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162話 マティアスとクロディーヌがレイラに近づいています。
マティアスは、
その子を見つけました。
というよりは、その子の服、
あるいは髪の毛と言った方が
正確でしょうけれど。
庭師が育てている孤児は、
彼らを発見すると、
慌てて壁の陰に身を隠しました。
マティアスは、
ひらひら揺れるスカートの裾と金髪で
その子を見分けました。
逃げるか泣く。
マティアスが知っている、
その子の姿は、いつも
二つのうちの一つでした。
あっ、もう一つありました。
泣きながら逃げること。
それが気に障るという点を除けば
何でもない子供でした。
たまに、その点が
気に障ることもあるけれど、
適当にいじめて泣かせれば、
また、大したことではないことに
なったりしました。
まだ日差しが強い空を見上げた
クロディーヌは、
「もう帰りましょう、お兄様
夕方に散歩をするには
とても暑いです」と
少し疲れた声で言いました。
つばの広い帽子に
日傘まで差しているにもかかわらず
クロディーヌの顔は、
熱気で赤く輝いていました。
暑さに弱いマティアスも、今日は、
かなり熱く感じられました。
先に散歩を申し出た
クロディーヌの気まぐれを
彼は喜んで受け入れました。
ブルブル震えて隠れている
子供の所まで行ってみれば、
きっと、もっと面白い見物を
することができるだろうけれど
そのために、
熱い空気の中を歩く手間を
かけるだけの価値があることでは
ありませんでした。
邸宅の入口へと続く
短い階段を上る前、マティアスは
子供が隠れていた所へ
目を向けました。
予想通り、あの子は
逃げているところでした。
ひときわ暑い日に、
まるで冬服のような物を着た格好で
せっせと。
初めての出会いが
そうだったからなのか。
ある日突然、
アルビスの森に現れた小さな女の子は
まるで興味深い獲物のようでした。
しかし、いくら面白い鳥でも
撃って背を向ければ
それまでであるように、
その子に対するマティアスの興味も
その程度の線に留まりました。
彼の森に現れた新しい鳥です。
それだけの子供。
逃げる子供から、
そのくらいで、
興味を引いたマティアスは
クロディーヌと一緒に
邸宅に入りました。
心地よくて涼し快適な空気が
彼らを包み込みました。

ビル・レマーは、
モナ夫人がレイラを連れて
街へ行って来た後に、
そのことを知りました。
もちろん、おしゃべりな女、
モナ夫人の口からでした。
しばらく魂が抜けた後、
ようやく、ビル・レマーは、
「へえ、まあ、これは」と言いました。
そして、すでに赤くなった首筋を
掻きながら、
「ハハハ、これは全く」と
何度も同じ言葉を繰り返しました。
他に言えるような言葉など
存在しませんでした。
男兄弟だけが、
うようよいる家で育ち、
男やもめとして長い年月を生きてきた
彼の人生のどこにも、
この種の難関は、一度も
存在したことがありませんでした。
「いや、あの幼い子供がもう・・・」
と呟くビル・レマーに、
面白がっている顔で
彼を見守っていたモナ夫人は
「もうだなんて、何とまあ
呑気なものだ。同年代の子たちより
随分、遅れているのに」と言って
舌打ちをしました。
モナ夫人は、
確かに、不愛想な男やもめが、
ある日、突然できた娘を育てるのは
そう簡単ではないことは
理解してあげると言いました。
ビルは、
「娘だなんて。
俺は、ただしばらく・・・」と
言いかけましたが、モナ夫人は
そんな戯言を言っていないで、
あそこに散らばっているバラでも
少し摘んで来てと
断固として彼の言葉を遮り、
広大な公爵家のバラ園を
目で指しました。
ビルは、
バラを何に使うつもりなのかと
尋ねました。
モナ夫人は、
こんなことも知らないなんてと
嘆いた後に、
レイラへのプレゼントだと答えました。
ビルが「プレゼント?」と聞き返すと
モナ夫人は、
元々、娘が女としての人生の
第一歩を踏み出す時に、
花束をプレゼントするものだと
答えました。
ぽかんと彼女を見ていた
ビル・レマーは当惑して、
眉間にしわを寄せました。
一生をかけて花を育ててきましたが
それを摘んでプレゼントするという
恥ずかしいことなど、
一度もしたことがなかったし、
そんなことをするつもりも
当然ありませんでした。
ビルは、
娘ではないと言っているのに
そのように言うのか。
他所へやらなければいけないのに
まだ、適当な所が見つからない。
全く、一日も早く
他所へやらなければならなかったのに
こんなことになってしまったと
ぼやきました。
モナ夫人は鼻で笑うと、
そうですか、それなら、今からでも
他所へやったらどうかと提案すると
彼をじっと見上げました。
ビルは、
行く所がないではないかと
返事をしました。
すると、モナ夫人は、
どうしても、あの子を
娘と思うことができず、
レイラの行く所がないなら、
孤児院にでも行かせるしかない。
どうしてもレマーさんの手で
それができないなら、
自分が代わりに
調べてあげましょうかと
提案しました。
じわじわと腹を立てさせる
モナ夫人の胸算用は明らかだけれど
ビル・レマーはビクッとして
乾いた唾を飲み込みました。
モナ夫人は、
ところで、もう女になった子供を、
守ってくれる人が一人もいない所に
送ることを考えると、
自分の胸は張り裂けそうだ。
世の中がこんなに険悪だなんてと
嘆きました。
ビル・レマーの睫毛がピクピクすると
モナ夫人の口調は、
さらに憎たらしくなりました。
モナ夫人は、
おまけに、あの子は少しきれいだ。
立派なお嬢さんのように育てば
目を引く美人になるはずだ。
もし、どこかの不良のような奴にでも
出会ったら・・・と脅すと、
ビル・レマーは、
これ以上、我慢ができずに
「いやはや、 全く!」と、
結局、大声を上げました。
彼は、
自分でやるので、もう行ってくれ。
全く、とんでもないことを言うと
抗議しました。
モナ夫人は、
はあ、怖い。 誰かが見たら、
間違いなく、
娘を持つ父親だと思うだろうと
言うと、
憎たらしい笑みを浮かべ、
エプロンの裾を揺らしながら、
そのくらいで、庭を立ち去りました。
戻って来た静寂の中に
残されたビル・レマーは、
またも首筋をボリボリ掻きながら
花壇の間をうろうろしました。
若い労働者が戻って来て、
声をかけられた後になって、
ビル・レマーは、自分が
馬鹿なことをしていることに
気づきました。
どうしたのかと、
心配そうに尋ねる少年の顔は
いつものように純朴でしたが、
ビル・レマーは、突然、
以前になかった警戒心を覚えました。
そういえば、いつだったか、こいつは
レイラが大きくなったら、
かなり、きれいなお嬢さんに
なりそうだと言っていた。
その時は、淡々と聞き流した言葉が
今になって神経を逆撫でしました。
「レマーさん・・・?」
突然、険しくなった彼の目つきに
萎縮したように、
労働者の声が小さくなりました。
息を深く吸い込んで
心を落ち着かせたビル・レマーは、
手を振って、労働者を退けました。
そして、再びバラの花壇を
うろうろし始めました。
花を折ろうと伸ばした手を
引っ込め、また伸ばした手を
引っ込めるのを繰り返しました。

レイラを呼び寄せた
ブラントの令嬢は、今回も、
庭で新鮮なバラを摘んで、
クロディーヌのいる応接室に
持って行くという簡単な
お使いを頼みました。
レイラは容易に、
そのお使いをやり遂げました。
おとなしく座って
ブラントの令嬢の話を
傾聴することも、それほど
難しくありませんでした。
しかし、
残ったバラを見守ることだけは
少し大変でした。
クロディーヌは、
必要以上に多くのバラを持って来させ
一番きれいに咲いた花だけを選んで
使いました。
残ったバラは放置されて
捨てられることに、レイラは
悔しい思いをしました。
ビルおじさんが、丹精込めて
育てた花だからでした。
非常に面倒で厄介だと
言っているけれど、
実はおじさんが、庭の花を
とても大切にしていることを
レイラは知っていました。
庭で一緒に働いている労働者たちも
レマーさんはバラを愛する人だ。
人であれ花であれ、
心からの愛を受けてこそ、
あのように美しく育つものだと
言っていました。
予想通り、クロディーヌは
多くのバラを残して
去って行きました。
その場所から
目が離せなかったレイラは、
手間賃を渡しに来たメイドに
この花を、自分が持って行っても
構わないかと衝動的に尋ねました。
どうせ捨てるのだから勝手にしてと
大したことないように答えたメイドは、
手間賃を握らせた後、
主人の後を付いて行きました。
一人残されたレイラは、
ぎこちない足取りで
テーブルの前に近づきました。
一つにまとめて
ヘアゴムでギュッと結ぶだけでも
十分美しい花束になりました。
そのバラの花束を胸に抱くと、
少し変な気分になりました。
庭師の家らしく、小屋の庭にも
かなり多くのバラが
植えられていました。
望むなら、いくらでも
持って行って構いませんでした。
レイラは、随時、そのバラを切って
食卓と机を飾りました。
乾燥した花びらでサシェを作りました。
照れ臭いと言いながらも、
ビルおじさんは、
それを家のあちこちに置くレイラを
止めませんでした。
そんなにありふれたバラが、
このように、
今更のように感じられるのは、
友達が自慢していた花束のことが
思い浮かんだせいだろうかと
考えました。
あれこれ考えながら、
レイラは公爵邸を出ました。
日差しの中で見ると、
バラは、一層きれいに見えました。
レイラは胸に抱いた花束を
プレゼントだと考えることにしました。
どうせビルおじさんが育てた
バラなのだから、
ビルおじさんがくれた
プレゼントだと思っても、
全く間違ってはいないようでした。
レイラは一層軽くなった足取りで
森の小道を歩きました。
花束を結ぶ紐を用意するために
解いた髪の毛が
リズミカルな足取りに合わせて
波打ちました。
あの不快だったことと痛みが消えて
どれだけ幸いなのか
分かりませんでした。
これからは、毎月あんなことを
経験することになるだろうと
モナ夫人は言っていました。
彼女が街で買ってくれた新しい下着も
不快なのは同じでしたが、
あのことよりは
はるかに耐えられました。
これは女になることだと
モナ夫人は言いました。
それが何なのか
まだ、よく分かりませんでしたが
その言葉が想起させる記憶は
棘のようにチクチクと
レイラの心を刺しました。
あの女。
親戚たちは大抵、母親を
そう呼んでいました。
その前に、様々な悪口が
修飾語のように付いたりもしました。
あの女の娘。
彼らがレイラをそう呼ぶのは
大抵、怒っている時でしたが、
そこに、どれほど大きな軽蔑が
込められていることに気づくのは、
それほど難しいことでは
ありませんでした。
人々が浴びせた悪口のように、
母親は本当に、
そんなに悪い女だったのだろうか?
最近になって、
そのようなことを考える瞬間が
多くなりましたが、
答えを見つけるのは困難でした。
しかし、レイラは、
人々が話していた、あの女性、
あるいは、結局、
自分の母に似て、そうなってしまう
その女性の娘のようなものには
決してなりたくありませんでした。
その誓いを、もう一度思い返していた
レイラの足を止めたのは、
思わず顔を向けたところで見つけた
血の塊でした。
それが何なのか、レイラは
あえて近づいて確かめなくても
分かりました。
公爵が狩った小さくて美しい鳥でした。
飛び出しそうになる悲鳴を
じっと堪えながら
レイラはよろよろと後ずさりしました。
狩りの集まりが開かれる日では
ありませんでした。
そんな日には、公爵邸から
事前に連絡があったし、
ビルおじさんも
必ず注意を促しました。
それでは公爵が一人で
狩りに出たのだろうか?
時々、公爵は、
まるで、ゆったりと散歩をするように
一人で森を駆け巡り、
狩りを楽しみました。
そんな時には、さらに執拗に
小鳥たちを撃って命中させましたが
ビルおじさんは、
それが射撃の実力を磨く
練習のようなものだと
言いました。
公爵のような、名射手でなければ
できないことだと、ビルおじさんは、
日々、上達する公爵の射撃の実力を
称賛しましたが、
レイラは、それがとても怖くて
嫌でした。
一人の時にレイラに会った公爵は、
一行がいる時とは
全く別人のようになりました。
そのため、
公爵が一人で狩りに出たということは
森の中の小鳥たちだけでなく、
レイラにとっても不幸なことでした。
別の道を回って行くべきだろうか。
ところで公爵は
どの辺にいるのだろうか?
レイラはビクビクしながら
周りを見回しました。
銃声が鳴り響いたのはその時でした。
これ以上、公爵の行方を探す必要は
ありませんでした。
あまり離れていない所、
もう一羽の鳥が血まみれになって
落ちた道の上に公爵がいました。
彼はちょうど銃を下ろし、
よりによって、レイラが立っている方へ
馬の頭を向けたところでした。
逃げる暇もなく公爵と目が合いました。
硬直して凍りついたレイラは、
バラの花束を抱えながら
後ずさりしました。
他の貴族たちが現れてくれることを
願いましたが、いくら待っても
そのようなことは起きませんでした。
残念ながら公爵は一人でした。
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レイラを置いて出て行った母親を
擁護するわけではありませんが
彼女を非難し、あの女の娘だからと
レイラのことまで痛烈に非難する
親戚の人たちのことを考えると
別の男性と逃げざるを得ないほどの
何かがあったのではないかと
思います。
母親のやったことは許されないけれど
確か、レイラは母親に対して
恨みを抱くような描写はなかったように
思います。
(間違っていたら申し訳ありません)
レイラは賢いので、
母親が家を出た理由までは
分からなかったけれど
周りで何が起こっているかは
何となく分かっていたと思います。
けれども、親戚の人たちの
母親とレイラに対する悪口が、
あまりにも酷かったので、
自分が、そのような人間になって
侮辱されることがないよう
人々が語る「あの女」と
「あの女の娘」にはなるまいと
決意したのだと思います。
けれども、結局、
マティアスの愛人となり、
クロディーヌに酷く罵られたことで
自分がなりたくない
人間になってしまった。
そのため、レイラは
マティアスに見つかった後も
必死で抗っていたけれど、
マティアスが婚約を破棄したことを
リエットが教えてくれたので、
ようやく「あの女の娘」の呪縛から
解かれたのだと思います。
そして、マティアスと結婚し、
幸せな生活を送っているうちに
本当に母親は人々の言うように
悪い人だったのかと
考えられるようになったのだと
思いました。
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