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169話 外伝17話 レイラは二人目の子供を妊娠しました。
ヘルハルト公爵夫人の妊娠の知らせは
すぐにカルスバルと
ラッツの上流社会のあちこちに
広まりました。
若くて健康な夫婦が
二人目を授かることは、
特に驚くことではありませんでしたが
妊娠した公爵夫人が、依然として
大学に通っているという事実は
熱いゴシップになるには
十分でした。
頭一つは、
とても良い子が生まれるだろう。
そのことに対する
エリーゼ・フォン・ヘルハルトの見解は
それだけでした。
老婦人の態度もまた、
大きな違いはありませんでした。
どんな意思を明らかにしても、
マティアスは決して、
自分の決定を覆さないので、
余計な対立をするのは
無意味なことでした。
致命的な傷となる結婚を敢行しても
このように快進撃を続けるために
マティアスが注いでいる努力に対する
ある程度の敬意でもありました。
数日前、電話の終わりで
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
「せっかく、
そうすることに決めたのだから
一度、一生懸命頑張ってみなさい」
と意外なことを言い出しました。
そして、
「ヘルハルトとして生きていく限り、
誰も、あえて、
あなたを無視するようなことは
させないという意味です。
分かりましたか?」と聞きました。
いつものように抑揚のない声でしたが
レイラは、今や、その微妙な違いを
区別することができました。
心からの言葉を伝える時、
彼女の口調は、さらにゆっくりと
柔らかくなるのでした。
レイラは嬉しさのあまり「はい!」と
思わず力強く答えました。
そして、
「本当に頑張ります。
最善を尽くします」と言いましたが
熱意があり過ぎるのが
貴婦人らしくなかったのか、
エリーゼは舌打ちして
ため息をつきましたが、
特に文句を言ったりしませんでした。
だから、レイラは、
家族との約束を守れるように、
本当に一生懸命
やってみようと思いました。
もちろん世の中には、
固い意志があっても
克服しにくいことが存在するもので、
まさに、つわりがそれでした。
しばらく落ち着いていたつわりが
再び始まると、レイラは結局、
本を閉じてソファーに横になりました。
そうして、
うっかり寝てしまったところ、
目が覚めた時は日が暮れていて、
マティアスがそばにいました。
彼の膝を
枕にしていることに気づくと、
青白い顔の上に
明るい笑みが広がりました。
目が合うと、彼は
「食事は?」と尋ねました。
つわりが始まってから、
マティアスは、挨拶のように
その質問をしました。
レイラは、
今日は少し食べたと答えました。
マティアスは、
「また桃?」と尋ねると、
桃がいっぱいの籠が置かれた
テーブルを見ました。
レイラが妊娠して以来、
彼らの寝室には、いつも
甘い桃の香りが漂っていました。

レイラは、遅い夕食を共にした夜、
胸いっぱいの喜びと
期待感に満ちた目を輝かせながら、
サプライズプレゼントを
差し出すように、
妊娠したことを知らせました。
すでに知っているということを
悟られないために、
マティアスは、細心の注意を
払わなければなりませんでした。
あの朝、言いたいことを
我慢しているようなレイラを見た時
微かな予感がしました。
そして、その日の夕方、
主治医のフェラー先生との電話で
その予感は既成事実となりました。
往診を依頼したマティアスが
妻が妊娠したようだと告げると、
しばらく、主治医は沈黙しました。
その後、
「もう、ご存知だったのですか?」
と尋ねる彼の声からは
隠すことのできない当惑が
滲み出ていました。
主治医は困った様子で、
この件について公爵夫人は、
直接、話したがっていたので
秘密にして欲しいと・・・と頼むと
マティアスは、
「はい、そうしましょう
知らないことにしておきます」と
淡々と返事をしました。
レイラが何を望んでいるのかを
理解することと、
その願いを叶えることは、
それほど難しくありませんでした。
いくつかの儀礼的な挨拶を終えた
マティアスは、
妻は第一子を妊娠した時、
体調があまり良くなかったと、
落ち着いた口調で
本論を切り出しました。
全身が炎の塊になったまま
生死の境を彷徨うレイラを
無気力に見守るしかなかった
日々の記憶は、戦争より
さらに恐ろしい傷跡として
残っていました。
マティアスは、
どうか今回は、
そのようなことがないことを
願っている。もちろん、
フェラー先生がいらっしゃる限り、
そのような心配は、
無意味なことに過ぎないということは
承知していると、
特に力のこもっていない柔らかい声で
話を続けました。
そして、
妻をよろしくお願いしますという
丁重な挨拶で、話を終えました。
その日以降、主治医は
往診の依頼がなくても
頻繁に邸宅を出入りし、
公爵夫人の健康を観察しました。
つわりの症状を除けば、
レイラは元気だったし、
お腹の子もそうだと言いました。
少なくとも今のところは、
信頼に見合う満足のいく結果でした。

すでに知っている妊娠に
驚く準備をして、邸宅に戻った夜は
マティアスにとって、
やや大変な時間でした。
レイラは食事の間中、
ずっと話を逸らしました。
その時間が長くなるほど、
彼を見つめる目に込められた期待感も
大きくなって行きました。
どんな反応を見せるべきなのか
マティアスは、
うまく見当がつきませんでした。
「嬉しい?」
その質問に対する答えは簡単でした。
「嬉しい」
愛する女のお腹の中で
自分の子供が宿って育つのだし
レイラの切実な願いでもありました。
しかし、それ以上の、
おそらくレイラが期待しているような
感激はありませんでした。
彼らは子供を持つための努力を重ね、
それに見合う成果を得ました。
すでに予見されていた、
自然な因果でした。
レイラは食事がすべて終わった後、
待ちに待った告白をしました。
その瞬間まで、マティアスは
適当な答えを
見つけられずにいましたが、
幸いレイラは、その沈黙を
胸いっぱいの喜びとして
受け入れたようでした。
「抱き締めてくれますか?」
レイラは、
両腕を大きく広げて見せることで
答えを示してくれました。
「そうしてくれたらいいのだけれど」
慎重な期待感と緊張感が込められた
レイラの緑の目が美しく輝きました。
その愛らしい女を、
力いっぱい抱き締めるのは、少しも
難しいことではありませんでした。
あの日、
そのように彼の胸に抱かれたまま
レイラがせがんだ贈り物は
なんと桃でした。
たかが、それしきのことが
何だというのか。
呆れて見つめる
マティアスを見つめながら
レイラは、
傷もなくきれいな
甘くてシャキシャキした桃と
力を込めて真剣に話しました。
理解しがたい願いでしたが、
マティアスは喜んで聞き入れました。
贈り物と呼ぶのも困難な
桃一籠を胸に抱いたレイラは、まるで
世界を全て手に入れた人のような
幸せな顔をしていました。
その中から、
一番きれいな桃を選ぶ目つきは
どれほど真剣だったことか。
じっと見守っていたマティアスは
結局笑い出しました。
マティアスは、
「どうせ全部君のものなのに」と
言いましたが、それでも、
レイラは依然として深刻な顔で、
一つずつ持った桃を
彼の目の前に差し出しながら
どちらの方が、
よりきれいだと思うかと尋ねました。
マティアスの目には、
ただの同じ桃に過ぎないのに、
まるで、レイラは
すごい差でもあるかのように
言いました。
レイラは、
一番きれいなものから食べるので
あなたが選んでと要求しました。
どちらも変わらないように
見えましたが、
それでもマティアスは、
誠意を持って桃を見ました。
そして左手に持っている
もう少し艶があって
色鮮やかな方を選びました。
レイラは、
そうして選ばれた一番きれいな桃を
しばらく、じっと見つめました。
その複雑な眼差しに込められた感情が
何なのか気になりましたが、
マティアスは聞きませんでした。
その代わりに、
物思いに耽っているレイラの瞳が
再び自分を映し出すまで
そばに居続けました。
幸い、レイラは
それほど長くはかからないうちに
笑いを取り戻しました。
そして慎重に、
まるで一種の儀式を行うかのように
桃を食べました。
小さく一口、また一口かじる度に
聞こえて来る
シャキシャキとした音と
甘い果汁の香りで、マティアスは
その夜を憶えていました。
だからなのか、
レイラのお腹の中で育っている
子供のことを考えると、鼻の先に
桃の香りが
漂うような気がしたりしました。
今、この瞬間のように。

レイラは眠そうな声で、
桃も食べて、他のものも食べたと
ゆっくり答えました。
膝に置かれた頭を撫でる
マティアスの手も、やはり
そのように、だるそうでした。
マティアスは、
他に何を食べたのかと尋ねました。
レイラは、
「卵と鶏肉を少し。それにパンも」
と答えました。
マティアスは眉間にしわを寄せながら
お腹の具合が悪い時に、
食べるのに適した食べ物では
ないのではないかと反論しました。
その言葉にビクッとしたレイラは
彼と目を合わせながら、
自分が直接伝えたメニューなので、
訳もなく、
人のせいにするのは止めて欲しいと
頼みました。
そして、
勉強をしてみたところ、
胎盤が早く形成されれば
つわりが落ち着くらしい。
そのためには、卵と肉を
たくさん食べた方がいいそうだ。
赤ちゃんにもいいそうだと
話しました。
マティアスは、
吐き気を催してまで、
そういうものを食べるのは
辛いことではないかと反論しました。
レイラは、
そうだけれど、
何となく、ずっと苦しいよりは、
つわりが少し酷くなっても、
苦痛の期間を
短縮させた方がいいと思う。
試験も受けなければならないのでと
主張しました。
マティアスは、
科学者らしい結論だと言いました。
レイラは、
かなり合理的な結論でしょう?
と確認すると、
いたずらっぽく、クスクス笑いながら
体を起こして座りました。
しかし、まもなくレイラの顔は
再び真っ青になりました。
つわりが、
また始まったようでした。
ベッドに横になるようにと
指示したマティアスは、
再び自分の膝を枕にして
横になったレイラを
目を細めて見ました。
しかし、
レイラは断固として首を横に振ると
嫌だ。ここにいたい。
ベッドに横になると
つわりがひどくなる気がすると
主張しました。
とんでもなく
突拍子もないこだわりでした。
マティアスは、
ソファーとベッドの何が違うのかと
尋ねました。
レイラは、
それはよく分からないけれど
ただ、何となくそんな感じがすると
明敏な瞳を輝かせながら、
とんでもないことを言いました。
その妻を見ていたマティアスは、
再び声を出して
笑ってしまいました。
マティアスは、
分かってはいるけれど、これは少し、
非合理的に聞こえると言いました。
徹底した分析に基づき、
吐き気を堪えながら卵と肉を食べるのに
何となく気分が優れなくて
ベッドを回避する、その科学に
妻も眉を顰めました。
レイラは
仕方がない。
あなたもつわりを経験してみれば
合理的な考えばかりすることは
できないだろうと言い返しました。
レイラは、まだ言いたいことが、
たくさんあるという
顔をしていましたが、
これ以上言葉を続けられず
目をギュッと閉じました。
冷や汗が出た青白い額を撫でる
マティアスの唇から、
音のないため息が漏れました。
しばらくして目を覚ましたレイラは
マティアスに、
本を読んでくれないかと
頼みました。
マティアスの眉間に刻まれたシワが
深くなりました。
「本?」と聞き返すマティアスに
レイラは、
テーブルの上にある本だけれど
試験範囲まで、
まだ、全部読んでいないので、
あなたが
読んでくれたらいいと思うと答えると
桃の籠の横に置いてある
古生物学の本を指差しました。
虚しい笑いを浮かべながらも、
マティアスは、
レイラの手垢がついた厚い本を
広げました。
桃の香りが漂う柔らかな空気の中に
古代生物の進化を説明する
マティアスの声が
染み込み始めました。
レイラは目を閉じたまま、
その声に耳を傾けました。
時々、抑えていた吐き気の音が
混じることもありましたが、
それでも、それほど悪くない夜でした。

夫のように、ものすごい女。
冬休みが近づくと、
レイラ・フォン・ヘルハルトの
名前の後に続く悪評が、
もう一つ加わりました。
妊娠した体で、
きちんと講義室に現れるだけでは足りず
今学期も、
首席の座を逃さなかった公爵夫人は、
もう軽蔑よりは
恐怖の対象に近づいていました。
しかし、今、
かなり膨らんだお腹を抱えたまま
張り紙の前に立つレイラの顔は、
その悪名とは裏腹に
明るいだけでした。
嘲笑うように投げかけられる
お祝いの言葉にも、レイラは、
いくらでも心からの喜びの笑みを
返すことができました。
「あなたも並大抵の子ではない」
電話でその知らせを聞いた
エリーゼ・フォン・ヘルハルトの
第一声でした。
「お疲れ様でした、レイラ」
最後の挨拶を交わす頃には、
明らかに声が
柔らかくなっていました。
大きな喜びをもたらした
その短い通話を
レイラは何度も思い返しました。
そして、その度に、
お母さんの気持ちが分かると言うように
お腹の中の子供が踊りました。
「マティ!今です! 早く!」
胎動を感知したレイラは、
急いで叫びました。
急いでくれればいいのに、
マティアスは、
ひたすらのんびりしていました。
レイラは
ベッドのそばに腰掛けた彼の手を、
急いで自分の膨らんだお腹の上に
引き寄せて、
動いているけれど感じるかと
尋ねました。
マティアスは、しばらくそのまま、
妻の望み通りに留まってくれました。
初めてでもない胎動は、
それほど不思議なことでは
ありませんでしたが、
それを自慢したいと思うレイラを
見つめるのは
かなり楽しいことでした。
レイラは、
子供が静かになった後になってから
ようやく、しっかり握っていた
彼の手を離しました。
マティアスは、しばらく
そのまま、その場にとどまり、
ベッドに横になっている妻を
見つめました。
ゆらゆら揺れる暖炉の光が、
ずいぶん変わった体の線を
浮き上がらせていました。
自分がやると言って
タオルを握ったマティアスの手が
胸に触れると、レイラはビクッとして
肩をすくめました。
しかし、マティアスは平気で
彼女の体を拭いてくれました。
これ以上拒んでも
無意味だということを
よく知っているレイラは、
そのくらいで、
素直にその手を受け入れました。
肌をかすめるタオルの感触は
柔らかくて温かいけれど、
心臓の鼓動は
ますます速くなって行きました。
マティアスは、
レイラの頬が再び赤く染まった後に
ようやく手を離しました。
しかし視線は、もう少し長く
その体の上に留まりました。
妊娠してお腹が膨らんだレイラの体は
以前とは少し違う喜びを与えました。
まるで、だるい満腹感のような、
そんな満足感でした。
マティアスは、パジャマを着せてやった
レイラを胸に抱いて
ベッドに横になりました。
以前のように慌てる代わりに、
レイラは彼の首筋に
そっと顔を埋めました。
お互いをギュッと抱きしめたまま、
足を絡めて眠る夜が、
今では珍しくありませんでした。
眠りにつく前、レイラは、
あと数週間で、自分は
本当にペンギンみたいになると
心配そうな声で囁きました。
そして、
きれいに見えないかもしれないけれど
それでも、
きれいだと言ってもらえるかと
口に出すのが少し恥ずかしい質問を
口ごもっている間に、
マティアスの唇が額に触れ、
「そうします」と、すでに
その質問を聞いたかのような答えが、
ぼそっと聞こえました。
「いくらでも言いますよ、レイラ」
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カイルと初めて会った時に
分け合って食べた桃。
アルビスを離れるまで、毎年、
森で採っていた甘くて美味しい桃。
戦争中、手に入れるのが
難しかったかもしれないのに
レイラのために、ビルおじさんが
買って来てくれた桃。
桃にまつわる思い出は
幸せで楽しいことばかりだったのでは
ないかと思います。
レイラは、
マティアスが買ってくれた桃を見て
そんなことを
思い出していたのではないかと
思います。
そして、これからは
マティアスと子供たちと共に
新しい桃の思い出を
作って行くのだと思います。
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