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81話 オデットはわざとブローチをバスティアンの書斎に置いて来ました。
あの子は自分たちの敵ではないと
言ったではないかと、
興奮したジェフ・クラウヴィッツの
笑い声が、
寝室いっぱいに響き渡りました。
読んでいた新聞を下ろしたテオドラは
優しい笑みを湛えた眼差しで
夫を見つめました。
開いたカーテンの隙間から
差し込んで来た日差しが、
まだベッドに横になっている彼を
照らしました。
白髪交じりになっても
相変わらず本当に素敵な男でした。
父親のような男に身を投じる子たちを
理解できるような気もしました。
この間、また愛人を変えたとのこと。
今回もやはりプラチナブランドの
華奢な美人でした。
一体何人目のソフィア・イリスなのか。
もう、その順番さえ、ぼんやりとしか
思い出せませんでした。
こんなことになると分かっていたら
命を奪わなかったのに。
夫を見るテオドラの瞳に
悔恨の光がよぎりました。
素直に離婚さえしてくれていれば
あの女に危害を加えなかったのに。
密かに元夫との関係を
続けていたとしても、
目をつぶってやれたはずでした。
気分は、あまり
良くなかっただろうけれど、
仕方がありませんでした。
たかが一緒に遊ぶ女一人も
手に入れられずに気を揉んでいる
自分の男を見守るくらいなら、
いくらかの苛立ちに耐えたほうが
マシでした。
あと少しだけ未練がましくなければ
お腹に子を宿したまま命を落とすという
悲劇的な運命は避けられたはずなのに。
テオドラは、
新たな憐憫をかけるかのように
短く舌打ちをしました。
もちろん、
若くて美しいまま死んだおかげで、
あれほど愛した男の心の奥深くに
不滅の神話として
残ることになりましたが。
ダイヤモンド鉱山の
購入計画を立てていた
ジェフ・クラウヴィッツは、
その件さえうまく終われば、
反撃ができそうだ。
今度は自分たちが、
バスティアンの足元に
地獄へ落ちる穴を掘ると
話題を変えました。
尻尾に点いた火を
消すことができるようになると、
そろそろ新しい野心が
芽生え始めて来たようでした。
テオドラは、
そうですね。良い機会なら、
当然利用すべきだと、
とりあえず夫に同調しました。
そして、その後、
最近、ブラントが、
増やしているようなので、
一度調べてみてもいいと思うと、
そっと本論を付け加えました。
ジェフ・クラウヴィッツを扱う
最も効率的な方法でした。
ジェフ・クラウヴィッツは
まさかブラント伯爵のことかと
尋ねました。
テオドラは
頷きながら夫の髪を撫でて、
そのブラントだと答えました。
名門貴族であり、
由緒ある金融名門家の当主と
古物商の孫だなんて。
信じられない組み合わせでしたが、
まさかオデットが
そんな嘘をつくはずは
ありませんでした。
オデットは、
バスティアンの肩越しに
直接、書類を見た。
その内容までは
まだ確認できなかったけれど、
名前は、はっきり覚えていると
言いました。
ジェフ・クラウヴィッツは、
完璧な勝利のためには
慎重になるのも悪くない。
あの忌まわしい複製品を
押し退けた場所に何を建てるか
よく考えておくようにと言いました。
テオドラは、
自分にくれるプレゼントかと
尋ねました。
ジェフ・クラウヴィッツは
女王に捧げる
戦利品くらいにしておくと答えました。
追い詰められたネズミのように
焦っていた様子が消えると、
彼は本来の姿を取り戻しました。
テオドラは、このように自信満々で
傲慢な魅力が際立つ瞬間の
ジェフ・クラウヴィッツを愛しました。
この男の若い頃そのままの息子を
ソフィア・イリスに
奪われたという事実が無念でしたが、
あの哀れで愛おしいフランツのために
深く考えませんでした。
彼女は、どうかオデットが、今日も
嬉しい知らせを伝えて来られるよう、
彼女が良い一日を過ごせるよう、
心から祈りました。
オデットは、美しくて賢くて、
かなり大胆なところまで、
見れば見るほど気に入りました。
フランツが気を揉むのも
無理はありませんでした。
あの子も死んでしまったら困る。
テオドラはしかめっ面で
窓の向こうの遠くを見つめました。
ソフィア・イリスのように
愚かな部類ではないので、
自ら災いを招くことはないけれど
ただ一つ、
オデットの夫が気になりました。
はたしてバスティアンは
自分を裏切った妻を
寛大に許すだろうか?
これがギャンブルなら、
テオドラは決して楽観論に
お金を賭けないはずでした。
自分に噛み付くと、
大事にしていた犬の頭も
一気に吹き飛ばした子でした。
わずか12歳の時にも、
そのように非情だったので、
戦場を駆け巡る軍人になった今は
なおさらでした。
もしかすると、オデットの最期は
ソフィアよりも悲惨なものに
なるかもしれませんでした。
それでも、
自分の息子に約束したプレゼントを
壊すようなことはしないで欲しい。
テオドラは、
再びオデットの幸運を祈って
ベッドを離れました。
バルコニーに出ると、
海風が体を包み込みました。
かなり肌寒い天気でしたが、
寒くはありませんでした。
後から付いて来て、背中を包んでくれた
夫の体温のおかげでした。
テオドラは、甘美な幸せの中で、
明るくなる朝を見ました。
もう死んだ女への執着なんて、
どうでも良いと思いました。
その女の代用品も
やはり大したものではないと、
見て見ぬふりをしました。
自分がこの男を手に入れた。
それを望み、ついに成し遂げた。
だから、テオドラ・クラウヴィッツは
勝者でした。
今後も、その事実は
変わらないはずでした。

マルグレーテは、
少なからず当惑した様子でした。
猛獣のように勇猛だった姿は、
跡形もなくなり、
不安そうに周りを見回しながら、
うんうんと唸るばかりでした。
オデットのそばでなければ、
大声を出す気になれないようでした。
バスティアンはそっと視線を落として
マルグレーテを見つめました。
朝食中だったオデットが
電話に出るためにしばらく席を外すと、
犬はバスティアンと
二人きりになりました。
ただそれだけなのに、
世の中が崩れたかのように
振る舞う姿に呆れて失笑しました。
あんなに大騒ぎして、
一体、何をどうしたというのか。
恐怖に怯えて震えている
マルグレーテの姿の上に、
ふとオデットの異母妹が
浮かび上がりました。
ティラ・ベラーも、あの犬のように
バスティアンを怖がっていました。
彼に危害を加えられるどころか、
むしろ大きな好意と配慮を
受けているという点も同じでした。
バスティアンは
悲しく鳴くマルグレーテを眺めながら
ゆっくりとコーヒーを飲みました。
オデットが淹れるコーヒーは
いつものように薄味でしたが、
今では慣れて何とか耐えられました。
インチキな占いと共にする朝食も、
ある日から、
オデットの後を追い始めた
あの犬もそうでした。
「メグ」
名前を呼ぶと、驚いた犬が
ビクッと体を震わせました。
毛が伸びると、最初よりは
見た目が一段と良くなりました。
その間に体が、もう少し
大きくなったような気もしました。
そうは言っても、相変わらず
一握りに過ぎませんでしたが。
テーブルの中央に置かれた籠から
卵を一つ取り出しました。
殻をむいている間に、
ドアの前を守っていたマルグレーテが
距離を縮めて来ました。
恐怖と好奇心が共存する瞳が
澄んでいました。
最初のオデットを思い出させる
目つきでした。
テオドラ・クラウヴィッツの犬だろうと
叔母は言いました。
この近くで、
このような品種の犬が住める場所は、
あの邸宅だけではないかと。
バスティアンは、
その見解に同意しました。
実際、テオドラ・クラウヴィッツは
人形のように
きれいな犬と猫を好んで育てました。
大抵は、何度か抱き締めて撫でた後、
メイドたちの手に委ねられましたが、
とにかく所有権は彼女にありました。
オデットが森で見つけた母犬は、
あの家から来た可能性が最も高く
叔母は、この家で継母の犬を飼うことを
理解できませんでした。
しかし、バスティアンは
この問題を気にしませんでした。
犬はただの犬。
しかも、あの犬は、この屋敷の領地で
生まれ育ったのだから、厳密に言えば、
継母の犬とは言えないのではないか。
たとえ所有権が、
あの女にあるとしても構わない。
彼が手に入れた以上、彼のものでした。
バスティアンは殻を剥いた卵を
半分に分けて、小皿に盛りました。
いつの間にかマルグレーテは
テーブルの下まで忍び寄っていました。
バスティアンは苦心の末、
卵の半分を自分の皿に盛りました。
その時、卵一個ぐらいは、
一口でぱくりと飲み込んでいた
野良犬のことが、
ふと思い浮かびました。
狼のように体が大きかったあの犬も
やはりあの森に住んでいました。
そして、あの森で死にました。
正確には彼が命を奪いました。
今では古びて色あせた記憶でした。
ナプキンで手を拭いたバスティアンは
卵の半分が入った皿を
椅子の横に置きました。
マルグレーテは躊躇していましたが、
まもなく、そこへやって来ました。
皿に顔を突っ込んで
あたふたと卵を平らげる姿は、
どこにも淑女らしい品格は
見当たりませんでした。
バスティアンはクスッと笑うと
すぐにきれいになった皿を
片付けました。
マルグレーテは、
再び寝室の奥へ逃げ込み、
再び歯を剥き出しにました。
口元に卵の黄身を
いっぱい付けたままでした。
その姿に、
少しだけしまったと思った瞬間に
ドアが開きました。
電話を終えて帰って来た
オデットでした。
嬉しくてたまらなくない子犬を
抱きしめたオデットは
目を丸くして、
これは、どうしたのかと尋ねました。
バスティアンは平然と
コーヒーを、もう一杯注ぎました。
世話をする使用人を全員退かせたので、
直接しなければならないことが
増えたけれど、
さほど、不便ではありませんでした。
マルグレーテを注意深く見ていた
オデットは、バスティアンに
もしかして、メグに食べ物を分けたのかと
慎重に尋ねました。
バスティアンは、
恥ずかしがり屋のお嬢さんに
聞いてみてと適当にごまかすと、
「何てことでしょう」と
囁いたオデットは、
再び胸に抱いた子犬の方へ
視線を向けました。
「マルグレーテ!」と叱るように
名前を呼ぶ声が
心地よい温もりの中に染み込みました。
バスティアンは、そっと視線を上げて
共犯者を見つめました。
どうも淑女になるには
間違っているようなオデットの犬は、
ピンク色の舌をぺろぺろさせながら、
卵の食べカスを舐めるのに
余念がありませんでした。

オデットは、
邸宅の玄関が近づいた頃になって
ようやく勇気を振り絞り、
あの日、書斎で、ブローチを
失くしてしまったようだと告げました。
目の前が、
真っ白になるような気がするほど
緊張しましたが、
うまく感情を隠しました。
後に続く使用人たちが聞けるように
声を高めることも忘れませんでした。
やがてオデットは
書斎へ行って探してみてもいいかと
本論を切り出すと、
バスティアンは眉間にしわを寄せながら
なぜ、それを自分に聞くのかと
尋ねました。
オデットは、
あなたの執務室なので、
むやみに出入りしてはいけないと思うと
何度も練習した言葉を
落ち着いて伝えました。
どうかお願いと
切実に願っている間に、二人は
車が待機中の玄関の階段の下に
到着しました。
「バスティアン」
焦ったオデットは思わず手を伸ばして
バスティアンの袖口を掴みました。
愚かなミスをしてしまったという
事実に気づいたのと同時に、
柔らかいため息が混じった笑い声が
聞こえて来ました。
バスティアンは
奥様の好きなようにしろ。
この家にあなたが入れない所はないと
驚くほど、爽やかな返事をしました。
オデットは明るい笑顔で
お礼を言うことで
戸惑いを隠しました。
人の目の多いところで頼むのが
効果的だろうという判断が
功を奏したようでした。
互いに深く愛し合う夫婦。
海軍祭が目前に迫った今、
いつにも増して、
その評判にふさわしい姿を
見せなければならない時でした。
「行ってらっしゃい」
オデットは、
このくらいで制服の袖を放しました。
バスティアンは返事の代わりに
オデットの頬に短くキスをしました。
親密過ぎる愛情表現に当惑しましたが、
オデットは、
すぐに理性を取り戻しました。
小さな目つき一つにも
徹底して計算する男でした。
周囲の耳と目を
徹底的に意識した行動と見るのが
妥当でした。
バスティアンは、
今日も自ら運転をして出勤しました。
その車が見えない所まで遠ざかると、
オデットは、
このくらいで踵を返ました。
玄関の前に並んでいた使用人たちも
その後を追いました。
オデットは、
ブローチを探さないといけないので
書斎に寄ると告げると
書斎のある二階の東側へ向かいました。
ドーラは、
自分が一度行ってみると
提案しましたが、オデットは
自分で探すと言って、
有難くない助けを与えようとした
メイド長を制止し、
急いで書斎に向かいました。
重いドアを開けて
再び閉める音の後に
鍵をかける音が続きました。
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マルグレーテを
食事の場に入れることを許容し、
オデットのいない間に、
卵まで分けてやるのは
バスティアンがオデットのことを
愛しているからだと思います。
彼女の頬にキスしたのも、
計算ずくではなく、本当に、
そうしたかったらかもしれません。
それなのに、オデットは
バスティアンを裏切るために
策を弄している。
ジェフ・クラウヴィッツを
手に入れるために、
平気で、その妻と子供を葬った
残酷なテオドラの
思い通りにならないでと
オデットに言いたいです。
彼女に裏切られたことを知った時の、
彼の気持ちを考えると、
とても心が痛みます。
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