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101話 ディセン公爵の葬儀が終わってから4日経ちました。
窓を通り抜けた朝の日差しが
ベッドを包み込みました。
オデットは、
その穏やかな光の波の中で
目を覚ましました。
時間と空間を認識するまでに、
もう少し、時間が必要でした。
3日。 いえ、もしかした4日。
父の葬儀を終えてから、
もう数日が経っていました。
どのように1日1日が過ぎたのか。
オデットは、
ひどい風邪を引いて苦しんだこと以外
よく覚えていませんでした。
天蓋からベッドに垂れ下がっている
レースのカーテンの模様を
ぼんやりと見つめていたオデットは
長いため息をつきながら
体を起こしました。
父が亡くなり、 ティラが妊娠し、
あの男、
帰って来ました。
まだ、信じがたい現実を
じっくりと噛み締めていると、
丁寧なノックの音が聞こえて来ました。
乱れた姿を大雑把に整えたオデットは
落ち着いて入室を許可しました。
まもなく寝室のドアが開き、
メイド長が入って来ました。
安堵の笑みを浮かべたドーラは
元気になって、
本当に良かったと言って
寝室を横切って来ました。
そして、4日間も寝込んでいた。
今日も病状が良くならなければ、
クラーモ博士の病院へ
連れて行くつもりだったと話しました。
4日。
きちんと認識できるようになった
日付を計算している間に、
ドーラが窓を開けました。
その向こうに、
一幅の絵のように平穏で美しい
アルデンの空と海が広がっていました。
オデットは、
夏と秋が交差する季節の風を
浴びながら、
メイド長の報告を聞きました。
往診に来た主治医が残した指示事項。
安否を確認する電話と
手紙を残した知人の名前。
日程調整が必要な社交の集まり。
過ぎ去った4日間の出来事が
耳元を通り過ぎて行きました。
ごく平凡な日常が続いているという
事実に、オデットは、
幸いでありながらも、
虚しさを覚えました。
嵐のように吹き荒れていた
悲劇の日々は、はるか遠い昔のことに
なってしまったような気分でした。
突然、メイド長の顔に
喜びの色が浮かびました。
彼女は、
嬉しい知らせがある。
ご主人様が、今日、
アルデンに戻って来る。遅くても、
日が暮れる前には到着するので
2人分の夕食を用意するようにと
連絡が来たと告げました。
「ああ・・ はい、そうなんですね」
一瞬、呆然としたオデットの眼差しが
小さく揺れました。
ベールをまくり上げて
バスティアンを見つめた瞬間に、
止まっていた記憶が
急流となって流れ始めました。
バスティアンは、
葬儀を行う間、ずっと、
オデットに寄り添いました。
故人を悼み、妻の悲しみを慰める
誰もが感嘆するほど
模範的な夫の姿でした。
おそらくバスティアンは、最後まで
この芝居が完璧であることを
望んでいたようでした。
その真意が全く理解できず
途方に暮れましたが、
それでもオデットは、
黙々と彼の要求に従いました。
この結婚の結末を決める権利は、
全面的にバスティアンにありました。
自分に残されたのは、
従順の義務だけだという事実を
オデットはよく知っていました。
どんな形であれ、
契約は、すぐに終結するだろうし
その日が来れば、
猶予されていた罪の償いを
することになるということも。
「大丈夫ですか?」
ベッドのそばに近づいて来た
メイド長が慎重に尋ねました。
深まりつつあった思いを消した
オデットは、
優しい笑みを浮かべながら
肯きました。
葬儀を終えたバスティアンは、
そのまま直接、首都に発ちました。
山積みになっている急務を
全て処理するまで、
ラッツのタウンハウスに
滞在する予定だと話していました。
ややもすれば、
2年ぶりに再会した妻を
放置しているように見られてしまう
可能性もありましましたが
時期が時期であるだけに、
合理的で自然な行動として
受け入れられました。
残された義務に忠実であろうと
決意を固めたオデットは、
まずメイド長が持って来た薬を
飲みました。
赤いスープの入った器も
きれいに空にしました。
数日だけでも、ゆっくり休めたので
それで十分でした。
オデットは、自ら招いた悲劇を
嘆きたくありませんでした。
どうせ避けられないことなら、
大胆に受け入れるのが正しいと
思いました。
予定されている破局が訪れる前に、
ティラの結婚の問題を
解決するためには、さらに
冷徹になる必要がありました。
食事を終えたオデットは、
いっそう毅然とした顔で
ドーラに向き合うと、
夕食の準備を頼みました。
特に気を配って準備すると
丁重な挨拶を残したドーラは、
いつもと違って浮かれた足取りで
寝室を去って行きました。
そしてまもなく、
白い犬を抱いた若いメイドが
入って来ました。
「メグ!」
やっと緊張がほぐれたオデットは
明るい笑みを浮かべながら
マルグレーテを抱きしめました。
離れて過ごした、
この数日間の寂しさを
訴えるかのように、
鳴き声を上げていたのも束の間。
マルグレーテは、
すぐにまた興奮して
ぴょんぴょん跳ね始めました。
夢中で尻尾を振りながら
顔を舐める騒がしい身振りが、
重い静寂が漂っていた
寝室の雰囲気を変えました。
オデットは、
しばらくして、ようやく落ち着いた
マルグレーテを抱いたまま
ベッドから降りました。
まだ微熱が残っていましたが、
体を支えられないほどでは
ありませんでした。
換気のために開けておいた
窓の前に近づいたオデットは、
胸に抱いたマルグレーテを撫でながら
眩しい9月の風景を眺めました。
まだ夏の緑が残っている森と
水の色が濃くなっていく海の間に
銀色の砂が煌めく海岸が
斜線を引いたかのように
位置していました。
絶望に陥って過ごすには
あまりにも美しい季節でした。
大丈夫。
自分自身への誓いのような言葉を
囁いたオデットは、
マルグレーテの鼻の頭に
キスをしました。
ティラを送り出したとしても、
まだ、マルグレーテが残っていました。
オデット1人ではなかったので
大丈夫でした。
大丈夫でなければなりませんでした。

午後の最後の陽が、空と海の間へ
沈んで行こうとしていました。
海岸沿いに続く道に入った
バスティアンは、アクセルを踏み込んで
スピードを上げました。
街の景観は、
以前と大きく変わっていませんでした。
互いを映す鏡のような
2つの邸宅が向かい合っている
アルデン湾の風景もそうでした。
バスティアンは、
満足そうな笑みを浮かべた唇の間に
タバコをくわえました。
すべてが順調でした。
帰国報告と参謀総長との面談、
国防会議への出席、
そして会社の取締役会の招集と
事業体の視察まで。
次から次へと続いた
この4日間の日程は、
結局その一言に要約されました。
残った業務は、
皇帝との取引と離婚程度でした。
遅くとも来月中には
皇帝に謁見することになるので、
それもまた順調に終わるはずでした。
バスティアンは、
近いうちに役目を終えることになる
妻の処分を考えながら
タバコを吸いました。
必ず、あの女を
監獄に叩き込んでやろうとしていた
憎しみは、
もう残っていませんでした。
もちろん、それが
最善の結末ではあるけれど、
難しいようであれば、適切な線で
妥協しても構いませんでした。
彼女の人生は、もう奈落に落ちたも
同然だったので。
短くなったタバコを消した
バスティアンは、
邸宅の進入路の方へ
ハンドルを切りました。
曲がりくねった並木道を通ると、
完成した邸宅が姿を現しました。
アルデンの宝石。
父が愛してやまない、あの美しい邸宅を
そのまま移して来たような風景でした。
完璧に複製された
もう1つの宝石を見つめる
バスティアンの眼差しから、
微かな倦怠と自嘲が
滲み出ていました。
これで母の血で建てた父の王国は
無力化されたけれど、
これといった感興は起きませんでした。
どうせ本当の目標は、この次。
この馬鹿げた有様を、
片づけることにあるので。
皇帝という後ろ盾、そして
サンドリン・ド・ラビエル。
その日を早めてくれる翼について
考えているうちに、
邸宅が近づいて来ました。
出迎えた使用人たちを通り過ぎた
バスティアンの視線が、
その中に立っている
女主人の顔の上で止まりました。
平然と良い妻の真似をしている
オデットに向き合うと、
空笑いが漏れました。
喪服を脱いだオデットは、
深緑色のベルベットのドレスを
着ていました。
まだ礼法で定められた
哀悼の期間が終わっていないことを
考慮すれば、
非常に異例な選択でした。
豪華な宝石もまた、
孤高のオデット嬢らしくないのは
同じでした。
待機中だった侍従に
車を渡したバスティアンは、
ゆっくりと、
中央玄関へ続く階段を上りました。
近くで見たオデットの顔色は
病人のように青ざめていました。
ひどい風邪を引いたという知らせを
思い出した瞬間、オデットは
「おかえりなさい。
あなたが戻って来てくれて
本当に嬉しい」と、
ゆっくり口を開きました。
音楽のように響く澄んだ声が、
清々しい夕方の風に乗って
広がりました。
口元を歪めて笑ったバスティアンは
そっと頭を傾けて
視線の高さを下げました。
明らかな蔑視と嘲弄が滲み出る
眼差しの前でも、
オデットは動揺しませんでした。
潤んだ青緑色の瞳いっぱいに
バスティアンを映しながら
静かな凝視を続けました。
時間が止まったような瞬間は、
それほど長く続きませんでした。
近づいて来たバスティアンが
オデットの頬にキスをしました。
心の準備をする暇もなく
起こったことでした。
自分も、
あなたのそばに戻って来られて
とても嬉しい。
不安定な心臓の鼓動の間から
聞こえてくるバスティアンの声は
冷酷な表情とは裏腹に
穏やかでした。
静かに息を整えたオデットは、
よりいっそう動じない笑顔で
不安を隠しました。
完璧なクラウヴィッツ夫人。
バスティアンが望んだ、
まさにその姿であるように。
あえて許しを請おうとしたわけでは
ありませんでした。
ただ、オデットは、この男の機嫌を
損ねたくありませんでした。
ティラのためにも
そうしなければなりませんでした。
この契約を始めた時に
抱いていた夢と希望は
粉々に砕かれました。
オデットは、その事実を
はっきり認識していました。
新しい人生を始めたくて
人生を売ったけれど、残ったのは
さらに悲惨な没落と破滅への
道だけでした。
だからこそ、ティラだけは
守り抜きたいと思いました。
それさえ成し遂げられなければ、
全てが水の泡となってしまうから。
オデットは、そのような虚無と絶望で
この結婚に、終止符を
打ちたくありませんでした。
少なくとも、1つの意味だけでも
残せることを願っていました。
だから、ティラは、
必ず幸せにならなければ
なりませんでした。
愚かな未練だと言っても構わない。
それはオデットが、
この地獄を選択した理由であり、
またこの選択が
間違っていなかったことを証明できる
唯一の方法でもありました。
その願いが叶えば、オデットは謙虚に
墜落を受け入れることができました。
それが、直ちに、
人生の終わりではないだろうから。
罪を償った後に、
また始めれば良いのだから。
借家を転々としながら
針仕事をする生活に戻っても
大丈夫でした。
重要なことはただ1つ。
この結婚に対する悔恨を
残さないことだけでした。
煩悶を払い退けたオデットが
次の準備をしている間に
使用人たちとの短い会話を終えた
バスティアンが振り返りました。
オデットは急いで
乱れた姿勢を整えました。
冷たく固まった両手を組み、
肩をまっすぐに伸ばしました。
バスティアンと目が合った頃には
幸いにも、端正な姿で
微笑むことができました。
じっとオデットを見つめていた
バスティアンが、
丁重にエスコートを求めました。
何の感情も映さない瞳が
凍えているようでした。
まるで青くて冷たい水の奥深くに
沈んで行くような気分でした。
オデットは、
そっと、その手を握ることで
与えられた任務を受け入れました。
序章は終わり、
次の章が始まる時でした。
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オデットは、ティラを守るために
バスティアンを裏切ったので
そのティラが幸せにならなければ
自分のしたことが
無駄になってしまう。
たとえ、自分は不幸になっても
それだけは絶対に避けたいという
オデットの切ない気持ちが
伝わって来ました。
アルデンの宝石と呼ばれている
父親が愛してやまない邸宅。
父親が成功した証であり、
いつか手に入れたいと思っていた
夢の結晶であり、とても美しくて豪華で
皆の羨望の的だったでしょうし、
唯一無二のはずだったはず。
ところが、それと、全く同じものが
海を挟んだ反対側にあり、
それを一目で見ることができる。
まるで、
大量生産された建売住宅みたいですし
片方が本物の宝石なら、
もう片方は、
ダミーとして捉えられ、
その価値は、
ぐっと下がってしまうと思います。
バスティアンが、父親の邸宅と
全く同じものを作った理由が、
ようやく分かったような気がしました。
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