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105話 サンドリンがアルデンに泊まりに来ています。
自分はそろそろ失礼すると言う
抑揚のない、淡々とした声が
カードテーブルの向こうから
聞こえて来ました。
バスティアンは、
深く吸い込んだ葉巻の煙を
吐き出しながら視線を上げました。
次のゲームのためにカードを混ぜていた
サンドリンの視線も
同じ場所に向けられました。
オデットは、
親切な女主人の役割に
ふさわしい微笑を浮かべた顔で
彼らを見つめていました。
大げさな名前の犬を
膝の上に乗せたままでした。
オデットは、
飲み過ぎてしまったようだ。
不本意ながら、客のもてなしが
疎かになってしまって申し訳ないと
サンドリンに謝りました。
サンドリンは、
自分は大丈夫なので
ゆっくり休むように。
まだ、体が完全に
回復していないだろうから
むやみに無理をしてはいけないと
待っていたかのように快く承諾し、
少佐がオデットの分まで
頑張ってくれると信じている。
まだ、ろくに手を付けていないのに
このままゲームを終わらせるのは、
どうにも心残りだと言いました。
会話は予定された順序通りに
進みました。
バスティアンは眉を顰めて
再び葉巻に火を点けました。
静かに返事を待っている
オデットの前には、
一滴も減っていないグラスが
置かれていました。
夕食のテーブルでも同じだったのを
バスティアンは
はっきりと覚えていました。
飲んでもいない酒に
酔ったと言う女が憎らしくて、
彼は少し笑いました。
オデットは一晩中、
一貫して控えめな態度を維持したまま
サンドリンの機嫌を取っていました。
あのすごい自尊心の痕跡さえ
見つけることができませんでした。
令嬢の意思に従うようにする。
バスティアンは喜んで
妻の涙ぐましい配慮を
受け入れました。
浮気はお互い様。この際、
一味違った楽しみ方をしてみるのも
悪くはないと思いました。
オデットは
バスティアンにお礼を言うと、
ラビエル嬢をお願いしますと、
憎たらしい挨拶を残して
席から立ち上がりました。
ゆっくり頷いたバスティアンは、
葉巻をくわえたまま、
空のサンドリンのグラスを
満たしました。
世間の目は気にしない。
葉に衣着せぬ言葉を並べ立てていた
ジェンダス伯爵の記憶が、
琥珀色のブランデーが揺れる
グラスの中で蘇りました。
2人の不倫は、
帝国全土をひっくり返すほどの
波及力を持つだろう。
どれほどのお金を積んでも
手に入らないという
あのすごい名誉は、一夜にして
ドブの中に
捨てられることになるだろう。
二度とこの世界に
足を踏み入れられない身にするのも、
さほど、難しいことでは
ありませんでした。
しかし、それが、はたして、
あの女が与えた損害を償うだけの
値打ちを持つ復讐なのだろうか。
バスティアンは、
不意に浮かんだ疑問を
繰り返し考えながら
顔を上げました。
白く広がる葉巻の煙の向こうに、
軽やかに背を向ける
オデットが見えました。
悲惨な没落を控えているとは
信じられない様子でした。
確かに。名誉なんてものは、
とっくに捨てた女ではある。
ふと、その事実を思い出した
バスティアンの口元に、
微かな嘲笑が浮かびました。
どうせ評判なんて気にしない
2人にとって、
そのスキャンダルは、むしろ、
良い機会になるかもしれませんでした。
世の中に背を向けても、
いくらでも立派に生きていける
偉人たちだから。
草を摘んで、ピアノでも弾きながら
2人の間の子供だと言っても
信じられる子供と一緒に末永く幸せに。
まるで一幅の絵のような家族となって。
「バスティアン?」
そっと催促する声が静寂を破りました。
バスティアンは深まりつつあった
虚無を拭い去った顔で
サンドリンに向き合いました。
カードテーブルには、
次のゲームのための札が
置かれていました。
バスティアンはサンドリンに
先に始めてと促すと、
平然とした笑みを浮かべながら、
自分に配られたカードを確認しました。
その間に、犬を抱いた女が
応接室を去って行きました。
ドアが開いて再び閉まるまで、
オデットは最後まで
振り返りませんでした。

オデットは、
世話をするために来たメイドたちを
下がらせて、
自分でベッドに入る準備をしました。
まず、宝石を外して、ドレスを脱ぎ、
部屋を片付けました。
窓を閉めて、カーテンを引くことも
忘れませんでした。
いつもより長くなった入浴を終えて
出て来た時は、いつの間にか
午前0時が近づいていました。
マルグレーテは、
ベッドの下に置かれている
自分のクッションに横になり、
ぐっすり眠っていました。
オデットは、
初秋の太陽の香りが染み込んだ
新しいネグリジェを着ました。
念入りにブラッシングをした髪は、
ゆるく編んで、まとめました。
予期せぬノックの音が聞こえて来たのは
ちょうどドレッサーの片づけを
終えた頃でした。
「ちょっと失礼します」
許可もなくドアを開けたサンドリンが
寝室に入って来ました。
オデットは、
静かなため息をつきながら
体を起こしました。
無礼を指摘するだけの意欲は、
とっくに消えていました。
サンドリンは、
この部屋は自分の好みに合わない。
結婚式を挙げる前に直すなら
急がなければならないと言うと
オデットの寝室を鑑定するかのように
見回しました。
オデットは何気なく、
その姿を眺めていました。
とても疲れた一日でした。
無駄な対立を引き起こして、
時間を無駄にするのは愚かでした。
歯をむき出しにして唸っている
マルグレーテを発見したサンドリンは
眉間にしわを寄せながら
まさか、あの犬を置いて行くつもりでは
ないでしょうねと尋ねました。
オデットは急いでベッドの横に近づき
そんなことをしてはダメと叱って
マルグレーテを抱きしめました。
そして、
マルグレーテは自分と一緒に去るので
そんな心配は無用だと返事をしました。
サンドリンは、
良かった。自分は、そんな犬は
ゾッとするほど嫌だと言いました。
オデットは冷静に、
これで、十分な答えになったなら、
そろそろ、用件を話してくれないかと
これ以上、耐えきれなくなった
質問をしました。
サンドリンは平然と笑いながら、
夫婦の寝室をつなぐ通路を指差すと
大したことではない。
あのドアを、ちょっと
使わせてもらおうと思っている。
バスティアンの寝室に直行するのは
少し危険ではないかと思った。
夜が深まった時間だけれど、
どこで誰に見られているか
分からないからと答えました。
オデットは、
それは、どういうことなのかと尋ねて
謎めいた言葉を
繰り返し考えている間に、サンドリンが
シルクのガウンを脱ぎました。
その姿を見たオデットは
反射的に顔をこわばらせました。
サンドリンは体が丸見えになるほど
薄いネグリジェを着ていて、
下着もろくに着けておらず、
決して、
妻のいる男の部屋に出入りするのに
適した身なりではありませんでした。
サンドリンは、
まだ用心しなければならない時なので
どうか理解して欲しいと言いました。
しかし、オデットは、
これは、やり過ぎではないかと
反論しました。
眉を顰めたサンドリンは失笑しながら
なぜ?
今更、バスティアンの
妻役をしたいとでも思っているのか。
バスティアンが
自分を歓待する理由が何なのか
分からないはずがないでしょう?
と尋ねました。
もう一歩近づいて来た
サンドリンから、
バスティアンが好んで飲む酒の香りが
濃く漂って来ました。
一緒に酒を飲みながら
カードゲームをしていた
仲睦まじい恋人同士の姿を思い出した
オデットは、何の反論もできないまま
視線を避けました。
頬が熱くなりました。
最低限の権利も
主張できなくなった境遇を痛感させる
恥ずかしい感覚でした。
サンドリンは、
やはり、話がよく通じると思ったと
言うと、遠慮なく、
バスティアンの寝室につながるドアに
向かって行きました。
しばらくすると、
この2年間固く閉ざされていたドアが
開く音が聞こえて来ました。
オデットは、
唸っているマルグレーテに、
まるで他人事のように、
もう大丈夫だとなだめながら
背を向けました。
あのドアの向こうのことは、
どうでもよいと思いました。
今オデットが望んでいるのは休息。
ただ、それだけでした。

シャワーの音が止むと、バスルームは
再び深い静寂に包まれました。
バスティアンは、
水気の残っている体の上に
ガウンを羽織りました。
きちんと乾かしていない髪の毛から
滴る水滴が、鼻と顎を伝って
流れ落ちました。
酔った。
バスティアンは、淡々と
その事実を受け入れながら
ゆっくりとした一歩を踏み出しました。
社交クラブ。 グロス街。
そして、またここで。
一日中お酒を飲んだ日でした。
時間差はあったものの、
累積した度の強い酒の酔いが、
かなり回っていました。
「バスティアン」
寝室につながる敷居を越えると、
名前を呼ぶ声が聞こえて来ました。
ベッドの端に座っている女を見つけた
バスティアンの目が細くなりました。
一瞬、見間違えたことに気づくと、
クスッと笑いが漏れました。
小柄な女性は、炎のように赤い髪を
長く垂らしていました。
バスティアンは立ち止まって
サンドリンを見つめました。
無謀ではあるけれど、
愚かではない女だという評価を
訂正しなければならないような
様子でした。
サンドリンは、
余計な噂が流れるようなことが
ないように、
取り計らってきたので、
心配しないでと言うと、
ベッドから立ち上がり、
寝室を横切って来ました。
距離が縮まるにつれ、
甘くて柔らかい体の匂いが
鮮明になりました。
サンドリンは、
あのドアを使った。
オデットの配慮のおかげだと言うと
意気揚々と、
夫婦の寝室をつなぐ通路のドアを
指差しました。
状況を大まかに把握した
バスティアンの唇から
改めて虚しい笑いが漏れました。
真夜中に、半分何も着ていない女を
夫の寝室に入れた妻。
これからは娼館の主人の役割まで
果たすつもりのようでした。
かなり涙ぐましい献身でした。
濡れた髪をかき上げたバスティアンは
自分の忍耐力がどこまでなのか
確認してみたいのか。
あなたの軽率な行動に対する
理解と寛容は、
十分に示しているはずだと、
ため息をつくように囁きました。
額と眉が完全に露出すると、
ひんやりとした印象が
一層、際立ちました。
背筋がピンと張り詰めたような
気がしましたが、サンドリンは
引き下がりませんでした。
彼女は、
理解と寛容って、
まさか、施すように与えてくれた
あの安っぽい親切のことかと
尋ねました。
笑いを消したサンドリンの瞳が
冷たく光りました。
バスティアンは一見、
誠実な恋人のように見えました。
意図的に仕組まれたことだと
分かっていながらも
一切、責めたりしませんでした。
むしろ快く同調したし、
彼はサンドリンを尊重してくれました。
非の打ち所のない
完璧な処世術でした。
ただ一つ、切に願うことだけは
絶対に与えない点を除けば。
サンドリンは、
最後のプライドまで捨て去り、
いつまで、
知らないふりをするつもりなのか。
自分と結婚するという
明確で具体的な約束について、
今、はっきり答えて欲しいと
詰め寄りました。
バスティアンは、
それは、この結婚が片付いた後に
論ずることだと答えました。
サンドリンは、
もう終わったも同然ではないかと
反論しましたが、バスティアンは
形式上の手続きというものが
残っているではないかと答えました。
サンドリンは、
自分はあなたとの約束を守ったと
主張しました。
バスティアンは、
分かっていると快く承知しました。
ラビエルは、
素晴らしい共同経営者でした。
皇帝との取引のための
偽りの結婚を受け入れ、
予定通り離婚訴訟を終わらせました。
お互いを利用し合い、事業で
大きな利益も得ていました。
分別なく振舞い、甚だしくは
このような滑稽なことさえする
サンドリンを我慢している理由も
やはりそこにありました。
それでは、今度はあなたの番だと
告げるサンドリンは、
熱烈な渇望と不安、
そして隠すことのできない
恨みまでこもった、
燃え上がる炎のような感情で
揺れている目で、
バスティアンを見ました。
サンドリンはバスティアンに
「証明して」と要求しました。
バスティアンが
「何を?」と尋ねると、サンドリンは
自分が、あなたの女だということをと
答えると、躊躇うことなく
バスティアンを抱きしめました。
深夜で、彼は酔っていました。
濁った眼差しに込められたものが、
ただ酔いだけではないということを
サンドリンはよく知っていました。
触れ合った体から伝わる
鮮やかな熱が何を意味するのかも。
サンドリンは、
ネグリジェの紐を解きながら
精いっぱい背伸びをしました。
バスティアンの唇からは、
熱くて香り高い強い酒の味がしました。
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バスティアンの嫌いな
ジェンダス伯爵の名誉が失墜するのは
嬉しい。
夫を裏切ったオデットが
再び落ちぶれても構わない。
けれども、2人が家族になるのは・・
可愛さ余って憎さ100倍だけれど
オデットを手放したくない。
離婚したとしても
ジェンダス伯爵には渡したくないという
バスティアンの気持ちを垣間見ました。
いつまでも煮え切らない
バスティアンを、
何とか決断させようと思って
サンドリンは、
公爵家の令嬢らしからぬ
無謀な振る舞いをしたけれど、
バスティアンには、
呆れられただけのようです。
他の男性なら、ともかく
バスティアンは、
人に左右されない人なので
こんな風に寝室に押しかけても
逆にサンドリンのことを
毛嫌いしそうな気がします。
話は変わりますが、
サンドリンは小柄だったのですね。
背が高いと思い込んでいました。
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