした。
偽妻の有効期限はもう終わった。
バスティアンが証明してくれた
明白な真実でした。

オデットの姿が見えませんでした。
オデットの影である犬も同様でした。
バスティアンは、背後で
ゆっくりと通路のドアを閉めると
釈明を求めるかのように
メイド長を呼びました。
ドレスの手入れをしていたドーラは
ビクッとして振り返りました。
メイド長は頭を下げて、
「奥様はピアノの練習をしに行かれた。
遅くなりそうなので
先に休んでくださいと
おっしゃっていた」と返事をしました。
「ピアノ?こんな時間に?」
バスティアンは、
ゆったりと羽織ったガウンの紐を
結びながら時間を確認しました。
マントルピースの上に置かれた
置き時計は10時を指していました。
普段なら寝る準備を済ませてから
裁縫をしたり、
本を読んでいる時間でした。
ドーラは、
すぐに奥様を連れて来ると
言いましたが、
バスティアンはそれを断り、
自分が行くと言って、そのまま、
妻の寝室を後にしました。
一定の歩幅と速度を維持していた
足取りが遅くなったのは、
サンルームのある廊下の端に着いた
瞬間からでした。
闇の向こうから
ピアノの音が聞こえて来ました。
機械的な音を
繰り返していた時とは違う、
なかなか立派な演奏と呼んでも
良さそうな旋律でした。
帝国最高の家庭教師に
なるつもりだったかのように
練習に邁進した甲斐が
あったようでした。
バスティアンは、
その音楽に導かれるように
ゆっくりと歩きました。
静かにドアを開けると、
パジャマ姿でピアノの前に座った
オデットが見えました。
カーテンを閉めていない
夜のサンルームは、
青白い月明かりに染まっていました。
人為的な明かりは、
ピアノの横の壁灯一つだけでした。
闇を嫌い、
常にすべての明かりを点けておく
女だという点を考えると、
非常に異例な光景でした。
バスティアンは
敷居を越えませんでした。
代わりに一歩下がった場所、
半分ほど開かれたドアの後ろで
オデットの演奏に耳を傾けました。
彼は音楽に無知でしたが、
それでも、
この曲が美しいことくらいは
認知できました。
人の気配を感じたら、
オデットは演奏を止めるはずですが
それはバスティアンが望む結末では
ありませんでした。
美しいものを
台無しにしたくありませんでした。
バスティアンは
この演奏が続くことを望んでいました。
夜が更けるまで。
月が沈んで日が昇るまで。
そうやって永遠に。空しい妄想でした。
月の光が降り注ぐ海に似た旋律は、
バスティアンの口元に浮かんだ
自嘲の色が濃くなった頃に
終わりを告げました。
オデットは、長い間、
音が消えていく鍵盤を
押さえていました。
演奏が終わると、
譜面台に置いていた鉛筆を持って
何かを熱心に
メモしたりしていました。
普段とは違う姿でした。
二人の間に横たわる静寂を破ったのは
マルグレーテでした。
開いたドアの隙間から
頭を突き出した犬が、
キャンキャン吠え始めました。
猛獣にでもなったかのように
威風堂々とした勢いでした。
オデットがピアノの前で
立ち上がったのと同時に、
バスティアンが敷居を越えました。
怯えた犬は、主人の後ろへ
ちょこちょこ走って行って、
身を隠しました。
闇の向こうから、
「バスティアン」と呼ぶ
ピアノの音色に似た澄んだ声が
響きました。
また始まった演奏のように美しく。
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サンドリンは意地悪。
フランツの婚約者も意地悪。
オデットとは、
少ししか関わっていないけれど
クロディーヌも意地悪。
でも、オデットは
全然、意地悪ではないし、
外見だけでなく心も美しい。
あのひどい父親と一緒に、
どん底の生活をしていたのに、
崇高さを保てたのが
不思議なくらいです。
バスティアンの周りには
家族やサンドリンも含めて
心の中がドロドロの人が多いので
オデットの美しさに
魅かれずにはいられないのではないかと
思います。
美しさを壊したくないという気持ち。
ピアノの音だけでなく
オデットのことも指しているように
感じました。
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