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89話 バスティアンはオデットと静かで穏やかな生活を送ることを望むようになりましたが・・・
ローザン行きの特急列車の
レストランは、まるで社交界の
縮図のようでした。
皇室の一員から、
著名なオペラ歌手に至るまで、
様々な人々が集まって、
賑やかな晩餐を楽しんでいましたが
海軍祭に参加するための
旅路であるだけに、
将校たちが主流を成していました。
中でも最も注目を集めているのは、
海軍省が、
今回の祭りの主人公として掲げた
北海艦隊の看板、
素晴らしい人柄だと、
ひねくれた褒め言葉が
長い静寂を破りました。
テオドラは、
海軍将校たちのテーブルから
クライン伯爵夫人へ
視線を移しました。
意地悪な目つきを見ただけで、
続く言葉を、
察知することができましたが、
テオドラは、
「どういうことですか?」と
聞き返すことで、
その見え透いた言葉に、
喜んで応じました。
クライン伯爵夫人は、
鉄道敷設権を奪われ、
苦戦を強いられていながらも、
義理の息子の出世を祝うために
乗り出すなんて、
本当にすごい母性だと答えると、
そうではないかと、
エラに同意を求めました。
慌てたエラは
母親の顔色を窺いましたが、
彼女は依然として、
意気揚々とした表情をしていました。
魂が抜けたような目つきで
オデットを見ているフランツに対する
不満を、このような形で、
伝えようとしているようでした。
ワインで唇を潤したテオドラは、
まず息子の足の甲を
そっと踏みました。
フランツは、
ようやく視線をそらしました。
その様子が滑稽ではあったものの、
あまり心配する必要はなさそうでした。
どうせ、ここに集まった全ての男が、
少なくとも一度は、バスティアンの妻を
チラッと見ているからでした。
テオドラは、
もったいない褒め言葉だ。
その件で、
大きな打撃を受けたのは事実だけれど
それでも、公私は
区別すべきではないか。
仲の良い家族ではないとしても
家族は家族なので、
最低限の筋は通すべきだろう。
いずれにせよ、
バスティアンは夫の子だし、
フランツと血を分けた
異母兄でもあるからと
もっともらしい反論で、
クライン伯爵夫人の口を塞ぎました。
バスティアンの名声は
日々高まっていくだろうし、
当分の間、その成功街道を
阻む術はありませんでした。
それなら、テオドラは、
むしろそれを利用するつもりでした。
英雄の弟は、フランツを
大いに輝かせてくれるに足る
後光だからでした。
さあ、皆さん。
海軍の誇りである
クラウヴィッツのために、
一緒に祝杯を
挙げていただけませんか?
パッと立ち上がったデメル提督が
声高に叫びました。
レストランに集まった乗客の視線は
一斉に海軍将校たちのテーブルに
集中しました。
気持ちよく同調する返事と歓声が
あちこちで沸き起こると、
デメル提督は豪快に笑いながら
力強い拍手をしました。
待機中のウェイターたちは、
その合図に合わせて、
祝杯の酒を配り始めました。
テオドラのテーブルにも、
すぐにシャンパンが置かれました。
クライン伯爵夫人は、
あと一回、戦功を立てれば、
王冠まで被せてやる勢いだと、
不満そうでありながらも、
素直に杯を掲げました。
古物商の孫に反感を持つ
他の貴族も同様でした。
愛想の良い酒飲みのように
振る舞っているけれど、
デメル提督は決して、
たやすい人物ではありませんでした。
海軍省の実力者であり、
皇帝の友人でもありました。
皇帝が彼を代理人にして
今回の海軍祭を
指揮しているということは、
社交界全体が知っている
公然の秘密でした。
一段と順調に進むことができました。
皇帝がそれを望んでいるからでした。
テオドラが杯を掲げると、
躊躇していたフランツも参加しました。
祝杯を挙げる準備を終えた列席者を
見渡したデメル提督は、
満足げな笑みを浮かべながら
バスティアンとオデットを
立たせました。
並んでいる2人の姿は、
全帝国を騒がせた特集記事に掲載された
写真のように美しいものでした。
帝国の栄光と勝利のために。
バスティアンは落ち着いて、
祝杯の挨拶をしました。
眼差しと表情、
妻と乾杯をする動作もまた、
抑えられていました。
テオドラは苦笑いしながら
杯を傾けました。
バスティアンは、
どうすれば主人公になれるか
知っている子でした。
それは努力で得られるものではなく、
一種の本能、
生まれつきの品位と威厳でした。
古物を拾いながら金儲けをしていた
卑しい身分の者の娘が
そんな息子を産んだ。
資格不十分というレッテルを貼って
バスティアンを追い出すために
努力した末にテオドラが得たのは、
これほど残忍な真実が全てでした。
子供は決して屈しませんでした。
限界まで追い詰めれば
それ以上に成長しました。
毒を養分にして
育つようなものでした。
テオドラは、ある瞬間、
そんな方法では、絶対に
屈服させられない子だということを
悟りました。
このままにしておけば、いつか
ソフィア・イリスの息子がフランツを
食いつぶしてしまうということも。
それでも、夫の愚かな意地に
賛同した目的は他の所にありました。
テオドラは、
あの子の心が壊れることを願いました。
それで、まともに暮らせなかったらと
思いました。
結局、それさえも
水泡に帰してしまいましたが。
英雄のための祝杯を手にすると、
前夜祭の雰囲気が
さらに盛り上がりました。
デメル提督が、あれほどまでに
盛り上がっているのを見ると、
将校たちの酒席は
夜が更けるまで続きそうでした。
デザートが配られる頃になると、
テオドラも、
もう未練を断ち切りました。
オデットが席を立ったのは
その頃でした。
テオドラは、
冷えていくカップを抱えたまま、
彼ら夫婦を見つめました。
デメル提督に了解を求めた
バスティアンは、
激しく遠慮するオデットを
とうとう先に送り返しました。
親しい夫婦の仲を誇示するための
演技かもしれませんでしたが、
テオドラの予感は違いました。
妻が去った場所を見ていた
バスティアンが身を屈めて
一輪の花を拾いました。
オデットの頭を飾っていた
アヤメでした。
バスティアンは、
じっと見つめていたその花を
燕尾服のジャケットの襟に
挿しました。
そして、淡々と、
何事もなかったかのように
平然とした顔で、
デメル提督の勧める酒を
受け取りました。
しばらく、ぼんやりしていた
テオドラの顔に、
胸いっぱいの喜びの笑みが
浮かび上がりました。
バスティアンは決して
観客のいない舞台に立つ
偉人ではありませんでした。
それならば、残った理由は
切実に願ったそれだけでした。
どうやらフランツが、
バスティアンに勝つ日が
来たようでした。

確信は思いがけない瞬間に
衝動的に訪れました。
バスティアンは、
再び満たされた
ブランデーグラスを前にして
葉巻を吸っているところでした。
向かい合った中年の大佐は、
すでに、かなり酔っていました。
「もう帰ろう」という
妻の小言にも屈することなく、
酔っぱらい特有の、
とりとめのない話を
並べ立てていました。
適当に応じていたバスティアンの目が
車窓に映った自分の顔の上で
止まりました。
しばらく視界を曇らせていた
葉巻の煙が散らばると、
ガラスに映っている姿が
さらに鮮明になりました。
ローザン行きの特急列車は
目的地に向かって走っていました。
深い闇に沈んだ丘と野原が
素早く通り過ぎて行きました。
数口も吸わないうちに
葉巻を消したバスティアンが
席から立ち上がったのは、
湖の銀色の波が
見え始めた頃でした。
汽車は明日の正午に
ローザン駅に到着する。
昇進式に遅れないためには、
駅から
直行しなければなりませんでした。
汽車から降りるその瞬間から
祭りの日程が始まるわけでした。
将校人生最高の名誉と栄光の日だと
皆は口を揃えて言いました。
バスティアンの考えも同じでした。
偶然と幸運、
政治的な意図と計算が
加えられた成果だからといって、
その意味が変わるわけでは
ありませんでした。
長い間、軍服を着て
提督の座に就いたとしても、
このような栄誉を再び享受することは
難しいはずでした。
それならバスティアンは
オデットと一緒に、
その場に立ちたいと思いました。
契約で結ばれた関係ではない
夫婦として、
長い歳月が流れた後にも、一緒に、
その日を思い出せるように。
そのためには、
この列車が止まる前に、
オデットの本当の夫に
ならなければなりませんでした。
そこまで考えが至ると、
踵を返す足が、
一段と軽くなりました。
窓の向こうを流れる風景の向きが
変わりました。
背後から名前を呼ぶ声が
聞こえて来ましたが、
バスティアンは
振り返りませんでした。
足早にレストランの通路を横切り、
次の車両につながるドアを
開けました。
オデットに近づくほど
バスティアンの足取りは
次第に速くなって行きました。
突然現れたフランツが
前を塞いだのは、
客室のある車両につながる通路に
入った時でした。
何気なく通り過ぎようとする
バスティアンの前を塞いだ
フランツは、
何をそんなに急いでいるのか。
また、
どんな詐欺を働くつもりなのかと
ひねくれた態度で質問しました。
バスティアンは「退け」と命令し
自分の肩を掴んでいる
フランツの手を振り払うと、
すぐに、次のドアへ歩み寄りました。
その時、
戦争の英雄として
崇められているお前が、裏では
偽のダイヤモンド鉱山を売る
詐欺師だということを
皇帝は知っているのかと、
悪に満ちた叫び声が
聞こえて来ました。
フランツは急いで追いかけた
バスティアンの前に
再び立ちはだかりました。
まるで、
父親と向かい合っているようで
鳥肌が立ちましたが、
必死で勇気を振り絞りました。
バスティアンは、
鉄道敷設権を奪われただけでは
足りず、鉱山詐欺にまで
遭ったのかと尋ねました。
じっと見下ろしていた
バスティアンの口元に、
ゆったりとした笑いが広がりました。
フランツは、
何も知らないふりをする
演技はやめろと抗議すると、
鼻で笑いながら
書類の束を手に取って見せました。
そして、
もう少しで騙されるところだった。
もっともらしく見せるために、
どれだけ手間をかけたことか。
その煌びやかな偽投資家名簿は
一体どうやって作ったのか。
古物を売った金でも握らせたのか。
それにしては、
あまりにも錚々たる名前だったと
言いました。
バスティアンは、
酔っているなら、
母親の胸に抱かれて眠れと
命令しました。
しかし、フランツは、
ラビエルとエヴァルトは、元々、
そういう関係だったとしても
ヘルハルトは少し意外だった。
あのプライドの高い貴族を
どのように買収したのか。
犬のように這いつくばって
足でも舐めたのか。
そういうことは得意ではないかと
馬鹿にすると、
存在しないダイヤモンド鉱山で
大きな利益を得たとされている
投資家のリストを
バスティアンに差し出しました。
オデットにもらった原本でした。
バスティアンは、
これといった表情の変化がない顔で
本来自分のものだった書類を
調べ始めました。
きっと頭の中が壊れているのだと
フランツは改めて確信しました。
そうとしか説明できない反応でした。
フランツは、
この際、軍服を脱いで
魔術師にでもなってみたらどうか。
裸の山を
ダイヤモンド鉱山に変身させる
能力を腐らせるのは
少しもったいない。
そうではないか、このろくでなしと
罵倒すると、
冷や汗が滲んだ手で握っていた
最後の書類まで
バスティアンの顔に向かって
投げつけました。
紙で切れた頬から
血が滲み出る瞬間にも、
バスティアンの目つきは
ただ無感情なままでした。
その威圧的な雰囲気に気圧された
フランツは、思わずたじろぎ、
後ずさりしました。
オデットがいなければ
耐えきれなかったはずでした。
オデットが
危険にさらされるのが嫌で
悩みましたが、結局、
この方法しかありませんでした。
捨てられてこそ、
自分が手に入れることが
できるからでした。
オデットが、
一抹の未練も持たないように
内心、バスティアンが
残酷になることを願う気持ちも
なくはありませんでした。
まさか皇帝の姪の命を
奪うことはできないだろう。
傷だらけになって捨てられたとしても
拾って面倒を見てやる。
慰めと安息、そして愛で。
そうすれば、いつかオデットも
心を開くようになるだろうと
フランツは確信していました。
自分たちは、
互いを認めざるを得ない関係なので。
窓の向こうの闇を
短く一瞥したバスティアンは、
ゆっくりと身を屈めて
足元に落ちている書類を
拾い上げました。
紙を一枚ずつめくっていくほど
目つきはさらに深く、
静かになって行きました。
フランツは、
女に狂って、スパイをしているのも
見抜けなかった馬鹿のくせに
全知全能の神にでもなったような
気分だったのだろうと
罵倒しました。
しかし、
最後のページまで確認した書類を
閉じたバスティアンは、
お前の母親はどこにいるのかと
淡々と尋ねました。
しばらくぼーっとしていた
フランツの顔が恥辱感で歪みました。
フランツは、
なぜ母親を探すのか。
これは、お前と自分の間の・・・
と言いかけたところで、
バスティアンは、
自分が捜し出すより、
自ら出て来た方がいいだろうと
言うと、
「クラウヴィッツ夫人!」と
突然声を張り上げて叫びました。
閉ざされた扉の後ろにいる
母親の存在を、
すでに知っているかのような
態度でした。
当惑したフランツは、
母親のいる場所を調べながら、
乾いた唾を飲み込みました。
幸いなことに、
しばらくして通路のドアが
開きました。
テオドラは、
とても優しい笑みを浮かべた顔で
バスティアンの前に立つと、
自分のスカートに包まれて
失恋の傷を癒したいのなら、
いくらでも、そうしてやるけれど
その前に、お前の奥さんに
会ってみるべきではないか。
お前に必要な答えをくれる人は
自分ではなくオデットだと
言いました。
その間に別の乗客が姿を現しました。
廊下を歩いてくる
貴婦人たちのお喋りと笑い声が
近づくほど、
2人の対峙を見守っている
フランツの心臓の鼓動も
大きくなって行きました。
「お母さん」
耐えかねたフランツが
血の気が引いた唇を開いたのと
ほぼ同時に、
涼しげな笑みを浮かべた
バスティアンが、
「またお会いしましょう」と
挨拶をしました。
テオドラもやはり、
「そうしましょう」と、
平然とした挨拶で答えました。
オデットが盗んだ書類を握った
バスティアンの手の甲の上に
関節と血管が、くっきりと
浮かび上がっていました。
これくらいなら、十分な成果でした。
バスティアンが通り過ぎる前に
テオドラは、
自分の子として生まれてくれば
良かったのにと、
切ない気持ちを込めて囁きました。
そうだったら、
世界を全部あげたのにという
舌の先に残った言葉は
飲み込むことにしました。
フランツに対して
筋が通っていないので。
通路のドアを閉める前、
テオドラは首を回して
客室のある車両に入る
バスティアンの後ろ姿を
見つめました。
盛大な前夜祭が開かれるような
夜でした。
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バスティアンの祖父である
カール・イリスは
事業を起こす才覚はあったけれど
お金がなかった。
そのお金を、
手っ取り早く手に入れる方法が
古物商だったのだと思います。
貴族たちが、
カールを馬鹿にしていることから
おそらく、彼は
貴族たちが捨てたものを拾って
平民に売っていたのではないかと
思います。
貴族たちから見れば、
卑しいことかもしれないけれど、
持たざる者が持つようになるための
リスクのない仕事だったのだと
思います。
それで集めたお金を事業に注ぎ込み、
その教えをバスティアンは
カールや、周りの人たちから学んだ。
テオドラは、
バスティアンを追い出したことで、
自ら敵を作ったようなものだと
思います。
夫の愚かな意地とは、
ダイヤモンド鉱山を
買おうとしたことでしょうか?
それがバスティアンの罠だと、
うすうす感づいていたテオドラは
オデットを裏切らせて
何をやっても潰れない
バスティアンの心を潰そうとした。
しかし、それも失敗だったと
残念に思っていた時に、
バスティアンが
オデットの髪に飾られていた花を
ジャケットの襟に挿した。
それが演技でないことに気づいたのは
ジェフがソフィアに似た女性を
愛人にすることと、
ある意味、共通している行動だと
思ったのではないかと感じました。
フランツがバスティアンに
書類を渡したのは
テオドラの差金?
そうでなくても、テオドラは
フランツがそうするだろうと
思って、
様子を窺っていたのではないかと
思いました。
母親が亡くなっているのを見ても
冷静だったバスティアンが
テオドラやフランツの前で
感情を露わにすることは
ないでしょうけれど、
手の甲に浮き上がった
関節と血管だけは、
どうにもできなかったのが
残念です。
オデットと本当の夫婦になると
決めた直後の、この仕打ち。
バスティアンが可哀想です。
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