
8話 ハイド嬢が舞踏会に来ていないことを知ったフェアファクス氏は・・・
フェアファクス氏は
もし、自分が気まずい思いをさせたり
自分に対して申し訳ないと思って
行事を避けているのなら、
そうしないで欲しいと、
ハイド嬢に伝えてもらえないか。
自分のプロポーズを断ったという理由で
ハイド嬢が被害を受ければ、
自分はもっと苦しむことになると
言いました。
しかし、ペンドルトン嬢は、
ハイド嬢は避けていない。
彼女は最近とても忙しいと
返事をしました。
フェアファクス氏は
そうなのか。何をしているのかと
尋ねました。
ペンドルトン嬢は、
最近、ハイド嬢が
毎日、自分の家に立ち寄って
精力的に、タイピングの練習に
没頭していることを知らせました。
彼女は自分の好きな小説や歴史書を
毎日のように
タイプライターで打っていました。
まだ、亀の歩みより
少しマシな速度でしたが、
その気迫だけは頼もしさがありました。
ペンドルトン嬢は、
彼女のタイピング速度がどうであれ、
三ヵ月以内に、彼女がロンドン最高の
タイピストになるという確信を
訂正していませんでした。
フェアファクス氏は
ハイド嬢らしい。
仕事を探しているなら、
自分が知っている事務所の数ヵ所に
推薦書を送ってあげたいと
申し出ました。
自分と結婚する代わりに
タイピストになることを選んだ
お嬢さんのために
仕事を探してあげるなんて。
ペンドルトン嬢は
フェアファクス氏の反応に
驚きました。
ペンドルトン嬢は、
フェアファクス氏がハイド嬢に拒絶されて
心が傷ついていただろうに
寂しくないのかと尋ねました。
フェアファクス氏は、
心が傷ついていないと言えば
嘘になるけれど、もう終わったことだ。
ハイド嬢が断った以上、
自分も諦めるべきだろう。
ただ、自分は彼女との関係が
完全に切れることを望んでいないと
答えました。
ペンドルトン嬢は、
本当なのかと尋ねました。
フェアファクス氏は「はい」と答えると
ハイド嬢からは
学ぶことがたくさんある。
大学を出た自分より、
教養でも学識でも一枚上。
自分は彼女と話をする度に
独学で、ここまで悟れるなんてと
驚かされた。
そもそも、そんな特別な人を
自分の妻の席に閉じ込めようと
欲張ったのが間違いだったと
話しました。
ペンドルトン嬢は、
ハイド嬢はフェアファクス氏を
高く評価している。
彼女があなたを避けたとしても、
その中に、あなたに対する反感は
ほんの少しもないだろう。
物事を正しく理解している女性なら、
フェアファクス氏のような紳士を
憎むのは不可能なことだと言いました。
フェアファクス氏は苦笑いすると、
しかし、その評価は彼女の愛には
少しも影響を与えなかった。
実は、 ハイド嬢が自分に対して
友情以外に何の感情もないことを
知っていた。
しかし、一方で自分は、
ハイド嬢が状況に流されてでも
自分を選んでくれるのではないかと
不純な期待を抱いていたと話しました。
ペンドルトン嬢は、
ロンドンでは、多くの結婚が
そのように行われているので
その点に関しては、
自分を責める必要はないと
フェアファクス氏を慰めました。
彼は黙っていました。
ペンドルトン嬢はフェアファクス氏の顔を
じっと観察しました。
良心が苦しんでいることを
彼の表情から
十分に感じることができました。
自分が愛する女性が
不利な状況にあることを知り、
それを利用して、
自分の望みを満たそうとしたという
自責の念が
彼を苦しめていました。
ペンドルトン嬢は、
彼の心が思っていたよりも
弱くて良心的だということを知ると、
彼のことが、
さらに気の毒になりました。
しかし、ペンドルトン嬢は、
そばにいる人が、
憂鬱な気分に浸っているのを、
黙って見ているだけの性格では
ありませんでした。
ペンドルトン嬢は、
しばらくフェアファクス氏が
滞在していた田舎の領地と、
狩りについて
優しく、あれこれ質問しました。
そして日に日にきれいになっていく
ジャネット嬢について煽てました。
生まれつき陽気な性格の
フェアファクス氏は、
再び明るい顔になりました。
ダンスが終わり、
二人は最後にお辞儀をした後、
飲み物のテーブルへ行って、
軽く喉を潤しました。
再びダンスの申し込みをしようとする
オーソンを断った妹の姿を見て、
安心したフェアファクス氏に、
ペンドルトン嬢は、今ダルトン氏は、
どの辺にいるのかと尋ねました。
フェアファクス氏は
イアンなら、少し遅れて到着する。
寄る所があるとか何とか
言っていたと答えました。
ペンドルトン嬢は、
彼が忙しそうだと指摘すると、
フェアファクス氏は、
手紙を書いたり、たまに外出したりして
過ごしている。
大学の友達に会っていると
答えました。
ペンドルトン嬢は、
それでは、その目的で
ロンドンに来たのかと尋ねました。
フェアファクス氏は、
「そうです」と答えました。
ペンドルトン嬢は、
やはり、
愛が目的ではなかったのですねと
呟きました。
フェアファクス氏は
ペンドルトン嬢の顔色を窺いながら
肯き、正直に言って、そうだと
答えました。
ペンドルトン嬢は、
自分の友達の中で
愛に関心のない紳士の心を
捕らえるお嬢さんがいたらいいなと
思うと言いました。
しかし、フェアファクス氏は、
イアンが愛に関心がないというのは
誤りだと否定しました。
ペンドルトン嬢は不思議そうに
フェアファクス氏を見ました。
彼は、
イアンが社交界に関心がないこと。
淑女に近づいて
ダンスを申し込むこと。
晩餐会に参加して
相手役を務めることを嫌がること。
いや、そういうことが
苦手だというのは確かだ。
しかし、愛に対して、
真剣な感情を抱いていることは明らか。
もし、あの男が、
独身でいる方がマシな人間だったら、
義姉の頼みがどうであれ、
自分は、
あの男に好きなようにさせていたと
話しました。
ペンドルトン嬢は、
愛に真剣だなんて、
ますます気になって来た。
それほど真剣な人が、
どうして自ら進んで
愛を求めないのかと尋ねました。
フェアファクス氏は、
運命を信じているからではないかと
答えました。
ペンドルトン嬢は驚いて
彼を見ましたが、彼は彼女を
見ていませんでした。
フェアファクス氏が
会場の入り口に足を踏み入れた
紳士を見るや否や、
ペンドルトン嬢に了解を求めた後、
走って行ってしまったからでした。
運命を信じる紳士がいるのだろうか?
ペンドルトン嬢は、
彼の後ろ姿を見ながら
首を傾げました。

フェアファクス氏は人混みをかきわけて
ようやく入り口にたどり着きました。
入り口には、
黒髪で、すらりと背が高く、
きちんとした姿勢の青年紳士が
立っていました。
相変わらず、イライラするほど
美しい顔でした。
彼の姻戚であり、
幼い頃から友情を育んで来た
イアン・ダルトンでした。
フェアファクス氏は、
一体どうして今頃、来たのか。
なかなか来ないので、
どれほど心配したことかと
イアン・ダルトンを責めました。
彼は、
ちょっと会う人ができたからと
適当に言い返すと、
会場の中をざっと見渡しました。
そして眉間にしわを寄せながら、
こんな市場の中へ
自分を引き入れようとして
子供まで心配させるなんて、
お前も本当に暇人だと非難しました。
しかし、フェアファクス氏は、
ダルトン氏に、
ロンドンまで来たのだから、
楽しんで行けばいい。
ロンドンの社交界は
イギリスの社交界の花だと
言い返しました。
ダルトン氏は
不機嫌そうな表情を浮かべながら、
首に巻いている
パリッとしたリネンのタイを
窮屈そうに引っ張りました。
ダルトン氏は、
ロンドンに夢中になっているお前には
申し訳ないけれど、自分は
あまり好きではないと言いました。
フェアファクス氏は、
その理由を尋ねました。
ダルトン氏は、
ヨークシャーの社交界だろうが
ロンドンの社交界だろうが、
どうせ大して違いはないだろう。
皆、揃いも揃って、
俗物か間抜けどもだろうと答えました。
フェアファクス氏は、
そんなことはない。
わざわざ人々が、社交シーズンに
ロンドンへ集まって来るのには
理由があるだろうし、
皆、はるかに洗練されているし、
淑女たちも皆、
教養と美貌を備えている。
もしかしたら、ここに、
お前の運命の相手が
いるかもしれないと告げました。
すると、ダルトン氏は、
まるで自分の姉が燕尾服を着て
立っているようだと言いました。
フェアファクス氏は、
自分は彼女の代理人だと言うと
ダルトン氏は、
自分が花嫁候補を探すように
鞭打つ代理人のことかと
言い返しました。
フェアファクス氏は
にやりと笑いました。
ダルトン氏は首を横に振ると、
自分はまだ30歳なのに、
なぜ、皆が大騒ぎするのか
さっぱり分からないと、ぼやきました。
フェアファクス氏は、
それは、お前の性格のせいだ。
このままでは、一生、領地で絵を描いて
おじいさんになってしまうと
言いました。
ダルトン氏は、
自分のことは自分でやるので、
どうか止めて欲しいと頼みましたが
フェアファクス氏は、
申し訳ないけれど、それはできない。
さあ、行こう。
淑女を一人紹介すると告げました。
ダルトン氏は手を振りながら
前に出て仲人役をしようとするな。
そうでなくても
頭が痛くて死にそうだと訴えると
フェアファクス氏は、
自分が紹介しようとしているのは
そのような相手ではない。
自分が仲人をするなんてあり得ない。
自分の友達を紹介するつもりだと
言いました。
ダルトン氏は、
淑女の友達がいるのかと尋ねました。
フェアファクス氏は、
ロンドンで一番思慮深くて、優しくて
知性がある淑女だと答えました。
ダルトン氏は、
もしかして教養と知性を
混同しているのではないかと
尋ねました。
フェアファクス氏は、
それがどう違うのかと尋ねると
ダルトン氏は
整っている顎を上げながら、
世の中に教養豊かな淑女は
溢れているけれど、その中で
知性を持った女性は一人もいないと
憎らしいほど高慢に答えました。
決めつけるような口調に
フェアファクス氏は驚きました。
彼は、ダルトン氏が
淑女に薄情過ぎると責めました。
しかし、ダルトン氏は、
薄情でも仕方がない。
自分はダンスが上手な淑女も、
フランス語が上手な淑女も、
ピアノが上手な淑女も
会ったことがあるけれど、
機知に富んだ淑女には
一度も会ったことがないと言いました。
フェアファクス氏は、
本当に気難しい奴だ。
その高い基準に合う淑女を見つけるのは
不可能だろうとぼやくと
ダルトン氏は、
少なくとも自分の言うことに
きちんと返事をする女性が
欲しいだけ。
そんなに大したことを
望んでいるわけでもないのに、
いくら世の中を見回しても
そんな女性は全然現れないと
言いました。
フェアファクス氏は、
それは、いつもお前が、
返答に困ることばかり
言うからではないか。
それに自分が見たところ、
お前は、そんなに世の中を
見て回ったこともない。
それで、どうやって縁を作れるのかと
非難しました。
ダルトン氏は、
まあ、時がくれば現れるだろうと
返事をしました。
フェアファクス氏は、
兄嫁のもどかしい気持ちに
十分共感しました。
彼は分かったと告げると、
お前に踊れとか、
淑女たちと個人的なことを話せとか
強要しないので、今日は
自分の友達にだけ挨拶するように。
知性だの機知だのというのは、
自分で評価しろと言いました。
ダルトン氏は、
文句を言った甲斐があった。
それでは、今日は挨拶だけして帰るので
後で文句を言うなと警告すると、
フェアファクス氏は、何も言わずに
友人の腕をつかんで
引っ張り始めました。
一方、遠くで、
話をしている二人を見守っていた
ペンドルトン嬢は、
フェアファクス氏が、
そばにいる紳士を引っ張って
近づいて来るのを確認するや否や、
ホールに散らばっている
自分の友人たちの位置を確認しました。
すでに皆、
先程から入り口に立っていた
イアン・ダルトン氏を意識して、
ダンスの申し込みを断り続け、
ペンドルトン嬢の顔色ばかり
窺っている状況でした。
社交界では、
紹介してくれる人なしに
見知らぬ人同士が話をすることは
暗黙の禁忌だったので、彼女たちは、
ペンドルトン嬢という接点以外に
イアン・ダルトン氏を
紹介してもらう方法が
なかったからでした。
ペンドルトン嬢は、
友人たちが今日のために
どれほど、
おしゃれをしてきたかを実感し、
彼女たちが、新しい若い紳士と
顔を合わすことができなければ、
言葉にできないほど
失望するだろうという思いに、
若干の責任感さえ覚えました。
やがて、ペンドルトン嬢の前に
フェアファクス氏と
彼の友人のダルトン氏が到着しました。
フェアファクス氏はペンドルトン嬢に
彼の姻戚であり友人である
ホワイトフィールドの
イアン・ダルトン氏を紹介し、
彼には、
メイフェアの
グロヴナー通りに住んでいる
アビゲイル・ペンドルトン伯爵夫人の
孫娘のローラを紹介しました。
ダルトン氏は頭を下げ、
ペンドルトン嬢は膝を少し曲げて
お辞儀をしました。
彼は顔を上げて
ペンドルトン嬢を見ました。
ペンドルトン嬢は、風の便りではなく
ようやく、実物の
イアン・ダルトン氏を見ました。
確かに、
ジャネット・フェアファクス嬢は
でたらめを言ったのでは
ありませんでした。
イアン・ダルトン氏は、
ペンドルトン嬢が見た青年の中で
最も美しい紳士でした。
いや、
美しいという言葉では足りない、
秀麗という表現がぴったりの
容貌でした。
髪の毛と瞳が印象的なほど黒く
まっすぐな鼻と顎のラインは
男性的でしたが、
繊細な顔の輪郭のおかげで、
荒々しさの代わりに
美麗な品格が感じられました。
燕尾服がよく似合う
高い背と広い肩を持っていましたが
体全体に筋肉が適度について
逞しさと
シャープさが感じられました。
ペンドルトン嬢は淡々と考えました。
この方はどんな淑女でも
自分の馬車に乗せて
領地に帰ることができるだろう。
望む相手が見つかれば。

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ようやくローラとイアンが
出会いました。
ロンドンで一番思慮深くて優しくて
知性がある淑女と
美男のイアンの恋が
どのように発展するか楽しみです。