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70話 オデットとバスティアンはカルスバルに滞在中です。
「行ってみようか?」
川の風に似た声が耳元をかすめました。
オデットはビクッとして
振り返りました。
何の気配もなく近づいて来た
バスティアンが、
川辺の風景が見える窓の前に
並んで立っていました。
「ここから、
そんなに遠くないようだ」
バスティアンは目を細めて、
夕日に染まった
シュルター川の向こう岸を
見つめました。
先程までオデットが見ていた
遊園地の観覧車が
立っている所でした。
オデットは
「いいえ、結構です」と答えました。
バスティアンは、
「昨夜も、あれを見ていたではないか。
違いますか?」と尋ねました。
オデットは、
適当にごまかそうとしましたが、
バスティアンは
退く気がなさそうに見えました。
オデットは、
「それは・・・」と呟くと
まず一歩横に移動しました。
夜が更けるまで、この窓の前で
観覧車の明かりを見ていたのは
明白な事実なので、
どうしても、否定することは
難しそうでした。
オデットは悩んだ末、
「ただ、きれいだから。
それだけです」と
最も率直な気持ちを打ち明けました。
ちょうど観覧車が見える位置にある
客室に泊まることになり、
その光がきれいなので、
見ていただけでした。
遊園地にピクニックへ行こうという
約束をした、
あの春の夜の記憶が思い出され、
胸が痛むこともありましたが、
どのみち、それは
一人だけの秘密でした。
実はティラと、
あんな約束をすべきではなかったと
後悔していたなんて、この男に
言えるはずがありませんでした。
もし約束をしていなかったら、
ティラは、あそこまで必死に
お金を守ろうとしなかっただろう。
そうすれば、父は
いつものように言い争いをして
お金を持って行ったはずでした。
綿菓子。メリーゴーランド。
星占いの機械。観覧車。
ティラが楽しそうに
喋っていた話に、子供のように
心が動かされなかったとしたら
もしかしたら、そのように、
平凡な一日だったかも
しれませんでした。
世間知らずの妹のせいだと
合理化しましたが、実はオデットも
都心を通ると目につく
遊園地のライトが気になっていました。
大きな金色の車輪に似た
観覧車に乗り込み、
ゆっくりと夜空を横切る想像を
してみたりもしました。
おたまを握って
シチューが沸騰した鍋を
かき混ぜていたあの夜も。
あの時の自分が
少し浮かれていたという事実が、
オデットの心に残ったシミを
さらに濃くしました。
ああすべきではなかった。
愚かだった過去の過ちを
思い返していたオデットは、
つまらない感傷に陥った心を
引き締めるように
口角を引っ張りました。
今は妻の仕事をする時。
まだ終わっていない任務を思い出すと
一層淡々とした顔で
バスティアンに向き合うことが
できました。
オデットは、バスティアンに
夕食の約束があることを
指摘しました。
ヘルハルト公爵家を訪問して
昼食をとり、夕方には
北部実業家たちの集いに参加する。
オデットが覚えている
今日のスケジュールは
確かにそうでした。
間違いありませんでした。
バスティアンが、夕方外出をしたら
ティラに会いに行くと
約束していたのだから。
オデットは、
もう行かなくてはいけないと
再度、促しても、バスティアンは
何の返事もしませんでした。
暗くなりつつある空を横切る
観覧車を見ていた青い目は
しばらくして、
再びオデットを映しました。
バスティアンは
スケジュールが変更になったと
淡々とした口調で知らせました。
カルスバル行きの列車に乗った
主な目的は、ヘルハルトでした。
その任務を完璧にやり遂げたので、
残った雑務は、
適当に処理しても構いませんでした。
ホテルに戻る馬車の中で下した
決定でした。
そしてバスティアンは、今夜、
参加することになっていた会合に、
不参加の知らせを伝えることで
公式的な業務を終えました。
この女と一緒にいたかった。
バスティアンは、それを望み、
明確に認知し、だから従いました。
「準備して」
驚いた表情をしている
オデットを見つめながら、
バスティアンは
落ち着いて命令しました。
明日、ティラ・ベラーが通う
女学校で開かれる保護者行事に
出席した後、再びアルデンに
戻らなければなりませんでした。
その前に、この女に
小さなプレゼント一つくらいは
してあげてもいいだろうと思いました。
オデットは期待以上に、自分の役割を
よく果たしてくれたのだから。
バスティアンが背を向けると、
「バスティアン!」と
急いで名前を呼ぶ声が
聞こえて来ました。
肩越しに視線を向けると、
オデットは躊躇いながら、
ティラを連れて行ってもいいかと
尋ねました。
有難くない名前を呟く唇が
夕焼けの残影の中で赤く光りました。
オデットは、
今夜、あの子に会いに行くと
約束した。
だから、どうしても
行かなければならないのなら
ティラを連れて行きたいと
訴えました。
切迫した母鳥の瞳は
固い意志で輝いていました。

「お姉様は、なぜ、こんなに
空気が読めないの?」
ティラの厳しい叱責が
遊園地の騒音の中に流れ込みました。
「空気を読む?」
オデットは反問するかのように
首を傾げました。
何を間違ったのか、
少しも分からないような
顔をしていました。
ティラは、
自分をここへ連れて来て
どうするのか。
居心地が悪くて、
息が詰まるかと思ったと、
姉の過ちを指摘し、
後ろを振り返りました。
バスティアンは、
ティラが食べたいとせがんだ
綿あめを売る屋台に向かって
歩いているところでした。
姉と話し合う時間を作るために
捻り出した窮余の策でした。
じっくり考え込んでいたオデットは
不躾なことをしてはいけない。
バスティアンは、あなたに
何の過ちも犯していないと、
ティラを叱りました。
呆れて嘆いたティラは、
まず空いているベンチに
姉を導きました。
時々、バスティアンの様子を
窺うことも忘れませんでした。
彼は、ちょうど売店に
着いたところでした。
あまりにも背が高くて
そびえ立っているおかげで、
人混みの中にいても、
一目で分かりました。
幸いなことに、列が長かったので
もう少し時間を
稼ぐことができそうでした。
ティラは首を横に振りながら
いつ自分が大尉のことを嫌いだと
言ったのかと抗議すると、
オデットのそばに座りました。
姉が訪ねて来たという知らせを
聞いた時、ティラは
飛び上がるほど嬉しくなりました。
息苦しい寮から抜け出して、楽しく
遊べることになったからでした。
しかし、その幸せは、
慌ただしく駆け下りた1階のロビーで
バスティアンと向き合った瞬間に
幕を下ろしました。
悪いのは大尉ではなく、
お姉様だと言って、自分を睨んでいる
ティラに向き合っても、
オデットは依然として
戸惑っている表情でした。
オデットは「私が?なぜ?」と
尋ねました。
ティラは、
夫とデートする場所に
妹を連れて来てどうするのかと
答えました。
オデットは
そういうことではないと答えると
大きな侮辱でも受けたように
眉を顰めました。
ティラは胸を叩くことで
もどかしい気持を示しました。
ティラは、
そんなことないって?
この状況を、他に何という言葉で
説明できるのかと尋ねました。
オデットは、
「私たちは、ただ・・・」と言ったきり
気軽に言葉を続けられないでいると
オデットを見つめていたティラは
「ほら、デートでしょう?」と言って
再びため息をつきました。
ティラは、
ただでさえ、大尉が怖いのに、
邪魔者となって顔色を窺っていたら、
とても居心地が悪いと抗議しました。
その言葉に、オデットは、
あなたに大きな恩恵を
施してくれている有難い人のことを
そんな風に言わないでと
叱りました。
しかし、ティラは
怖い人を怖いと言って
何が悪いのかと反論しました。
「バスティアンが怖いの?」
オデットは全く納得がいかなくて
聞き返しました。
逆にティラは、
お姉様は大尉が怖くないのかと
聞き返しました。
むしろティラが、オデットを
理解していない様子でした。
オデットは眉を顰めて、
バスティアンを見つめました。
「妖精の糸」という
おおげさな名を持つ綿あめの屋台は、
色とりどりの電飾で
目を引いていました。
まっすぐな姿勢で並んでいる
バスティアンとは、水と油のように
調和していない光景でした。
オデットは頷きながら
ティラの方へ目を向けると、
「怖くない」と答えました。
もちろん、限りなく厄介な男でしたが
それは恐怖とは違う感情でした。
表情がなく口数が少ないものの、
決して不人情ではありませんでした。
実はかなり紳士的で
思慮深い男でもありました。
確かに、お姉様はそうだろう。
愛し合っているのだからと、
ティラが何気なく言うと、
オデットは、
思わずビクッとしました。
「違う」と、もう少しで、
反射的に出そうになった言葉は、
辛うじて堪えました。
ティラは、
それでも自分は大尉が怖い。
目が合っただけでも
背筋がぞっとする。
とても冷たく見えると言うと、
大げさに身震いしながら、
綿あめの屋台をのぞき込みました。
いつの間にか、バスティアンの番が
目の前に迫っていました。
再び邪魔者になると思って、
目の前が真っ暗になった瞬間、
「ティラ!」と力強く名前を呼ぶ声が
聞こえて来ました。
同じ寮を使っている同級生たちが
ニッコリ笑って手を振っていました。
隣の学校の男子生徒の群れも
一緒でした。
脱出口を見つけたティラは
飛び上がるほど喜び、
友達の所へ行くと言って、
ベンチから立ち上がりました。
「ティラ・ベラー!」
オデットは、叱るように
名前を呼びましたが、
ティラの意志を曲げるには
力不足でした。
ティラは、
後で会おう。
9時までに観覧車の前に行くと
一方的に告げると、急いで
友達に向かって走って行きました。
姉から逃げる途中、
ティラは綿あめの屋台の前を
通り過ぎました。
怖いけれど、素敵な姉の夫が、
ちょうど白い雲のような綿あめを
受け取っているところでした。

「本当にごめんなさい」
1人残された事情を説明したオデットは
もう一度頭を下げました。
そして、
やはり友達と付き合う方が
楽しい年頃だからかもしれない。
あなたが、とても気遣ってくれたのに
こんなことになって面目ないと
謝りました。
手に握った綿あめと、
どうすればいいのか分からずにいる
妻を交互に見ていたバスティアンは
つい気が抜けて笑ってしまいました。
オデットは、
妹がいなくなった。
ここで偶然会った友達に
付いて行ってしまったと説明しました。
バスティアンは、
ティラのことを、何も考えていない
世間知らずだと思っていましたが、
それでも、最低限の機転は
持っていたようでした。
「気にしないで、オデット」
時計台を確認したバスティアンは、
快く頷きました。
また会う約束をした9時までは、
まだ2時間余り残っていました。
初めてティラ・ベラーが
役に立つように感じた瞬間でした。
バスティアンは、
まだ幼いではないか。
あなたが言うように、
友達の方が良い年頃だと言いました。
オデットは、
バスティアンが、
そう言ってくれたことにお礼を言うと
ようやく、
ほっとした顔で微笑みました。
チェック柄の
ウールのワンピースの上に
短いマントを羽織ったオデットは、
普段より、
幼い印象を与えました。
優雅な貴婦人の務めを果たした
今日の昼とは全く違う姿でした。
もしかしたら、
子供たちの歓声と笑い声に満ちた
この空間が作り出した
錯覚かもしれませんでしたが、
彼は深く考えませんでした。
バスティアンは、
まず手にした綿あめを渡しました。
うっかりそれを受け取った
オデットの目が丸くなりました。
彼女は、
自分は、こういうことが好きな
子供ではないと文句を言いましたが
バスティアンは、
自分よりは年下ではないかと
返事をすると、笑いながら
オデットの手を握りました。
ちょうど点灯したばかりの
アトラクションの明かりが
夜の遊園地を、
真昼のように明るく照らしました。
オデットが止めどもなく眺めていた
その光の中に、バスティアンは
大股で足を踏み出しました。
綿あめを持った妻と一緒でした。
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バスティアンはオデットと2人で
遊園地に行きたかったのに、
「ティラも一緒に」と言われた時、
絶対に、ムカッとしたはず。
でも、それを顔に出したら、
オデットは、
「なぜ、怒るの?
なぜ、機嫌が悪いの?」
と疑問に思うでしょうから、
バスティアンは
自分の気持ちを隠すために
ポーカーフェイスを
保っていたのではないかと思います。
皇室からの支給される年金が、
どのくらいの金額なのか
分かりませんが、
ティラを学校へ行かせることが
できるくらいなので、
皇女の娘が品位を失わないように
人並みの生活ができるくらいは
支給されていたのではないかと
思います。
けれども、自堕落なディセン公爵が
お金が入れば、酒と賭け事に
使ってしまったので
まともな生活も遅れず、
カフェに行くことも
憚られるくらいだったので
オデットは遊びに行くことも
できなかったのだと思います。
だから、オデットも
遊園地に行ってみたいと思ったのは
決して悪いことではないと思います。
オデットは、それが原因で、
父親が半身不随になってしまったと
自分を責めているけれど、
今回のことがなくても、父親は
どこかで痛い目に遭っていたと
思います。
だから、
そんなに自分を責める必要はないと
思います。
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