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164話 レイラは二人の奥様に呼ばれました。
ヘルハルト家の三人の公爵夫人が
共にするティータイムは、
適度に平穏で気まずい雰囲気の中で
続きました。
時折、会話が途切れる時に訪れる
静寂の中に、噴水の水が流れる音と
鳥たちの歌声が流れ込みました。
レイラは音を出さないように
気を遣いながら、カップを置きました。
手に取る全ての物を、
まるで羽のように扱う
先々代と先代の公爵夫人のように
するのは難しかったけれど、
それでも、もう、
エリーゼ・フォン・ヘルハルトの
厳しい視線を
受けないほどにはなりました。
レイラと目が合うと、老婦人は
随分、公爵夫人らしくなったと言って
静かな笑みを浮かべました。
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
いつもと違い、「もちろんです」と
快く同意しました。
意外な返事に驚いた
レイラと老婦人の目が
同時に彼女に向けられました。
エリーゼは、
ガラスの温室を満たしている
日差しのように、
華やかな笑みを浮かべながら、
ふと見る度に、
なんて優雅な貴婦人らしいのでしょうと
自分は驚いたりすると言いましたが
レイラを直視する目つきは
冷ややかな感じを与えるほど
物静かでした。
そして、
そうではないですかと尋ねると、
テーブルを飾ったバラを
チラッと見た目を上げて、
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
再び嫁に向き合いました。
幸い、
空気が読めない子ではないらしく、
レイラは頬を赤くして
慌てていました。
チッ。音もなく舌打ちしながら、
エリーゼは、
再びカップを持ち上げました。
エリーゼは、
満足できない嫁である事実を
否定する気は全くありませんでした。
その気持ちを、
表に出さないように努めることが
この家門と自分の品位を
守る道だからでした。
社交界の女王は望めなくても、
ある程度、貴婦人の姿は
整えられるのではないかと
思いました。
こういう時に見ると、その期待に、
応えられるのではないかと
思いましたが、
マティアスのそばにいる時の姿は、
以前と変わりませんでした。
しかし、
それを問題視するのも滑稽でした。
この子を気品のある
公爵夫人にすることの最大の障害は、
まさにマティアス、
彼女の息子だからでした。
あの子は、自分の妻に残っている
アルビスの子供、まさに
あのレイラ・ルウェリンの痕跡を
消したくないようでした。
だから、必ず自分の意思を
通すだろうと思いました。
レイラに関する全てのことにおいて
今まで、そうだったように。
カタリナ・フォン・ヘルハルトは、
気難しいエリーゼにも認められるなんて
本当に一生懸命に努力しているようだと
巧みに雰囲気を変えると、
待機中のメイドに目配せしました。
しばらく席を外したメイドは、
包装された箱を持って
戻って来ました。
そして、思いがけず、
レイラに、それを渡しました。
うっかり、それを受け取ったレイラは
目を見開いて、
二人の女主人たちを見つめました。
エリーゼは、
開けてみるように。
自分たちからのプレゼントだと
だるそうな口調で急かしました。
レイラはしばらく躊躇った後、
箱に結ばれているリボンを
解きました。
慎重に蓋を開けると、
薄い包装紙に包まれた
額縁が姿を現しました。
思わず紙を持ち上げたレイラは、
まるで、
ゼンマイが切れた人形のように
そのまま止まってしまいました。
その額縁には、
アルビスの使用人たちが
公爵一家と一緒に撮った一枚の写真が
収められていました。
多くの人々がいる中でも、
レイラは一気に彼を見つけました。
左端に、無理矢理
引っ張られて来たような格好で
膨れっ面で立っている巨体の庭師、
ビル・レマー。 自分の愛する父親を。
老婦人は、
あなたとフェリックスの写真を
置く場所を、探しているうちに
発見したと告げました。
目頭を赤くしたまま
言葉を続けられないレイラを見る
彼女の眼差しは、
一層、温厚になりました。
新しい公爵夫人と後継者の
肖像画と写真が、
先日、公爵邸の画廊に
掛けられました。
改めて過ぎし年月を振り返りながら
ゆっくりと、その部屋を見ていた
カタリナ・フォン・ヘルハルトは、
飾り棚の一番下の段で
この写真を見つけました。
カタリナは、
家門の歴史を記録する意味で
残しておいた写真だけれど、
ビル・レマーの顔が写っているのは
その一枚だけだった。
彼は、あまりにも
写真を撮られるのが嫌いな人だったと
話しました。
レイラは、
それなのに、本当に自分が
これを、もらってもいいのかと
尋ねました。
すでに額縁を自分の胸に抱いたまま
質問するレイラに老婦人は笑いました。
見守っていたエリーゼも失笑しました。
カタリナは、
あなたにあげる。
あなたが持っていても、結局は、
自分たちの家門の歴史だからと
返事をしました。
鼻の頭を赤くしたレイラは、
「本当にありがとうございます」と
お礼を言って、頭を下げました。
胸いっぱいの感情を隠せない声で、
レイラは、
繰り返しお礼を言いました。
どう見ても、
公爵夫人らしい気品のある姿では
ありませんでしたが、
エリーゼは、
あえて指摘しないことにしました。
幸いにもレイラは、涙を見せる前に
感情を落ち着かせました。
眼鏡を外し、
ギュッと力を入れて瞼を押さえながら
再び眼鏡をかけて
ニッコリ笑いました。
満足できない嫁だけれど、
だからといって、
非常に悪いだけというわけでは
ないことを、エリーゼは
快く認めることにしました。
気品が、
多少足りないかも知れないけれど
率直な子でした。
そして、その笑顔が間違いなく、
フェリックスに似ていると思うと
寛容の幅が、少し広がりました。
エリーゼは、
礼法を、もう少し
身につける必要があると言いました。
力を入れて話す瞬間にも、
彼女の声は噴水の流れのように
静かでした。
レイラは、
ビクッとして顔を上げました。
エリーゼは、
家族に対する礼儀が、
そこまで行き過ぎていては、
まともな貴婦人とは言えないと
言いました。
レイラは「家族・・・ですか?」と
聞き返しました。
エリーゼは、
あなたはヘルハルトになったのだから
自分たちの間も、
そう呼ばざるを得ないのではないかと
答えました。
家族。
音もなくその単語を繰り返す
レイラの唇が小さく震えました。
じっと、その顔を見つめていた
エリーゼは、もう一度、
虚しい笑みを浮かべました。
あなたを完全に理解して
好きになるのは難しいことだし
これからも、
ずっとそうかもしれない。
エリーゼは、
甘い嘘なんて言わないことにしました。
理解するというように、
レイラは小さく頷きました。
しかし、エリーゼは、
あなたが自分の息子の妻であり、
自分の孫の母親であることは
喜んで尊重して受け入れる。
とにかく、あなたは
ヘルハルトの一員という意味だ。
立派な公爵夫人というには、
まだまだ足りないとしても、
確かに長所のある子だからと、
満足していないけれど、
それほど悪くもない嫁に
淡々と真心を伝えました。
それが、昨年一年間、
レイラを見守りながら下した
彼女の結論でした。
エリーゼは、
今でも自分は、
あなたを大学に行かせたマティアスを
理解することができないけれど、
ヘルハルト公爵夫人が、
この家を中傷した女たちの息子を
打ち負かすのは、なかなか痛快で
楽しいことだった。
悪くないと言いました。
レイラは、
次の学期も一生懸命、
本当に頑張る。 必ずそうすると
宣言しました。
面食らっていたレイラの顔に
再び明るい笑みが広がりました。
エリーゼは
楽しみにしていると告げると、
他の長所を
生かしてみる気はないのかと
尋ねました。
レイラは「えっ?」と聞き返すと
エリーゼは、
フェリックスのような子供を
生んだという大きな長所だと
答えました。
あまりにも普通に話すので、
レイラは、しばらく経ってから
その言葉の意味を理解しました。
微かな笑みを浮かべた顔で
傍観していた老婦人も、
あんな子が、もう一人いたら、
あなたにとっても、
良いことではないかと
それとなく一言付け加えました。
露骨な期待感を表わす瞬間にも、
二人の姿は、相変わらず優雅でした。
レイラは、
実は自分も、
子供がたくさんいればいいと
思っているけれど、
あの人が望んでいない。
フェリックス一人で十分だと
言っていると返事をしました。
頭の中が真っ白になりましたが、
それでも、その点は、
はっきりさせておくべきだと思い
レイラは勇気を振り絞りました。
しかし、エリーゼは、
どうってことないというように
そんな嫁を直視しながら、
気が進まなそうな仕草で
扇子を広げると、
それが何の関係があるのか。
どうせ子供を産むのは
あなたなのだからと言いました。
レイラが「えっ?」と聞き返すと
エリーゼは、
男たちの選択肢というのは、
そういう結果が
予想されるようなことを
するか、しないかだけだ。
ところで、公爵のモーニングティーが
毎朝、公爵夫人の寝室に
運ばれるのを見ると、あの子には
どうせ選択肢がないのではないかと
言いました。
「ああ・・・」
口にできる言葉がどうしても見つからず
言葉に詰まったレイラは、
感嘆詞だけを長く漏らしました。
きまりが悪くて恥ずかしいことを
どうして、こんなに
平然と言えるのだろうか。
あの上品な老婦人の態度も、
それほど変わりませんでした。
カタリナは、
望まなくても、自分の子供ができたら
マティアスは、当然、父親としての
責務を果たすだろうと言いました。
そして、
そうではないかと同意を求めながら
目を細めて、
そっとエリーゼを見ました。
エリーゼは、
もちろんマティアスは、
いくらでもそうするだろうと、
快く同意すると、彼女の視線は
幼い公爵夫人の真っ赤な顔の上に
ゆっくり止まりました。
三人の公爵夫人が共にしている
ティーテーブルの話題は、
すぐに本来の軌道を取り戻しました。
数週間後に開かれる
パーティーについて話している
二人の女主人の顔のどこにも、
レイラが気絶したくなるほど
恥ずかしくさせた、
少し前のあの会話の跡を
見つけることは困難でした。
噴水の音と、
美しくさえずる鳥たちの歌の間に
染み込む二人の話を聞きながら、
レイラは、
マティアスは、祖母と母親に
よく似ている人だったんだと
ぼんやり考えました。

低いノックの音が響いた時、
マティアスは、反射的に
寝室のドアの方へ目を向けました。
トントン、もう一度、今度は
もう少し大きくなったノックの音が
繰り返された後、彼は、ようやく
その音が聞こえて来た方向を
推し量ることができました。
公爵夫妻の寝室をつなぐ通路のドアが
ある所でした。
このくらいで書類を伏せて、
テーブルの上に置いたマティアスは
首を斜めに傾けて、
そのドアを凝視しました。
返事が聞こえなくて、
じれったかったのか、レイラは、
結局、許可なくドアを開けました。
椅子にゆったりと寄りかかって
座っているマティアスを見つけた
レイラは、目を細めながら、
どうして、そこにいるのに、
返事をしないのかと抗議しました。
マティアスは、
どうせ二人だけのドアの前なのに
なぜ、ノックをするのかと
聞き返しました。
レイラは、
いくらなんでも、
いきなりドアを開けるのは
失礼な行動だからと答えました。
そういえば、マティアスは、
公爵夫人の部屋につながった通路で
一度もノックをしたことが
ありませんでした。
だからこそ、レイラは一層、
堂々と振舞うことにしました。
レイラは、
あなたが何であれ、
自分は淑女だと主張しました。
なかなか厚かましくて
ずうずうしい冗談を言う妻を
じっと見つめていたマティアスの
爆発した笑い声が、
公爵の寝室を満たしている
ワルツの旋律の間に流れ込みました。
レイラは、
ようやく明るい笑みを浮かべて
敷居を跨ぎました。
そっと近づいて立ち止まる瞬間まで
マティアスの視線は、
一時もレイラを離れませんでした。
レイラは、
今日も、とても忙しそうですねと
尋ねました。
テーブルに積まれた書類と
マティアスを交互に見つめる
レイラの視線からは、
緊張感が滲み出ていました。
言いたいことがあるという
意味でした。
マティアスは、「うん」と、
短く簡潔に答えると、その緊張感は
すぐに当惑へと変わりました。
このような瞬間の
レイラが与える楽しさを
存分に味わったマティアスは、
片方の口の端に、
僅かな笑みを浮かべることで
悪戯心を示しました。
マティアスは、
もう終わったと答えると、
組んでいた足を元に戻し、
軽く体を起こして、
レイラと向き合いました。
「話して、レイラ」
彼はいくらでも聞いてやるという
意思を示しましたが、
レイラは気軽に口を開くことができず
そばをグルグル回るばかりでした。
おそらく
時間が必要そうな妻のために、
マティアスは、窓枠に
ゆったりと、もたれかかりました。
白いモスリンのカーテンが
何度も膨らんで、
また萎むことを繰り返すほどの
時間が経った後、
レイラは決意を固めた顔で
近づいて来ました。
後ろ手に組んで、
頭をまっすぐに上げた姿勢が
かなり堂々としていました。
本当に思う存分、
欲張ってもいいかと尋ねるレイラは
どれほど、
大きな欲望を抱いているのか、
かなり真剣な表情でした。
「いくらでも」と喜んで頷く
マティアスからは、
満腹の捕食者のような余裕が
滲み出ていました。
じっとその顔を見上げていたレイラは
これ以上、躊躇うことなく
もう一人、子供がいるといい。
子供が欲しいと、欲を露わにしました。
「子供?」と聞き返すマティアスに
レイラは、
赤ちゃんが欲しいと答えました。
マティアスは「レイラ」と呼んで
軽く眉を顰めましたが、
レイラは意に介さない顔で、
はっきりと力を込めて、
私たちの赤ちゃんをくださいと
頼みました。
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気に入らない嫁だからと言って
嫁いびりをするわけではなく、
きちんと教えるべきことは
教える。
レイラが上手くできないことに
不満を抱いても、
彼女の良い所を認めてあげて、
陰で悪口を言うのではなく、
本人に、それを堂々と告げる。
そして、レイラのことを
家族だと認めていることも
しっかり伝える。
レイラはエリーゼに
好かれていないと
思っていたでしょうから、
彼女に家族だと言われて、
とても嬉しかったのでは
ないでしょうか。
今まで、エリーゼのことを
カタリナ様よりは、ちょっと・・・
と思っていましたが、
今回のエピソードで、
彼女に好感を持ちました。
ビルおじさんの唯一の写真を
一番、それを欲しがるであろう
レイラにプレゼントしたり、
フェリックスのことが可愛くて
二番目の子供を望む
カタリナとエリーゼは
大貴族としての体面を保つために
冷たく振舞うこともあるけれど
元々、温かい心の持ち主だのだと
感じました。
気品のある二人の貴婦人が
優雅にお茶を飲みながら、
冷静に赤面するような話をする姿を
早くマンガで見たいと思いました。
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