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92話 ローザン行きの特急列車が目的地に到着しました。
フランツは婚約者をエスコートして
列車から降りました。
ローザン中央駅のプラットホームは
海軍将校たちを見物するために
集まった人波で
ごった返していました。
最も高い人気を博していたのは
もちろん、今回の祝祭の
名実共に主人公である
警官の「退いてください!」という
雄叫びが、駅舎いっぱいに
響き渡りました。
道を空けるための努力の
真っ最中でしたが、
列車から降りた乗客は身動きもせず
プラットホームに立っていました。
フランツも、
例外ではありませんでした。
ただの将校に過ぎないのに、
皇太子の行啓と同じくらい騒がしいと
不満そうにぶつぶつ言いながらも、
エラは特等車の出入り口から
目を離すことができませんでした。
他の社交界の人々の態度も
大きく変わりませんでした。
フランツは、
余裕のある笑みを浮かべながら
バスティアンを待ちました。
今日だけは、心から彼を
歓迎することができるようでした。
見事に踏みにじられたプライドを
見ることができれば、いくらでも。
オデットの安危が
心配ではあったけれど、
捕虜のような人生に
終止符を打つためには
避けられない犠牲でした。
この際、全世界に
バスティアンの素顔を知らせれば
離婚がはるかに
容易になるはずでした。
「あそこを見て!
今、降りるみたい!」
客車の廊下を通る
バスティアンを見つけた見物人たちが
ざわめき始めました。
フランツは乾いた唾を飲み込み
頭を上げました。
激しく鼓動する心臓の音が
周囲の騒音を圧倒した瞬間、
クラウイッツ大尉夫妻が
姿を現しました。
親しげに腕を組んだ2人は、
満面の笑みを浮かべたまま
歓迎してくれている群衆に
向き合いました。
帽子を脱いだバスティアンが黙礼すると
悲鳴に近い歓声が沸き起こりました。
オデットは、
愛情と誇りが滲み出る眼差しで
そんな夫を見つめていました。
互いに
深く愛し合っている夫婦という評判に
完璧に合致する姿でした。
フランツが茫然としている間に、
カメラを持った記者たちが群がって来て
「こちらを見ていただけませんか!」
と叫びました。
自然に優しい笑みを浮かべた
バスティアンは、取材陣の要求通りに
体を向けました。
これ見よがしに、
妻の腰を抱きしめる身振りから、
誇示的な所有欲が滲み出ていました。
まさか、
裏切られたという事実を知りながら
葬ることにしたのか?
フランツは混乱した目で
母親を見ました。
じっと2人を見守っていた
テオドラの目つきからも、
隠しきれない当惑感が
滲み出ていました。
どうして、こんなことができるの?
フランツが乾いた唾を飲み込んだ途端
フラッシュが光りました。
その光の中でオデットは、
この上なく幸せな、
夫を愛する妻のように笑いました。

疑いの余地はなさそうでした。
ニコライ王子は
虚脱感が混じったため息で、
ここ数ヶ月間続いてきた疑念に
終止符を打ちました。
様子を窺っていた侍従は、
イザベル皇女の方もきちんとしている。
側近の話では、気を引き締めて、
花嫁修業に忠実に臨んでいるそうだと
皇女の消息を付け加えました。
ニコライ王子は軽く頷いて、
満足感を示しました。
その間に、
ベロップの使節団を乗せた車は、
いつのまにか、
皇帝の観閲艦が停泊している
軍港へと続く大通りに入りました。
両国の海軍旗を掲げた通りは、
祭りの熱気で盛り上がっていました。
祝福のように降り注ぐ花吹雪と
儀仗隊が演奏する軍歌、
それに熱狂的な歓声。
期待以上に盛大な規模の行事でした。
自国の勝利を記念する場に
ベロップの名前を並べた
ベルク皇帝の意図は明らかでした。
両国の軍事同盟締結のための餌だろうし
世間知らずの娘が犯した過ちに対する
謝罪の意味も含まれているのだろう。
ニコライ王子はにっこりと笑いながら
手に取った書類を見下ろしました。
クラウヴィッツ大尉夫妻の
初対面から結婚後までの来歴をまとめた
報告書でした。
婚約者の不貞を疑って、
人の恋愛史を探っているなんて
何というざまだ。
ニコライ王子は、
並々ならぬ自責の念に駆られましたが、
国同士の結婚に備えるためには
やむを得ないことでした。
ベルク皇室は、
分別のない皇女の逸脱程度として
そのスキャンダルを揉み消しましたが、
気軽に信じてやるには、
釈然としない部分が
たくさんありました。
幼い頃から恋心を募らせていた。
国同士の結婚を控えていても、
公然と愛情を示しただけでは足りず、
甚だしくは愛の逃避さえ企てた。
イザベルの情熱は、
知らないふりをして
目を瞑ることができる範疇を
はるかに超えていました。
ここまで来ると、ベルク皇室には
愛に目が眩むという欠陥が
受け継がれていると見ても
無理はなさそうでした。
もちろん、
それは杞憂に過ぎなかったと、
今では分かるようになりましたが。
イザベルの片思いに過ぎなかった。
使節団を率いて
ベルクを訪れる手間までかけた末に
得た結論は、虚しい限りでした。
調査によれば、
一貫して皇女に無関心でした。
古物商の孫なんかに
そんな冷遇を受けながらも、
心を止められなかったイザベルが
気の毒なほどでした。
皇女さえも嫌うほど生意気な男が
没落貴族の娘と
結婚をしたという事実は、
そのため、さらに怪しく見えました。
しかし、それもまた
過去の過ちに過ぎない。
ニコライ王子は、今やその選択を
理解することができました。
昨日開かれた特別昇進式で紹介された
くれた答えのおかげでした。
写真よりずっと美しい女性でした。
有名な美人たちを数多く見てきた彼も
しばらく彼女から
目を離すことができませんでした。
もしオデットが皇帝の娘だったら、
ベルクは素晴らしい結婚商売を
することができたはずでした。
そんな女が、
下賜品として与えられたのだから
断る理由がなかったのだろうと
思いました。
ニコライ王子は昨日の記憶を振り返り
報告書を見直しました。
一目惚れして結婚を敢行した男は
今でも妻を熱烈に愛していました。
分厚い書類は、結局、
その一行に要約されました。
彼が直接見聞きした末に下した結論も
同様でした。
レポートの最後のページには、
昨日の夕刊から切り取った
クラウヴィッツ夫妻の写真が
貼られていました。
幸せそうに笑っている妻と
そんな妻を愛おしそうに見つめる夫。
昇進式で目撃したのと
少しも変わらない様子でした。
廃棄するよう命令して、
役目を終えた報告書を
侍従に渡したニコライ王子は、
ゆったりと、
身だしなみを整えました。
卑賤な男に首ったけになった
イザベルの過去は
確かに大きな恥だけれど、
国家間の婚約を破棄するほどの
事案ではありませんでした。
いずれにせよ、
結婚で、
うまく収拾がついたではないか。
イザベルが、
いくら救いようのない
世間知らずだとしても、
まさか自分の従姉の夫に
未練を持つことはできないはずでした。
国同士の結婚は
予定通り行われるだろう。
頭を悩ませていた問題を片づけた
ニコライ王子は、
一層軽くなった足取りで
車から降りました。
皇女の婚約者を歓迎する歓声が
祭りを盛り上げてくれました。
ニコライ王子は、
適切に返事をすると、
儀仗隊の護衛を受けながら
観閲艦に乗船しました。
すでに到着していた貴賓たちは
一斉に席を立って
歓迎の拍手を送ることで
同盟国の使節団に対する礼儀を
尽くしました。
皇室一家に近い上座に
座っていました。
背が高くて、すらっとしていて、
姿勢がまっ直ぐなため、
すぐに目につく女性でした。
ニコライ王子は、そっと首を回して
オデットを見ました。
一夜にして青ざめてしまった顔が
まるで病人のようでした。
その突然の変化に当惑して
眉を顰めた刹那に、
彼女が視線を上げました。
ぼんやりとした顔をしていた
オデットは、しばらくして、
もっともらしい笑みを浮かべました。
焦点を取り戻した瞳も
昨日と変わりなく
澄んだ光を帯びていました。
短く目で挨拶をしたニコライ王子は
そのくらいで
オデットの横を通り過ぎました。
目が赤いような気もしましたが、
これ以上、関心を持つようなことでは
ありませんでした。
今日も眩しいほど美しい。
脳裏に残った記憶は、
ただそれだけでした。

バスティアンは、
手袋のボタンを留めることで
観艦式に臨む準備を終えました。
船室を出ると、
目を刺すような明るい日差しが
降り注ぎました。
羽のような雲が浮かぶ
高くて澄み切った空と青い海。
それに程よく涼しくて
気持ちの良い風まで。
丹念に準備してきた祭りを
さらに輝かせてくれる
縁起の良い天気でした。
海の上で行われる観艦式は、
今回の海軍祭の花でした。
この日のために、
ローザンに集結した帝国の軍艦は、
決められた順番に従って
皇帝の観閲艦の前を通る予定でした。
バスティアンは観艦式の先頭に立つ
1番戦艦に配属されました。
優れた成果を出しても、
頻繁に後回しにされて来た過去の恥を
洗い流してくれる栄誉でした。
「あっ!バスティアン!」
艦橋の階段を下りると、
聞き慣れた声が聞こえて来ました。
官舎生活について相談した
先輩将校でした。
嬉しそうに近づいてきた彼は、
間もなくビクッとして足を止めました。
その理由に気づいたバスティアンは
爽やかに笑うことで
彼の不安感を和らげ、
見ている人がいない時は
気楽に話してもいいと
告げました。
先輩将校は、
「でも、それは・・・」と
躊躇っていましたが、
バスティアンの制服に
新しく飾られた少佐の階級章を
チラッと見た彼は、すぐに
気の抜けたような笑みを浮かべ、
まあ、少佐の考えがそうであれば、
それに従うべきだと返事をし、
バスティアンにお礼を言いました。
バスティアンは
「どういたしまして」と謙遜すると
先輩将校は、
告白は成功したか。
一緒に行くのだろう?と尋ねました。
バスティアンは、
予定通り赴任することになったと
答えました。
先輩将校は驚き、
まさか一人で行くという意味かと
聞き返しました。
バスティアンは、
そのように決めたと、
平然と答えました。
ちょうど、その時、
一団の将校たちが近づいて来たので
彼らの会話は、そこで終わりました。
短い黙礼で礼儀を尽くした
バスティアンは、
躊躇うことなく踵を返しました。
敬礼をする新任将校たちの横を
通り過ぎると、甲板が現れました。
真昼になると、
さらに熱くなった日差しが
戦艦を照りつけていました。
バスティアンは、
甲板の手すりにもたれかかって
遠くの海を見ました。
海軍省前の噴水台に座って
自分を待っていた
オデットを見た日の記憶が
煌めく水面に浮び上がりました。
あの女との関係に、
契約以上の意味を与えるようになった
誤算の始まりは、もしかしたら
あの日からだったのかも
しれませんでした。
再び、あの季節を生きられるなら。
無意味な仮定をしてみた
バスティアンの口元に
自嘲が浮かびました。
すでに起こったことを
振り返って考えるのは無意味でした。
元に戻すことができないのなら、
今の最善を見つけるのが正しく、
そしてバスティアンは、
すでに、その方法を
よく知っていました。
これ以上、何も、
自分を揺るがすことは許さない。
改めて決意を固めた矢先に、
艦長の乗船を知らせる声が
聞こえて来ました。
三々五々集まって
雑談を交わしていた将校たちは、
一糸乱れず、
各自の席に移動しました。
バスティアンも、
割り当てられた席に
向かって行きました。
先導艦の船首。事実上、
海軍艦隊の最も上席といえる
位置でした。
戦功だけで得られる特権では
ありませんでした。
バスティアンは、
皇帝が使う犬になった代価として
与えられた席に立って
海に向き合いました。
雑念が消えた頭の中は、
ローザンの水の色のように
澄んでいました。
莫大な損害を被ったけれど、
それでも、
まだ得ることができる利益が
より大きく残っている取引でした。
この結婚を続ける理由は
それで十分でした。
艦長の乗船が終わると、
出航を知らせる汽笛の音が
長く鳴り響きました。
バスティアンは、
将校帽の影に隠れた目を上げて
水平線を見つめました。
海の神が祝福する、
完璧な祭りの日でした。
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オデットが皇帝の娘なら、
絶対に結婚すると、
ニコライ王子の心の声が
聞こえてきたような気がしました。
スキャンダルを起こした皇女でも
国のために結婚することにした
ニコライ王子は、
国の行く末をきちんと考えている
王子だと思います。
愛するオデットに裏切られた
バスティアンは、
言葉では言い表せないほど、
腹を立てているでしょうし、
傷ついているでしょうし、
彼女を恨んでいるけれど、
心のどこかに、離婚したくない、
彼女を手放したくないという気持ちが
あるように思います。
もちろん、
2年間は結婚生活を続けるという
皇帝の命令があるので、
今すぐ、離婚はしないけれど、
オデットと離婚しない理由を
あれこれと、
こじつけているように思えました。
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