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75話 オデットはテオドラに呼び出されました。
ラナー街12番地にある楽譜店は、
今日も、がらんとしていました。
古い陳列台の後ろに座って
うとうとしている主人を除けば、
客は、
うわの空で楽譜をめくっている
中年の婦人と、
息を切らしている若い淑女の
二人だけでした。
蓄音機から流れて来る
華麗なワルツの旋律が、
彼女たちの間を漂う金色の埃に乗って
広がって行きました。
そんなに急ぐ必要はなかった。
まだ10分も残っているのにと言うと
テオドラは呑気に笑いながら
オデットの横を通り過ぎました。
散歩でも楽しむように
ゆったりとした足取りでした。
古い楽譜が
ぎっしり詰め込んである
書棚を通り過ぎると、
テオドラは、
隅に放置されているように
置かれているピアノの前で
止まりました。
視界が遮られており、
密談を交わすのに適した場所でした。
「驚かないのね?」
テオドラはゆっくり体を回すと、
後から来たオデットに
向き合いました。
慌てて走って来たため、
乱れた格好をしていましたが、
静かに見つめる眼差しだけは
厳しく、節制されていました。
愚かではない子。
最も重要な最初の条件は
満たしたと言っても
無理はなさそうでした。
一息ついたオデットは、
一体、どうして、
あんなとんでもない脅迫状で
自分を呼び出したのかと、
唐突に最初の言葉を投げかけました。
テオドラは肩をすくめながら
近くにある楽譜集を一冊広げました。
テオドラは、
ディセン公爵が書いた手紙を見た。
事故の衝撃のせいで
忘れていたあの日の記憶が
完璧に戻ったようだ。
一体いつまで嘘をつくつもりなのかと
尋ねました。
オデットは、
父親が奥様宛に、
直接手紙を送ったという意味かと
聞き返しました。
テオドラは、
まあ、そういうことだと答えると
ゆっくりとページをめくりながら
微笑みました。
目に見えて青ざめた顔をしていても
オデットは、
彼女の視線を避けませんでした。
オデットは、父親が、何か
大きな勘違いをしているようだと
反論しました。
テオドラは「そうなんですか?」と
聞き返しました。
オデットは、
奥様の言う通り、
父親は、あの日の事故で、
あまりにも大きな衝撃を受けた。
おそらく、その後遺症で
記憶がひどく歪められたようだと
言いました。
テオドラは、
「ああ、歪められたのね」と
相槌を打ちました。
オデットは、
心身共に衰弱している患者の言葉を
見境もなく信じているなんて残念だ。
今回は理解するけれど、
二度と、このようなやり方で
自分とティラを侮辱しないで欲しい。
自分の行跡を探ることも、
このくらいで止めてくれると
信じていると、
眉一つ動かさずに、
テオドラに抗議しました。
見た目より、
かなり厚かましい面があるという点も
また気に入りました。
慎重に周囲を見回したオデットは、
これ以上、何も話すことがなければ
自分は、これで失礼すると
丁寧な挨拶をしました。
じっと、その姿を見守るテオドラの瞳に
喜びの光が輝き始めました。
適当に使ったら捨てる駒だと
思っていたけれど、
これは予想外の成果でした。
たかが女一人で、バスティアンを
倒すことはできないだろうけれど
少なくとも有効な打撃程度は
与えられるかもしれませんでした。
たとえ事が拗れても、
彼らが損をすることはない。
どうせ、最悪に向かって
突き進んでいる関係でした。
妻の裏切りに気づいたバスティアンが
離婚でも決心してくれれば、
むしろ有難いことでした。
苦労して得た名声を一気に崩す
チャンスかもしれませんでした。
そのおかげで、皇帝から見放されれば
この上ないことでした。
テオドラは、自分の前で、
そんなに堂々としていたら
困るのではないかと、
低い声で口ずさむように尋ねました。
胸がドキッとしましたが、
オデットは、それを表に出すことなく
振り向きました。
巻き込まれてはいけない。
自らを説得しようと努めながら
一歩を踏み出した瞬間に、
思いもよらない名前が
聞こえて来ました。
テオドラは
パルマー夫人を覚えているか。
あなたたちが借りていた家の
管理人の妻だとか。
あなたの父親は、
その女性が証人になってくれると
信じているようだと
笑っているように話しました。
オデットは
首が絞められるような呻き声を飲み込み
足を止めました。
階段の手すりの後ろで
管理人の妻を見たというティラの主張が
閃光のように脳裏をかすめました。
恐怖から始まった妄想として
片付けてしまった自分の姿も
その後に続きました。
本当に
パルマー夫人がいたのだろうか。
あの日の記憶を思い出そうと
努力してみましたが、
そうすればするほど
混乱が深まるだけでした。
ディセン公爵は三者体面を望んでいて
ティラ・ベラーとパルマー夫人を
病院に呼んでほしいと言っている。
非情な娘が最後まで背を向けるなら
自分が、その無念を一度
解消してやろうかと思っている。
このまま去るなら
それでも良いという意味と受け取る。
もちろん、バスティアンとも、
このことを
相談してみなければならないと
言いました。
このまま立ち去れ。
行かなければならない。
自分自身に、
強迫的な命令を下してみたけれど
オデットは、指先一つ
動かすことができませんでした。
父の記憶が戻って来た。
これ以上、その事実を、
否定する術はなさそうに思えました。
テオドラ・クラウヴィッツが、
その記憶の全てを
知ってしまったことも。
オデットは、
グラグラする両足を支えるために
本棚に手を伸ばしました。
ティラ。
震える唇で囁いたその名前と共に
これ以上隠すことができないほど
苦しい息が漏れました。
真昼の太陽に面したように
目の前が真っ白になりました。
いえ、一寸先も見えない
暗黒のような気もしました。
ようやく話が通じそうだという
声がすると、
コツコツと鳴り響いていた靴の音が
オデットの背後で止まりました。
テオドラは、
バスティアンは、まだ
知らないのではないか。
あの計算高い子が、
時限爆弾のような秘密を隠した女性と
結婚するはずがないと言うと
ウミヘビのような手で
オデットの肩を包み込みました。
父親の命を奪おうとした私生児と
そんな腹違いの妹の
共犯になってやった姉。
そして、そんな二人の娘に
なす術もなくやられて、
障害を負った父親。
これは実に面白い話だ。
さらに、その事件の中心にいる人物は、
ヘレネ皇女の娘であり、
戦争の英雄
妻だなんて。
これだけで、全帝国が熱狂する
スキャンダルになるのに十分だと
言いました。
しばらく空回りしていた蓄音機から
再び音楽が流れ始めました。
ギュッと閉じていた目を開けた
オデットは、
まず肩をつかんでいる手を
振り払いました。
そして、体を回して
テオドラ・クラウヴィッツに向き合うと
かえって頭の中がすっきりしました。
オデットは、
バスティアンの名誉を汚す
スキャンダルが必要だったら、
こんな風に自分を呼び出して
脅迫しなかっただろうと言いました。
まだ消しきれていない恐怖が
滲み出ている声とは違って、
テオドラを凝視するオデットの眼差しは
冷たく、もの静かでした。
オデットは、
話を聞くので、目的が何なのか
教えるようにと促しました。
テオドラは、
その前に、一つだけ
聞きたいことがあると言うと
楽譜集を置いて、
軽く腕組みをしました。
窓を通り抜けて来た日差しが、
まっすぐな姿勢で震えている
オデットを照らしました。
そして、テオドラの、
夫を愛しているのかと言う冷たい質問が
蓄音機の旋律に乗って
伝わって来ました。
オデットは
気軽に答えられませんでした。
何度も唇を動かしてみても同じでした。
義務と真心の間の遥かな距離は
なかなか縮まりませんでした。
テオドラは「結構です」と言うと
満足そうな答えを聞いたように肯き
そろそろ本題に入っても良さそうだと
告げました。

バスティアンは、
いつもより、ゆっくりとした足取りで
夫婦の寝室をつないでいる
廊下を通りました。
シャワーを浴びると、
酔いが、さらに強くなりました。
累積している疲労が
加わったせいのようでした。
出征志願書は無事に受理されました。
露骨に残念さを見せましたが、
幸いデメル提督は、それ以上、
意地を張りませんでした。
その代わりに、夜が更けるまで
彼の酒の相手をする代価を
払わなければなりませんでしたが。
静かに通路のドアを開けると
「バスティアン」と
柔らかな声が闇を横切って来ました。
バスティアンは、
炎が揺らめいている暖炉の方へ
ゆっくりと顔を向けました。
当然眠っていると思っていたオデットが
そこに立っていました。
バスティアンは、
寝ていると思ったと告げると
暖炉のマントルピースの上の
置き時計をチラッと見ました。
いつのまにか12時。
普段の習慣通りなら、
もう熟睡しているべき時間でした。
薪がパチパチと燃える音が
長引く静寂の中に染み込みました。
しばらく待ってみましたが、
オデットは何の返事もしませんでした。
暖炉の炎に照らされている
青白い顔で、ただひたすら
バスティアンを見つめるだけでした。
椅子の肘掛けにかかっていた
レースのショールが、
床に滑り落ちましたが、オデットは
気づいていない様子でした。
バスティアンは
ベッドへ向かっていましたが
踵を返して
暖炉の前に近づきました。
落ちたショールを拾って渡すと、
オデットは、ようやく「ああ」と
低いため息を漏らしました。
バスティアンは一歩離れた所に立ち、
慌ててパジャマを隠すオデットを
見守りました。
血の気のなかった顔が、
うっすらと赤くなりました。
貞淑な修道女にでもなったかのように
振舞う姿が滑稽でしたが、
実は、全く間違った行動でも
ありませんでした。
初夜も済ませていない花嫁なので
予定通り契約を終わらせれば
オデットは純潔の離婚女になる。
次の夫が、あの女の最初の男になる。
そこまで考えが及ぶと、
思わず笑いがこぼれました。
純潔の離婚女だなんて。
こんなクソみたいな言葉の
組み合わせがあるだろうかと
思いました。
このままでは離婚と共に
無能な奴だという評判を
得ることになるかもしれない。
これは並大抵の馬鹿みたいなことでは
ありませんでした。
オデットは、
バスティアンが、
かなり酔っているようだと指摘すると
ショールをしっかり握って
顔を上げました。
バスティアンは軽く笑いながら
肯きました。
今更、このように情けないことを
考えるなんて。
デメル提督の機嫌を取るために
飲みすぎてしまった余波のようでした。
オデットは、
まるで病人にも接するように
真剣な態度で、
「そろそろ寝ましょう」と促しました。
余計な心配でしたが、
気分が悪くありませんでした。
ベッドまで支えましょうかと
オデットは躊躇いながら
呆れた質問をしました。
どうせなら、
子守唄も歌ってくれないかと
ふざけて聞き返すと
オデットの目が丸くなりました。
感情の起伏がなく冷静に見えるけれど
意外と純真なところがある女でした。
穏やかなため息をついたバスティアンは
最後の一歩の間隔を縮めました。
オデットはビクッとして
後ずさりしましたが、
もう少し速くバスティアンは、
オデットの肩を掴みました。
「オデット」
やや低い声で名前を呼ぶ声からは、
はっきりと熱感が滲み出ていました。
突然、恐怖に襲われたオデットが
息を殺している間に、
オデットの肩から離れた大きな手が
彼女の顔を包み込みました。
小さく首を振ってみましたが、
バスティアンの握力に勝つには
力不足でした。
「やめてください、バスティアン。
私は・・・」
切迫した哀願の言葉が
まだ終わらないうちに、
バスティアンが口を合わせて来ました。
どうすることもできないうちに
開いた唇の間から、
強い酒の香りが染み付いた息遣が
流れ込んで来ました。
以前のように、荒々しく
追い詰めるような口づけでは
ありませんでした。
バスティアンは、
ゆっくりとオデットの唇を飲み込み
舌を交えました。
限りなく穏やかだったけれど、
その代わりに、その分執拗でした。
なだめるように頬を撫でる手つきも
同じでした。
オデットは、ぼんやりと
その見知らぬ感覚に耐えました。
バスティアンが飲んだお酒に
一緒に酔ってしまったようでした。
いくら努力しても隠せないうめき声が
触れ合っている唇の間から漏れて来て
オデットの羞恥心をさらに深めました。
むしろ、あの悪夢のような夜が
懐かしくなって来た頃になって
ようやく口づけは終わりました。
じっとバスティアンを見つめていた
オデットは、
言いようのない気持ちに捕らわれて
視線を避けました。
しかし、見知らぬ渇望が込められた
眼差しの記憶は
なかなか消えませんでした。
なぜ?
疑問を繰り返している間に、
バスティアンが再び近づいて来ました。
逃げようとした時には、
すでに額に唇が触れていました。
バスティアンを押しのけようと
努力していたオデットの手から、
すっと力が抜けました。
手の施しようもないほど、
大きくなった混乱が
最後の戦意まで消してしまいました。
残ったのは、一体なぜという、
希望であり絶望のような
その疑問が全てでした。
目尻から頬、鼻筋へと続いた口づけは
再び、唇の上で終わりました。
バスティアンは低いため息をつきながら
唇を離しました。
後頭部を包んでいた手は、
依然として乱れている
オデットの髪の毛を撫でていました。
まるでマルグレーテを撫でている瞬間の
彼女のようでした。
つまり、真心からのように。
「バスティアン」
赤く濡れた唇の間から、
希望だと信じたい名前が漏れました。
じっと見つめてくれている
バスティアンの目から、
暖炉の明かりのように
心地良い温もりが滲み出ていました。
彼は「話したいことが・・・」
と呟くと、
オデットは震える手を上げ、
バスティアンの袖口を握り、
自分に何か話すことはないかと
尋ねました。
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だから、あの時、
すぐに警察へ行けば良かったのに。
そうすれば、
ティラに殺意がなかったことを
証明できたし、
過失で済ませることができたのに、
下手に隠したりするから、
ここまで、拗れてしまって
取返しのつかないことに
なってしまった。
オデットにはテオドラの狡猾さに
勝てる力はない。
だからバスティアンとドーラは
彼女に会ってはいけないと
釘を刺したのかもしれません。
オデットが
テオドラの言うことを聞いたところで
スキャンダルを止められるという確証は
どこにもない。
こうなった以上、オデットは、
全てをバスティアンに話して
彼に良い解決法を見つけてもらうのが
最善だと思いますが、
それができるほど、オデットは
バスティアンに心を
開いていないと思います。
バスティアンの気持ちは
オデットに向いているのに
彼女は、あくまでも自分が
契約上の妻だと思っているので
バスティアンに対して
恋心を抱いたとしても、
押さえつけているように思います。
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