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95話 海軍祭は無事に終わりました。
バスティアンは、
夜明け頃にアルデンを去りました。
海軍祭を成功裏に終えて帰って来てから
1週間後のことでした。
玄関ホールに並んだ使用人たちの表情は
一様に沈鬱でした。
昨夜から降り出した雨が、
邸宅の雰囲気を
一段と重くしていました。
淡々とした別れの挨拶を残した
バスティアンは、すぐに
待機中の車に乗り込みました。
険しい地に赴任するために
旅立つ軍人とは思えない様子でした。
ロビスは心配そうな眼差しで
その光景を見守りました。
バスティアンを乗せた車は、
すぐに進入路の向こう側に
消えて行きましたが、
誰も気軽に引き返すことが
できませんでした。
まだ女主人が、
その場に残っていたせいでした。
なぜ、こんな結末が訪れたのか?
ロビスは深い疑問を湛えた目で
オデットを見つめました。
ローザンから戻って来たバスティアンは
予定通り出国準備をするよう
命令を下しました。
変更事項についての言及は
ありませんでした。
屋敷を騒がせた賭けは、勝者なしで
幕を閉じることになりました。
皆を大きな衝撃と失望に陥れた
結末でした。
2人の間には、
確かに何の問題もなかった。
主人夫妻に随行した使用人全ての
共通した見解でした。
世間の評価も同じで、
帝国の有力メディアは、連日、
英雄と美人のキスで幕を閉じた
海軍祭のニュースを伝えました。
そんな2人の間の空気が
急変した理由について、彼には
全く見当がつきませんでした。
バスティアンは、アルデンに
2日も滞在しませんでした。
出征する前に
片づけておくべき会社の急務を
処理するために、ほとんどの時間を
ラッツで過ごしたためでした。
さらに、2人は、
同じベッドを使用しなくなりました。
出国を翌日に控えた昨夜も
各自の部屋で眠りにつきました。
長い別れを控えた夫婦というよりは、
礼儀正しい他人に近いように
見える姿でした。
ほとんどの使用人は、
奥様がトロサ行きを拒否したと
推測しました。
ここで享受している
安楽で豪華な人生を捨てて旅立つほど
夫を愛していないことは明らかだ。
俗物的なオデットを非難する声が
高まるほど、
失恋の傷を抱えて去ることになった
バスティアンへの憐憫も
大きくなって行きました。
今のところ、
それが最も妥当な推論であり、
ロビスの考えも同じでした。
寒さに震える使用人たちを見たロビスは
寒いので、
そろそろ中へ入りましょうと
慎重に口を開きました。
夫が去った道だけを
ひたすら眺めていたオデットは、
ようやく周囲に視線を向けました。
「ああ・・・はい」と返事をした
オデットの真っ白な顔の上に
微かに笑みが浮かびました。
オデットは使用人たちを労い、
もう各自の業務に戻るようにと
解散の指示を出すと、
邸宅に入りました。
顔色を窺っていた使用人たちも
彼女の後を追いました。
窓ガラスを叩く雨の音が、
寂寞としたホールを埋め尽くしていた。
静かに後を付いて来たドーラは、
オデットが体の具合が悪そうなので
声を低くして、
クラーモ先生を呼ぶことを
提案しました。
ふと見慣れない屋敷の風景を
ぼんやりと眺めていたオデットは
静かに首を横に振ると、
そんな必要はない。
少し疲れているだけなので、
休めばよくなると、適当な言い訳をして
ゆっくりと階段を上り始めました。
再び、頭痛と悪寒に襲われましたが、
耐え難いほどではありませんでした。
もう全て終わった。
今日に限って、特に長く感じられる
階段と廊下を通って
寝室の前にたどり着くと、
初めて、その事実を実感できました。
バスティアンが去った。
帰ってくる頃には、
皇帝との契約が成立しているはずなので
この結婚は、
今日で終わったも同然でした。
オデットは、水を吸った綿のように
重くなった体を引きずって
寝室に入りました。
ドアを閉める音が鳴り響くと、
言い表せない感情が
津波のように押し寄せて来ました。
過去をきれいに消し去った場所から
始まる新しい人生。
この結婚を選んだ理由だった切実な夢は
今や打ち砕かれました。
ただ猶予期間を得ただけで、
バスティアンが帰還すれば、
先送りしておいた罪の代価を
払うことになるはずでした。
その方式が、
決して穏やかではないという事実も
オデットはよく知っていました。
残されたのは、予定されている没落を
待つことだけでした。
それでもティラを守った。
オデットは最後に一つ残った
その誇りの力で
乱れた心を整えました。
良かったと、
足を踏み出す度に思いました。
良かった。本当に良かった。
呪文を唱えるように。
しかし、最後まで消せなかった
想念の重さに
押しつぶされたオデットは、
間もなく崩れ落ちてしまいました。
足がふらついて
視界がぼやけてきました。
再び意識を取り戻した時、
オデットは、床にべったりと
座り込んでいました。
立ち上がろうと努力してみましたが
無駄でした。
先週一週間ずっと続いてきた緊張感が
一瞬にして
緩んでしまったせいのようでした。
幽霊の泣き声のように
うら寂しい風の音が
寝室の静寂をかき乱しました。
オデットは、ぼんやりとした目を上げて
窓を見つめました。
裏通りの賭場での初めての出会いから
冷たいキスを最後に別れを告げた
今日に至るまで、
バスティアンと共にしてきた
日々の記憶が、
雨の降る海の上を通り過ぎました。
決して良い縁とは言えませんでしたが
それほど悪くはなかった日々でした。
今では全て
無駄なことになってしまったけれど。
オデットは唇を固く閉じたまま、
深呼吸を繰り返しました。
周りをうろうろしている
マルグレーテの存在に気づいたのは、
ようやく、
息ができるようになった頃でした。
オデットと目が合うと、
マルグレーテは、
せっせと尻尾を振りながら
ピョンピョン跳ね、再び戻って来ると
床についているオデットの手の甲を
舐めました。
物悲しそうにクンクン鳴く声が
まるで子供の泣き声のようでした。
絶対的な信頼が込められた
子犬の瞳に向き合うと、
つい苦笑いがこぼれました。
息が詰まりそうな気がしましたが
それでも、オデットは
この可哀想な子に
背を向けることができないということを
知っていました。
オデットは
「大丈夫、メグ」と声をかけると
不安に震えている子犬を
そっと抱きしめました。
そっと撫でてくれる優しい手の下で、
マルグレーテは次第に
落ち着きを取り戻して行きました。
オデットにも
慰めになってくれた時間でした。
マルグレーテが静かになると
窓ガラスを叩く雨音が
いっそう鮮明になりました。
オデットは一層謙虚になった気持ちで
目の前に置かれた現実を直視しました。
自ら選んだ結果でした。
そして、オデットには、
まだ残っている責務がありました。
ここで諦めたら、
これまでの全ての努力が
水の泡になるはずでした。
そのような終わりを
容認することはできないという
結論を下したオデットは、
落ち着いて、マルグレーテの涙を
拭ってやりました。
歪んだレースの襟とリボンの形も
きちんと整えました。
すぐに再び興奮したマルグレーテは
せっせと尻尾を振りながら
オデットの顔を舐めました。
色々な面で、
ティラに似ている子でした。
オデットは身だしなみを整えた
マルグレーテを胸に抱いて
立ち上がりました。
海を揺るがす暴風の勢いが
ますます強まっていました。
困難な航海が予想される天気でした。

出征式は簡素に行われました。
勢いを増している悪天候のせいでした。
バスティアンは
レインコートの襟を立てて
雨の中に入りました。
風に散った落ち葉で覆われた
赤い道を通ると、
輸送船が停泊している
海軍省の船着き場が現れました。
バスティアンを発見した
水兵と下級将校たちは
一斉に動作を止めて敬礼しました。
節度ある敬礼で答えたバスティアンは
速度を落とすことなく
船着き場を横切って行きました。
輸送船は、北海艦隊の追加兵力で
混雑していました。
彼らと同行する家族の数も
少なくありませんでした。
ほとんどが若い妻と子供でした。
影のように
静かに後をついて来た兵士が
少佐が使う船室はこちらだと
静かに告げました。
軽く頷いたバスティアンは、
割り当てられた船室の
反対方向にある甲板へ向かいました。
副官は機転を利かせて退くことで
自分の役目を果たしました。
15分前。
出航の警笛が鳴り始めると、
待機していた水兵の動きが
忙しくなりました。
彼らをすり抜けたバスティアンは
船首の甲板の端に近づきました。
陰鬱な青灰色の雲に覆われた
街の向こうで、
微かな明かりが煌めいてました。
観覧車。
オデットが夢を見るように眺めていた
まさに、その乗り物でした。
バスティアンは無感動の眼差しで
その風景を見つめました。
猛毒のようだった激情と怒りは、
もはや残っていませんでした。
結局、
このように簡単に消え失せてしまう
感情に巻き込まれて、
道を見失ったという事実が
ただ虚しいだけでした。
変わったことはない。
先週は、それを証明するために
奮闘した時間でした。
ローザンから戻って来たバスティアンは
すぐにラッツへ行き、
会社の仕事を片付けました。
まず、実務を担当してくれた
トーマス・ミラーに了解を求めた後、
失敗に終わった計画を
すべて白紙に戻しました。
念入りに準備していた罠だっただけに
損失が大きかったけれど、
今のところ、
それが最善の解決策でした。
トーマス・ミラーの見解もそうでした。
まずは引き下がった後に
体制の立て直しの時間を取る
予定でした。
幸い、ラビエルと手を組んだ鉄道事業が
成功の道を歩んでおり、
大きな危機は免れることが
できるようになりました。
結婚商売が成功すれば、
より安定した基盤を
築くことができるはずでした。
そうして、再び振り出しに戻る。
少し遠回りをすることになっただけで
目的と手段はそのままでした。
オデットは、もはや
考慮の対象にはなりませんでした。
適当に利用した後に
片付けてしまえばいいという
存在でした。
あの女の意義も、
やはり、振り出しに戻りました。
5分前。バスティアンが
雑念を払い退けたのと同時に
出航を知らせる力強い号令が
鳴り響きました。
舷門を撤去し、舫綱を解いた輸送船は
激しい雨の中へと航海を始めました。
プラター川を遡ってベルク西部海域へ
そして再び北海航路を経由して
トロサ諸島へ行く長い道のりでした。
バスティアンは、
遠ざかる街を背にして
振り向きました。
最後に見たオデットの顔が、
視界をぼやけさせるほど、
大きくなった雨粒の上に
浮かび上がりました。
気を付けて行ってらっしゃい。
待っています。
立派に平然と挨拶を交わしながら、
オデットは、いつものように美しく
夫を愛する妻のように笑いました。
突然訪れた、あの女性の記憶を
バスティアンはあえて
否定しようとはしませんでした。
淡々と受け入れて、すぐに流しました。
残像のように残った自嘲も、
そう長くは続かず、やがて
跡形もなく消えました。
開いた跳ね橋の下を通った輸送船は
急速に速度を上げていきました。
そっと閉じていた目を開けた
バスティアンは、
落ち着いた力強さのある足取りで
風雨が吹きつける甲板を
横切って行きました。
本来の軌道へ回帰する
航海の始まりでした。
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オデットが、
ティラやマルグレーテを
必死で守ろうとするのは、
オデットが子供の頃から
彼女自身を
守ってくれる人がいなかったため
ティラやマルグレーテに
自分のように寂しい思いを
させたくないという気持ちが
強いからではないかと思いました。
オデットは親から守られるどころか
優しくされたこともなかったので
例え、お芝居でも
バスティアンに優しくされたことが
嬉しかったのではないかと思います。
でも、その優しさは
2年後に終わってしまうので、
バスティアンよりも、はるかに弱くて
自分が守らなければならない
ティラを優先してしまった。
しかし、彼の乗った車が去った道を
いつまでも見ていたり、
荒れた天気の中、航海する夫のことを
気にしたり、
彼との思い出が浮かんで来るのは、
バスティアンを裏切ったことを
後悔し始めているからではないかと
思いました。
今のバスティアンは、オデットに対して
可愛さ余って憎さ百倍の
心境でしょうけれど、観覧車は、
いつも何でも断るオデットが
珍しく乗りたがったものなので、
彼の心の琴線に
触れてしまったのだと思いました。
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