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113話 オデットはバスティアンから逃げたがっています。
スピードを上げて走っている馬車が
ラッツの中心部に差し掛かりました。
窓の外を通り過ぎる
フレベ大通りの風景を見たオデットは
安堵の笑みを浮かべた顔で
トリエ伯爵夫人に向き合って
お礼を言いました。
トリエ伯爵夫人は、
たかがこの程度のことで、
褒め言葉を聞く気はないと、
大したことではなさそうに返事をして
手を振りました。
その瞬間にも、彼女はオデットを
注意深く観察していました。
トリエ伯爵夫人は、
アルデンに住む親戚を訪ねて帰る途中
しばらく
クラウヴィッツ家に立ち寄りました。
豪邸の塀の外に出て来ない
オデットのことが心配で、
下した決定でした。
ただ安否を確認して
お茶を一杯飲む程度の短い時間で
終わらせるつもりでした。
オデットが、
思いがけない頼み事をして来るまでは。
トリエ伯爵夫人は、
もしかして何かあったのかと、
ずっと喉元まで出かかっていた質問を
慎重に口にしました。
高価な車を、
おもちゃを買い集めるかのように
手に入れている
金持ちの夫を持つ娘が、
あえて老人の旧式馬車に
乗せてもらいたいと頼みました。
ラッツに急用があるからと
言っていましたが、
考えれば考えるほど、
不審な点がたくさんありました。
それでも知らないふりをして
承諾したのは、
しばらく会わない間に、
さらにやつれたオデットが
心配だったからでした。
姿勢を正したオデットは
にっこり笑って首を横に振ると、
いえ、そういうことではない。
久しぶりに伯爵夫人に会えて
嬉しかったので、どうせなら
一緒に移動する時間を過ごしたかったと
答えました。
トリエ伯爵夫人は、
まだ疑いが晴れていない様子でしたが
まあ、長く生きていると、
あなたから、このようなお世辞を
聞くこともあるものだと言って、
幸いにも、その辺で退いてくれました。
トリエ伯爵夫人は、
目的地はどこなのか。
どうせ乗せているのだから、
ついでに、そこまで
送ってあげるつもりだと言いました。
しかし、オデットは、
次の角を差しながら、
大丈夫。もうすぐ着くので、
あの辺りで降りることにすると
返事をして、
急いで荷物をまとめ始めました。
ティラが出発する日は
もう半月後に迫っていました。
その前にあらかじめ品物を売って
お金を用意する必要があることを
知りながらも、
オデットは簡単に動けませんでした。
尾行されて、行動がバレることを
恐れていたからでした。
バスティアンの車や運転手を
利用するのは危険でした。
しかし、
1人で駅馬車に乗って外出するのも
同様に怪しいはずでした。
全く、これといった方法がなく、
目の前が真っ暗になりかけた頃
トリエ伯爵夫人が
訪ねて来てくれました。
救いの光のように訪れた
チャンスでした。
会社の仕事で忙しくなった
バスティアンが、数日間アルデンに
戻れなくなったという点で
なおさらでした。
馬車は、
ラインフェルトホテルが建っている
繁華街で止まりました。
丁重に別れの挨拶をしたオデットは
最初に処分する貴重品と
がらくたの入ったカバンを
大切に抱えて馬車から降りました。
もう行こうとした時、
自分を呼ぶトリエ伯爵夫人の声が
聞こえて来ました。
オデットは、
できるだけ自然な笑みを浮かべようと
努めながら振り向きました。
トリエ伯爵夫人は、
もし助けが必要なことがあったら
自分を訪ねて来るように。
何でもできるとは断言できないけれど
それでも、
あなた1人で、くよくよするよりは
マシではないかと言いました。
じっとオデットを見つめる
彼女の眼差しには、
温かい思いやりと憐憫が
込められていました。
唇を開いては閉じることを
繰り返していたオデットは、結局
「・・・はい、伯爵夫人。
そうします」と、
適正線を守る答えを選びました。
トリエ家の馬車が
プレベ大通りの向こうへ遠ざかると
オデットは慌てて踵を返しました。
本当の目的地は街の裏側の
迷路のように入り組んだ路地の端に
位置していました。
賭場や娼館、その他数多くの闇商売が
盛んに行われている裏通りでした。
ここにある質屋は、
何でも密かに買い取ってくれることで
有名でした。
母親の遺品はもちろん、
履いていた靴まで売った
父親のおかげで知った事実でした。
黒いベールをかぶって
顔を隠したオデットは、
慣れた道沿いを
早足で歩いて行きました。
よりによって、
あの賭場の向い側だということに
気づいたのは
質屋の前に着いた後でした。
父親のギャンブルの借金のせいで売られ
あの男と会うことになった場所でした。
オデットは思わず立ち止まり、
その賭場を見つめました。
バスティアンが施してくれた慈悲は、
結局お互いを蝕む毒となって
返って来ました。
今、あの男の人生から消えることが
オデットに残った
最後の贖罪の道でもありました。
一抹の罪悪感も残さずに
背を向けることが
できるようになったのだから
それでいい。
彼が好きな取引のように。
ただそれだけのことでした。
それが正しかったし、
そうあるべきでした。
深呼吸をしたオデットは、
断固たる動作で
質屋のドアを開きました。
ドアチャイムが鳴る音が
岩窟のような店の中に
響き渡りました。

今、渡した書類は、
フェリアとベロップを繋ぐ
鉄道事業権落札のための戦略報告書だ。
この区間を買い取り、
現在イリスが所有している
ベルク内陸鉄道路線と一つに統合すれば
大陸北部で強力な運送網を形成できると
予想される。
バスティアンは、丁寧で事務的な口調で
業務報告を続けました。
ラビエル公爵を
まっすぐ見つめる青い瞳には、
傲慢と言ってもいい余裕が
込められていました。
その厚かましい態度に
あまりにも呆れて、ラビエル公爵は
つい笑ってしまいました。
離婚と再婚に対する確約を
取り付けて欲しいという
サンドリンの執拗な要求は、
日増しに頑強になっていました。
古物商の孫なんかに、
あれほど執着している娘を、
全く理解することができませんでしたが
このまま
放っておくわけにもいかないので、
結局、自分で、
直接乗り出すことにしました。
その目的を
明らかに知っているはずなのに
バスティアンは平然としていました。
何事もなかったように彼を迎え
当然の手順のように
事業についての議論を始めました。
秘書から聞いた話では、
会社で徹夜したらしいけれど
疲れたり疲労している様子は
見当たりませんでした。
徹夜の痕跡は、
顔を洗って来たばかりで、
水気が残っている顔ぐらいでした。
シャツは新しく着替えたのか、
しわ一つなくきれいな状態でした。
古物商の孫に翻弄されているような
気分でしたが、
とりあえずは見守ることにしました。
生まれつきの猟犬は、今回も
見事な獲物を見つけたようなので
この件で得られる莫大な利益を考えれば
この程度の無礼は
目をつぶるに値するものでした。
イリスと手を組んで始めた鉄道事業は
日に日に繁盛しているところでした。
早く基盤を築く上では、
ラビエルの功績が大きかったけれど
急激な成長で、今の地位に
上り詰めることができた原動力は
イリスにありました。
数年の間に変わった力の優位を
よく知っているはずでした。
だから、あえてラビエルの娘を
籠絡しているのでした。
投資契約書を検討したラビエル公爵は
署名をする前に、
君から聞くべき返事があると
話題を変えました。
バスティアンは淡々と肯き
「どうぞ、お話しください」と
返事をしました。
ラビエル公爵は、
すでに知っているようなので、
単刀直入に聞くけれど、
うちの娘の涙ぐましい忍耐と献身は
一体、いつ頃、実を結ぶのかと
尋ねました。
不満を吐露するラビエル公爵の眉間が
神経質そうに歪みました。
彼は、
自分たちは、約束通り
離婚訴訟をきれいに終結させたし、
君も目標を達成したのではないか。
それなのに、なぜ
まだ彼女と一緒に暮らしているのか、
全く理解できないと
不満を漏らしました。
しかし、バスティアンは、
申し訳ないけれど、
自分と皇帝との間の取引は
まだ成立していないと返事をしました。
ラビエル公爵は、
確か2年だけ、
結婚生活を維持すればいいと
言っていたような気がするけれど
自分の記憶が間違っていたのかと
尋ねました。
バスティアンは、
そのような条件だったけれど、
変化要因ができたので、当分は
この結婚を維持するつもりだと、
抑揚のない声で落ち着いて答えました。
嘘をでっち上げているようには
見えませんでした。
ラビエル公爵は、
とんでもないことだ。一体、
あと、どれくらい待てと言うのかと
抗議しました。
バスティアンは、
まだ確答するのは難しい。
もしラビエル嬢が
受け入れがたい決定なら、
次善の策を探してもいいと
返事をしました。
ラビエル公爵は
「次善の策?」と聞き返しました。
バスティアンは、
ラビエル公爵が万一に備えて
探しておいた別の縁談のことを
言っていると答えました。
ラビエル公爵は
呆れたようにため息をついて
首を振ると、
バスティアンが、あの遠い北海の島に
閉じこもっていても、
大陸の隅々まで見渡していたようだと
言いました。
サンドリンの離婚の事実が知れ渡ると
あちこちから
縁談が持ち込まれ始めました。
ほとんどが高貴な家柄の
立派な花婿候補だったので、
何度か適当な席を設けましたが
サンドリンの愚かな意地のせいで、
実を結ぶことはできませんでした。
ラビエル公爵は、
君があまりにも愛妻家だという噂が
広まっていたので、
心変わりしたのかと思った。
それが事実なら、自分たちも
それなりの備えをしておくのが
公平だと言い返しました。
バスティアンは、
ラビエル公爵の立場は
十分に理解していると答えました。
ラビエル公爵は、
今さらサンドリンを
捨てると言うのかと非難しました。
バスティアンは、
依然としてラビエル嬢を
再婚相手の第一候補として考えている。
しかし、今のところ、
令嬢が望む答えをするのが難しく、
そのような理由で
縁談が壊れることになれば、
その責任は、
約束をきちんと果たせなかった
自分にあるわけだから、結果を
謙虚に受け止めるという意味だと
感情のこもっていない顔で
説明を続けました。
公務を論じる時と
変わらない態度でした。
ラビエル公爵は、彼が女を
幸せにしてやれる男ではないと
確信しました。
彼のそばで生きて行けば、
永遠に満たされない愛を渇望し
寂しく枯れて行くであろう娘の未来が
はっきり見えるようでした。
もし婚約が破棄されることになっても
それに対する責任も回避しないという
男に娘を与えることが
果たして正しいことなのかと
疑念がよぎった瞬間、バスティアンは
ラビエル公爵が
次善の策を選んだとしても、
協業関係は、
このまま維持できるようにする。
結婚が実現した後に
渡すことにしていた利権も
最初の約束通り配分する予定だ。
もちろんラビエル側が、この提案を断り
合弁事業を撤回したいのであれば、
その決定を尊重すると、
予想外の言葉をかけました。
ラビエル公爵は、
眉を顰めて彼に向き合うと、
娘を与えようが与えまいが、
同じ利益を
得させてくれるということかと
尋ねました。
バスティアンは、
さほど違わない意味だと答えると
静かな笑みを浮かべながら、
机の上に散らかっている
書類の山を片付けました。
バスティアンは、
決定を下すのが難しいようなら
もう少し時間を与えると、
とてつもなく恩着せがましく
振る舞いながら、
署名欄が空白の投資契約書を
回収しました。
相手を配慮しているようでしたが
よく見ると、結局、
彼が主導権を握るという意味に
他なりませんでした。
ラビエルに保障した利益は、
イリスも同じように
得ていくことになるだろうから。
それでも拒否できないほど
甘い誘惑という点が
ラビエル公爵を虚しくさせました。
くそったれなベルクの奴らめ!
深いため息をついたラビエル公爵は
結局、契約書を奪い取りました。

お帰りなさいませ。
奥様はサンルームにいます。
ロビスの出迎えの挨拶は、
女主人の居場所を報告することから
始まりました。
最近になって、できた習慣でした。
週末の間ずっと、
ラッツに滞在するという決定を
覆した理由については、
あえて聞きませんでした。
短く目で答えたバスティアンは、
いつもより、ゆっくりとした足取りで
ホールを横切りました。
優に3日はかかるだろうと
言っていた仕事を
2日で処理して帰って来たので、
どんなに健康で元気旺盛な
若者だとしても、
疲れるはずの日程でした。
ロビスは、
まずは部屋に戻るように。
奥様には自分が代わりに
ご主人様の帰宅を伝えるようにすると
言いましたが、バスティアンは
その必要はない。
そのままにしておくようにと
断りました。
ロビスは、
それでは、食事の用意をすると
告げましたが、バスティアンは
しばらく走って来る。後のことは、
それから考えてみることにすると
返事をすると、にっこり笑い、
影のように後を付いて来る
執事を振り切った後、
階段を上りました。
頭が混乱している時は
運動をした方がいい。
長年繰り返してきた習慣でした。
着替えたバスティアンは
すぐに邸宅を出て
海岸の遊歩道に向かいました。
彼が、ふと足を止めたのは、
邸宅の角を曲がった頃でした。
開いている2階の窓から
音楽が流れて来ていました。
バスティアンは、
聞き慣れない旋律の方へ、
ゆっくりと頭を上げました。
サンルーム。
オデットがいる場所でした。
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バスティアンは
ラビエル公爵に対しても、
のらりくらりとかわし、
自分ではなく、ラビエル公爵に
選択させようとしています。
もしかして、それが
バスティアンの使う手なのでしょうか。
サンドリンに対しても、
自分が別れを告げるのではなく、
彼女から去っていくのを
待っているとか。
オデットが逃げるのは、決して
待っていないと思いますけれど。
バスティアンは
オデットと離婚をする気がないのだから
サンドリンと再婚できるわけが
ありません。
サンドリンに対して、
このまま曖昧な状況が続けば、
サンドリンが可哀想です。
彼女がバスティアンを諦めて
前に進むためにも、彼女に対して
けじめをつけてあげなければ
いけないと思います。
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