
6話 ローラはハイド夫人に、ひどく非難されてしまいました。
部屋の中で、
しばらくの間、口論が続きました。
ペンドルトン嬢は、
扉の前にじっと立って
その話を聞いていました。
やがて、マクレーン夫人が
荒々しく息を吐きながら
部屋から出て来ました。
そして扉の前に立っている友人を見て
面目なさそうに目尻を下げました。
マクレーン夫人はローラに
申し訳ないけれど、
今日は会わない方がいいと思うと
告げました。
ペンドルトン嬢は微笑みながら
大丈夫。 気にしないでと
返事をしました。
マクレーン夫人は、ペンドルトン嬢が
特に残念そうな顔をしていないのを
確認すると、さらに気分が悪くなって
頭を下げました。
もちろん、ペンドルトン嬢が、
全く、気分を害しなかったといえば
嘘になるだろうけれど、
ペンドルトン嬢は25歳を過ぎてから
他人の目に自分が
どのように映っているかを
よく知っていました。
娘を持つ母親にとって
売れ残りの娘は最悪の恐怖。
彼女は結婚を諦めた後から、
そのように見られるのは
仕方のないことだと思っていました。
彼女は、
自分のせいで困ってしまった
マクレーン夫人に、
気にしないでという意味で
肩を撫でてあげると、
すぐに階段を上りました。
ペンドルトン嬢は、
五階のハイド嬢の部屋の扉を
ノックしました。
中からは、
何の音も聞こえませんでした。
寝ているのか、それとも
家族が自分を呼んでいると思って
息を殺しながら、
いなくなるのを待っているのか。
ペンドルトン嬢は、
部屋の扉の近くに口を近づけ
自分の名前を伝えながら、
寝ているのかと、
やや低い声で尋ねました。
すぐに部屋の中で、
ガサガサいう音が聞こえました。
続いて、ピチャピチャ水が跳ねる音、
生地が擦れる音が聞こえました。
間もなくスリッパの音が
近づいて来て、扉が開きました。
ペンドルトン嬢は言葉を失いました。
普段から痩せていたハイド嬢の顔が、
言葉で言い表せないほど、
やつれていたからでした。
ここ数日間、食べ物を全て拒否し
しばらく、何も食べずに
過ごしているようでした。
ハイド嬢はペンドルトン嬢を
自分の部屋に入れ、
ロッキングチェアを差し出した後、
自分はベッドに座りました。
ペンドルトン嬢は部屋に入ると
表情を崩さないために、非常に
努力しなければなりませんでした。
狼狽しているのを隠すのが
難しかったからでした。
ロンドンのタウンハウスは、
各領地に住む貴族たちが
社交シーズンにのみ滞在する所なので、
規模がはるかに小さく
簡素な傾向にありました。
書斎やホールがない場合も多く、
応接室から始まり、主寝室、客室、
子供部屋に至るまで全て、
領地のカントリーハウスの半分にも
なりませんでした。
そのため、家族の多い家の場合、
結婚していない淑女たちは
部屋を共同で使い、
一人で使うことになれば
比較的小さくて狭い所に
滞在しなければなりませんでした。
しかし、ジェーン・ハイド嬢の部屋は
その程度がひどく、
ベッドと小さなクローゼット、
椅子一つだけで部屋がいっぱいでした。
彼女の本は全て、本棚に収まり切れず
部屋の片隅に積み上げられていました。
そして何より残念なのは、
窓枠に置かれた、
紙の束とインクの瓶でした。
椅子の高さに過ぎない窓枠が
彼女の机でした。
ハイド嬢は、紙の束に触れた
ペンドルトン嬢の視線を意識して
窓枠に近づき、
下に敷いておいたクッションの上に
ひざまずきました。
そしてインクの瓶を閉めて
散らばった紙を整理して
裏返しました。
ハイド嬢は、
リビングで書くと、
必ず母が読もうとすると
不満を漏らしました。
ペンドルトン嬢は
ひざまずいたハイド嬢の後ろ姿を見て
あの姿が、普段、彼女が
文章を書く姿勢だということに
気づきました。
胸の痛む光景でした。
ペンドルトン嬢は、
ハイド嬢が食事をしていないと聞いて
立ち寄った。
お姉さんがとても心配している。
いくら気分が悪くても
体は大事にしなくてはいけない。
ラズベリークッキーを持って来たので
とりあえず、食べてみてと促しました。
ハイド嬢は何も言いませんでした。
ペンドルトン嬢は、使用人に
クッキーを持って来てもらいました。
ベッドに座ったハイド嬢は、
皿に置かれたクッキーを
じっと見つめていましたが、
すぐに手をつけずに
窓の外を眺めました。
ペンドルトン嬢は、
もし、フェアファクス氏に対する
罪悪感があるなら、心配いらない。
先日、
ジャネット・フェアファクス嬢を
訪ねた際に聞いたところ、
兄の領地に狩りに行ったそうだ。
少なくとも
絶食をしているわけではないと
話しました。
ハイド嬢は、
ペンドルトン嬢の視線を避けて
窓の外を眺めてばかりいました。
彼女はロンドンの街を眺めながら、
考え込んでいるようでした。
彼女の横顔から憂欝の色が
にじみ出ていました。
しかし、その顔には
涙や心に傷を負っているような
感情的な痕跡はありませんでした。
ハイド嬢の心の中にある感情は
何なのだろうか。
ペンドルトン嬢は立ち上がって
ハイド嬢の隣に座りました。
そして、
馬の手綱とペンを握ることに慣れた
硬くて細長い彼女の手を握りました。
ハイド嬢は、
ペンドルトン嬢に捕まれた手を
引き抜くこともなく、かといって
自分の心を打ち明けることもなく、
そのまま、じっとしていました。
しばらくして、ペンドルトン嬢は
もしかして後悔しているのかと
尋ねました。
ハイド嬢は、
しばらくして、首を横に振ると、
フェアファクス氏にとっても
自分にとっても最善だったと
答えました。
ペンドルトン嬢は、
本当にそう思うかと尋ねました。
ハイド嬢はペンドルトン嬢を見つめ
頷きました。
ペンドルトン嬢は微かに微笑み、
それなら良かったと言いました。
ハイド嬢は、ペンドルトン嬢の顔を
じっと見つめながら、
何か言おうとして口を開きましたが
唇がブルブル震えてしまい、
結局、閉じてしまいました。
その代わりに、ハイドさんの目に
涙が溢れて来ました。
彼女が俯くと、涙が流れ落ち、
手袋をはめているペンドルトン嬢の
手の甲を濡らしました。
ペンドルトン嬢は何も言わずに
ハイド嬢の手を
ギュッと握っていました。
ペンドルトン嬢のスエードの手袋が
しっとりと濡れた頃、
ハイド嬢は、
涙でぐしゃぐしゃになった顔を
上げました。
ペンドルトン嬢は、もう片方の手で
ハイド嬢の顔を拭いてあげました。
ハイド嬢はかすれた声で
ペンドルトン嬢を呼ぶと、彼女に、
描いている未来があるかと
尋ねました。
ペンドルトン嬢は、
ハイド嬢の言葉の意味を
しばらく考えた後、すぐに頷きました。
ハイド嬢は、
遺産を相続するのかと尋ねました。
ペンドルトン嬢は、
自分がもらえる遺産はない。
それが、ペンドルトンの一員として
認められる条件だったと答えました。
ハイド嬢は、
自分も同じ。
自分にまで来る遺産はないと
言いました。
ペンドルトン嬢は、
ハイド嬢の顔を拭きながら
彼女の顔を
注意深くのぞき込みました。
ハイド嬢の顔には、
不安と自責の念のようなもの。
人を限りなく萎縮させる
底辺の感情が浮かんでいました。
ペンドルトン嬢は、
未来が怖くて食事もできないのかと
尋ねました。
ハイドさんは黙っていました。
ペンドルトン嬢は、
人はどんな形でも
生きていくことができると言うと
ハイド嬢は、
どんな形であれ生きていたくはないと
返事をして、首を横に振りました。
そして、
父親が亡くなってから、
自分の家は傾きつつある。
家族の誰も認めていないけれど
兄のジョンがしていることを見れば
明らかだ。
この家まで手放したら、
自分たちは田舎の家に
移らなければならないし、
自分は結婚もしていないので、
一生、母と二人きりで
暮らさなければならない。
いっそのこと、
今、飢え死にした方がマシだと言って
ブルブル震えました。
ペンドルトン嬢は、
別の道もあると言いました。
しかし、ハイド嬢は、
25歳で最後のチャンスを逃した自分に
どんな道があると言うのか。
学校なんて一年も通えず、
フランス語や美術など、
きちんと学んだことがないので
家庭教師は無理だし、
そばに脱いでおいた帽子さえ
失くしてしまう自分がメイドになったら
おそらく一週間も経たないうちに
追い出されるだろう。
おそらく、自分は
母と一緒に暮らすストレスで死ぬか、
家出して、
行き倒れになってしまうだろうから
むしろ、この家で
安全に死んだほうがマシだと
言いました。
ペンドルトン嬢はハイド嬢を
じっと見つめました。
彼女の中に既視感を覚えました。
女性にとって25歳という年齢は
驚くべきものでした。
自分が、まさに25歳で
ハイド嬢と同じような悩みを
抱えていました。
結婚の最終列車が遠ざかり、
遺産を受け取る可能性が全くない
未婚の娘として、
脅威にさらされていました。
一生孤独な人生を
送ることになるというのは、
実は問題にもなりませんでした。
一番怖いのは貧乏でした。
そして貧しさに常に付きまとう困窮。
毎晩、自分を守ってくれる環境が
明日の朝には根こそぎ消え、
今とは比べ物にならないほど
転落するだろうという恐れ。
その恐怖に、彼女は
どれほど苦しめられたことか。
彼女が
きちんと眠れるようになったのは、
かなり時間が経ってからでした。
ペンドルトン嬢は、
うつろな顔をしたハイド嬢に
微笑みながら、
ハイド嬢なら何にでもなれると
言いました。
ハイド嬢は、
自分が何になれるのかと尋ねました。
ペンドルトン嬢は、
まあ、ジプシーとか、占い師とか
魔女とか、薬売りとか闘牛士とか、
妖精とかと答えました。
ハイド嬢はペンドルトン嬢の
突然のいたずらに呆れた顔をしました。
ハイド嬢は、ペンドルトン嬢が
今、自分をからかっているのかと
尋ねようとすると、彼女は、
「それとも、タイピストとか」と
告げました。
ハイド嬢は口を閉ざしました。
ペンドルトン嬢は、
自分は家庭教師になった方がいいと
気づく前、
タイピストになるつもりで
タイプライターを一台買っておいた。
タイプライターという物は、
結構、値段が高くて
預金を少し使わなければならなかった。
今でも書斎にあるけれど、
使わなくなってから、かなり経った。
ただであげるのはもったいないので
貸してあげると言いました。
ハイドさんは目をパチパチさせました。
ペンドルトン嬢は、
午後六時から八時まで
一日に二時間ずつ自分の家に来て
タイピングの練習をするように。
三ヶ月でハイド嬢は、
ロンドンで一番優れたタイピストに
なっているはず。
書類作業が必要な事務所のどこでも
仕事ができるだろうし、
そうすれば母親ではなく、
下宿先の同年代の娘さんたちと
暮らせるようになる。
いいでしょう?と提案しました。
それからペンドルトン嬢は、
お盆の上のクッキーを手に取り
ハイド嬢に握らせました。
彼女はしばらくクッキーを見て、
すぐにカリカリ噛んで食べました。
そして、お盆の上の残りのクッキーも
食べ始めました。
ペンドルトン嬢は、
そんなハイド嬢を見つめながら
25歳は未婚の女性にとって
過酷な年齢だけれど、
食べていく道が開かれた淑女にとっては
新しい人生が始められる年齢だと
考えました。

そして一カ月後、兄の狩猟地で、
コジュケイ数十羽を撃つことで
失恋の傷を乗り越えた
フェアファクス氏が、姻戚であり親友の
イアン・ダルトンと共に
ロンドンへ戻って来ました。

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25歳と聞いて、
「ヴァンサンカン結婚」という
ドラマのことを思い出しました。
女王という言葉が出て来たので、
このお話の舞台は
1900年前後だと思いますが、
その頃、女性が社会進出するのは
現代と比べて、
かなり大変だったでしょうから
25歳で結婚できないのは、
女性たちに死活問題だったのかも
しれません。
ペンドルトン嬢はハイド嬢に
タイプライターをあげてもいいと
思っているけれど、
そうするとハイド嬢が遠慮すると思い
わざと、
あげるのはもったいないという言葉を
使ったのではないかと思いました。