
37話 ランス嬢はイアンに会うために、フェアファクス家のタウンハウスにやって来ました。
ペンドルトン嬢は
友情を大切にする淑女でした。
そもそも自分が
彼女と親しくなれたきっかけも、
自分と彼女の友人の一人の
仲人役をするためでした。
ランス嬢は
ペンドルトン嬢の親友なので、
ランス嬢を通して
再びペンドルトン嬢に近づくことも
可能だろう。
そう考えた彼は、
すぐに服を整えて立ち上がりました。
そしてジャネット嬢と
一緒に階下へ降りて行きました。
応接室には、
濃いバラ色のドレスに、
お盆を頭に付けたような、
つばの広い帽子をかぶった
ランス嬢が、ウィリアムと一緒に
お茶を飲んでいました。
ダルトン氏が現れると、ランス嬢は
華やかな笑みを浮かべながら
彼に手を差し出しました。
彼はランス嬢に近づき、
手の甲にキスをしました。
ダルトン氏が何も言わずに
ロンドンから消えてしまったことを
ランス嬢が指摘すると、彼は
申し訳ないけれど、そうなったと
謝罪しました。
次に、ランス嬢は、
ダルトン氏が、
姿を消した時と同じように、
忽然とまた現れたと言いました。
イアンは肯くと、
ウィリアムが座っているソファーの
そばに腰を下ろしました。
ジャネット嬢はランス嬢と一緒に
反対側のソファーへそっと行って
座りました。
ランス嬢は、牧師の訃報に対して
哀悼の意を表し、
ホワイトフィールドでの
生活について、聞き始めました。
ダルトン氏は
彼女が尋ねることには何でも
快く答えました。
非の打ち所のないほど丁寧に、
しかし冗談を交えず、
事実だけをそのまま。
いくら彼女がペンドルトン嬢との
架け橋になってくれるかもしれない
淑女とはいえ、彼は
淑女たちを楽しませることに
あまり才能のない男でした。
しかし、イアン・ダルトンの言葉なら
何でも興味津々に聞く
準備ができていたランス嬢は、
全ての言葉に、
キャッキャッ笑いながら喜びました。
イアンは、
快活さが悪い特性ではないと
考えていましたが、
法廷闘争までに発展した賃貸借問題に
なぜ、あれほど楽しんでいるのか
不思議でした。
何もかもが楽しいお調子者か、
頭が少し足りないかのどちらかだろうと
淡々と考えました。
ランスさんにとっては幸せで、
ダルトン氏にとっては
退屈極まりない20分余りが過ぎました。
イアンは、最大限、
彼女に好感を持つ紳士の姿を
演じましたが、やはり
本来の性情を隠すには限界があるため
次第に表情が消えて行きました。
彼は、
ランス嬢の突拍子もない笑いと
無意味な好奇心に、
次第に疲労感を覚え始めました。
イアンは、
ティーカップの中を覗き込みながら、
ただ部屋にこもって
タバコでも吸いたいと思いました。
ランス嬢は、
ダルトン氏が、本当にタイミングよく
戻って来た。この時期は
舞踏会のクライマックスだし
まもなく、
ケンブリッジとオックスフォードの
ボート競技もある。
そういえば、フェアファクス氏と
ダルトン氏は大学が違うので、
それぞれプライドをかけて
応援するのだろうと言いました。
しかし、フェアファクス氏は
自分はともかく、イアンはあまり
スポーツ競技に興味がない。
たとえオックスフォードが
5年連続で勝ったとしても、
自分に対して、
微塵も恨みなど抱かないだろう。
むしろボート競技などを見に
彼を引っ張って行ったことに、
もっと腹を立てるだろうと
話に割り込みました。
ランス嬢は、
珍しい。男性たちは、
そういうことに命をかけるのが
本能だと思っていたのにと告げると、
ダルトン氏に、
何を楽しんでいるのかと尋ねました。
イアンはお茶を一口飲んだ後に、
主に本を読んだり、乗馬をしたり
極めてつまらない生活をしていると
答えました。
するとジャネットは、
デッサンもするではないかと口を挟み
ランス嬢に、イアンお兄様は画家で、
ピアノや花瓶のようなものを、
実物そっくりに描くと、
ハンサムな姻戚を自慢しました。
意外な話に、
持っていたティーカップを置いた
ランス嬢は、
絵を描くのか。それも画家レベルで?
と尋ねました。
イアンは面倒になったと思って
手を振りながら、
ジャネットが大げさに言った。
絶対に画家のレベルではないと
否定しました。
しかし、ジャネットは、
この前、イアンお兄様の
スケッチブックを見たけれど、
レッスンに来る美術教師たちより
優れていたと反論しました。
イアンは「止めろ」と
ジャネットを制止しましたが、
ランス嬢の関心をそらすには
遅すぎました。
彼女はイアンに
彼の絵を見せてほしいと頼み、
イアンが断っても再度懇願しました。
隣にいたフェアファクス嬢も
ランス嬢に絵を見せてやってと
イアンにせがみ始めました。
イアンは困ってウィリアムを見ましたが
彼は他人事のように見ていました。
彼は彼らしく、
自分の友人を困難から救うよりも、
訪問した淑女を
丁重にもてなすことの方が重要でした。
結局、イアンは、使用人に
自分の荷物カバンの中にある
スケッチブックを
持って来させました。
二人の淑女は
イアンのスケッチブックを開き、
頭を寄せ合って見始めました。
一枚一枚めくるたびに、
淑女たちの目の前に
畑を耕す農夫たちと
野原で草を食べる家畜たち、
彼の甥たちである
幼い少年少女たちのスケッチが
次々と現れました。
淑女たちは感嘆の声を漏らしました。
それらの絵は、
正確な観察力と繊細な手先の器用さ、
そして愛情のこもった視線から誕生した
実に素敵な絵でした。
幼い頃から芸術教育で鍛えられた
淑女たちの目に映った
イアン・ダルトンの絵は
非の打ち所のない優れた作品でした。
ジャネット嬢は絵を見ながらも、
そっとランス嬢の表情を観察しました。
ランス嬢の目は、絵を見る度に輝き、
頬は、彼女が着ているドレスのように
きれいなバラ色に染まって行きました。
ジャネット嬢は
自分の家に住んでいるイアンの腕前に
感嘆し、気分が浮かれました。
厳密に言えば、
イアンは自分の家族でもなく、
彼女と親しいわけでもなかったけれど
なぜか自分と縁のある人が素敵なら、
自分も素敵な人になったような
気がするのでした。
そのため、
この十七歳の分別のないお嬢さんは、
ランス嬢がスケッチブックを閉じた時に
このスケッチブックに
自分の肖像画を描いてもらえないかと
頼むと、空に舞い上がるような
気分になりました。
急いでスケッチブックを返してもらい
席を立つために待っていたイアンは、
彼女の突然の頼みに難色を示しました。
彼は、
ランス嬢の願いを聞きたいけれど、
淑女一人を
被写体とすることはできない。
自分は職業的な肖像画家ではないので、
対外的に誤解されるかもしれないからと
断りました。
ランス嬢は、
ここには四人しかいないので
四人が口を閉じていれば、
誰にも秘密が漏れないだろうと
言いましたが、イアンは、
奥方や、社交界に入る前の
若い淑女ならともかく、
すでにデビュタントを終えた
未婚の淑女はダメだ。
きっと、あなたの評判に
傷がつくだろうと断りました。
ランス嬢は、
自分のことを考えてくれるイアンに
とても感謝しました。
しかし、依然として
彼の手が描いた肖像画が
欲しかったので、
彼女は、隣に座っていた
ジャネット嬢の手をギュッと握り、
ジャネット嬢と一緒に描いて欲しい。
それならいいのではないか。
ジャネット嬢と二人なら、
自分の評判も守られ、
ダルトン氏も、より気楽に
描くことができるだろうからと
提案しました。
ウィリアムはイアンのそばへ来ると、
ランス嬢はお前のことが
とても気に入っているようだ。
何も考えずに描いてやれ。
ジャネットがいるので、
ペンドルトン嬢が
誤解することはないだろうと
笑いを含んだ声で囁きました。
イアンは頭が痛くなってきました。
彼はよく絵を描きましたが、
今のような気分では、
鉛筆を握ること自体、
気が進みませんでした。
しかし、社交界の花ランス嬢と
一枚の絵の中に入る機会に、
ウキウキしたジャネットは、
イアンにせがみ始めました。
普段なら無礼を承知で
面倒な奉仕を拒むイアンでしたが
今はどうしようもありませんでした。
ランス嬢はただの淑女ではなく、
ペンドルトン嬢と自分を
繋げることができる紐でした。
彼は使用人に、
自分のかばんの中に入っている筆箱を
持って来させた後、
淑女たちが座っているソファーの
向い側にあった背もたれ椅子を
移動して座りました。
そして、一枚だけ描くつもりなので
二人で勝手にするように。
半分に破って持って帰っても構わないと
告げました。
フェアファクス嬢は、
もちろん絵はランス嬢のものだと
すぐに返事をしました。
ランス嬢はジャネットの親切に感謝し
絵をもらったら、自宅の応接室の
一番目立つ場所に掛けて、
客が来る度にジャネット嬢の美しさを
披露すると、甘い声で
ジャネット嬢をおだてました。
ジャネット嬢は頬を赤らめながら
彼女の言葉を噛み締めました。
ランス家の応接室に
絵が掛けられるなんて!
ランス嬢が
自分の美しさを披露するなんて!
ジャネットは、
カラスのような鳴き声を上げながら
歓声を上げたい気分でした。
まもなく筆箱が到着すると、
彼は鉛筆と刀を取り出し、
無表情でサッサッと削りました。
その間、二人の淑女は
お互いの髪を撫で合い、
服の埃を払いながら、
絵に収まる準備をしました。
すぐに、イアンは、
淑女たちが座る席と視線の角度を
指定しました。
そして「動くな」という言葉と共に
鉛筆を持ち上げました。
二人の淑女は、
世界で最も静粛で愛らしく優雅な表情で
イアンを見つめました。

ササササと、応接室の中に、
紙を擦る黒鉛の音が漂いました。
イアンが
紙の上で鉛筆を動かしている間、
ウィリアムはイアンのそばに立って
自分の妹を見つめました。
ほんのり赤い頬と愛らしい表情。
妹をとても大切にしている彼は、
ジャネットの姿が
永遠に一枚の絵として残ることを
考えながら、
密かな満足感を覚えました。
しかし、いざ絵を描くイアンは、
何の満足感も感興もありませんでした。
彼にとって、心を動かされない
被写体を写して描くのは、
苦役中の苦役でした。
このような依頼を受けないように
絵を描く趣味について、
ほとんど何も言わずに生きてきたのに、
これは大失敗に違いありませんでした。
30分もしないうちに絵が完成しました。
彼はスケッチブックを水平にして
持ち上げたまま、表面をフーッと吹き、
黒鉛の粉を吹き飛ばしました。
そして、紙をきれいに破り、
ランス嬢に渡しました。
二人の淑女は絵をじっと見つめました。
自分たちの姿が、
熟練した画家の手先を借りて、紙の上に
そのまま写し出されていました。
淑女たちは感嘆の声を漏らしました。
ランス嬢は、
素晴らしい。
こんなに繊細で正確な肖像画は
初めて見た。
フェアファクス嬢の服の模様と表情が
そのまま描かれていると
感嘆しました。
イアンは淡々と謝意を表しました。
ランス嬢とフェアファクス嬢は、
絵に対する感嘆を伝えようと、
しばらくイアンを捕まえていましたが
ティータイムにも
適度な時間というものがあるので、
ランス嬢は礼儀に反しないタイミングで
席を立ちました。
ウィリアムはランス嬢が、
絵を安全に持って行けるように
家にある画帖を一つ空け、
イアンの絵を挟んで渡しました。
ランス嬢は、
優しいウィリアムに感謝した後、
応接室に掛けられた絵を
見に来てほしいと、
三人を自分の家に招待しました。
三人は近いうちに行くと約束し、
ランス嬢を見送りました。
ランス嬢は、家に向かう馬車の中で
画帖を開き、
彼が描いてくれた絵を見ました。
彼のデッサン力は優れていて、
これほど精密で明確な表現は
プロの画家にしか見えませんでした。
彼女は、イアン・ダルトンに
このような繊細な能力があることを
知ると、
驚かずにはいられませんでした。
世の中には、
数多くの金持ちの紳士がいるけれど
このように芸術的才能まで
兼ね備えた紳士はいないはずでした。
ランス嬢は絵をじっと見つめながら、
彼が自分の姿をスケッチしていた姿を
再び思い返しました。
黒い髪の毛の下で真剣に輝く黒い瞳が
自分と紙の上を忙しく行き来し、
彼の大きくて細長い手は
顔の造作一つ一つ、
服のシワと手の形一つ一つを
紙の上に書き写しました。
彼の黒い二つの瞳が、
自分の全ての部分に触れていた。
彼女は頬が赤くなるのを感じながら
画帖を閉じました。
そして体を軽く震わせました。
彼女は家に着くや否や、
家で一番良い額縁を持って来て
絵を入れた後、
ジャネット嬢に約束した通り
応接室の一番目立つ場所に
掛けました。
彼女は応接室を通る度に
絵を眺めました。
そして自然と、
自分の絵を描いてくれた彼を思い出し
その度に、彼女は顔を赤らめて、
素早く、絵から目をそらしました。

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淑女一人だけを描いて誤解されると
困るからというのは、
体のいい断り文句なのに、
ごり押しするランス嬢とジャネット。
自分が描きたいものしか描かない
イアンが気の毒でした。
ペンドルトン嬢のことがなければ
何が何でも断ったのでしょうけれど、
ペンドルトン嬢と
再びつながるために、
自分の主義を曲げるしか
なかったのですね。
彼女への愛の深さと涙ぐましい努力に
感動しました。
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いつもコメントをありがとうございます。
私事ですが、今週末より
待ちに待った9日間の
年末年始休みに突入します(^^)
とは言っても、
1日、日帰り旅行をする程度で
泊りがけで旅行へ行くわけでもなく
家でまったりしていますので
明日より1月4日まで、
毎日、更新したいと思います。