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109話 バスティアンはオデットに公平な取引を要求しました。
オデットが茫然としている間に、
手を打つ暇もなくドレスが剥がされ
下着が露わになりました。
コルセットの肩紐を引きずり下ろす
彼の手からは、
手袋さえも隠しきれない熱感が
鮮明に滲み出ていました。
遅ればせながら、
状況を把握したオデットは、
死力を尽くしてもがき、
彼を押し退けました。
そろそろ次の展開が気になり始めた
バスティアンは、意図的に力を抜いて
逃げ出せる隙を作ってやりました。
予想通り、オデットは
その機会を逃しませんでした。
逃げる女の背中に向かって
バスティアンは、
人の命を奪った犯罪者の妹と
結婚することになったことを
ニック・ベッカーは
果たして知っているのだろうかと
微かに笑いを含んだ質問をしました。
ビクッとしたオデットは、
結局、数歩も歩けずに
立ち止まりました。
期待に違わない反応でした。
バスティアンは、
ティラ・ベラーが身ごもっている
子供の父親のことだ。
製材所を営む家の末息子だったか。
聞いたところによれば、
あの地域では、
かなり評判の良い名士のようだと
言いました。
この男は
すでに全てのことを知っていた。
その事実が与えた絶望感に包まれた
オデットが息を切らしている間に
規則的な足音が
次第に近づいて来ました。
末息子の嫁が、
人間のクズであるディセン公爵の
私生児だということを
かなり不満に思っていたようだけれど
それでもお腹の中の子供のために
渋々、承諾したそうだ。
そこへ、父の命を奪おうとした
罪人である姉まで加われば、
果たしてティラ・ベラーを
受け入れることができるだろうかと
言うバスティアンの声は
残忍に追い詰めて来る瞬間にも
落ち着いていて柔らかでした。
オデットは赤くなった目を上げて
バスティアンを睨みつけながら
今、自分を脅迫しているのかと
尋ねました。
バスティアンは、
それよりは助言に近いと
普通に返事をすると
オデットと向かい合いました。
彼は、
どうせ自分はどんな手を使ってでも
自分の目的を成し遂げるのだから
余計な犠牲を払うのは
あなたの損ではないか。
もちろん、ティラ・ベラーの婚約が
破棄されることになれば、
自分としては嬉しい。
あなたの
その大層な愛と献身の結果が、
たかが私生児を産み
人生を台無しにする私生児の妹を
見守る悲劇になるのを見物するのも、
かなり面白そうだと言いました。
オデットは、
ティラをこの件に巻き込まないでと
抗議しましたが、バスティアンは
それは、あなた次第だと思うと
返事をすると、
露骨な欲望が滲み出る眼差しで
オデットを直視しました。
崖っぷちに追い込まれても、
荷物のような家族を
捨てられない女でした。
それなら、自分の子供は、
なおさら切なく愛するだろう。
その愛を永遠に失うことになる罰は
それゆえ、さらに苦しいだろう。
この程度なら、
あの女が与えた損失と相殺できる
取引になりそうでした。
バスティアンは、
気が進まないのなら行くようにと
告げると、一歩後ろに下がり、
オデットのために道を空けました。
そして、自分としては、
逃げてくれれば有難い。
そうすれば、
ティラ・ベラーの結婚を台無しにする
口実ができるからと言いました。
オデットは、
止めて欲しい。
軽蔑する女一人のせいで
あなたの人生まで壊すのかと、
今にも泣き出しそうな顔をしながら
無駄な勇気を奮いました。
あんなくだらない自尊心を
誇りと勘違いしていた過去の自分が
情けなくて、
バスティアンは少し笑いました。
彼は、
オデットが、何か
勘違いしているようだけれど
自分は失うものなど何もない。
受けた仕打ちの分だけ仕返しする。
おまけに皇帝と同じ血を引く子供まで
手に入るのに、一体、自分が
どんな損をするのかと言い返しました。
オデットは、
他でもないあなたが、
母親を亡くした子供の人生を
誰よりもよく知っているあなたが、
どうして、
子供を人質にしようなんて
考えられるのかと抗議しました。
バスティアンは、
「ああ、それね」と、
上の空で頷きながら口元を上げると
実の母親がいなくても
子供は立派に育つので
心配しないように。
自分がそうだったのだから、
自分の子供も同じだろうと
返事をしました。
彼を深く見つめていたオデットは、
あなたが、立派に育ったのかと
震える声で聞き返しました。
テオドラ・クラウヴィッツの
犬役を務めた女が口にするような
言葉ではありませんでしたが、
バスティアンは気にしませんでした。
バスティアンは
まあ、見ての通りだと答えると
平然と笑いながら、
止まっていた足を踏み出しました。
倒れそうにふらふらしていた
オデットは、
デイベッドの背もたれに手を突いて
体を支えました。
もう全てが終わった。
結婚したティラを
無事に新大陸へ送り出しさえすれば
終わるはずでした。
しかし、今さら全てを
水泡に帰すわけにはいきませんでした。
だからといって、このまま
諦めることもできない気持ちが
地獄を彷徨っている間に、
デイベッドの後ろに近づいた
バスティアンは
コルセットの紐を握りました。
「放しましょうか?」
バスティアンは
慈悲深く振舞いながら尋ねました。
ただ無力に震えているだけの女の上に
眩い日差しが降り注いでいました。
バスティアンは、
あなたの選択を尊重すると言って
握りしめた紐を力を入れて引っ張ると
きつく締まっていた結び目が
解けました。
ようやく我に返った時、オデットは
デイベッドに投げ出されたまま
天井に向き合っていました。
バスティアンは
無情な絶対者のような視線で
オデットを見下ろしながら
手袋を外しました。
手首からはずした時計は
女の枕元に放り投げました。
彼を湛えている
緑と青が共存する目が
透明に輝いていました。
長い睫毛の先に引っかかっている
涙の粒と、赤く熱くなった目頭が、
必死に涙を堪えている女を
より一層、凄然として
美しく見せていました。
この魔女のような女の意のままに
弄ばれていた過去を回想する
バスティアンの唇の上に
歪んだ笑みが浮かびました。
とっくに
捨ててしまうことができたのに、
躊躇して迷いました。
契約書に明記した条項を
盾に取りましたが、
実のところ、そんなものには
一度も心を砕いたことが
ありませんでした。
ただ、そういう形で、
関係を壊したくありませんでした。
永遠に、この女の心を得ることが
できなくなるのではないかと
恐れていたようでした。
並んで横になっていた妻のそばで
眠れぬ夜ごとに訪れた煩悶でした。
いや、もしかしたら、
賭場で勝ち取った女を、
無事に帰してやった
あの夜からだったのかも
しれませんでした。
「バスティアン」
オデットは涙声で
彼の名前を囁きました。
賢い戦略ではありました。
ただ涙ぐんで助けを請うだけで、
喜んで慈悲と寛容を施した
愚かな奴が、まさに自分だったから。
残念ながら、その状況は
もう有効ではないけれど。
哀願するように袖口をつかむ
オデットの手を振りほどいた
バスティアンは、
深い闇に沈んだ目を伏せて
腕時計を確認しました。
皇帝との約束を
破るわけにはいかないので、
適度なところで終わらせなければ
なりませんでした。
この女の気持ちなんかは、
もうどうでもいい。
魔女の言葉に対する新たな答えでした。

猛烈に激化した交わりは、
バスティアンの歯の隙間から漏れ出した
抑えこまれた、うめき声の中で
終わりを迎えました。
この女と、
ついに、こんなことをしてしまった。
体が徐々に冷え、
道理をわきまえるだけの
理知が戻って来ると、
バスティアンは、
その事実を改めて実感しました。
バスティアンは
虚ろな笑みを浮かべながら、
自分の影の下にいる
オデットを見つめました。
長い道のりを回り道して、
また元の場所に戻って来たような
気分でした。
虚しかったけれど、
一方ではすっきりしました。
損をしない計算。
最初からそうすべきだった方法で
この取引を終結させられたのだから。
乱れた呼吸を整えたバスティアンが
身を引くと、
オデットは崩れるように
デイベッドの上に倒れ込みました。
背中と肩が
細かく震えていなかったら
気を失っていると見ても
無理がない様子でした。
バスティアンは
ジャケットのポケットから取り出した
ハンカチで
交わりの痕跡を拭いました。
ズボンの前を整え、
ベルトを締めるだけで、
彼は最初とあまり変わらない姿を
取り戻しました。
めちゃくちゃに乱れたオデットとは
対照的な姿でした。
汚れたハンカチを、
未練なく捨てたバスティアンは、
そのまま、まっすぐ
浴室へ向かいました。
女の体臭が染みついた手を洗い、
タイとカフスの形を整えました。
それ以外のものには、
再び手を出す必要がなさそうでした。
最後に洗面台の上に外しておいた
結婚指輪を、
再びはめたバスティアンは
そのくらいで寝室に戻りました。
オデットは、まだ
デイベッドの上に倒れていました。
背を向けて横になっているのが
唯一の違いでした。
金色の日差しに染まった
女の体の上を流れる
バスティアンの視線は、
血痕が残っている脚の間で
しばらく止まりました。
眼差しが深く沈みましたが、
それほど長くは続きませんでした。
それほど驚くことでも、
特別なことでもありませんでした。
フランツ如きが、
この鼻高々の女の歓心を買ったとは、
一度も思いませんでした。
ジェンダス伯爵については
判断を保留していましたが、
このような結果を
予想していなかったわけでは
ありませんでした。
むしろ他人の妻と
むやみに寝転ぶような奴だったら、
もう少し寛大に見てやれたかも
しれませんでした。
少なくとも
オデットが身ごもる子供の父親が
誰なのか心配する必要はないと
完結な結論を下しました。
他の男と関係を持ったことのない
女である事実は、
この結婚が終わる瞬間まで
変わらないはずでした。
それ以外の可能性は
念頭に置いていませんでした。
自分が許さないから。
バスティアンは落ち着いた足取りで
デイベッドの前に近づきました。
手袋は、オデットの服の山の中に
置かれていました。
皇宮には、
皇帝からもらった貴重な贈り物は、
とても大切に保管していると
代わりに安否の挨拶を伝えると、
冷笑を浮かべてオデットを嘲りながら
バスティアンは手袋を拾いました。
オデットは依然として沈黙を守り、
彼に背を向けたままでした。
そのくだらない意地のおかげで、
交わりの痕跡でいっぱいになった姿が
さらに見ごたえがあるように
なりました。
ゆったりと手袋をはめたバスティアンは
その辺で背を向けました。
テーブルに置かれていた花束を
落としたのは、
意図していないミスでした。
それを避けようとしなったのは、
多分に意図的な選択でしたが。
バスティアンは、
靴で踏みにじられた
バラの香りを残して、
妻の寝室を去りました。
一定の歩幅と速度を保ちながら歩く
足音が、夕暮れの静けさが漂う廊下に
響き渡り始めました。
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オデットとバスティアンは
夫婦なので、
このようなことが、いつ起こっても
おかしくない状況でしたが、
オデットには、
このような形で、初めてを
迎えて欲しくなかったというのが
素直な感想です。
急いでいたし、無理矢理だったので
かなり乱暴だったのではないかと
思います。
女性としての尊厳が
踏み躙られたような気がしました。
けれども、
バスティアンの立場から考えると
契約上の夫婦を解消するまで
ずっと欲望に耐えて来たのに、
そして、
オデットを愛するようになって
本当の夫婦になろうと決心したのに
オデットが、自分の仇である
テオドラの言いなりになって
自分を裏切ったことが
相当深い傷になっていると思います。
オデットを痛めつけたくなるのは、
こんなことをするほど、
自分は傷ついているということを
彼女に分かってもらいたいという
気持ちからなのではないかと
思いました。
ジェンダス伯爵は、
知性も教養も身分もある。
お金と、おそらく顔でしか
彼に勝てないバスティアンは
せめて、ジェンダス伯爵が
人妻と不倫するような男であれば
見下すことができると
考えたのではないかと思いました。
ジェンダス伯爵の代わりに
踏み潰されたバラの花束に
同情します。
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