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77話 オデットは父親に会いに行くことにしました。
オデットは遊歩道ではなく
小道の方に手綱を引きました。
賢い馬は、
すぐに、その指示を理解し、
方向を変えました。
スピードを上げて走る馬の蹄の音が、
紅葉が真っ盛りの林道沿いに
響き渡りました。
オデットが馬を止めたのは、
二つの邸宅の中間地点にある
黒い森の入り口に着いた頃でした。
この道だ。
オデットは確信に満ちた目で
真昼でも薄暗い森の向こうを
眺めました。
テオドラ・クラウヴィッツが
この家にスパイを潜入させている。
そうでなければ、
オデットのスケジュールと動線を
完璧に把握して、
罠を仕掛けることは不可能でした。
オデットが見つけた最も有力な容疑者は
モリーでした。
近くで女主人を
監視できる立場にいながらも、
随時、実家と密通してもバレないほど
重要度の低い使用人。
いくら考えてみても、
それはモリーでした。
しかも、あの子は、
この邸宅で働いた期間が短く。
主人に対する愛着がないので、
裏切るのも一番簡単だったはずでした。
白樺の幹に手綱を縛り付けた
オデットは、落ち着いた足取りで
森の中に入りました。
予想通り、
モリーは餌に食い付きました。
用事を終えるや否や、
彼女は森へ走って行きました。
オデットは、
庭と森を一望できるバルコニーから、
その光景を見守りました。
裏切られたことを知っても、
これといった感情の動揺は
ありませんでした。
親しくしているメイドだけれど
心を通わせる仲では
ありませんでした。
狡猾な策略に騙されたことへの
自責の念はあったものの、
傷つくことはありませんでした。
何より、その全ては、
すでに過ぎ去った過去に過ぎず
重要なのは、これからのことでした。
「奥様?」
道の半ばに達した時、
聞き慣れた声が聞こえて来ました。
オデットは、その場に立ち止まって
モリーを見つめました。
子供は、野の花を両手いっぱいに
抱えていました。
田舎出身だというモリーは、
とりわけ森が好きでした。
暇さえあれば
森を歩き回るという理由で、
ドーラに叱られることも
たくさんありました。
何度か、こっそり味方をしてやったら、
子どもは、ある日から
野の花を摘んで来るようになりました。
森に行って来たと言って、
明るく笑いながら花を差し出す子供が
まるでティラのようだったので
そばにいてもらいました。
スパイの役目を隠すための贈り物を
有難く思っていたなんて、
今にして思えば
実に滑稽なことでした。
オデットは、
お使いは無事に終わったかと
尋ねました。
彼女は、怒っている様子もなく
静かでした。
モリーの反応も、大きく変わらず
「申し訳ありません、奥様」と
平然と謝ると、何の自責もない顔で、
よくもまあニコニコしながら
オデットの前に近づいて来ました。
この子に重責を任せた理由が
分かるような度胸でした。
オデットは、
これから実家との連絡は
あなたを通じてすればいいのかと
尋ねました。
モリーは、
「はい、奥様がお望みでしたら」と
何事もなかったように頷きました。
ふと身の毛がよだちましたが、
オデットは、
そんな素振りは見せませんでした。
彼女は、
相変わらず清々しいモリーの目を
直視しながら、
それでは帰って、あなたの主人に
バスティアンの介入はないと
伝えるように。
自分からの確答は、父に会った後に
聞くことができるという言葉も
一緒にと、命じました。
モリーは、再び遠い道を
行って来ることになったのが
嬉しくなさそうな表情でしたが、
素直に頷きました。
背を向けようとしたモリーは、
「はい、これです」と
野の花の花束を差し出しました。
しかし、微動だにしないオデットを
見つめていたモリーは、
花には何の罪もないのに、
もう、要らないのかと嘆くと、
肩を軽くすくめ、
大切に抱いていた野の花を
道端に投げ捨てました。
風に吹かれて散らばった
色とりどりの菊が、
人里離れた道を彩りました。
モリーの姿が、
再び道の先に消えるまで、
オデットは、
黙々とその場を守りました。
モリーが、この仕事を
台無しにすることはないだろうと
確信しました。
少なくとも一つの心配事が
軽くなりました。

「そんなに簡単に死んだりしない」
電話を終えて戻って来た
ジェフ・クラウヴィッツの顔は
喜びの色に満ちていました。
バスティアンに
鉄道敷設権を奪われてからは、
一度も見たことのない表情でした。
何かいいことでもあったのかと
尋ねたテオドラは、
必死に不安を隠しながら笑いました。
食事を止めたフランツもまた、
ぎこちない笑みを浮かべた顔で
父親を見つめました。
ジェフは、
損害を挽回できる投資先を見つけた。
莫大な採掘量を持つ
ダイヤモンド鉱山だそうだと答えると
大股で朝食室を横切って来て
再び食卓の上座に座りました。
テオドラは
信頼できる情報なのかと尋ねました。
ジェフは
当然だ。すでにその鉱山に投資して
大きな利益を得た大口投資家たちが
少なくない。
ヘルハルトもその中の一人だなんて
これ以上の信頼できない話はないと
答えました。
テオドラは、
それでも、あまり急がないようにして。
こんな時こそ・・・と助言しましたが
ジェフは、
なぜ、そんなことを言うのか。
まさか、お前の夫が、
空っぽの鉱山に騙される間抜けだと
言いたいのかと、妻の言葉を遮ると、
豪快な笑い声を上げました。
そして、自分たちの方でも
綿密に調査したけれど、
問題なし。不審な点が全くないと
説明しました。
テオドラは、
それなら良かった。
これまで努力した甲斐があって
幸いだと、とりあえず、
適当に夫の幸運を祝いました。
ジェフ・クラウヴィッツは
経験豊かなビジネスマンでした。
火のような気性のせいで、
しばしば軽率な判断を下して
損をすることもありましたが
少なくとも、お粗末な詐欺に
引っ掛かるような愚か者では
ありませんでした。
ジェフは、
そのくらいで、席を立て。
会社に行かなければならないと
フランツを促すと、
残った食べ物を一気に平らげ、
力いっぱい手を叩きながら
立ち上がりました。
フランツの皿は、まだ半分も
空になっていませんでしたが
ジェフは息子の事情を
気にかけているようには
見えませんでした。
まるで嵐が吹き荒れるように、
性急なジェフは、
あっという間に準備を終えて
邸宅を出ました。
父の影のような存在になったフランツも
その後を追いました。
テオドラは、
久しぶりに生き生きとした顔で
夫と息子を見送りました。
バスティアンが爪を剥き出しにする以前
バラ色の未来を夢見て幸せでいられた、
あの美しい時代に戻ったような
気分になる、さわやかな秋の朝でした。
「バスティアン」
テオドラが、
その名前を再び思い出したのは、
クラウヴィッツ親子を乗せた自動車が
邸宅の進入路の向こう側に
遠ざかって行った後でした。
彼は、狩りをする猛獣のように
動く子でした。
体を丸めて静かに待ち、
一気に獲物の息の根を止めました。
本拠地を移して来た時も、
利権を奪い取った時もそうでした。
もし、あの子が隠しておいた切札が
まだ残っていたら?
テオドラは、最悪の場合を想定して
邸宅のロビーに入りました。
今は、考え直して積極的に行動せずに
避ける時期ではなかったので、
むやみに夫を止めることは
できませんでした。
しかし、むんずと掴むには
あまりにも完璧な幸運でした。
まるでネズミ捕りの中の
餌のようでした。
テオドラが
最初の階段を上がろうとした矢先に
彼女を呼びながら
ナンシーが近づいて来ました。
テオドラは
平然とした笑みを浮かべながら
振り向きました。
周りを見回したナンシーは、
袖の中に隠してきた封筒を渡した後
素早く去って行きました。
森の向こうから届いた
モリーの手紙でした。

もしかしたら、
回顧録を出版できるかもしれない。
ふと、新たな希望を見つけた
ディセン公爵の瞳が煌めき始めました。
帝国皇女との世紀の愛。 悲劇的没落。
そして娘が犯した犯罪の
犠牲となるまで。
これくらいなら、
一気にベストセラーとなる
話題作になるはずでした。
どうして、今まで、
このことを考えられなかったのか。
自分の愚かさに
怒りが込み上げてくるほどでした。
かろうじて体を起こして座った
ディセン公爵は、
夢中で呼び出しベルを
鳴らし始めました。
生ける屍のようだった病人の痕跡は
見当たりませんでした。
心が急いたディセン公爵は、
固く閉ざされた病室のドアに向かって
神経質な叫び声を上げました。
それでも、
なかなか使えそうだった介護士が、
一夜にして
仕事を辞めてしまいました。
何も言わずに行方をくらましたせいで
大変な苦労をしました。
幸い、新しい介護士は見つかりましたが
怠け者で愚かで、
到底、満足できませんでした。
あの手紙を受け取ったくせに、
相変らず、こんな冷遇をするなんて!
ディセン公爵は、
胸の奥からこみ上げてきた怒りに
耐え切れず、枕を投げつけました。
サイドテーブルに置かれた
花瓶とコップも、
その後に続きました。
いくら待っても来ない
オデットが与えた怒りは、
今や恐怖に近づきつつありました。
もしかしたら、すでに代替案を
見つけたのかもしれない。
お金と権力を握っている
夫がいるのだから、
十分、そうすることができる。
このまま、この監獄のような病室で、
誰も知らないうちに
毒でも飲まされて命を奪われたら?
抑えきれない不安が理性を蚕食すると
ディセン公爵は不自由になった
自分の足を叩きながら
泣き始めました。
記憶が戻ると、さらに苦痛が
激しくなりました。
これは、
ティラを孤児院に送るという決定に
反対したヘレネがもたらした
悲劇でした。
夫を誘惑したメイドと、
そのメイドの私生児まで受け入れた
皇女殿下の高妹な人格が、
復讐の刃となって
帰って来たようなものでした。
お前ごときまで自分を無視するのか。
今すぐ現れなければ、
クビにすることだってできると
叫んだディセン公爵は、
ふらふらと前に倒れた体を起こし
再び鐘の紐を握ったと同時に
ノックの音が鳴り響きました。
ディセン公爵は、
突然、悪態をつくのを止め、
首を傾げました。
介護士や医療スタッフなら、あえて
このような形式ばったことを
しないはずでした。
ひょっとしてという期待感が
芽生え始めた瞬間、
固く閉ざされていたドアが開きました。
その向こうに立っている
貴婦人を見たディセン公爵の目が
丸くなりました。
「オデット・・・?」
ぼんやりと、その名前を呟いている間に
オデットが敷居をまたぎました。
その柔らかい足取りに従って
紅葉のように赤いスカートの裾が
波打ちました。
背後で静かにドアを閉めたオデットは
まず丁重に黙礼しました。
乱雑な病室の様子が見えないかのように
落ち着いた態度でした。
ディセン公爵は、
ただオデットを見つめるだけでした。
一度にあまりにも多くの考えが
押し寄せて来て、
頭の中が真っ白になりました。
できることは、鉄の匂いがする息を
ハアハア吐くだけでした。
「よくも、お前は・・・」と
ようやく口が開くようになった頃、
立ち止まっていたオデットは
歩き出しました。
彼を直視する目つきと、
まっすぐな姿勢のどこにも、
罪悪感の跡を見つけることは
できませんでした。
ベッドの一歩前で
立ち止まったオデットは、
一言の挨拶もすることなく、
お父様の望みが、
家族全員の不幸なら成功したと
意味の分からない言葉を口にしました。
表情と呼べるものがない青白い顔が
まるで蝋人形のようでした。
全く生きている人のように見えない
顔色が、冷たく輝く瞳を
さらに引き立たせていました。
その剣幕に圧倒されたディセン公爵が
ただ乾いた唾だけを飲み込んでいる間に
オデットが、
最後の一歩を縮めて来ました。
一体、なぜ、あんなことをしたのかと
切実に待ち望んでいた質問が
聞こえて来ましたが、
ディセン公爵の喜びは、
それほど長くは続きませんでした。
オデットは、
まさか、あの手紙が
あの人の手に渡ることが、
お父様の得になると思ったのかと
尋ねると、ディセン公爵は、
あの人って、お前に送った手紙が
一体、誰の手に渡ったというのかと
呆れたように聞き返しました。
これまで以上に
真実味のある発言でした。
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事業の才覚があるジェフと
狡猾で賢いテオドラの遺伝子を
しっかり受け継げば
フランツも実業家としての
未来が拓けたでしょうに、
愛する人に執着する
テオドラの遺伝子しか
受け継がなかったフランツに
期待を寄せても、
彼がジェフの事業を引き継ぐのは
無理だと思います。
ディセン公爵が、
今の酷い境遇に陥ったのは、
全て自分が招いたことだと認めもせず、
自分の不幸は人のせいにし、
相変わらず自分のことしか考えず、
娘たちの幸せを考えるどころか
害しか与えていない。
未だにSoche様が
彼の名前を明らかにしないのは
名前を与えるのに値しない、
ろくでもない父親だからでしょうか。
こんな父親でも、彼がいなければ
オデットは生まれて来なかったけれど
オデットにしてもバスティアンにしても
親のせいで苦労しているのが
悲しいです。
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