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88話 オデットとバスティアンは海軍祭へ出発しました。
将校の妻たちとのティータイムは、
窓の向こうの空が
赤く染まり始めた頃になって
終わりました。
めまいを伴う頭痛が
ひどくなっていましたが、
オデットは落ち着いて
自分の順番を待ちました。
この集まりでは、
夫の階級で妻の地位が決まり、
大尉の妻は、その階層の
中間あたりに位置していました。
早過ぎたり遅過ぎたりしないように。
常にその点を心に留めておけば、
適切な処世ができました。
もちろんバスティアンが
昇進式を終えたら、多少の調整が
必要になるだろうけれど。
やがてオデットの順番が来ると、
「改めておめでとうございます。
夫も、どれだけ喜んでいるか
分からない」
「クラウヴィッツ大尉にも
自分たちの気持ちを伝えて欲しい。
いえ、
もう少佐と呼ぶべきだろうか?」
と、大げさな挨拶と
笑い声が続きました。
適切な礼儀を尽くして
応対したオデットは、
急ぐことなく食堂車を去りました。
後に続いた他の大尉の妻たちとは
次の車両の廊下で別れを告げました。
特等車に続くドアの前にたどり着くと
オデットは
一人になることができました。
スピードを上げて走る列車の騒音が
耳元に響きました。
オデットは客車と客車の間を結ぶ
通路の壁に寄りかかって
流れる風景を眺めました。
ちらほら見えた農家まで消えると、
広大な丘陵地帯が現れました。
短くなった秋の日差しは、
今や地平線の下に
徐々に沈みつつありました。
夕日が沈み終える頃、
「オデット?」と呼ぶ、
馴染みのない声が聞こえて来ました。
オデットは警戒心のこもった目で
通路の向こう側のドアを見ました。
何回か瞬きをした後に、ようやく、
そこに立っている男の顔を
見分けられました。
フランツ・クラウヴィッツでした。
足早に近づいて来たフランツは
オデットの前に立ちはだかり、
顔色が悪いけれど大丈夫かと
尋ねました。
オデットは、
事務的な笑みを浮かべて肯き、
心配してもらうようなことではないと
答えた後、先へ行こうとしました。
しかし、去ろうとするオデットの腕を
ひっつかんだフランツは、
「ちょっと待ってください」と
急いで叫びました。
眉を顰めたオデットは、
無礼だと抗議すると、力いっぱい
フランツの手を振り払いました。
しかし、彼は、
なかなか引き下がる気配を
見せませんでした。
再び手首を引っ張る手には、
先ほどよりも強い力が
込められていました。
フランツは、
オデットが大変そうだ。
バスティアンのせいか。
それとも母親のせいかと尋ねました。
オデットは、
手を放してほしいと訴えました。
しかし、フランツは、
自分は母親とは違う。
あなたの味方になってやる。
だから信じてもいい。
自分が助けてやれる。
望むなら、明日すぐにでも
バスティアンと母親が
見つけられない所へ
逃げられるようにしてやると、
熱い息と共に、支離滅裂な言葉を
機関銃のように浴びせました。
この男も、やはり、あのことを
全て知っているのだろうか。
オデットは深い静けさを湛えた目で
フランツを見つめました。
すでに予想していたことだけれど
実際に現実に向き合うと、
心が限りなく冷たく沈む気がしました。
オデットは、
自分を助けたいのなら、
すぐに、この手を離すように。
自分がフランツ・クラウヴィッツに
望むのは、
それだけだと主張しました。
ひどくなった頭痛のせいで、
意識が朦朧として来ましたが、
オデットは首をまっすぐにして
フランツを直視しました。
その厳しい目つきのどこにも、
ここ数日間の煩悶と混乱の跡は
残っていませんでした。
幸いにもフランツは
その辺で引き下がりました。
オデットは、その隙を逃さずに
歩き出しました。
急いで次の車両につながる
ドアを開けると「あっ」と
驚きの悲鳴が沸き起こりました。
婚約者を探しに来た
エラ・フォン・クラインでした。
エラは、オデットが
このように無礼にドアを開けたことを
非難しました。
オデットは、
社交的な笑みを浮かべて謝ると、
落ち着いて、
エラの横を通り過ぎました。
背中に刺さるような鋭い視線が
感じられましたが、
振り返りませんでした。
客室に戻ったオデットは、
倒れるようにソファに座り込んで
息を切らしました。
手袋を外した手で触った額は、
冷や汗で湿っていました。
なぜ、彼らがここに現れたのか。
テオドラ・クラウヴィッツの意図を
推測しようと努めてみましたが、
結局、オデットは
結論を出すことができませんでした。
すでに終わった取引でした。
オデットは彼らが望むものを渡し、
彼らはオデットの秘密を
葬ることにしました。
信頼し難い相手ではあるけれど、
こんな形で約束を破るはずは
ありませんでした。
もしバスティアンが出征する前に
スキャンダルが持ち上がったら、
この取引を暴露するという条件を
付け加えておいたからでした。
もちろん、
テオドラ・クラウヴィッツは
鼻で笑いましたが、
オデットが持っている証拠を見せると
目つきが変わりました。
ラナー街12番地にある
古い楽譜店から出て来る
テオドラ・クラウヴィッツの姿が
写った写真でした。
もちろん、
ショーウィンドウの向こうに立つ
オデットも含まれていました。
私立探偵が、依頼内容を完璧に
遂行してくれたおかげでした。
望むならプレゼントする。
どうぜ、複写だからと言って
オデットが写真を差し出すと、
テオドラ・クラウヴィッツの顔が
真っ赤に染まりました。
私立探偵を雇ったことまでは
突き止めたけれど、
パルマー婦人について、
詳しく調べる以上の任務を
任せたことまでは、
予想できなかったようでした。
だから、まさか、
スキャンダルを起こす目的で
祭りに参加するはずが
ありませんでした。
少なくとも、あの証拠を
無力化する方法を講じるまでは
身を守るだろうから。
必死に不安感を抑えつけたオデットは、
ソファの奥深くに
疲れた体をもたせかけました。
最後の書類まで渡した日以来、
まともに眠れませんでした。
すでに賽が投げられたことを
よく分かっているのに、
バスティアンがそばにいると
心をコントロールするのが
困難でした。
どうか時間が早く過ぎるようにと
オデットは、
再び切実に祈りながら
目を閉じました。
早く年を取りたいと思いました。
その資格がないことは
分かっているけれど、オデットは
これまで以上に
切実にそれを望みました。

バスティアンは
客室の入り口に立ち止まり、
ソファーを見つめました。
次第に闇が深まって行きましたが
明かりは点けませんでした。
バスティアンは、
窓から差し込む月明かりを頼りに
時間を確認すると、静かな足取りで
ソファーへ近づきました。
オデットは、ひどく疲れた様子で
眠っていました。
これまでの無理が祟ったようでした。
バスティアンは、
まずオデットのそばに座りました。
ベッドに移して、
楽に眠れるようにしてやる方が
良さそうでしたが、
すぐに考えを変えました。
オデットは、とても睡眠が浅く、
手助けしようとすれば、かえって
深い眠りを妨げてしまうだろう。
バスティアンが、
しばらく、このままにしておこうと
結論を下した瞬間、
ガタゴト揺れる汽車の振動で
オデットの首が、がくんと落ちました。
今や、列車は川の上に架かる鉄橋に
入りました。
空高く浮かんだ月と
その月を照らす川が、
濃密だった闇を薄めました。
傾いたオデットの頭が触れた
バスティアンの肩の上にも
明るい秋の夜の月明かりが
降り注ぎました。
バスティアンは慎重な手つきで
オデットの姿勢を直してやりました。
楽に寄りかかって休んで欲しいと
思いました。
この穏やかな時間を、もう少し長く
続けられるように。
川を渡った列車は
再び暗い野原を走り始めました。
窓の向こうの風景を見つめていた
バスティアンは、
諦めのため息をつきながら
視線を落としました。
眠っているオデットを見ていると
静かな水の下に
沈んでいるような気がしました。
静かで平穏でした。
このように流れていく人生も
それほど悪くないと思いました。
バスティアンは、
もう淡々とした気持ちで、その望みに
向き合うことができました。
一緒にいたい。毎晩と毎朝。
残っている人生のすべての日々に
この女がいて欲しいと願いました。
一緒に行こう。
狂ったふりをして
指輪をはめてやりながら告白したら
あなたは笑うだろうか。
バスティアンは疑問を湛えた目で
オデットを見つめました。
心がなくても、美しく微笑んでくれる
女だということは分かっていましたが
彼が望むのは、
そのような答えではありませんでした。
祭りの日が近づくにつれ、オデットは
まるで夫のことを気にする
妻にでもなったかのように、
かつてないほど、
緊張した様子を見せました。
しかし、オデットは一度も
プレゼントされた指輪を
気にしませんでした。
あの日のことは、記憶から
きれいに消し去ったかのように
無関心な態度でした。
届きそうで届かない女でした。
このように焦っているのは
そのせいかもしれない。
物思いに耽っていたバスティアンは、
制服のポケットの奥深くに入れておいた
小さなベルベットの箱を
取り出しました。
ゆっくり蓋を開けると、
冷たくて優雅な輝きを放つ
ダイヤモンドの指輪が
姿を現しました。
オデットに似ている宝石でした。
バスティアンはクスッと笑うと、
静かに閉じたベルベットの箱を
元の場所に戻しました。
この女と
新しいスタート地点に立つなら、
それは、この指輪をはめてあげる
瞬間であるべきでした。
だから今は違いました。
バスティアンは、最善が何なのか
まだ知りませんでしたが
少なくとも眠りから覚めた女の手に
いきなり指輪をはめるのが
情けないことだという程度は
認知していました。
もう一度、腕時計を確認した
バスティアンは、
静かにため息をつきながら
目を閉じました。
晩餐会は、とても長くて退屈で
疲れるだろうから、その前に、
この女のそばで、この女と一緒に
少し休みたいと思いました。

夢ではないということに気づいた
オデットの瞳から、
一瞬にして眠気が消えました。
危うく悲鳴を上げそうになった唇を
固く閉じたオデットは、
まずバスティアンの肩に
もたれかかっていた頭を上げました。
まだ眠っている彼を起こさないために
気をつけましたが、オデットは
微かなうめき声を上げながら、
再び頭を下げました。
バスティアンの肩章に
髪の毛が絡まっていました。
急いで引っ張ってみましたが、
状況だけが、
さらに悪化してしまいました。
低い笑い声が聞こえたのは
その時でした。
いつの間にか目を覚ました
バスティアンが、暗闇の中で
オデットを見つめていました。
あの夜のような苦境に
陥りたくなかったオデットは、
まず最初に謝りました。
バスティアンは眉を顰めて、
静かにオデットを凝視し続けました。
オデットは、
「だから、髪の毛が・・・」
と言い訳をしようとすると、
バスティアンは
「大丈夫だ」と返事をしました。
オデットが怯えている理由を理解した
バスティアンの顔の上に
虚脱感がよぎりました。
あの夜、数年ぶりに再び訪れた
病状に戸惑ったため、
あまりにも神経質に
振舞ってしまいました。
しばらくの間でしたが、
体と意識の覚醒状態が
ずれていました。
深刻な心配をするほどの
症状ではありませんでしたが
心配そうに見守っている
オデットに向き合うと、
神経が鋭く張り詰めました。
適当な釈明の言葉を
見つけられなかったバスティアンは、
自分がやると言って、
まず肩章に絡まった
オデットの髪の毛を
落ち着いて解きました。
チラッと見たオデットの顔には、
まだ完全に消えていない不安が
残っていました。
「もしも、オデット」と
衝動的に口を開いたのは
髪の毛がほとんど解けた頃でした。
バスティアンは
意図的に速度を落として
時間を稼ぎました。
「もしも夜、
あなたのそばで眠っていた自分が
どこかへ消えてしまったら」
バスティアンは、
限りなく柔らかい髪の毛を
指先に巻きつけたまま、
しばらく息を整えました。
弱点は、いつか必ず攻撃材料となる。
バスティアンは、その事実を
よく知っていました。
特にこの種の弱点は
致命的だということも。
それで徹底的に隠してきたし、
これまで、うまくやり遂げて来ました。
もちろん、これからも
そうするつもりでした。
しかし・・・
バスティアンは、
一層安らぎを取り戻した目を下げ、
自分を見つめている美しい瞳を
眺めました。
「その時は自分を探してくれないか」
最後の質問は、
長い間の躊躇いが顔負けするほど
淡々と流れ出ました。
やがて束縛から解放されたオデットは
首をまっすぐに伸ばして、
バスティアンに向き合いました。
「はい、そうします」
じっくり考え込んでいたオデットが
笑いました。
「私が探します」
彼女を照らす月光のように
美しい笑顔でした。
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オデットとバスティアンの結婚は
契約結婚なので、
バスティアンが跪いて
指輪を差し出しながら、
プロポーズをすることは
なかったと思います。
けれども、オデットへの気持ちを
自覚した今、バスティアンは
すでに結婚しているので、
プロポーズをすることはないけれど
オデットに似ている指輪を
差し出しながら、
オデットへの気持ちを伝えたいと
思っているのだと感じました。
それなのに、オデットは・・・
彼女の裏切りを知って、
バスティアンが傷つく姿を
見たくありません。
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