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80話 オデットはテオドラから手紙を受け取りました。
書斎のドアの向こうから
ノックの音が聞こえて来ました。
通話を一時中断したバスティアンは、
受話器の送話口を押さえたまま、
首を回しました。
机の端に置かれた時計は
11時ちょうどを指していました。
週末の午前のティータイム。
お茶を運んで来た執事が
入って来る時間でした。
バスティアンは
「入って」と短い返事をすると
受話器を持ち直しました。
そして、電話の相手に
「申し訳ありません。
話を続けましょう」と了解を求めた
バスティアンは、再び机の端に
もたれかかりました。
窓と海、
そしてその向こうにある父の世界を
一望できる位置でした。
静かにドアが開く気配を感じましたが
バスティアンは
振り返りませんでした。
受話器の向こうから聞こえてくる
トーマス・ミラーの報告に
耳を傾けている間に、
太陽を覆っていた雲が晴れました。
海面いっぱいに輝く水の煌めきは、
目が痛くなる程、眩しいものでした。
バスティアンは、
その祝福のような光の中で、
長い間待っていた知らせを聞きました。
父が罠にかかった。
退屈な探り合いが続くかと
思っていましたが、一瞬にして
いきなり餌に食らいつきました。
あとは、逃げられないほど深く、
もう少し深く、
引きずりこむことだけでした。
残る変化要因は、
テオドラ・クラウヴィッツ
くらいでした。
しかし、彼女には、
夫を愛し過ぎているという
致命的な欠陥がありました。
夫の寵愛を失うよりは、
むしろ不条理に耐え忍ぶ女であり、
おかげで父親は、長年に渡って
愚かな独裁者として
君臨し続けることができました。
バスティアンが、
非常に感謝している姿でした。
まだ、もう少し様子を見ようと
告げると、
バスティアンはゆったりとした動作で
書類のファイルの横に置かれている
タバコの箱の蓋を開けました。
後戻りができない地点へ来るまでは、
勝利感に
酔いしれるようにしておくのが
良いと思ったからでした。
結局は、自分が成し遂げたという、
つまらない英雄の心理から来る
虚勢のようなものでしたが。
ジェフ・クラウヴィッツは
一生それを追い求めて
生きてきたと言っても過言ではない
部類でした。
そのため、父の最後の行路に、
この程度の配慮をしてあげるのが、
息子としての道理でした。
自分たちは、次の準備をしながら
待っていればいいと思うという
指示を出すバスティアンの声は
淡々としていました。
たかが鉱山一つくらいで
崩れるはずがないことは
よく分かっていました。
彼らが用意したのは、
ドミノゲームのようなもので、
鉱山は、その起点となる牌でした。
これを成功裡に倒せば、
次から次へと罠が、連続的に
作用するようにしているのが
この計画の礎でした。
今回の件を成功させれば、
祖父が残した課業を
無事に全うすることができたも
同然でした。
通常より長くなった通話は、
来週中に開かれる理事会の日程を
調整することで終わりました。
受話器を置いたバスティアンは、
指の間に挟んでいたタバコを咥えて
振り返りました。
そして、ライターを探していた時
思いもよらない顔に向き合いました。
オデットでした。
机の端に盆を置いたオデットが
静物のように静かに佇んでいました。
オデットは、
ロビスの代わりに来たと告げると、
穏やかな笑みを浮かべながら
ティーポットを持ち上げました。
湯気とともに立ち上った茶の香りが
静寂の中に染み込みました。
広げられた書類の横に
再び最初の場所に戻りました。
窓から降り注ぐ真昼の日差しが、
慎ましやかに立っている女を
照らしました。
もしかして自分は
失礼なことをしたのかと、
オデットは、首を小さく傾げながら
慎重に尋ねました。
眩しい光が宿った瞳が、
晴れた日の海のように輝いていました。
バスティアンは机の前に座って
代わりに答えました。
結局、
火を点けることができなかったタバコと
ライターは、ペンレストの横に
置かれたままでした。

紙の上を動かしていた
ペン先の音まで止むと、
息詰まる沈黙が訪れました。
オデットは、
静かなため息をつきながら
書斎を見渡しました。
壁面を埋め尽くしている豪華な本棚には
かなりの量の蔵書が
収められていました。
同様に、家具や調度品も、
威圧的なほど大きく華やかで、
どこに視線を向けても
気後れする気持ちを消すのが
困難でした。
立ち上がりたい衝動を抑えた
オデットは、
一ページもまともに読めなかった本を
再び開きました。
その瞬間も、五感は
バスティアンにだけ集中していました。
重厚なマホガニーの机は、
暖炉の前にある応接スペースと
向かい合う所に置かれていました。
そのおかげで、
バスティアンの様子が
窺いやすかったけれど、
言い換えれば、バスティアンも、
オデットの一挙手一投足を
確認できる位置でした。
バスティアンが確保した
投資家のリストと、
ダイヤモンド鉱山に関する書類。
テオドラの要求事項は
かなり具体的で明確でした。
期限は海軍祭の開始前まで。
バスティアンのスケジュールや
仕事の進捗状況のような
簡単な伝達事項は
モリーを通して伝えれば良いけれど
重要な書類は
直接受け取ると言っていました。
あまりにも時間がなさすぎるという
オデットの抗議は黙殺されました。
きっと、あなたに
大きな損害を与えることになる。
オデットは、
罪悪感がにじみ出る目で
バスティアンを見つめました。
検討を終えた書類を下ろした彼は
その下にある次の書類を広げました。
同じ空間にいる招かれざる客の存在は
きれいに消したように、
ただ業務にだけ集中している姿でした。
オデットが今まで見てきた
バスティアンは、
とても忙しく生きている男でした。
平日は海軍省の仕事をし、
仕事帰りと週末は、
母方の祖父から譲り受けた会社の仕事で
忙しくしていました。
二つの歯車が隙間なく嚙み合って
回っているような人生でした。
おそらく、
実家との利権争いのせいでした。
オデットは事業について知らないけれど
それでも自分をスパイとして使って
テオドラ・クラウヴィッツが
得ようとするものが何なのかは
ぼんやりと、
見当をつけることができました。
おそらくバスティアンは
貴族の家門出身の妻を得るために
本妻を捨て、
息子にまで背を向けた父親に
復讐をしたがっているようでした。
十分、憎むに値する相手でした。
もしかしたら、自分がすることは、
その復讐に支障をきたすことになるかも
しれませんでした。
オデットは、心が揺れ始めると、
目をギュッと閉じました。
スカートの裾を握った手の震えが
止まるまで、
深呼吸を数回繰り返す時間が
必要でした。
ティラを守るためには
必ずやり遂げなければならない。
固く決意したオデットは
ゆっくりとバスティアンを見ました。
タバコに火を点けたばかりの
バスティアンの視線も
オデットに向かいました。
お互いをじっと見つめる二人の目の間に
タバコの煙が
ゆっくりと立ち上りました。
オデットは、ニッコリ微笑むことで
ぎこちない状況を免れました。
タバコの灰を払い落とした
バスティアンは、
何の返事もすることなく
視線を落としました。
しっかりして。
オデットは、
すでに何度も繰り返してきた呪文を
もう一度繰り返しました。
あの男のためにも、
ティラの件が明るみ出るのを
防がなければなりませんでした。
スキャンダルが起これば、
戦争の英雄の名声は、
致命傷を負うことになるだろうし
その事実を全く知らなかったら
愚か者として嘲弄されるだろうし
知っていながら
隠していたとしたら、
共犯扱いを免れないだろう。
運良く、ティラが
処罰を免れることができたとしても、
そのようなスキャンダルに巻き込まれて
台無しになった人生を取り戻すことは
できませんでした。
父親への復讐が未完に終わったとしても
バスティアンは依然として裕福だろう。
しかし、汚された名誉は
永遠に取り戻せないはずでした。
オデットは身分を克服するために
命をかけて出征して戦って来た男から
それを奪いたくありませんでした。
それよりはむしろ、
金銭的な打撃を受けた方が
マシなはずでした。
少なくとも、
それは回復可能な損害なので。
心を固めたオデットは、
ショールを留めているブローチを
そっと外しました。
バスティアンは、
検討を終えた書類の最後に、
署名をしているところでした。
オデットは適当な時機を見計らい
ソファーのクッションと
肘掛けの間の隙間に、
素早くブローチを押し込みました。
バスティアンと一緒にいる限り、
何も見つけ出すことができないので
一人で書斎に入ることができる
正当な口実が必要でした。
バスティアンが再び
ソファーの方に視線を向けたのは、
ブローチを無事に隠した後でした。
オデットは今回も
微笑みを盾にしました。
バスティアンは顎を斜めに支えながら
オデットを見つめました。
ただゆっくりタバコを吸うだけで、
彼は相変らず何も言いませんでした。
オデットはなす術もなく、その視線に
耐えなければなりませんでした。
もしかして怪しく見えたのだろうか?
胸が潰れるような不安が
襲って来た矢先に、
クンクンという子犬の鳴き声と
ドアを引っ掻く音が聞こえて来ました。
マルグレーテでした。
バスティアンは眉を顰めて
書斎のドアを見つめました。
もう行ってくれればいいのに、
マルグレーテは
さらに悲しそうに泣くので、
オデットは困りました。
そろそろ戻るべきだと
判断を下したオデットが
口を開こうとしたのと同時に、
バスティアンが
机の前から立ち上がりました。
大股で書斎を横切ってドアを開けると
驚いたマルグレーテが、ワンワンと
息が詰まりそうになるくらい
激しく吠えました。
オデットは、
急いでバスティアンに謝ると
すぐにマルグレーテを連れて
帰るつもりで立ち上がりました。
ところが、
子犬を見下ろしていたバスティアンは
まるで道を開けてくれるかのように
一歩後ろに下がりました。
全く予想外のことでした。
オデットの方をチラチラ見ていた
マルグレーテは、その隙を逃さず
書斎の中に駆け込んで来ました。
ようやくドアを閉めたバスティアンは
何事もなかったかのように
再び机の前に戻りました。
オデットは当惑して
マルグレーテを抱き締めました。
背筋を伸ばして座ったバスティアンは
もう一匹増えた招かれざる客は
もう気にしないことにしたように
再び書類に集中していました。
ようやく、
マルグレーテの興奮が収まると
オデットは
それは悪いことなので、やってはダメと
声を低くして諭しましたが
おとなしくしていたのも束の間、
すぐにまたマルグレーテは
嬉しそうに尻尾を振りました。
戦意を失ったオデットは、思わず
深いため息を漏らしました。
すると、
低い笑い声が聞こえて来ました
オデットは目を丸くして
バスティアンを見ました。
彼はニッコリ笑って
書類をめくっていました。
無表情だった顔が、
いっそう柔らかくなっていました。
好意的な態度といっても
無理はなさそうでした。
勇気を出してみることにしたオデットは
マルグレーテを胸に抱いて
立ち上がりました。
机に近づくほど
心臓の鼓動が速くなって行きました。
彼女は、
メグがあなたに謝りたいそうだと
告げました。
突然、顔を上げたバスティアンと
目が合ったオデットは、
マルグレーテはあなたのことが好きだと
慌てて怪しい言い訳をしました。
マルグレーテをチラッと見た
バスティアンは、
あなたの犬の考えは少し違うようだと
ひねくれた返答をしました。
オデットは、
恥かしいからだと返事をしました。
そして、後に引けなくなると、
むしろ、
もっと図々しくなることにした
オデットは、
淑女たちは普通、好きな紳士の前で
恥ずかしがるものだからと、
自分で考えても呆れるような
詭弁を垂れました。
その間に、グルルルルと
歯をむき出しにしたマルグレーテの
鳴き声が聞こえて来ました。
じっとその光景を見守っていた
バスティアンは、まもなくハハハと
爽やかな笑いを爆発させました。
ようやく、オデットは
一息つくことができました。
彼女はバスティアンに
もう一歩近づいてみました。
彼は警戒しませんでした。
机の上に広げられた
書類の文字が見えるほど
近づいてみました。
バスティアンは依然として
警戒していませんでした。
オデットは安堵の笑みを浮かべながら
唸るマルグレーテを撫でました。
予想より壁がはるかに低い男でした。
幸いなことでした。
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名誉を失うくらいなら
お金を失う方がマシ。
それは、オデットの考えであり
バスティアンの考えではありません。
彼は、父親を破滅させる日のために、
どれだけ、苦労してきたことか。
オデットは、それを知らないので、
そのように
考えてしまったのでしょうけれど。
きっとバスティアンは
内心、オデットがそばにいることを
喜んでいたのではないかと思います。
だから、
オデットに、もう少しいて欲しくて
マルグレーテを中に入れてくれた。
でも、オデットはバスティアンが
警戒していないのを
良かったと思っている。
後にオデットが書斎へ来た理由を
バスティアンが知ったら、
どれだけ傷ついて、怒ることか。
私は、
オデットが裏切ろうとすることを
どうしても許すことができません。
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