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91話 バスティアンは愛する女性に裏切られました。
地平線から昇った太陽の光が
客室を彩りました。
窓を全て覆ったカーテンも、
晴れた朝の勢いを和らげることは
できませんでした。
バスティアンは、
ウィングチェアの背もたれに
深くもたれかかっていた体を
ゆっくりと起こして座りました。
テーブルの端に置かれた
タバコの箱を開けた瞬間も、
視線は依然として
向かい側のソファーの端に座った
オデットに向けられていました。
いつの間にか日差しは、
罪人のように頭を下げた
女の足元まで伸びていました。
生まれて初めて心を開いた恋人が、
一夜にして、憎むべき裏切り者に
転落したという、滑稽な事実を
思い返しながら、バスティアンは
タバコをくわえました。
組んでいた手だけを
じっと見下ろしていたオデットは
ようやく、
ゆっくりと頭を上げました。
死体のように青白い顔色が、
真っ赤に染まった目を
さらに際立たせていました。
ライターを擦る音が止まると、
再び、客室は、
息が詰まるような沈黙に陥りました。
バスティアンは、
ゆっくりとタバコを吸いながら
静かにオデットを見つめ続けました。
オデットができることは、
ただ黙々と、その視線に
耐えることが全てでした。
昨夜からずっと続いている罰でした。
ずっしりと重い悲しみに
喉が詰まりましたが、
オデットは泣きませんでした。
慈悲と許しを請うことが
できないことを、
すでによく分かっていました。
今、望むのはただ一つ。
どうかバスティアンが
皇帝との契約が成立するその日まで、
断罪を
先伸ばしにしてくれることだけでした。
そして、
ティラを守れる時間さえ稼げれば、
オデットは、どんな処分でも
甘受することができました。
だから、お願い。
必死に平静を保とうとしていた
オデットの眼差しが揺らぎ始めた瞬間
バスティアンが、
長く伸びたタバコの灰を
払い落としました。
その無情な動作に、
灰皿に山積みになっていた
吸い殻と灰が静かに崩れ落ちました。
深く吸い込んだ煙を吐き出した
バスティアンは、
もし、こんな風に、
バレていなかったらと、
低く囁きました。
喉を絞めつけながら
怒りを爆発させた後の第一声でした。
オデットは、
冷や汗が滲み出て湿った手で
ネグリジェの裾をねじって
握りました。
短くなったタバコを
握り直したバスティアンは、
再び煙をゆっくりと吸い込むと、
それなら、一体いつまで
自分を欺くつもりだったのかと
尋ねました。
オデットは虚ろな目を上げて、
バスティアンを見つめました。
おそらく、
これが最後のチャンスだと直感した
オデットは、なかなか
口を開くことができませんでした。
正解を見つけようと努力すればするほど
むしろ、混乱が
さらに深まっていくだけでした。
一つ確かなのは、どんな嘘でも、
これ以上、彼を欺くことは
できないということでした。
それなら、むしろ、正直になった方が
良いような気もしました。
実利を重んじる男なので、
皇帝との取引で得られる利益のためにも
この結婚を簡単に破棄することは
できないはずでした。
オデットは、
あなたが出征する時まで
隠しておけばいいと思っていたと
落ち着いて余罪を告げました。
言い表せない感情は
深く飲み込みました。
オデットは、
海外服務を終えて帰ってくれば、
自分たちの契約は終わるだろうから
この難関さえ乗り越えれば、
無事に離婚できるかもしれないと
思っていたと答えました。
「ああ、離婚」
無表情だったバスティアンの顔の上に
冷たい笑みが浮かびました。
裏ではスパイのような真似をして
人を騙し、
表では良い妻の役目を果たした
見返りを受け取り、
その後は、さっさと、
この結婚を終わらせて逃げる。
バスティアンは
大きく肯いて見せることで、
オデットの
もっともらしい計略に対する敬意を
示しました。
虚しくて愚かな熱望から抜け出すと
ようやく目の前にいる
女の実体が見えました。
骨の髄まで冷静で計算高い俗物。
高貴な青い血を前面に出してみても
その本質は卑劣で浅はかでした。
継母と変わらない女に目が眩んだ。
その事実がもたらした虚無が
乾いた笑いとなって流れ出ました。
振り返ってみると、オデットは
最初から今までそうでした。
名ばかりの貴族として、
底辺を転々としながらも、
分不相応な結婚相手を
欲しがった女でした。
自分の利益のために
偽りの演技を繰り広げるほど、
ずる賢くもありました。
そうして、結局は、
自らの人生を売る取引に応じた女の
くだらない自尊心と虚栄心を
貴族的な品位に、
下品な貪欲さを高貴な犠牲へと
飾り立ててやったのは彼でした。
自分だけの勘違いと妄想で作り上げた
虚像を愛しながら。
最も滑稽なのは、オデットが
嘘をつくための努力さえする必要が
なかったということでした。
すでに、
騙される準備ができていた馬鹿野郎の、
絶え間ない自己欺瞞があったので。
吸い殻になったタバコを捨てた
バスティアンは、
そのくらいで立ち上がりました。
窓の前に近付いてカーテンを開けると、
青白い秋の日差しが
目を刺して来ました。
愛している。一緒に行こう。
今は無駄となった告白を繰り返す
バスティアンの口元に
冷ややかな嘲笑が浮かびました。
取り返しのつかない過ちを犯す前に
現実を悟らせてくれた継母に
感謝しなければならないようでした。
かなり大きな代償を
払うことになったけれども。
ゆっくりと、
閉じていた目を開けたバスティアンは
落ち着いた手つきで
蝶ネクタイを解きました。
いつの間にか腕時計は
8時を指していました。
英雄になる準備を
始めなければならない時でした。

バスティアンは、いつもの朝のように
体を洗って、髭を剃って、
着替えました。
無駄のない機敏な動きと、
静かな表情のどこにも、
一睡もできなかった昨夜の痕跡は
残っていませんでした。
ポマードで整えた髪と、
礼式を整えた豪華な制服もそうでした。
オデットは、
まだソファーの端に座ったまま、
その光景を見ていました。
まるで奇妙な悪夢を見ているような
気分でした。
むしろ早く断罪してくれることを
願ったけれど、
行き場を失った言葉は、舌の先で
ただグルグル回っているだけでした。
ネグリジェを手にした
オデットの手が細かく震え始めた頃
「奥様、準備してください」と、
ようやく、
バスティアンが口を開きました。
勲章と徽章の形を整えた
バスティアンは、
ゆっくりと体を回して
オデットに向き合いました。
大きな目を瞬かせてばかりいる
女の上に、
眩い日差しが降り注いでいました。
バスティアンは、
オデットが罪の償いをすると
言っていたようだけれど、
違っているかと尋ねました。
彼の声は、
窓の外に広がり始めた
ローザンヌの海のように
平穏なだけでした。
何気なく眺めた太陽の光に
目が眩むように、オデットに
魅せられてしまったのは、
おそらく、あの古びたベールを
まくり上げた瞬間からだったようだと
バスティアンは思いました。
この女が欲しかった。
バスティアンは、
これ以上、煩悶することなく
真実を直視しました。
処世のためという、
立派な見せかけの名分を掲げたけれど
その根底にあったのは、
結局、安っぽい欲望でした。
たかが、それしきのことに目が眩み
強引な縁談に付き合ってやりました。
皇帝との取引を口実に
正気を失った結婚をし、
さらには人生を捧げようとするまで。
本当に、魔女に取り憑かれたような
日々でした。
じっとオデットを見つめていた
バスティアンは、短く失笑すると、
感情を抑えて、
静かに歩き出しました。
徐々に距離を縮めていくほど、
心が静かになって行きました。
最後の一歩まで近づいた頃には、
これまで以上に、冷静な理性を
取り戻すことができました。
あえてスパイの正体を明らかにした
テオドラ・クラウヴィッツの目的が
今になって、
分かったような気がしました。
彼女は、
皇帝が仕組んだ企みに、
しゃしゃり出るほど
愚かな女ではないので、
スキャンダルをぶちまける気は
最初からなかったはずでした。
それでも、あえて、
オデットを武器にしたのは、
自ら、この企みをダメにして
破滅するよう、
自分を動かすためだと見るのが
妥当でした。
見事に逆襲されました。
バスティアンは、
淡々と敗北を受け入れました。
長い間念入りに準備した計画を
他の誰でもない自分の過ちで
台無しにしてしまいました。
次に備えるためには、
再び長い時間と費用を費やす必要が
ありました。
今よりずっと難しい戦いになることは
明らかでした。
考えを整理し終えると
思わず笑いがこぼれました。
たかが、あなたなんかのために。
最後の一歩を縮めたバスティアンは
落ち着いた動作で
オデットの顎を掴みました。
相変わらず本当に美しい女性でした。
軽蔑と憎悪だけが残った瞬間でも
変わらない事実が、バスティアンを
さらに虚しくしました。
彼は、手にそっと力を入れながら、
おとなしく、
クラウヴィッツ夫人の役を演じろと
淡々と命令しました。
必ず皇帝との取引を成功させる。
バスティアンは、もう一度、
覚悟を決めるかのように
息を整えました。
オデットが与えた損害を
挽回するためには、
必ず皇帝と約束した結婚期間を
満たさなければなりませんでした。
その目的のためなら、
バスティアンはいくらでも
この女を我慢することができました。
どうせ、この祭りが終わったら
出征するので、
数日間の忍耐力を発揮する見返りとして
莫大な利益を得る機会を
拒むことはできませんでした。
その理由が、
この忌まわしい女のためなら
なおさらでした。
バスティアンは、オデットが、
監獄に行きたくなかったと
言っていたのではなかったか。
それならば、
そうしなければならない。
後で分かったことだけれど、
自分の父親の命を奪おうとした
犯罪者。 これなら
不倫より、良い離婚理由だと思う。
契約が終わって、
あなたを監獄に入れる日が来るまで
完璧なクラウヴィッツ夫人として
生きて行くように。
何も知らないふりをして騙すのは
上手ではないかと嘲ると、
オデットの顎を引き上げました。
彼女は、か細いうめき声を
上げました。
バスティアンは、
微動だにしない眼差しで
彼女を見つめました。
オデットは、
相変わらず泣きませんでした。
恐ろしさに震えながらも
屈することなく耐え抜きました。
憎悪と安堵感を
同時に呼び起こす姿でした。
バスティアンは、
これ以上、
無駄な考えはしない方がいい。
オデット嬢が完済できなかった
罪の代価は、
ティラ・ベラーが負うことになると
言いました。
オデットは、
あの子は、このこととは
何の関係もないと抗議しました。
空っぽだったオデットの瞳に、
初めて感情と呼べるものが
浮かび上がりました。
バスティアンは呆れて
思わず失笑してしまいました。
自分の弱点を
自ら進んで差し出すなんて。
このような女を高く評価した
自分の眼識が哀れなほどでした。
おかげさまで、もう少し簡単に
首輪を締めることが
できるようになりましたが。
オデットは、
ティラを巻き込まないで。
これは全て、自分のせいだと
懇願しました。
しかし、そっと眉を顰めた
バスティアンは頭を下げると、
黙れ、オデット。あなたは
自分の命令に従うだけでいい。
あなたが好きな、あの契約書に
確かに、そう明示されていたはずだと
告げると、手袋をはめた指先で
固まっているオデットの唇に触れ
この世で一番幸せな女のように笑えと
命令しました。
そして、
感情の残滓まで、きれいに消した
バスティアンの顔の上に
優雅な笑みが浮かびました。
彼はオデットに、
妹の人生を守るためにも、
頑張らなければならない。
そうではないかと聞きました。
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オデットは分不相応な結婚を
望んでいたわけではなく、
皇帝の命令だから、
皇帝から支給される年金が
打ち切られることを恐れて
バスティアンと結婚したのに、
下品な貪欲さと思われてしまったのは
可哀想だと思いました。
そして、バスティアンには
くだらない自尊心と評されましたが
底辺を転々とする生活をしていた
オデットは、
そんな自尊心でも持たなければ
生きていけなかったということを
バスティアンに理解してほしいです。
でも、愛する女性に裏切られた
ショックが大きすぎて、
今のバスティアンは、
オデットを卑しめ、そんな彼女を
愛してしまった自分が愚かだったと
考えることでしか、冷静さを
保つことができないのではないかと
思います。
灰皿の山積みのタバコの吸い殻と灰は
バスティアンの苦悩の深さを
表していると思います。
そんな中で、英雄になろうと
気持ちを切り替えられるのは
すごいです。
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