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114話 オデットはサンルームでピアノを弾いています。
最後の音の残響が
サンルームを満たした日差しの中に
消えて行きました。
オデットは、ほっと一息ついて
鍵盤から手を離しました。
一生懸命練習していた頃には
及ばないけれど、
それでも、この程度なら、再び手が
硬くなってはいないようでした。
はたして、
家庭教師の職を得られるほどの
実力なのかは、
まだ確信が持てませんでしたが。
ピアノの前で立ち上がったオデットは
サンルームに置いた持ち物を
もう一度調べ始めました。
無事に逃げるのに成功したとしても、
すぐに仕事を始めるのは難しいだろう。
下手をすると、
捕まるかもしれないので、
当分の間は、身動きが取れず、
隠れて過ごさなければならない。
それなのに、
昨日、質屋から受け取ったお金では
全然足りませんでした。
最後に処分するために残しておいた
ドレスと結婚指輪の値段を足しても
同じでした。
文鎮やヘアピン、膝掛け毛布。
売れそうなガラクタを集めていた
オデットの視線が
ふと自分の手首に向かいました。
今朝、ドーラがはめてくれた
金のブレスレットには、
ルビーとダイヤモンドが
ぎっしりと飾られていました。
所有する全てのものが
そうであるように、
質の良い最高級の宝石でした。
しばらく心が揺れましたが、
オデットは、
結局無駄な未練を捨てました。
あの男に犯した罪の代償が、
どれほど悲惨でぞっとするのか
すでに身に染みて学びました。
そこに盗みという罪名まで
加えるのは嫌でした。
オデットはまず、
マルグレーテのベッドとして
使用していた籠に
売りに出す品物を集めました。
腹痛に襲われたのは、それを持って
立ち上がろうとした時でした。
しばらく物思いに耽っていた
オデットは、窓際に近づきました。
日で熱くなった窓枠に座り、
目を閉じて体の感覚に集中しました。
勘違いではなかったと言うように、
すぐにまた、
チクチク刺すような不快な痛みが
訪れました。
良かった。本当に良かった。
オデットは大きく安堵し、
ズキズキするお腹を撫でました。
月経が近づくにつれて、
次第に不安と焦りが募りました。
そんなはずがないと
分かっていながらも、
それでも、もしやと、ついつい
最悪の事態を想定するたびに、
息が止まるような気がしました。
ほんの数日遅れただけなのに、
予定日を過ぎた後は、まともに
眠ることができませんでした。
興奮を鎮めたオデットは、
胸の痛みも慎重に確認しました。
これで安心できると確信した頃、
あの男を見つけました。
明日の夕方にならないと
帰って来ないと言っていた
バスティアンが
窓の下を通り過ぎていました。
オデットは、
丸く見開いた目を瞬かせながら
体を起こしました。
改めて見ても、確かにあの男でした。
スポーツウェア姿のバスティアンが
邸宅の庭園と海岸を結ぶ道を
走り始めました。
予定より早い帰宅のため、
時間通りに迎えに出られないことは
度々ありましたが、
その時は、いつもロビスが
知らせに来てくれました。
彼が帰って来て、服を着替えて
運動に出かけた今まで、
何の連絡もないのは、
どうも不思議でした。
執事は決して
そのようなミスをする人ではないので
おそらく、
バスティアンの命令だったのだろう。
もしかして、欲望の有効期限が
切れたのではないか。
オデットは、
微かな希望のこもった目で
遠ざかって行くバスティアンを
見つめました。
よく鍛えられた筋肉が付いた足で
力強く走り出すその姿から、
強靭な力と活気が感じられました。
一晩中、激務に追われて来たとは
信じられない様子でした。
徐々にスピードを上げて走った
バスティアンは、
すぐに海岸沿いに造成された
遊歩道の向こうへ消えて行きました。
オデットは再び窓枠に座って
痛いお腹を抱えました。
断続的に繰り返されていた痛みは、
夕暮れ時になって
ようやく収まりました。
ゆっくりと息を整えたオデットは
遠くから聞こえて来る
晩鐘の音に導かれるように
首を回しました。
その視線の先に
バスティアンがいました。
いつの間にか戻ってきた彼は、
海岸と庭の境界に
立ち止まっていました。
遅くとも明日には始まるだろう。
突如、襲い掛かった懸念を、
努めて払い退けたのと同時に
バスティアンが頭を上げました。
正確な目標に狙いを定めるかのように
自分に向けられたその男の視線を
オデットは
避けることができませんでした。
海を通って来た風の中で
2人の目が合いました。
その静かな見つめ合いは
夕焼けが真っ赤に染まる頃まで
続きました。

バスティアンは
女を粉々に砕くかのように
抱きしめたまま、絶頂に達しました。
息を切らしていたオデットは、
まもなく、ぐったりとしました。
そのくらいで体を放した
バスティアンは、
柔らかいため息をついて
ベッドに横になりました。
闇に沈んだ部屋に差し込む月光の影が
壁と天井の上に伸びていました。
依然として、オデットは、
死んだように、うつ伏せになったまま
息を整えていました。
一日中、鋭く張り詰めていた神経が
ようやく緩みました。
肺が破裂しそうなくらい疾走しても
ついに得られなかった陶酔感でした。
ベッドを離れようとして
気が変わったバスティアンは、
まるで地図を読むかのような
注意深い視線で
オデットを探りました。
特に青白くて滑らかな女は、
雪で作り、氷を削って作った彫刻を
連想させました。
背筋に沿って続く優美な曲線を
下って行くと、腰の下に広がる
多くの赤い痕跡が目に入りました。
それに似た痕跡は、
その下に長く伸びている脚の上にも
鮮明に残っていました。
この痕跡が刻まれた足首と膝の裏を
遡ったバスティアンの視線は、
しこりができた脚の間で
しばらく止まりました。
自分でも意識していないうちに、
目尻が細くなり、
首がゆっくりと蠢きました。
傷つきやすい女でした。
バスティアンは、
自分のものに残ったその傷が
嬉しくありませんでした。
「・・・オデット」
バスティアンは衝動的に
名前を呼びました。
オデットはいつものように
沈黙で抗議しました。
「あっ!」
鋭い悲鳴が、
静寂の中に響き渡りました。
オデットは、暗闇の中でも
青く輝く瞳に向き合って初めて
自分に起こったことに気づきました。
彼女を仰向けに寝かせた
バスティアンが、
しっかり目を合わせて来ました。
オデットは仕方なく、
その男と向かい合ったまま
視線をそらしました。
髪をかき分けて入って来た
長い指が動き始めると、圧迫感が
ますます大きくなって行きました。
まるで大事にしている動物を
撫でるかのような手つきでした。
「仕事は順調ですか?」
嘲笑のこもった声が
闇の中を伝わって来ました。
慌てたオデットは
思わず息を吞みました。
結局、尾行されてしまったのか。
オデットの目の前が
真っ白になった瞬間、
バスティアンはクスッと笑い、
なぜ?もう継母の犬役を止めたのか。
自分は恐怖でブルブル震える準備が
できているのにと、幸いにも、
別の方向へ矢を向けました。
胸をポンと叩くように過ぎ去って行く
悲しみと羞恥心に
目元が熱くなりましたが、
オデットは、結局泣きませんでした。
いつかは、
今この瞬間も色あせた過去となり、
薄れて行くだろう。
悲惨な没落と喪失の記憶さえ
結局、そうだったように。
時間は流れるものだし、
その時間の前には、
永遠のものなんてないから。
オデットは
それをよく知っていたので、
大丈夫でした。
一生懸命稼がなければならない。
必死に貯めたお金を
全て異母妹に渡したはず。
もう一銭も惜しい状況ではないか。
盗むものがあるなら、
一度言ってみるように。
上手く媚を売れば、
タダで手に入れることが
できるかもしれないことを、
もしかして、知っているか。
それでも自分の子供を産む女なので
再びネズミのように盗みを働いて、
底辺まで落ちては困ると思うと
耳に心地よい声で発せられるけれど
それにそぐわないバスティアンの言葉が
ゆっくりと続きました。
返事を求めていたわけでは
なかったのか、バスティアンは
オデットの沈黙を
問題視しませんでした。
それでいいことでした。
オデットは黙々と
この夜の終わりを待ちました。
幸い、
再び始める意思はなさそうなので、
すぐに振り向くことなく
去っていくだろう。
そうすれば、体を洗って、
ベッドを整えて、寝ればいい。
ここ数週間続いてきた方式でした。
「・・・バスティアン?」
不吉な予感に囚われたオデットが
目を覚ましたのは、
耳元に規則的な寝息の音が
聞こえ始めた頃でした。
とんでもないことに、
バスティアンは
このベッドで眠っていました。
オデットは、
静かなため息をつきながら
その男に背を向けました。
つかまれた髪を慎重に抜き、
重い腕を押し退けました。
しかし、その努力は、結局
水の泡となってしまいました。
ベッドの端へ這って行く
オデットの腰をつかんだ
バスティアンが、彼女を
胸の奥深くまで引き寄せました。
あっという間に背中と胸と
足が絡み合いました。
必死にもがいていたオデットは
瞬く間に死人のような顔になり
抵抗するのを止めました。
バスティアンは、
あなたは、
自分とこれをするのが良いと
思ったのでしょう?と
耳を洗いたくなるほど汚い言葉で
オデットを嘲弄し、
低い声でクスクス笑いました。
オデットは、
手を離して。
耐えられないほど気持ち悪いと
訴えましたが、バスティアンは、
それなら、余計なことを考えずに、
早く子供を渡して出て行けと
返事をしました。
オデットが
冷たい怒りで震えている間に、
彼は胸を
さらに密着させて来ました。
片方の腕で腰を抱き、
もう片方の腕で肩を抱きました。
硬くて引き締まった筋肉でできた体は
リラックスしている瞬間にも
脅威的でした。
バスティアンは、
そうしてこそ、互いに嫌なことを
終わらせられるではないかと言うと
無造作に触れていた胸から手を離して
お腹に触れました。
オデットはブルブル震えながら
首を横に振りました。
ありったけの力で握って、引き離して
押し出そうとしましたが、
結局、指一本も
どうすることもできませんでした。
オデットの頭に顎を乗せた
バスティアンは、
どうせなら、
あなたにそっくりな娘を産んで
去るように。
一生、実の母を知らずに生きて行く
哀れな子供が
あなたについて尋ねたら、
鏡を見ろという慰めの言葉を
掛けられるようにと、
低く囁きました。
冷めていく体を撫でる大きな手から
硬いタコの感触が
鮮明に感じられました。
柔らかいけれどザラザラしていました。
オデットは、
喉元までこみ上げてきた激怒を
堪えながら目をギュッと閉じました。
この男は、
日に日にさらに狂っていくのが
明らかでした。
ティラの結婚式の日を
あまり先に決めなくて
本当に良かったと思いました。
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オデットは
バスティアンを裏切ったけれど、
彼は、まだオデットのことを
愛している。
その気持ちが湧き上がって来る度に
この女は自分を裏切ったと言い聞かせ
オデットを苦しめることで
自分の気持ちを抑え込もうとしている。
オデットに、テオドラのスパイのことを
ほのめかしたのは、
もう一度、オデットが、
そうしてくれたら、今度こそ、
オデットへの気持ちを断ち切れると
思っているのではないかと思いました。
オデットの立場から考えると
バスティアンの言動は
たまったものではないけれど、
彼から悲哀を感じます。
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