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99話 ディセン公爵が亡くなりました。
献花を終えて振り返った
デメル侯爵夫人は、
田舎の農夫の葬式だって、
これよりは、ましだろうと言って
深いため息を漏らしました。
デメル提督は
複雑な心情が滲み出る眼差しで
周囲を見回しました。
葬儀が行われる時間まで、
あまり残っていないにもかかわらず
礼拝堂は閑散としていました。
かつて、
帝国最上位貴族の仲間入りを果たした
名門家の子孫であり、
皇女の夫であった者の最期とは
思えない光景でした。
デメル侯爵夫人は、
皇帝も本当にひどい。
いくら憎くても、葬式まで無視すれば
クラウヴィッツ夫妻の体面は
一体、どうなってしまうのかと嘆くと
会衆席が、
半分も埋まっていないのを見て
慌てて取り出したハンカチで
涙を拭いました。
そして、
オデットも潔癖過ぎるところがある。
海軍婦人会が
援助を申し出たにもかかわらず、
迷惑をかけたくないという理由で
断ったそうだ。
勝てないふりをして受け入れていれば
これよりは、ましな葬儀を
行うことができただろうにと
ぼやきました。
しかし、デメル提督は、
かえって、これで
良かったのかもしれない。
見る目が多ければ多いほど、
悪口ばかりが
広まるだけではないかと
オデットを、かばいました。
デメル侯爵夫人は、
確かに、
ディセン公爵の悪名を考えると
父の存在を隠したい気持ちも
理解できると言うと、
憐憫と好奇心が入り混じった目で、
祭壇の前をチラッと見ました。
オデットは、
弔問客が途切れた父親の棺の前を
守って立っていました。
まっすぐで端正な姿勢と
毅然とした表情のどこにも、
父を亡くした娘の悲しみを
読み取ることはできませんでした。
喪服でなかったら、誰も彼女を、
遺族だとは思わなかったはず。
あまり良い評判を得られそうにない
様子でした。
デメル侯爵夫人は、
クラウヴィッツ少佐を乗せた帰国船は
一体いつ到着するのかと尋ねました。
デメル提督は、
特に問題がなければ、
遅くとも今夜中には
到着するだろうけれど、
時間まで断定するのは難しいだろう。
海軍省から連絡しておいたので、
とりあえず待ってみようと
答えました。
今まで何の連絡もないところを見ると
葬式に出席するのは無理だろうと
言って、諦めのため息を吐いた
デメル侯爵夫人は、そのくらいで
がらんとしている会衆席の
1列目の端に着席しました。
デメル侯爵夫人は、
いくら考えてみても
クラウヴィッツ少佐夫妻はおかしい。
何か問題があるに違いないと
確信に満ちた口調で
苦心の末に下した結論を伝えました。
オデットは夫の帰還を
全く知らずにいました。
献花をしながら交わした
短い会話を通じて知った事実でした。
バスティアンが帰国した後に
葬儀を執り行う方が
良かったのではないかという
彼女の言葉に、
オデットは淡々と首を横に振り、
長旅を待ち続けるのは無理。
夫にも同じ気持ちを伝えた。
合意のもとで決めたことなので
大丈夫だと返事をしました。
しかし、
バスティアンが出航したのは先週末。
ディセン公爵が
臨終を迎える前のことでした。
航行中の軍艦と
私的な連絡を取る方法はないはず。
たった2日待つことができずに、
こんなひどい葬式を行うというのも
おかしい。
どうやらオデットは
嘘をついているのではないかと尋ねる
デメル侯爵夫人の眉間のしわは
オデットと交わした会話を
思い返せば返すほど、
ますます深くなって行きました。
デメル提督は沈黙を守ることで
妻の意見に同調しました。
デメル侯爵夫人は、
一体、なぜクラウヴィッツ少佐は
妻に帰国の事実を隠したのだろうか。
予定より早い帰国命令が
下されたとはいえ、
それでも連絡が取れないほど
ぎりぎりの日程ではなかったはずだと
疑問を呈しました
デメル提督は、
まさか、わざと
隠したりしたはずはない。
あまりにも忙しい人だから、
余裕がなかったのだろうと
答えました。
デメル侯爵夫人は、
毎月手紙を送るほど、
妻に尽くしている男が、
そんな重要な知らせを伝えるのを
忘れてしまったとでも言うのか。
どれだけ忙しくても、電報一通くらい
送れたはずではないかと
非難しました。
「それは・・・」
言葉が詰まったデメル提督は、
ただ乾いた唾だけを飲み込みました。
何とかして、
大事にしている部下の名誉を
守りたかったけれど、
いくら考えてみても、
もっともらしい言い訳を
思いつくのは難しい事案でした。
デメル侯爵夫人は、
今さらだけれど、2年近く
一度も休暇を取らなかったのも
なんだか怪しい。
何か噂を聞いていないかと
尋ねました。
デメル提督は、
どんな噂のことかと聞き返しました。
デメル侯爵夫人は、
鋭い目を見開きながら、
赴任先に新しい女ができたとかいう、
芳しくないことだと、
声をぐっと低くして囁きました。
デメル提督は、
クラウヴィッツ少佐は
名誉ある軍人で、海軍の英雄だと
主張しました。
デメル侯爵夫人は、
分かっているけれど、
最盛期の壮健な男でもあると
言い返しました。
「全く・・・」
立場が苦しくなったデメル提督が
こっそり視線を避けたのと同時に
礼拝堂のドアが開きました。
葬儀場に集まった客たちの関心は
一斉に、そちらに集中しました。
彼の妻も
例外ではありませんでした。
そのおかげで
苦境から脱することができた
デメル提督は、ようやく一息ついて
礼拝堂の入り口を覗き込みました。
予想外の弔問客が、
ちょうど葬儀場の敷居を
越えているところでした。
幼い娘を連れたジェンダス伯爵でした。

百合で埋めつくされた棺に横たわる
ディセン公爵は、
まるで深い眠りについたかのように
安らかに見えました。
そっと閉じていた目を開けたオデットは
顔の上に垂れ下がっていた黒いベールを
ゆっくりと捲り上げました。
もうすぐ葬式が始まる時間でした。
初めて父の死を実感しましたが、
涙は流れませんでした。
ただ罪悪感と申し訳なさで
いっぱいなのと同時に、
安堵するような、
万感胸に迫る後悔だけが
深まって行くだけでした。
ディセン公爵は、
生死の境を彷徨って3日目に
息を引き取りました。
数日間続いた雨が止んだ
午後遅くでした。
オデットはベッドの傍らに座って
父親の最期を見守りました。
幸い、苦しい発作は収まりましたが、
きちんとした別れの挨拶を
交わす機会は与えられませんでした。
適正量を超えた鎮痛剤の影響でした。
時折、目を覚ますと、ディセン公爵は
とりとめのない独り言を呟きました。
ほとんどが、
輝かしい過去の断片でした。
名門私立学校の校庭を駆け回る少年。
社交界の寵児。 皇女の秘密の恋人。
甘い記憶の中を彷徨う彼は
幸せそうに見えたので、オデットは、
そのことに感謝しました。
少なくとも、娘を恨み、
呪っていた悪鬼のような姿の
父の最期を記憶せずに済んだので。
「ヘレネ」
だんだん苦しくなって行く息の合間に
その名前が聞こえて来たのは、
病室が一面に
バラ色に染まった頃でした。
そしてしばらくして、ディセン公爵は、
永遠の安息に入りました。
オデットが、
主治医を呼ぶ呼び鈴を鳴らしたのは
それから、さらに
数分が過ぎた後のことでした。
誤った愛に人生を捧げた女と、
自分が裏切った愛を描きながら
目を閉じた男。
オデットは、
その愚かな恋人たちへの
憐憫と幻滅を飲み込みながら
顔を上げました。
弔問客の顔を見ていた視線は、
会衆席の一番最後の列に座って
泣いているティラの上で
まるで釘付けになったかのように
動かなくなりました。
彼女は今日も
お腹を大事に抱えていました。
もうティラのことを考える時が来た。
ふと気づいたその事実と共に
訪れた寒気が、
疲れた体を侵食して来ました。
震える両手に力を入れて
握り締めたのと同時に、
「クラウヴィッツ夫人!」と
子供の朗々とした声が響き渡りました。
オデットが急いで
表情を整えている間に、子供は
素早く礼拝堂を横切って来ました。
「アルマ」と名前を呼ぶと、
子供は、さっと
オデットの足を抱きしめました。
そして、
目いっぱいに涙を浮かべたまま、
今にも泣きだしそうな顔をしながら
アルマは「お大事に」と
かなり毅然として
自分の意思を伝えました。
オデットは一瞬、ぼんやりとした目で
子供を見つめると、
自分は大丈夫だと言いました。
しかし、アルマは、
クラウヴィッツ夫人は心が痛いと
言いました。
オデットは、
お父様が教えてくれたのかと
尋ねました。
アルマは「はい!」と返事をし、
自分たちは、
心が痛いクラウヴィッツ夫人を
慰めるために来たのだと話していたと
答えて、力いっぱい頷きました。
アルマの頭の上で、
去年の誕生日に作ってプレゼントした
小花模様と名前の頭文字が
刺繍されているリボンが揺れました。
思いのほか真剣な子供の態度が可愛くて
オデットは少し笑いました。
オデットがアルマを抱いた瞬間、
「アルマ!」と呼びながら
当惑した表情の
ジェンダス伯爵が現れました。
彼は、
娘が大変失礼なことをしたと
謝りました。
しかし、オデットは、
いっそう安らかな表情で
首を横に振ると、
大丈夫。おかげさまで
大きな慰めになったと返事をしました。
意気揚々としたアルマは
紅葉のような手を伸ばして
オデットの頭を撫でました。
じっと両目をのぞき込んで
口づけをし、そっと頬を
寄せ合ったりもしました。
おそらく父親から教わった
愛情表現なのだろうと思いました。
息を殺したアルマは、
「もう痛くないでしょう?」と
慎重に尋ねました。
オデットは肯いて、
「うん、ありがとう」と答えると
子供のふっくらとした頬に
お返しのキスをしました。
アルマは、
嬉しそうにクスクスと
澄んだ笑い声を上げました。
葬儀場のうら寂しい雰囲気を
しばらく
忘れさせてくれるような笑いでした。
そのくらいで
アルマを降ろしたオデットは、
彼らを見守っている
ジェンダス伯爵の方へ
視線を移しました。
目が合うと、
彼は優しい笑みを浮かべました。
娘に似た茶褐色の瞳には、
控えめな憐憫と慰めが宿っていました。
「お父様!」
アルマはぴょんぴょん跳ねながら
父親の腕にしがみつきました。
ジェンダス伯爵は、
静かなため息をつくと、
すっかり厳しくなった態度で
娘を諭しました。
そんな瞬間にも、
アルマを見る眼差しからは、
比類のない大きな愛情が
滲み出ていました。
自分たちにも、
あんな時代があったのだろうか。
ふと儚い思いが浮かんで来て、
すぐに、また消えて行きました。
このくらいでベールを下ろした
オデットは、
たった今到着したばかりの
新しい弔問客を迎えるために
踵を返しました。
皇室の代表として訪れた
トリエ伯爵夫人でした。

徐々にスピードを落としていった
黒い車は、
礼拝堂の正門前で止まりました。
錆びた鉄柵越しに見える墓地には
苔の生えた彫像や墓石が
並んでいました。
捨てられた廃墟のような光景でした。
狼狽したハンスは、
急いで地図を広げました。
何度も確認してみましたが、
葬儀場は間違いなくここでした。
決して道を
間違えたのではないという事実が、
彼の混乱をさらに深めました。
「お疲れ様」と
後部座席から聞こえてきた低い声が
深まっていった静寂を破りました。
ハンスはビクッとして
振り返りました。
窓の外に向けられていた視線を
引いたバスティアンは、
車から降りる準備を始めました。
完璧に手入れされた制服と
節度のある動作のどこにも、
長い航海が残した旅の疲れの痕跡を
見つけることはできませんでした。
バスティアンの帰還の知らせが
アルデンに伝えられたのは
今朝のことでした。
突然の知らせが与えた衝撃に陥って
ざわめいたのも束の間。
使用人たちは、
慌てて各自の持ち場に戻り、
主人を迎える準備を始めました。
ハンスに与えられた任務は、
帰国船から降りたバスティアンを
速やかに葬儀場へ
案内することでした。
バスティアンはハンスに、
待っている必要はないので、
帰るように命令しました。
ハンスは、
「しかし、ご主人様・・・」と
反論しようとしましたが、
バスティアンは、
ロビスには自分の命令だと
伝えればいいと言って、
ハンスの反論を遮り、
すぐに車から降りました。
ハンスは驚いて
彼の後を追いましたが、これ以上
意地を張ることはできませんでした。
バスティアンに
仕えるようになってから、
いつのまにか10年。
主人の性格を把握するのに
十分な歳月でした。
結局ハンスは丁寧な挨拶を最後に
退きました。
こんなに、
みすぼらしい葬式だなんて。
全ての助けの手を断った
女主人の選択を、初めて
理解できそうな気がしました。
おそらく、
恥をさらしたくなかったのだろう。
その方が、
バスティアンにとっても
有益なはずでした。
ハンスは複雑なため息をつきながら
運転席に乗り込みました。
エンジンをかけながら
見上げた空から
霧のような雨が降っていました。
天気さえも味方しない
葬式になるようでした。
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デメル侯爵夫人は鋭いし、
夫への詰め寄り方も
なかなかのものだと思います。
きっとデメル提督は、家でも
妻の尻に敷かれていると思います。
彼は、バスティアンがオデットに
帰還する日を教えなかった理由として
予告なしで、突然、帰ることで、
オデットを驚かせようと思った・・・
という発想には至らなかったのかなと
思いました。
バスティアンの帰還と
ディセン公爵の死の時期が
重ならなければ、
オデットとバスティアンの関係を
疑われることも
なかったのでしょうけれど
皇帝との約束をきちんと果たしましたし
あとは離婚するだけなので、
2人の間柄について、
どんなに疑われても
もう、関係ないと思います。
名門私立学校に通い
社交界の寵児だったディセン公爵。
トリエ伯爵夫人は
顔だけは良かったと言っていましたが
彼には、家門を盛り上げるとか
事業を行う才能は全くなく、
ベルクから追い出された後も、
何もせずに、ブラブラするだけ。
誰かが、
自分をもてはやしてくれると嬉しくて
お金を散財し、その挙句に騙され、
どん底まで落ちぶれて、
彼の死を悼む人すら、
ほとんどいない状況に
なってしまったのでしょう。
彼の葬式に参列している人たちは
オデットのためだけに
来たのだと思います。
最期にヘレネの名前を呼んだのは
彼女を愛していたから?
もしかして、
彼女が迎えに来たのではないかと
一瞬思いましたが、私がヘレネなら
絶対に、そんなことはしないと
思いました。
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