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78話 オデットは、あの女に手紙を送った理由について、父親を問い詰めています。
あの女に
手紙を送ったことなんてない。
本当に知らない。
顔色が死んだ人のようになった
ディセン公爵は、声を張り上げて
否定しました。
オデットは、焦点がぼやけた目を
ゆっくりと見下ろして、
父親を見つめました。彼は、
手に負えないトラブルを起こした
子供のように
慌てふためいていました。
むしろ嘘をついていると
信じたかったけれど、すでにオデットは
今、父が真実だけを語っていることを
知っていました。
テオドラ・クラウヴィッツが
父の手紙を盗んだ。
全ての状況を総合して導き出せる
結論はそれだけでした。
胸の鼓動が不安定になりましたが、
オデットは表に出しませんでした。
まず、ゆっくり息を整えてから、
冷徹な理性を取り戻した目で
ディセン公爵に向き合いました。
オデットは、
最近、病院を辞めた人はいるかと
尋ねました。
ディセン公爵は、
介護士の一人が、
突然、姿を消したけれど・・・と
言葉を濁していましたが、その後、
怒りに満ちた、ため息を吐くと、
あの女が、
手紙を盗んだ、間違いないと
興奮しながら、
消えた介護士について
熱心に語り始めました。
二人の介護士が
交代で仕事をしに来たけれど、
手紙の用事は、いつも
その女に任せていた。
はるかに仕事ができた上に
何より文字が読めたから。
犯人が誰なのかは、これ以上
考えてみる必要がなさそうでした。
沈黙に陥ったオデットを
見ていたディセン公爵は、
突然、表情を変えると、
クスクス笑い始めました。
彼は、
これは全てお前が犯した罪の代償だ。
仇敵である継母が、
あの卑しい者の弱点を握ったなんて
いいざまだ。 むしろ良かった。
この機会に、
あの件が一つ一つ明らかになれば
自分は損することがないだろう。
称賛されている英雄の実体を
全帝国が知ることになるだろうから。
もっと早く、あの女に
手紙を送るべきだった。
失敗したと言うと、血走った目で
オデットを睨みつけました。
そして、ディセン公爵は、
自分をこのような姿にしたティラを
必ず刑務所へ送ってやる。
共犯者のお前も、
責任を免れられないので覚悟しろ。
お前の夫になった
あの卑しい奴も言うまでもない。
自分が、必ず
お前ら全員を奈落の底に・・・と
悪態をついているところで、
オデットは、
その後、父はどうなると思うかと
冷ややかに尋ねることで、
父親の言葉を遮りました。
すでに罠にかかっているので
逃れる道はない。
その事実を受け入れると、
ようやく目の前の現実が
はっきり見えてきました。
まず、父の口を塞がなければならない。
そうしたからといって、
この絶望的な状況を
解決できるわけではないけれど、
少なくとも、これ以上悪化することは
防げるはずでした。
だからオデットは、今この瞬間の
最善策を選ぶことにしました。
焦って目を丸くしたディセン公爵は
すでに半身不随になった身なので
自分は死んでしまえばいいけれど
お前たちは事情が違う。
そのような不祥事が
起きないようにするには、
今すぐ自分をここから出した方がいい。
十分に償うという
誠意を見せてくれるなら
考えなくもない。
自分が心変わりするかもしれないと
脅しをかけました。
しかしオデットは、
一抹の悩みもなく首を横に振ると
そんなことはないと否定しました。
明らかになった父の本心は、
予想と少しも変わりませんでした。
その低劣な欲望が、
胸の奥深くに刺さった棘のようだった
最後の憐憫と罪悪感を
消してくれました。
オデットは、
あの事故の真相を
バスティアンは知らない。
知っていたら
自分と結婚しなかっただろう。
快進撃を続けている野心家が、
一体どうして
こんな厄介な秘密を隠した女を
妻にするだろうかと言いました。
ディセン公爵は、
お前はディセンだ。そのお前が、
古物や拾い物より、うちの家門が
劣ると言っているのかと
抗議しました。
しかし、オデットは、
自分はディセンだ。
没落した公爵と共に
帝国を裏切る過ちを犯して
捨てられた皇女の娘だ。
賭博と酒に目がくらんだ父親と
幼い妹の責任を負っている
名前だけの貴族。
それがまさに自分だと
冷厳に一喝することで
病室の騒ぎを圧倒しました。
オデットは父親に、
どうか現実を直視するように.
今のディセンは、到底
クラウヴィッツの相手などできない。
皇帝の介入がなければ、
あの男は絶対に、
あなたの娘と結婚しなかったと
告げました。
ディセン公爵は
「どうして、お前が、そんな・・・」
と言い返しましたが、オデットは
あの縁談は自分の人生に
訪れた最後のチャンスだった。
どうにかして、
その幸運をつかみたかった。
父の事故の後はなおさらだった。
自分一人の力では、
障害を負った父親とティラを
到底、支えられなかった。
そんな自分を哀れに思って
プロポーズしてくれた男に
どうやって真実を
話すことができただろうかと
言いました。
ディセン公爵は、
自分の娘が・・・
ディセンの最後の誇りであるお前が
古物商の孫に取り入っている
娼婦同然だと言っているのかと
言い返すと、耐え難い恥辱感に
顔を歪めました。
今まで捨てられなかった
父親のプライドが哀れで情けなくて
オデットは少し笑いました。
オデットは、
今や娼婦にも劣る身となった。
自分を罪人にした
父親のおかげだと言うと、
虚ろな目で、病室の窓の向こうの
秋の森を眺めました。
良い妻になりたかった。
たとえ契約で結ばれた間柄に
過ぎないとしても、
与えられた役割に
忠実でいようと思った。
一緒に過ごした二年間が、
悪くない思い出として残ることを
願っていたような気もする。
もう全て、無意味なことに
なってしまったけれど。
オデットは父親に
どうか静かに、死んだように
生きるようにと頼みました。
オデットは、
全ての感情を消した目で
父親を見つめました。
怒りに震えるディセン公爵の
足掻きや奇声さえ、
その完璧な平静さを乱すことは
できませんでした。
ディセン公爵は、
自分を、
こんな有様にしただけでは足りず
脅迫までするつもりなのかと
抗議しました。
オデットは、
このことをバスティアンが知れば
彼は自分を捨てるだろう。
そうなると、これ以上、
父の病院代を支払う理由も
なくなるだろうと告げました。
ディセン公爵は、
ここから抜け出せるなら、
むしろ、その方が良いと
言い返しました。
しかし、オデットは、
ティラが刑務所へ行き、
自分も共犯として処罰されたら、
一体、誰が父の面倒を見るのか。
まさか父の人生に、他に頼れる人が
残っていると思うのかと
尋ねました。
その言葉にディセン公爵が当惑すると
オデットは、
あの事故の真相が明らかになれば、
父は路頭に迷うことになるのを
肝に銘じるように。
天が助けてくれるなら、
救貧院に行く幸運ぐらいは
享受できるかもしれないと、
幼い子供でも諭すように優しい声で
ぞっとするような警告をしました。
ディセン公爵は、
もう半分魂が抜けたまま、
苦痛に満ちた呻き声だけを
漏らしていました。
オデットは、ティラが父を
突き飛ばしたからといって、
だから、何だと言うのか。
記憶がすべて戻ったのに、なぜ、
あの事故が起こったのは、
父がティラからお金を奪うために
あの子に暴力を振るった結果だという
事実を
きれいに消して去ってしまったのか。
父は、いつもそうだった。
それを知りながらも我慢して来たけれど
もう、これ以上は無理だと言い捨てると
深呼吸をしながら
椅子の背もたれにかけたコートを
持ち上げました。
良かった時もありました。
父親が父親らしく振舞い、
互いに愛し合う夫婦と
彼らの娘で幸せだった
夢のような時代の記憶が、
今まで自分を束縛していたことを
オデットは、初めて
分かったような気がしました。
もう、その記憶に
別れを告げる時が来たことも。
オデットは、
あれは正当防衛であり、過ちだった。
一生ティラを否定し
虐待してきた父には、
あの出来事の
是非を問う資格などないと告げると
悪人ぶるのを止めた
オデットの目つきに
深まった秋のような寂しさが
漂っていました。
オデットは、
自分が何とか耐えられる限界は
ここまで。
あと一歩踏み出せば、
自分たちは三人とも、崖の下に
落ちることになるだろうと
告げました。
オデットの目頭は、
もう帽子の影でさえも
隠しきれないほど
赤く染まっていました。
オデットは、
天から見守っている母のためにも、
どうか一人の人間としての
最後の品位と尊厳だけは
守って欲しいと頼むと、
両手を合わせて握り、
頭を下げました。
息が詰まりそうな静寂が
漂っていた病室は、
すぐに血の滲むような泣き声で
揺れ始めました。

花を買ったのは衝動的な決定でした。
バスティアンは目を細めて
花束を見つめました。
楽しそうな花屋の主人は
鼻歌まで口ずさみながら
花を包んでいるところでした。
クロス夫人とクラーモ博士を
アルデンに招待した日でした。
祭りが終われば
すぐに出征することになるので、
最後にもう一度、食事を共にする場を
設けなければならないと思い
下した決定でした。
ここを訪れたのは、
花をプレゼントされるのが好きな
マリア・クロスのためでした。
叔母に会う時、バスティアンは
度々、この店に寄って
花を買いました。
今日もやはり、
そんな一日に過ぎませんでした。
何気なく視線を向けた所で、
あの花を見つけるまでは。
夏に渓谷の川に流れて行った
オデットの花。
自分がその花の形を覚えていたことを
バスティアンは、
その瞬間に初めて知りました。
他の野の花の記憶は
ぼんやりしているけれど、
ただ、あの花の記憶だけは
生々しく残っていました。
あの女に似た花だと
思ったからのようでした。
華やかな包装を終えた最初の花束を
置いた主人は、
奥様は、とても上品で
美しい人なのですねと言って
次の花束を手に取りました。
予定になかった
オデットの分のプレゼントでした。
花屋の主人は、
自分はかなり長い間、
花屋をやっているけれど
妻に似ているという理由で
アヤメを選んだ紳士は初めてだ。
ほとんどの人は
バラやユリのような種類を好むと
言いました。
バスティアンをチラチラ見る
花屋の主人の視線からは、
露骨な興味が滲み出ていました。
失言してしまった。
バスティアンは一歩遅れて
自分の過ちに気づきました。
アヤメの花束を追加して欲しいと
頼んだところ、
自分と同年代の若い淑女に贈る花なら
もっと華やかな方が
いいのではないかと、
花屋の主人が提案して来たのが
災いの元でした。
「大丈夫です」とだけ
言っておけば良かったのに、
妻に似ている花だ。喜ぶと思うと
訳もなく間抜けなことを付け加えて
口実を与えてしまったのだから
この面倒な状況に
耐えるしかありませんでした。
アヤメ。
バスティアンは、
今日初めて知ったあの花の名前を
じっくりと噛みしめました。
主人の表現通り、
上品で美しく見える花でした。
手際の良い彼は、オデットに贈る花も
素早く包装しました。
お金を払ったバスティアンは
急いで店を出ました。
都心は多くの人で賑わっていました。
両腕いっぱいに花を抱えて
繁華街を歩く屈強な将校に
通行人の視線が集中したのは
当然のことでした。
バスティアンは、
花が傷つかないことだけを気にして
混雑した通りを横切りました。
車を停めておいた場所に到着すると
街灯が灯りました。
昼間が短い季節が来たことを
ふと実感させる風景でした。
バスティアンは、
まず花束を助手席に置いた後、
車に乗り込みました。
余計なことをしたような
気もしましたが、今更、
取り返しがつきませんでした。
どうせ花は
ありふれた贈り物ではないか。
バスティアンは、
しばらく物思いにふけるのを止めて
エンジンをかけました。
叔母に花をあげるのは
特別なことではありませんでした。
しかもオデットの花束は
クロス夫人のものに比べると
極めて小さく質素でした。
体裁を整えるための
贈り物くらいに見えるので
無理がないはずでした。
主人が丁寧に結んでくれた
リボンの形を整えたバスティアンは
これ以上、遅れることなく
車を出発させました。
早くも訪れた秋の夜。
街は澄んだインク色の闇に
染まりつつありました。
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強気に出たオデット。
よくぞ、ここまで父親に
はっきり言ってくれました。
おそらく、ディセン公爵は、
今まで、まともに働いたことがなく
お金儲けをしようとした時は、
一攫千金を狙い、
詐欺師の良いカモに
なっていたのではないかと思います。
そのせいで
元々、傾いていた公爵家が没落し、
ヘレネと結婚した後も、
今までと同じ調子で
彼女が持ち出したお金を使い果たし
彼女が亡くなった後は、
皇室からの年金と
娘たちから搾取したお金で
酒と賭博に溺れ、
彼だけは楽しく生き永らえて来た。
けれども、
ディセン公爵が何もしなくても
生きて来られたのは、
人のお金に頼ることができたからであり
それがなくなれば
生きて行けなくなることを
はっきり
オデットが伝えたことで、
少しは、気づきを得てくれれば
良いのですが・・・
今はオデットに見捨てられたことだけを
嘆いているような気がします。
いずれ菖蒲か杜若。
すっと伸びて、凛として
品があって優雅なアヤメを
オデットに重ねて、思わず、
彼女への花束を買ってしまうなんて。
しかも、花屋の主人にまで、
そのことを話すなんて。
バスティアンは、誰かに言わずには
いられなかったのではないかと
思います。
叔母へ花束を贈るのは習慣なので
何の感情もこもっていないけれど
オデットへの花束には
バスティアンの真心が
たくさんこもっていると思います。
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