![]()
86話 バスティアンはオデットを宝石店へ連れて行きました。
「もう帰りましょう」と、
すでにオデットは、何度も、
同じ答えだけを繰り返しました。
ネックレス、指輪。 イヤリング。
何を勧めても結果は同じでした。
取り憑かれたように
宝石店のショーウインドーを
眺めていた女らしくない反応でした。
「バスティアン」
催促するように名前を呼ぶ
オデットの声が細かく震えました。
周りを見回す焦った眼つきと
バスティアンのコートの
袖口をつかんでいる、
青白い指先も同じでした。
じっと、その姿を見つめていた
バスティアンは、意に介さず、
それでは、これはどうかと
次の宝石を指差しました。
もともと、プライドが高い女なので
体裁を繕おうとする気持ちは、
理解できないわけでは
ありませんでした。
考えてみれば、オデットは今まで、
契約の対価として与えられる報酬以外
どんな贅沢も
望んだことがありませんでした。
そして、それは、バスティアンが
引き下がらないことにした
理由でもありました。
彼は良い物をあげたいと思いました。
小切手帳への署名一行で果たす
義務とは違う何か。
この女性の喜び以外、何の目的もない
あの青いアヤメみたいなものを。
花瓶に活けたアヤメは、
数日間、寝室に飾られていました。
そしてオデットは、
よくその花を見つめていました。
時には、じっとそのそばに留まったり
花びらを撫でたりもしました。
とてもリラックスしているような顔で
静かな笑みを浮かべていました。
時間が経ち、花が枯れるまで
そんな日々が続きました。
もしかしたら、
贈り物の代価として享受した、
あの彼女の振る舞いを
取り戻したいのかもしれない。
バスティアンは、ふと考えました。
それなら、宝石は永遠に
枯れることはないので、
これに勝るものはないと思いました。
最後の宝石まで拒絶した時、
顔色を窺っていた店主が近づいて来て
一度着けてみるように。
目で見た時とは違うからと勧めました。
しかし、オデットは、
「いいえ、結構です、
自分たちはこれで・・・」と
断ろうとしましたが、バスティアンは
陳列された宝石を検討していた目を上げ
店主と向き合い、
彼のお勧めを聞くことで、
オデットの言葉を遮りました。
店主は、
どんな種類を希望しているかと
尋ねました。
バスティアンは、
いつでも身に着けられる
宝石がいいと思うと答えました。
店主は悩んだ末、
服装にこだわらずに身に着けるには
やはり指輪が一番適当だというと
テーブルの中央にある
指輪の箱を手に取りました。
それをバスティアンの前に置いた彼は
相次いで他の指輪も、
そこへ移して行きました。
その光景を見守るバスティアンの目が
徐々に細くなって行きました。
ダイヤモンドの指輪は
一様に美しかったけれど、
それ以上の感興を呼び起こすことは
できませんでした。
いくら集中しようと努力しても、
どうしても判断するのは困難でした。
女性の宝石を選ぶ眼識など
彼にはありませんでした。
その事実を受け入れることにした
バスティアンは、
直接ぶつかってみる道を選びました。
まずオデットの手首をつかみ
一番近い所に置かれた指輪を
手に取りました。
どうせオデットは、
拒絶の言葉しか知らないオウムのように
振る舞うだろうから、それ以上、
質問はしないことにしました。
手を引き抜こうとする
オデットの抵抗を簡単に制圧した
バスティアンは、
慎重に最初の指輪をはめました。
注意深く観察した後、それを外すと、
店主は、次の指輪を差し出しました。
1つ、また1つと、
バスティアンは同じ方法で
繰り返し指輪をはめ、鑑賞し、
再び外すことを繰り返しました。
諦めたオデットは、
じっと目を伏せたまま
手を差し伸べていました。
睫毛の影が落ちている目頭が
赤くなりました。
両頬の様子も、
さほど変わりませんでした。
バスティアンは
静かな笑みを浮かべながら、
最後の指輪をはめました。
四角形に細工した
青色のダイヤモンドの縁に
小さくて透明なダイヤモンドの欠片を
幾重にも重ねて
花びらの形に配置した指輪でした。
バスティアンは、長い間
その宝石を見つめていました。
濃い青のダイヤモンドの輝きが、
オデットの青白い肌と
調和していました。
満開の花の形を象ったという点も
気に入りました。
バスティアンは
最後の指輪を外さないことで
自分の決定を伝えました。
握っていたベルベットの箱を置いた
店主は、満面の笑みを浮かべながら
拍手を送りました。
店主は、
素晴らしい選択をした。
このような色のダイヤモンドは珍しい。
最高のグレードである上に
細工にも特別に力を入れた。
このような作品は、
帝国のどこにも見当たらないと
説明しました。
バスティアンは、
再びオデットの手に視線を落とすと
少し緩そうに見えると告げました。
途方もなく小さく見える指輪なのに、
オデットには大きく、
このまま、はめるのは、
どうしても無理そうでした。
店主は、
クラウヴィッツ夫人の指が細いからだ。
指輪はサイズに合わせて小さくすると
伝えました。
バスティアンは、今週末までに
受け取れるかと尋ねました。
店主は、
ああ、その頃には、ローザンに
出発しなければならないのですねと
言いました。
興奮した宝石商の顔が上気しました。
バスティアンは落ち着いて頷くことで
返事をしました。
店主は姿勢を正すと、
もちろん、そんな心配は無用だ。
帝国の英雄を祝う栄光の日に、
小さな役に立てれば、
この上ない光栄だと、
精一杯礼儀正しい挨拶をしました。
バスティアンは丁寧な黙礼で答え、
指輪をはめた冷たい手を
包み込みました。
懇願するように見つめるオデットに
与えられる答えは、それが全てでした。

アルデンは、まだ雨が降っていました。
なかなか眠れず、
寝返りを打っていたオデットは、
諦めのため息をつきながら
体を起こしました。
闇の向こうに見える置き時計は、
いつの間にか、
2時過ぎを指していました。
しとしと降る雨の音が、
夜明けの静寂をさらに深めていました。
ベッドヘッドにもたれかかって
座ったオデットは、
そっと視線を下げて
バスティアンを見つめました。
眠っている瞬間も
なかなか乱れない男でした。
まっすぐな姿勢と規則正しい寝息。
さらには布団の形までそうでした。
夜が明けたら、
テオドラ・クラウヴィッツに
会わなければなりませんでした。
オデットは再び任務を思い返しながら
クローゼットを見ました。
渡す書類を隠しておいた所でした。
ティラのことを考えてと
叱るように、
自分に言い聞かせました。
どうせ、もう戻る道はないと
諦めたように合理化してみました。
それでもオデットは
心を抑えきれず、頭を下げました。
暖炉の明かりで染まった
バスティアンの顔の上に、
とりわけ長かった今日一日の記憶が
通り過ぎて行きました。
バスティアンとサンドリンの関係は
依然として親密そうでした。
オデットは、
その事実が意味するところを
よく知っていました。
男の欲望に虚しい期待を抱いた
女の最期が、いかに悲惨であるかも。
母親の歓心を買うために
努力していた父親は、
この世で最も情熱的で優しい
恋人だったそうでした。
ティラの母親を
誘惑した時も同じでした。
もちろん、バスティアンの父親も
変わらなかったはずでした。
だから、あれは
毒杯のようなものでした。
オデットは揺れる心を引き締めるように
布団の縁を掴みました。
その時、
微動だにしなかったバスティアンが
突然、目を覚ましました。
オデットが、寝たふりをする暇もなく
起きたことでした。
突風が吹き抜ける音が
寝室の静寂を破りました。
その騒ぎの中でも、バスティアンは
ただじっと、
空中を凝視するだけでした。
オデットが何かおかしいと感じたのは
ようやく、まともに
息ができるようになった頃でした。
バスティアンの息遣いが
次第に乱れて行きました。
それとは対照的に、空っぽの瞳は、
沼のように深く静かでした。
まるで目を開けたまま、悪夢の中を
彷徨っているような姿でした。
オデットは慎重に
バスティアンを呼びました。
衝動的な選択でした。
何度か名前を呼んでも無駄だと悟ると
オデットは急いで
彼を揺さぶって起こし始めました。
空中を彷徨っていた
バスティアンの視線は、
しばらくしてオデットに届きました。
オデットは、
安堵のため息をつきましたが
奇襲的にバスティアンが、
手首をつかんだので、
うめき声を漏らしました。
怯えたオデットが
息を殺している間に、
バスティアンの瞳が、次第に
焦点を取り戻して行きました。
ため息をつくように
オデットの名前を囁く声が
聞こえて来たのは、
つかまれた手首の痛みに、これ以上
耐えられなくなった頃でした。
オデットを放したバスティアンは、
その手で、ゆっくりと
顔を撫で下ろしました。
上品でない悪口が混じった独り言の後に
深いため息が続きました。
急いでサイドテーブルへ
手を伸ばしたオデットの背後から、
明かりを点けるなと、
冷たい命令が聞こえて来ました。
オデットはビクッとして
バスティアンの方を向きました。
彼は再び天井を見つめながら横たわり
息を整えていました。
必死で震える胸を落ち着かせた
オデットは、できるだけ
バスティアンから遠く離れた所に
退きました。
彼が再びオデットを見たのは、
布団の中に隠れて
ズキズキする手首を握った後でした。
閉じていた目を、
そっと開けたバスティアンは、
眠っている時は触らないでと
低く囁きました。
極めて穏やかな声でしたが、
かえって無情に感じられました。
悔しくなったオデットは、
悪い夢を見ているようだったからと
弁解しましたが、バスティアンからは
何の返事もありませんでした。
ただ、じっと見つめているだけでしたが
しまいには、その視線までも
そらしてしまいました。
結局、オデットは
諦めたように謝りました。
バスティアンは依然として
沈黙を守るだけでした。
あの、みだりがましい行為と
いきなり押し付けられた
過分なプレゼントは、
一人だけの夢だったかのように
まるで冷たい壁が
築かれたかのようでした。
オデットは道に迷ったような混乱に
陥ったまま
バスティアンを見守りました。
全く心の中が読めない男でした。
一緒に過ごした時間が長くなるほど、
ますます、そう感じられました。
オデットは、最後にもう一度、
勇気を出して
「お休みなさい」と告げました。
「あなたも」という
バスティアンの短い返事からは
ぼんやりと笑っているような気配が
感じられました。
しかし、その微かな希望は
すぐに姿を消しました。
バスティアンは、
背を向けて横になりました。
同じベッドを使い始めて以来、
初めてのことでした。
一番近い所まで近づいたと思った日に、
バスティアンは、再び、
一番遠い所まで引き下がりました。
その距離を計るのを
ついに断念したオデットは、
体を小さく丸めて横になったまま
目を閉じました。
自分はこの男を知らない。
オデットが到達できる結論は
結局その1つだけでした。
このような不確実性に、
自分とティラの人生をかけることは
できませんでした。
甘い毒に酔って破滅する女に
なりたくない。
ようやく、うとうとし始めた瞬間に
浮かんだ最後の考えでした。

一晩中降った雨は、
夜が明ける頃に止みました。
雲が晴れた空から降り注ぐ朝日の中で
眠っていたテオドラは、
正午近くになって
ようやく目を覚ましました。
頭痛を癒すための酒を一杯、
グラスに注いだ瞬間、
寝室のドアを叩くノックの音が
聞こえて来ました。
「入って」と神経質に返事をした
テオドラは、グラスを握ったまま
ソファーにもたれて座りました。
オデットに大口をたたいたものの
実は、血がカラカラに
乾いていくような気分でした。
ジェフ・クラウヴィッツは、
すぐにでも、
そのダイヤモンド鉱山を
手に入れたがっていました。
今まで罠である確証を
見つけられなかったので、
問題はない、信じていいと
判断したようでした。
一応引き止めておきましたが、
いつまで
手綱を締め続けられるのか
確信できませんでした。
あの子はバスティアンの執務室に
無事に足を踏み入れただろうか?
息が詰まるような不安に
打ち勝つのが難しくなった頃、
小走りで近づいて来たナンシーが、
姪が持って来たメモを渡しました。
オデットが送って来たものでした。
それを確認したテオドラは、
まだ一口も飲んでいない酒を
置いたまま席を立ちました。
寝不足でやつれていた顔には、
いつの間にか
歓喜の笑みが漂っていました。
彼女は、
早く外出の準備をするよう
命令しました。
![]()
![]()
もしかして、ヘレネは
イザベル皇女のように、
婚約者がいながら、
ディセン公爵に恋したのかと
思ったこともありましたが、
やはり、彼がヘレネを
たぶらかしたのですね。
しかも、ティラの母親に
誘惑されたとか言いながら、
実は、自分が誘惑していた。
ヘレネは自分と同じ立場の
ティラの母親に同情して、
彼女を孤児院に送ることに
反対したのかもしれません。
お金と女性と酒にだらしがない上、
真面目に仕事をすることもなく、
楽して金儲けようとして失敗。
家族を養おうという気はさらさらなく
娘のお金まで奪おうとする
ろくでなし。
そのくせプライドだけは非常に高い。
そんな最低最悪の父親を見て来た
オデットは、男性に対して失望し
不信感を抱くのも
無理はないと思います。
実際のバスティアンは、
そのような男性ではないけれど、
執務室と宝石店での態度と、
寝室での態度が違い過ぎて、結局、
バスティアンも同じ男だと思い込み
彼を裏切ることへの最後の躊躇いも
消してしまったのではないかと
思います。
バスティアンは、
夢遊病になっていた時と同じ症状が
出たのでしょうか。
それをオデットに打ち明けられるほど、
2人の気持ちが通じ合っていないのが
残念です。
![]()