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93話 海軍祭が始まります。
ローザンの観艦式は、
先導艦の出航と共に始まりました。
列を作って海を旋回した戦艦は、
軍港からそれ程遠くない海の上に
整列しました。
後に続く軍艦も、次々と、
その隊列に合流して行きました。
観艦式を見物するために
港に集まった群衆は、
熱狂的な歓声で、
帝国艦隊に対する敬意を表しました。
その熱気は、100隻余りの艦艇が
海を埋め尽くすまで続きました。
最後の軍艦が止まった頃には、
水平線まで
艦隊の隊列が続いていました。
オデットは細めた目を上げて、
先頭に立っている戦艦を見つめました。
この2日間が、
どのように過ぎて行ったのか
よく思い出せませんでした。
バスティアンから盗んだ書類を
返してもらった瞬間から、
時間と空間をまともに認知することが
難しくなりました。
まるで幻覚の中を
漂っているような日々の連続でした。
今日もとても美しいですねと言う
優しい声が、
ますます遠さかって行く意識の中に
染み込みました。
オデットはビクッとして
声のする方へ顔を向けました。
いつの間にか乗船した皇帝と皇后が
目の前に近づいていました。
皇太子夫妻と
バレリー皇女も一緒でした。
オデットの視線が向いていた
先導艦の方を見た皇帝は、
早く夫に会いたいようだ。
クラウヴィッツ夫人のためにも
出発を急がなければならないと
つまらない冗談を言いました。
甲板に集まっていた招待客は、
同調の笑みで
皇帝の機嫌を取りました。
しばらく眼差しが揺れましたが、
オデットは、
すぐに平常心を取り戻しました。
そっと微笑んで視線を落とすと、
周囲の笑い声がさらに高まりました。
恥ずかしがり屋の花嫁に見えるのに
十分な姿でした。
皇帝一家が着席すると、
閲兵艦の甲板を熱くしていた興奮が
収まりました。
オデットは、
皇太子夫妻の後ろに用意されている
自分の席に座って出航を待ちました。
頭痛と耳鳴りが
ひどくなっていましたが、
オデットは口元に湛えた笑みを
絶やしませんでした。
この世で一番幸せな女のように。
ただ、その命令だけ考えました。
ローザン行きの特急列車を
降りた瞬間から、
オデットを動かしてきた力でした。
それでも、ティラを守れる時間は
稼げるようになった。
バスティアンが施してくれた
最後の恩恵に、
オデットは心から感謝しました。
それは猶予期間中に与えられた
妻の義務を、
完璧に果たさなければならない
理由でもありました。
少なくとも、
最後の信義だけは守りたい。
何の役にも立たないことを
分かっているからこそ、
一層、切実な願いでした。
「あそこを見てください、オデット!
早く!」
興奮したデメル侯爵夫人の声が
ぼんやりと虚空を見つめていた
オデットをハッとさせました。
オデットは焦点がぼやけた目で、
彼女が指している海の向こうを
見つめました。
軍港を離れた皇帝の閲兵艦は、
いつの間にか
海の上に並んでいる海軍艦隊に
近づいていました。
その隊列の先頭に立つ
戦艦が打ち上げた礼砲が
観艦式の幕を開けました。
バスティアンが乗船している
まさにその船でした。
席を立った皇帝が壇上に上がると、
貴賓も相次いで起立しました。
オデットも、
急いで、それに加わりました。
めまいのせいで
体がふらふらしましたが、
幸いみんなの関心は
観艦式に集中していました。
辛うじてバランスを取ったオデットは
何事もなかったかのように
拍手の嵐に加わりました。
皇帝の閲兵艦と先導艦は、
今では、
ほぼ一直線上に並んでいました。
船上に立っている軍人の姿を
肉眼で見ることができる距離でした。
礼砲の発射が終わると、
軍楽隊が演奏する帝国の国歌が
鳴り響きました。
先導艦の軍人たちは、非現実的なほど
まっすぐで節度のある動作で
皇帝に敬礼しました。
艦隊を査閲する皇帝も、
それにふさわしい格式を備えた敬礼で
応えました。
オデットは赤く潤んだ目で
その光景を見ました。
バスティアンは船首の甲板に
立っていました。
同じ制服を着た
多くの将校が並んでいましたが、
オデットは一気に彼を見つけました。
それほど、
長い時間ではありませんでした。
皇帝の閲兵艦はスピードを落とさずに
先導艦をかすめて
通り過ぎて行きました。
その艦艇の
甲板の上に立っている軍人たちも、
すぐに一つの点になって
遠ざかって行きましたが、
バスティアンの記憶は、その後も長く
オデットの脳裏に留まっていました。
クラウヴィッツ少佐は、
海を照らす真昼の太陽のように
輝いてました。
一点の陰もなく、光り輝いていて
眩しい程でした。
花が咲いた水曜日の午後2時、
ラインフェルトホテルの
ラウンジで会った
縁談の相手のように。
もしかしたら。ひょっとしたら。
混乱した気分に囚われていた
日々の記憶を
オデットはもう消すことにしました。
皇帝との取引の手段として
結婚を選んだ男でした。
再婚相手を明記した契約書を
差し出しながら
2年契約の使用人を雇ったのでした。
もちろん、
優しかった瞬間もありましたが、
結局、欲望に端を発した、
一時的な気まぐれに過ぎませんでした。
バスティアンは一度も
最初の決定を覆したことは
なかったのだから。
馬鹿げた錯覚に陥らなくて済んで
良かったと、オデットは、
数日間、続いてきた苦悩に
終止符を打ちました。
残された日々が恐ろしかったけれど
後悔はありませんでした。
これが最善の選択だったので、
時間を戻しても、オデットの決定は
変わらないはずでした。
海上閲兵式は、午後遅くになって
ようやく幕を閉じました。
帝国の海軍力を
存分に誇示した皇帝は、
満面の笑みで
喜びを露わにしました。
皇帝の忠実な臣下を自任する者たちの
賛辞と力強い拍手が、祭りの雰囲気を
さらに盛り上げました。
さて、英雄の妻にも
拍手を送るのはどうですか?
貴賓席を見渡していた皇帝の視線が
突然オデットに向けられました。
皆の関心を
オデットに集中させる提案でした。
不満げな様子を見せたのも束の間。
閲兵艦の乗客は、先を争って
オデットのための拍手を
送り始めました。
突発的な状況でしたが、
オデットは動揺しませんでした。
まず丁寧な挨拶をした後に、
栄光の日を迎えた主人公に
ふさわしい笑顔を見せました。
謙虚だけれど、屈従的ではなく
英雄の妻らしい誇りを込めて。

日が暮れると、
軍港や海岸はもちろん、都心まで
祭りの灯りがローザンを照らしました。
街ごとに掲げられた万国旗と
色とりどりの灯りが
街全体を五色に彩っていました。
サンドリンは
甲板の手すりにもたれかかり、
その風景を見下ろしていました。
赤い口紅を塗った唇の間から
流れ出たタバコの煙が、
海から吹いてくる風に乗って
散らばって行きました。
「妻を赴任地に連れて行くという
噂が広まっているけれど、
どうなのでしょう?」
「ああ!ラナト伯爵夫人と
クラウヴィッツ少佐は
かなり親しい友達でしたね。
何か他に聞いてはいませんか?」
クラウヴィッツ少佐夫妻について
騒いでいた貴婦人たちの視線が
一斉にサンドリンに注がれました。
彼女は曖昧な笑みを浮かべながら
タバコの灰を落としました。
オデット、オデット、オデット。
どこへ行っても、
その名前が聞こえて来ました。
皇帝が主催した船上パーティーも
例外ではありませんでした。
サンドリンは、
向かいのデッキをチラッと見ると、
まだ何の知らせもなければ、
予定通りに進めるのではないか。
今になって決定を覆すのは
バスティアンらしくないからと
気のない返事をしました。
バスティアンはベロップの皇太子と
談笑中でした。
適当に頭を下げて
機嫌を取っている瞬間にも
余裕のある笑顔が印象的でした。
そっとサンドリンを
見守っていた婦人は、
そうではあるけれど、
まだ分からないではないか。
愛の前では、
全く違う男になれるかもしれないと
言うと、
妙な笑みを浮かべました。
視線を交わした他の一行の顔にも
すぐに同じ表情が浮かびました。
「確かに、
評判の愛妻家になるなんて
誰が知っていただろうか。
思いもよらないことが
起こったとしても、
驚くことではない。」
「それはそうだ。
実際、何一つ予想通りにいかない
夫婦だから。」
嘲弄混じりの反論が続く間に、
オデットが姿を現しました。
お世辞を言おうと血眼になった
下級将校の妻たちが、影のように
彼女の後を追っていました。
じっとオデットを見つめる
サンドリンの目つきが
細くなりました。
どうも様子が変。
ただ必死に現実を否定しているだけで
サンドリンも、
その事実をよく知っていました。
ある日から微妙に変わった
バスティアンの態度が
不安感をさらに増幅させました。
まさか、あの女を、
本当の妻にしようというのか。
一気に空にした
シャンパングラスを下ろす音が、
陽気な音楽と笑い声の間に
染み込みました。
サンドリンは、
周囲の視線など意に介さず、
オデットを見つめました。
ひどく疲れ果てたような顔色が、
彼女特有の冷ややかで優雅な雰囲気を
さらに際立たせていました。
可憐な美人。 本当に最悪の敵でした。
バスティアンの欲望を
理解できないわけでは
ありませんでした。
サンドリンはため息をつきながら
キセルを下ろしました。
どうせ、それは、ただの動物的な本能に
過ぎませんでした。
お互いに欲望を処理する相手がいるので
そんなことぐらいは
いくらでも目を瞑ることができました。
公式の場で披露する
優しい夫婦の姿もそうでした。
たかがそんなことで
揺らぐような男ではないと
信じていたからでした。
しかし、
今はよくわかりませんでした。
長い間悩んでいたサンドリンは、
一緒に過ごしていた群れから離れて
バスティアンに向かって
歩き始めました。
父親と一緒に会社を訪れた日、
彼は、出征する前に話があると
言いました。
重要なことなので、
海軍祭が終わった後に
もう一度会うことを要請し、
父親は承諾しました。
その時は、単に再婚に関する
話し合いだろうと思いました。
今回の海外服務を終えて
帰って来たら、
偽の結婚を整理する時期だから。
その前に、あらかじめ大まかな計画を
立てておくのだろうと。
しかし、もし別の話をしようと
思っていたのなら?
これ以上、
無視できなくなった現実に
向き合う決意を固めた刹那に
バスティアンが振り返りました。
近づいて来たサンドリンを発見しても
彼は驚いた様子を見せませんでした。
サンドリンはバスティアンに
お祝いの言葉を伝えると、
これからは、クラウヴィッツ少佐と
呼ばなければならないと言って
気兼ねなく手を差し出しました。
拒絶されるのを覚悟した
挑発でしたが、バスティアンは
快く握手に応じてくれました。
無情に線を引いた
あの日の夜とは全く違う態度でした。
バスティアンはサンドリンに
お礼を言いました。
サンドリンは、
「出征は来週だと言っていましたか?
祭りが終わったら、
すぐに出発しなければなりませんね。」
と言いました。
バスティアンは、
そのつもりだと答えました。
サンドリンは、
送別会を別途開くのは
難しい日程なので、
今日この場で2人に
別れの挨拶をしなければならないと
言うと、残念そうにため息をつき、
甲板の中央部へ視線を向けました。
夫の方へ近づいて来たオデットが
立ち止まっている場所でした。
皆、あなたが心変わりしたと
言っていた。
愛する妻を、
赴任地に連れて行くと聞いたけれど
本当かと尋ねました。
眉を顰めて笑ったバスティアンは、
間違った噂が流れているようだ。
変わったことはないと、
意外な返事をしました。
丸くなったサンドリンの瞳が
自然な喜びで輝き始めました。
サンドリンは、
オデットはここに残るという意味かと
尋ねました。
バスティアンは、
その通りだと答えました。
サンドリンは、
それでは、出征する前に
折り入って、自分と話したいと
言っていた件は、一体何なのかと
堪えきれなくなった質問を
投げかけました。
自尊心などは、もう重要ではなく
猛毒のような不安感を
鎮めることができれば、
サンドリンは、いくらでも
滑稽になることができました。
バスティアンは、
「ああ、あれ」と
大したことではないというように
肩をすくめると、
イリスとラビエルの協力関係について
話し合う時間が必要だと
思っただけだと答えました。
サンドリンは、
自分たちの約束を確認する場だと
考えてもいいかと尋ねました。
バスティアンは、
「そうですね」と曖昧な答えで
含みを持たせました。
捕まえられそうで捕まえられない
魅惑的な俗物。
サンドリンが愛してやまない
そのままの姿でした。
この男は少しも変わっていない。
最後の疑念まで消した
サンドリンの顔の上に、
胸いっぱいの喜びの笑みが
浮かびました。
サンドリンはバスティアンに、
幸運を祈る。大切な友達の帰還を
心待ちにしていると、
品位ある友情の挨拶を最後に
振り向きました。
オデットは相変らず
その場に立ち止まったまま
2人を見守っていました。
死体のように青白くなった顔が、
かなり見るのに値しました。
楽しい時間を過ごしてと言って
オデットの肩を撫でたサンドリンは
一段と軽くなった足取りで
甲板を横切って行きました。
夕焼けの残影まで消えた海は、
今や濃い青の闇に染まっていました。
灯りが美しい祭りの夜でした。
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バスティアンと初めて会った時、
オデットは、父親の掛け金として、
バスティアンに
回収されるところだったので、
ラインフェルトホテルで再会した
彼が、輝いて素敵だと思っても、
素直に、
それを認めたくなかったのかな?と
思いました。
バスティアンのことを好きでなければ
同じ制服を着た人が大勢いる中で、
すぐにバスティアンを見つけることは
できなかったのではないかと思います。
しかし、彼が優しかったのは、
欲望に端を発した気まぐれと
片づけることで、
自分の気持ちをごまかしているように
思いました。
軍関係の固有名詞。
間違えないように、
気をつけていますが、もしも、
変な言葉があったとしても
ご容赦ください。
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