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68話 オデットはカルスバルにやって来ました。
首都を出発した列車が
カルスバル駅のプラットホームに
入りました。
ティラは、ゴムボールのように
ベンチから立ち上がりました。
制服のスカートのしわと
ブラウスの襟の形を整えている間に、
停車した列車のドアが開きました。
閑散としていたプラットホームは
どっと降りて来た乗客で
すぐに混雑しました。
身支度を終えたティラは
人混みをかき分けながら
汽車へ近づきました。
端正な模範生の姿で再会したくて
早朝から苦労しましたが、
あちらこちらへ押されてしまい
結局、無駄になってしまいました。
「ティラ!」
名前を呼ぶ懐かしい声が
聞こえて来たのは、
丁寧に磨いた靴が、埃と足跡で
滅茶苦茶になってしまった後でした。
周りを見回していたティラの視線は
比較的閑散としている
特等車の前で止まりました。
「お姉様!」
オデットを見つけて興奮したティラは
猛烈な勢いで人波をかき分けて
駆け出しました。
お淑やかでない身だしなみを
叱る姉の目も、
今日は怖くありませんでした。
小言を言われることになっても
構わない気がしました。
あれほど恋しかった、
姉の声だからでした。
上品で優雅に、淑女のように。
迎えに行く途中、
ずっと繰り返していた誓いを
すっかり忘れてしまったティラは
こみ上げて来た涙をこぼしながら
姉に抱きつきました。
子供みたいに振る舞わないでと
冷静に叱りながらも、オデットは
素直に、懐の中に
ティラを受け入れました。
ティラは、
力いっぱい姉を抱き締めたまま
涙を流しました。
そっと背中を撫でてくれる
優しい手を感じると、
初めて現実感が湧きました。
結婚式を挙げた日の夕方に
別れを告げて以来、
一度も会っていないので、
ほぼ四ヶ月ぶりの再会でした。
「会いたかった。
とても会いたかった」と言う
涙でびしょ濡れのティラの顔の上に
胸いっぱいの喜びの笑みが
浮かび上がりました。
懐かしかった顔を
見つめていたティラは、
「もう本当にお姫様みたい。
とてもきれい」と、
無邪気に感嘆を爆発させました。
ダチョウの羽と真珠で飾られた
つばのない帽子をかぶったオデットは
完璧な貴婦人のように見えました。
帽子と同じ色の青いドレスと
長く垂らした真珠のネックレスが
上品で優雅な姿を
引き立てていました。
ティラは、
お姉さまが来てくれて、
どれだけ嬉しいか
想像もできないだろうと言いました。
オデットは、
その気持ちはもう十分に伝わったと
思うと返事をしました。
しかし、ティラはそれを否定し、
これでは、全然足らない。
お姉様に会いたくて、寮の塀を
飛び越えたくなるほどだったと
言い返しました。
オデットはティラに
落ち着くようにと宥めましたが
ティラは、
「本当です。自分をここに追いやった
お姉様の、
あの恐ろしい夫さえいなければ、
すぐにアルデンへ
駆けつけていたのに・・・」と
声高に叫んでいましたが、
一瞬にして顔色が青ざめました。
言い終えることができなかった言葉を
もぐもぐしている間に、
背の高い男が
プラットホームに降り立ちました。
後続の使用人たちに、
いくつかの短い指示事項を伝えた男は
当然の権利を行使するかのように、
オデットのそばにやって来ました。
手袋をはめた手で
ティラの涙を拭ったオデットは、
彼女に挨拶をするようにと促すと
一歩退きました。
努めて表情を整えたティラは、
姉と並んで立ったその男に向かって
慌てて頭を下げました。
ティラをここに追いやった
姉の恐ろしい夫でした。

オデットは少しも休まずに動きました。
帽子とコートを脱いで片付けると
すぐに窓際に近づき、
カーテンを開けました。
スイートルームの寝室からは、
穏やかな川沿いの風景が
広がっていました。
帝国北部の命脈であるシュルター川は
ひんやりとした澄んだ青色で
輝いていました。
眺めのいい部屋だと、
無味乾燥な誉め言葉を口にした
オデットは、荷物を解き始めました。
バスティアンは、
暖炉の前に置かれた椅子に
もたれて座りながら、
その光景を見守りました。
シワを伸ばしたドレスを
クローゼットにかけて
所持品を片付けるオデットの手つきは
熟練したメイドにも劣らないほど
上手でした。
バスティアンは、ひじ掛けにかけた
ジャケットのポケットから
タバコの箱を取り出しました。
続けてライターを探して握りましたが
火は点けず、
ただタバコを口に咥えたまま、
オデットを見守りました。
時々、寝室のあちこちを
うろうろしていた彼女は、
これ以上取り出す荷物がなくなった後
バスティアンの方に目を向けました。
オデットは、しばらく躊躇った後
ティラの無礼を
もう一度謝りました。
バスティアンは咥えていたタバコを
下ろしながら頷きました。
ティラ・ベラーの行いについて
どうせ、彼は興味がありませんでした。
そんなことを真剣に気にするオデットを
理解するのが難しかったけれど
適当に調子を合わせてあげるのも
悪くはなさそでした。
オデットは、
バスティアンが理解してくれたことに
お礼を言うと、
ようやく安堵の笑みを浮かべました。
遠くで恭しく立っている姿は、
妻というよりは、むしろ
秘書やメイドに近いように見えました。
オデットは、
ティラに会いに来られるよう
休暇をくれた配慮にも感謝している。
このように、遠くまで
一緒に来てくれて猶更だと
ついでに、溜まっていた宿題のような
お礼も付け加えました。
微笑を消さないために、
口角に力を
入れなければなりませんでしたが
どうやら、
うまくやり遂げたようでした。
事情を聞いたバスティアンは、
オデットが要請した休暇を
許可しました。
期待していなかった贈り物に、
オデットは心から喜び、
感謝しました。
雇用主と一緒に旅立つ、
休暇ではない休暇であることを
知るまでは。
ちょうどカルスバルに用事があると
バスティアンは極めて普通の顔で
付け加えました。
本来は、会社の重役を
代わりに送る予定でしたが、
こういうことになったので、
一緒に行けば良いと思いました。
あまり良い考えではないようだという
言葉が喉元まで上がって来ましたが、
オデットは、
ただ頷くしかありませんでした。
「はい、バスティアン」
その夜も、オデットは
有能な妻の顔で笑いました。
「本当に親切ですね」
その気まずい空世辞は
付け加えない方が
良かったかもしれませんが。
「もうすぐ12時です」
オデットは時計に目を向けることで
バスティアンの約束時間を
知らせました。
仕事でこの都市を
訪問しなければならないという話は
いい加減な言い訳では
ありませんでした。
北部に本拠地を置く
実業家たちとの約束だけでも
バスティアンは、慌ただしい2日間を
過ごさなければなりませんでした。
「まさか」と疑ったオデットを
恥ずかしくさせるほど、
ぎっしり詰まったスケジュールでした。
車は10分後に
到着することになっていました。
ジャケットを手に取って
立ち上がったバスティアンは、
大股で寝室を横切って来ました。
予期せぬ接近に戸惑ったけれど
オデットは、黙ってその場にいました。
幸い、バスティアンは
適正ラインを守った所で止まりました。
ジャケットを羽織ったバスティアンは
7時前には戻るので、
夕食は一緒に食べよう。
あなたの妹も一緒にと、
思いがけない提案をしました。
オデットは、
あえてあなたの時間を奪いたくない。
ティラの分は自分が用意すると
断りましたが、バスティアンは
これ以上、言い争いを続けないとでも
言うかのように、
「7時。
このホテルの1階のレストランへ」
と約束を確定しました。
タイの形を整える大きな手の上で、
オデットの物と同じ結婚指輪が
光りました。
この男もやはり、
夫の仕事をしているのだろう。
ふと、そのことに気がついたオデットは
素直に頷きました。
愛する妻の妹に会いに来た夫。
世間の目には、
そのように映るべき訪問でした。
ティラと夕食を共にすることも
バスティアンにとっては
業務の一部のはずでした。
オデットはお礼を言うと、
ティラが
またミスをすることがないように
きちんと伝えておくと言いました。
バスティアンは、
それより、もっと実利的な仕事を
してくれればいいのにと言うと
ジャケットの内ポケットから
小さなカードを1枚出しました。
うっかりそれを受け取った
オデットの目が丸くなりました。
ヘルハルト家の紋章が押された
招待状でした。
バスティアンは、
明日の昼食会に、
公爵夫人が自分たちを招待した。
返事は電話で欲しいそうだと
伝えました。
オデットは、
ヘルハルトも、
あなたの社交範囲内にある
家門だったのかと尋ねました。
バスティアンは、
マティアス・フォン・ヘルハルトまでは
と答えると、
ジャケットのボタンを留めて
首をまっすぐに伸ばしました。
軍服を脱いでも
軍人のような印象を与える男でした。
見知らぬ他人だとしても、
オデットは彼が将校だという事実を
一目で見抜ける自信がありました。
バスティアンが、
残りの2人の奥様は
あなた次第だと思うと付け加えると
ぼんやりしていたオデットは
我に返りました。
覚悟を決めたかのように
深呼吸をしたオデットは、
手にした招待状を
几帳面に再確認しました。
返信を望む連絡先が
優雅な筆跡で書かれていました。
オデットは、
自分が電話をした方がいいのかと
尋ねました。
バスティアンは、
それが、あなたたちの礼法ではないかと
答えました。
オデットが「えっ?」と聞き返すと
バスティアンは、
身分の低い方が、
高い方に先に話しかけるのは
無礼なのではなかったかと
逆に尋ねました。
秩序に対する尊重も反感もない、
まるで日常の雑務を論じるような
尋常な口調でした。
オデットは、
「ええ・・・はい、
親交のない間柄では」と答えて
小さく頷きました。
法律では、結婚すると夫の身分に
従うことになるけれど、
それでも、
実家の血統に配慮するのが
社交界の暗黙のルールでした。
果たして、ディセンの名前が、
それだけの価値があるかどうかは
分かりませんでしたが、
礼法的な側面から見れば
バスティアンの判断は
正しいものでした。
しかし、カードの末尾にある
公爵家の老婦人の名前を発見した
オデットの瞳が揺れました。
ヘルハルト家の老婦人は
ロビタ王族出身なので、
自分はこの件から
手を引いた方がいいと思うと
オデットは主張しました。
バスティアンは
「だから?」と聞き返しました。
オデットは、
ベルクの皇女だった頃の
母親の婚約者が、
まさにロビタの王子だったからと
できるだけ淡々と
母親の過ちを告白しました。
しばらく考え込んでいたバスティアンは
あなたのお母さんに裏切られた婚約者が
ヘルハルト家の老婦人の親戚だという
意味かと、状況を簡潔にまとめました。
オデットは、そうだと返事をすると
だから老婦人は、
自分のことが気に入らないだろうから
あなた一人で訪問した方が
いいかもしれないと話しました。
しかし、バスティアンは
少し考え込んだ後、
むしろ喜ぶのではないかと言うと
大したことではないというように
肩をすくめました。
あの高慢でプライドが高い
公爵家の奥様たちが
クラウヴィッツ夫妻を招待した理由を
今になって
明確に理解できそうな気がしました。
バスティアンは、
あなたが知っていることを
あちらは、知らなかっただろうかと
尋ねました。
「それは・・・」と
オデットが戸惑っていると、
バスティアンは、
彼女たちはオデットに会おうとして
知っているのに招待したと
返事をしました。
オデットは、
どうしてなのかと尋ねました。
バスティアンは、
自分の親戚を裏切った女の娘が、
結局、古物商の孫と結婚して
平民になった。
これは、かなり痛快な結末ではないかと
答えました。
ぼんやりとバスティアンを見つめていた
オデットが、唇を固く閉ざしました。
侮辱感を覚えた時に現れる
この女の癖でした。
バスティアンは、
その光景を直接目撃すれば、
かなり大きな慰めと楽しみを
得ることができるだろうと言いました。
オデットは、
母親が犯した過ちと失敗の証拠の
役割をしろということかと尋ねました。
バスティアンは、
どんな意味を見い出すかは、
あちらが勝手に決めること。
あなたは、
ただ公爵家に電話を一本入れて、
明日、あの邸宅へ行って
素晴らしい昼食を食べればいい。
帝国最高の貴族が、
まさか、つまらない料理を
出すことはないだろうからと
返事をしました。
バスティアンの表情と話し方は
貴族の礼法を言及した時と
大きく変わりませんでした。
この男の持つ階級意識を
赤裸々に表す発言でした。
オデットは当惑した気持ちで
夫を見つめました。
自分が誰と結婚したのか
改めて実感しました。
上流社会の反感が、
なぜ、それほど大きいのか
理解できる面でした。
成功のために、
犬のように這う男という評判に
オデットは同意できませんでした。
バスティアンが、
旧時代の秩序と権威に
反旗を翻さないのは、
それを羨望するからでは
ありませんでした。
むしろ徹底的に、
その反対側に立っているのなら、
また話は別だろうけれど、
この男の頭の中には、そんな観念が
存在しないように見えました。
意識しないので
価値判断をする必要さえないだけ。
それを服従と呼ぶことは
できませんでした。
オデットは、
一層、強くなった眼差しで、
それは本当にあなたの役に立つのかと
尋ねました。
見捨てられた皇女の娘。
見せかけだけの公爵家の令嬢。
原罪を持って生まれた罪人。
徹底的に何の感情もない
バスティアンの視線の中では、
一生オデットを締め付けてきた
足かせも、もはや力を
発揮することができませんでした。
生まれて初めて味わう種類の
自由でした。
「やれますか?」
時間を確認したバスティアンは
短く尋ねました。 12時10分。
バスティアンの約束の相手が
送って来ることになっていた車が
到着する時間でした。
「それなら、やります」
オデットは悩まずに答えました。
じっとオデットを見つめていた
バスティアンの口元に、
フッと笑みが浮かびました。
真昼の日差しのような残像を残す
微笑みでした。
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ヘルハルト家の昼食会に
招待されたことへの
オデットの葛藤が、
マンガで描かれていなくて
残念でした。
ロビタとベルクの結びつきを
強くするための王子と皇女の婚姻が
皇女が恋人と夜逃げしたために
ぶち壊されてしまった。
ロビタが受けた屈辱は、
後に戦争を起こすほど、
耐え切れないことだったのではないかと
思います。
カタリナは、
その実情を知っていたでしょうから、
国家間の結婚を反故にした
世紀の恋愛の成れの果てのオデットを
カタリナとエリーゼが
見てみたいと思う気持ちが
分かるような気がしました。
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