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160話 マティアスはバラをどうするのでしょうか?
まさか。慎ましやかな期待感に
胸がドキドキしましたが、
一方では信じられませんでした。
まさか、この男、
マティアス・フォン・ヘルハルトが。
考えれば考えるほど
速くなる心臓の鼓動が
耳元に響き渡りました。
ひょっとしたら、
その音がばれるかと思って
後ずさりしようとした瞬間、
彼が近づいて来ました。
マティアスは、
一つに束ねたレイラの髪の横に
バラを差しました。
レイラは息を呑んだまま、
ぼんやりと彼を見つめました。
バラの茎が、
髪の毛の間をすり抜ける音が
まるで雷のように聞こえて来ました。
なぜか、体を交えた瞬間よりも
気まずくて恥ずかしい気がしました。
こんなことをした肝心の男は
呑気にしているのに。
これは何かと尋ねると
レイラは髪に挿してあるバラを
そっと手探りし、
子供でもないのに・・・と呟きました。
花冠をかぶって、アルビスの森の中を
遊び回っていた子供は、
もうすでに大人の女性になりました。
しかもレイラは妻であり母親であり、
望もうと望まざるとにかかわらず、
ヘルハルト公爵夫人でもありました。
だから、やはり、こういうのは・・・
と思って、バラを引き抜こうとした瞬間
マティアスは「きれい」と囁きました。
そして、
躊躇うレイラの手を
包み込むように握ると、
彼は、満足げに
自分の被造物を眺めている神が
浮かべるような笑いをしました。
傲慢な気品と慈悲が入り混じる
威厳が宿った、支配者の微笑でした。
レイラは結局、バラを残したまま
手を下ろしました。
満足そうな視線の中に
その姿を収めながら、
マティアスはレイラの顎を
そっと包み込むように握りました。
そしてゆっくりと頭を下げて、
咲いたばかりのバラに似た
柔らかい唇に短く口を合わせました。
あの気が狂いそうな夏の午後の渇望も
このようなものだったということが
今になって、
分かったような気がしました。
いえ、
あの瞬間も、すでに知っていました。
ただ、
そうすることができなかったので、
むしろ知らないふりをするために
わざと、あらゆる悪い行動を
して来ただけでした。
マティアスは、
再びレイラの手を取って歩きました。
並んで歩く二人の影が
庭と邸宅をつなぐ大理石の階段に沿って
続きました。
階段の中ほどを通り過ぎた時、
レイラは、
でも、だんだん信憑性が
低くなっているということを
知っているかと、
突拍子もない質問をしました。
マティアスは、眉を少し上げることで
反問に代えました。
レイラは、
「きれい」という言葉は、
あまりにも軽々しい。
だから、時々、嘘のようにも
思えると訴えました。
駄々をこねる口調とは裏腹に、
彼を見上げる目つきは
澄んでいて穏やかでした。
自分では、澄ました顔をしようと
努力しているようでしたが、
もう一度、その言葉を求めていて
聞きたいという気持ちは、
すでにレイラの両目に、
はっきりと表れていました。
相変わらずひどい演技をする
きれいな妖精に、喜んで
騙されることにしたマティアスは、
「それでは、もう一度、
信憑性を高めて言う。
本当に美しい花が咲いているね」と
いつもと全く違うアクセントで
大げさに言いました。
注意深く聞いていたレイラは
それは何なのか。
そちらの方が、もっと嘘っぽい。
あまりにも変ではないかと抗議すると
眉間にしわを寄せました。
こんなに、
ぎこちない話し方をするなんて。
マティアスは、本当に
ひどい演技をしているようでした。
レイラはクスクス笑いましたが、
その瞬間、ふと思い出した記憶に
レイラの顔が固まりました。
「まさか、あれ?」
忘れようと努めて来た、
あの、はるか昔の、
恥ずかしいチャリティー公演の記憶が
襲いかかるように浮び上がりました。
驚愕するレイラを見つめながら、
今度は、マティアスが
クスクス笑い始めました。
レイラは、
一体、どうしてそんなことを
覚えているのかと尋ねました。
マティアスは、
忘れるには、あまりにも強烈な
記憶だからと返事をしました。
レイラは、
「言わないで! 考えたくもない」と
抗議すると、真剣な表情で、
走り出しましたが、マティアスは
これといった努力をしなくても
簡単に彼女に追いつきました。
彼は、
それでも自分は、あの日の君よりは
立派な俳優のようではないかと
言いました。
途方に暮れたレイラは、
「言わないでって、言ったでしょ」と
抗議すると、
マティアスの手を振り切って
逃げ始めました。
その足音は、
夜の静寂に包まれていた
邸宅ロビーのホールのあちこちに
広がりました。
幸いマティアスは
レイラを追いかけませんでした。
その事実に安堵する瞬間、
邸宅の正門へと続くホールの向こうから
ざわざわと
話す声が聞こえて来ました。
予定より遅く帰宅した
アルビスの女主人、
エリーゼ・フォン・ヘルハルトでした。
驚いたレイラは、
急いでホールを横切りました。
近づいてくる嫁を見つけた彼女の目は
眠そうな猫のように
細くなりました。
幸いレイラは、
礼儀作法を忘れるミスを犯さず、
無事に
彼女を迎えることができました。
遅れて一人で入って来たマティアスも
すぐにレイラのそばに立ちました。
悪くない礼儀作法だったという
レイラの安堵感は、
母親に挨拶するマティアスを見た瞬間
きれいに姿を消しました。
特に変わった点はないけれど、
マティアスの簡潔な仕草は、
レイラのものとは
全く違って見えました。
首をまっすぐに立てた姿勢で
母親と向き合った彼は、
露骨な欲望で彼女を追い詰め、
意地悪な少年のような悪戯をしていた
あの男を、
到底思い出すことができないほど
上品で優雅でした。
「あなたたちも帰りが遅かったのね」
と言う、
エリーゼ・フォン・ヘルハルトの目に
ようやく満足感が浮かびました。
しかし、
「フェリックスのおかげで、
今日の集まりは、とても・・・」
と、一層和らいだ声で
話を続けていた彼女の唇から
「はぁ」と短いため息が漏れました。
彼女の視線はレイラ、正確には
レイラのボサボサの髪の横に刺さった
薄いピンク色のバラに
向けられていました。
わけが分からず瞬きしていたレイラは
遅ればせながら頬を赤く染めると
頭に手を伸ばしました。
エリーゼは、レイラが、
とても貴婦人らしい格調と品位に
溢れているので、
畏敬の念を抱いていると
意地悪な小言を言いながら、
もう一度呆れた笑いを漏らしました。
そして、
乳母の胸に抱かれて
すやすや眠っている孫に向かって、
あなたのお母様は
今日も、とても気分が良さそうだと
ため息混じりの言葉をかけることで
話を終えました。
規則的に鳴る靴底の音とともに、
遠ざかっていく彼女の
まっすぐな後ろ姿を眺めていたレイラは
泣きそうな顔で
マティアスを睨みつけました。
しかし、
このあらゆることの元凶である男は
何の自責の念もない顔で、
少し歪んだバラの形を整えました。
そして、頭を下げて
レイラを見つめながら、
母親の指摘と酷評なんて
どうでもいいといった様子で、
これ以上、冗談めいた響きのない声で
「きれい」と囁きました。
レイラは奇妙な気分に襲われ、
視線を落としました。
マティアスは、
ヘルハルト公爵夫人に対する
社交界の貴族の評判に
全く無関心でした。
なんと、その範疇には、
自分の祖母や母さえ含まれていました。
レイラにとって、
なかなか理解し難い一面でした。
マティアスは
「きれい、レイラ」と言うと、
視線を逸らしたのが
気に入らないと言うかのように、
指先でそっと、
レイラの顎を上げました。
目が合うと、
無表情だったマティアスの瞳に
さざ波のような笑みが広がりました。
よく見なければ分からない
その微かな笑みに向き合ったレイラは
習慣のように息を殺しました。
再び、ぴちゃぴちゃと、水の音が
聞こえて来るような気がして
足の指がすくみました。
それを隠すように、レイラは
マティアスが差し出した手を
急いで握りました。
少なくとも一緒に歩いている間は、
恥ずかしい視線を避けることが
できるはずだからでした。
夫のエスコートを受けながら、
レイラは、
シャンデリアの明かりの下の階段を
上りました。
マティアスが挿してくれた
バラの花びらが、
その歩みに合わせて微かに震えました。
まるでレイラの心のようでした。

マティアスがくれたバラは、
美しく咲いている間、
公爵夫人の机の片隅に置かれました。
バラが枯れる前に
レイラは花びらを一枚取り、
本の間に挟みました。
彼がくれた最初の花だからでした。
厳密に言えば最初ではないけれど、
マティアスは、
そのことを覚えていないようなので
どうも「くれた」とは言い難く、
今回を最初とすることにしました。
レイラは、
花びらを挟んだ本を手に取り、
日の当たる窓枠にもたれかかりました。
バラでいっぱいの庭を見下ろすと、
そこに宿った記憶が
一つ二つ浮かび始めました。
色とりどりの花々のように、
その記憶の色も多彩でした。
あの頃の少女の夏は、
おそらく少しの悲しみから
始まっていたのだろうと思いました。

待ちに待ったアルビスの夏の
渡り鳥が帰って来ました。
そして待ちわびていなかった
恐ろしくて美しい公爵も
帰って来ました。
アルビスに滞在するようになってから
レイラの夏は、いつも、
このように相反する二つの感情から
始まったものでした。
公爵を迎えるための騒々しい雰囲気が
まだ落ち着かないうちに、
アルビスで夏を過ごす客たちが
集まって来ました。
その中には当然、
ブラントの令嬢もいました。
レイラにとっては、
ヘルハルト公爵と同じくらい
避けたい名前でしたが、
彼女の考えは、全く違うようでした。
「来て。
お嬢様があなたを呼んでいる」
突然、小屋を訪ねて来た
クロディーヌのメイドが、
命令を伝えました。
早く洗濯を終えて
カイルと食べるお菓子を焼こうと
浮かれていたレイラにとって、
青天の霹靂でした。
気が進みませんでしたが、
その日もレイラは素直に
令嬢の命令に従いました。
その前の年、
このことで、ビルおじさんが
火のように怒ったことがあるけれど
その時、モナ夫人は、
レイラは公爵家のメイドではないけれど
このアルビスで世話になっている以上、
仕方のないことではないか。
だから悔しくても我慢するように。
このままでは、レマーさんだけが
困ることになると
心配そうに話しました。
レイラは、
ヤギたちを片づけて来る途中、
偶然、その話を
盗み聞きすることになりました。
ビルおじさんが困るなんて!
胸がどぶんと
沈み込みそうな気分になりました。
ブラントの令嬢に呼ばれて
経験したことで、心を痛めたことを
おじさんに打ち明けた自分が
あまりにも恥ずかしくなった
瞬間でもありました。
レイラにとっては、
アルビスから追い出されることも、
ビルおじさんが大変な目に遭うことも、
全て恐ろしいことでした。
だから、もう大げさに話さず、
我慢しようと、固く心に決めました。
クロディーヌは
公爵家のバラ園のパーゴラの下で
お茶を飲んでいました。
レイラとわずか一歳差というのが
信じられないほど大きく成熟し、
会わなかった一年の間に
まさに立派な淑女になっていました。
柔らかな体のラインと艶やかな肌、
夏の花のように華やかな姿は、
まだ子供のようなレイラとは
全く違っていました。
驚いて見つめるレイラと目が合うと、
ブラントの令嬢は、
わざと優しい笑みを浮かべました。
クロディーヌは、
「久しぶりね、レイラ。
元気だった?」と尋ねました。
「はい、お嬢様」
クロディーヌが望む答えは、
大体それだということを、レイラは
もう経験から、よく知っていました。
「そうね。確かにそう見えるわ」と、
上から下まで、
じっくりレイラに目を通した
クロディーヌは、
小さく笑って頷きました。
しかし、それは、自分をからかう言葉に
近いということを、
レイラは直感的に気づきました。
同じクラスの友達は、
すでに、ほとんどが
女性に成長しているのに、自分だけが
依然として子供だという事実に
悔しい思いをしていました。
前の年までは呑気だったモナ夫人も、
その年の初めからは、徐々に
レイラのことを心配し始めました。
レイラも早く
娘にならなければならないのに。
モナ夫人が時々口にする
その心配そうな言葉の意味が何なのか、
今や、レイラもよく知っていました。
まさに、その娘になった友人たちが
ひそひそと教えてくれる話は
少し恐ろしかったけれど、
それよりも、自分だけが、
その世界から疎外されているという
事実が与える悲しみの方が、
さらに大きいものでした。
幸い、ブラントの令嬢は、
バラを持って来いという
お使いだけをさせた後、
レイラを帰してくれました。
最近、フラワーアレンジメントを
熱心に習っているという
クロディーヌの腕前は、
そんなことに無知なレイラの目にも
かなり立派に見えました。
手間賃をもらって小屋に帰る途中、
レイラは、
花のように美しく華やかになった
ブラントの令嬢と友達のことを
思い出しました。
そして、自分の姿を見下ろすと、
自然とため息が漏れました。
それでも、
背はかなり伸びましたが。
手足が長くなると、生まれたての
子鹿のようだと言って、
新しい服を着たレイラを見た
ビルおじさんは微笑みました。
胸が少し
膨らんだような気もしました。
そんなことは、
おじさんに言えなかったけれど。
このまま永遠に
成長しなかったらどうしよう?
レイラは、
ふと、それが気になって
立ち止まりました。
静かな森の道の向こうから
馬の蹄の音が聞こえ始めたのは
その時でした。
そして、しばらくして、
レイラが逃げ出す前に、
その騒ぎの主が姿を現しました。
アルビスの主人、
ヘルハルト公爵でした。
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レイラの前で、ビルおじさんは
かなり怒りを抑えていたけれど
モナ夫人には、
怒りを爆発させていたのですね。
その様子を見てしまったから、
レイラは、
自分を地獄から救ってくれた
ビルおじさんを、
困らせてはいけない、
ビルおじさんのためと言い聞かせて
あらゆる侮辱や試練に
耐えていたのだと思います。
いつ、初潮を迎えるかは個人差があるし
レイラはビルおじさんの所へ来るまでは
ろくに食べさせてもらえなかったので
同年代の他の子供たちより
成長が遅かったのだと思います。
友達より成長が遅れているという
悩みは、現代の子供にも
共通しているでしょうけれど、
ビルおじさんに迷惑をかけないように、
クロディーヌの侮辱に耐え、
大人以上に気を遣っていたレイラには
そんな悩みが加わることで、
さらに辛い思いをしたのではないかと
思いました。
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