
55話 ペンドルトン嬢はダルトン氏と最後まで踊ることを願っています。
ひょっとしてペンドルトン嬢は
自分のことを少しは、ほんの少しは
好きになったのではないだろうか。
そう思うと、イアンの心臓は、
さらに激しく鼓動し始めました。
彼は、どうかペンドルトン嬢が
自分に顔を見せて欲しい。
彼女の顔が見たい。
彼女の瞳に宿る光と微かな表情の変化を
隅々まで確認したい。
その中に浮かんでいる
希望の小さな欠片でも見つけたいと
思いました。
しかし、ペンドルトン嬢は
曲が終わるまで
彼に顔を見せませんでした。
ダンスが終わると、
彼女は彼から体を離しました。
自然に彼女の手も
彼の手から離れました。
ペンドルトン嬢は、
久しぶりに踊ったので少し疲れた。
休憩室で
しばらく休まなければならないと
言いました。
ダルトン氏は、
エスコートを申し出ましたが、
ペンドルトン嬢はダルトン氏に
早く気に入った淑女に、
次のダンスを予約しなければならない。
自分は一人で行くと告げると、
彼の目を避けて
急いで中に入ろうとしました。
ダルトン氏は、
少し待って欲しいと言って
ペンドルトン嬢の腕を掴みました。
彼女は彼を見ました。
彼は黒い瞳で、
真剣に彼女を見つめていました。
彼女は彼から顔を背けました。
ペンドルトン嬢は、ついさっき、
彼にワルツを続けようと
哀願したことを考えると
恥ずかしくなりました。
最後になるかもしれない
彼とのダンスが中断されるのが嫌で
縋りついた自分。
ひょっとして、それによって
自分の気持ちがばれたのではないかと
彼女は怖くなりました。
ダルトン氏は、
自分の目を避けないで欲しいと
訴えましたが、
ペンドルトン嬢は首を横に振りました。
ダルトン氏は、
あなたを、
このまま行かせるわけにはいかない。
あなたのことが心配だと言いましたが、
ペンドルトン嬢は、
自分のことを心配する必要はないと
返事をしました。
ダルトン氏は、
以前、手紙の中で、自分はいつも
あなたの忠実な僕だと
書いたことがあるけれど
覚えているかと尋ねました。
ペンドルトン嬢は、
「はい」と答えました。
ダルトン氏は、
それは、いつも有効だ。
あなたが、
どんな状況に置かれたとしても。
自分はあなたの忠実な僕だ。
だから、
どんなことでも言って欲しい。
自分はあなたのために
何でもする準備ができていると
言いました。
彼女の瞳が揺れました。
彼の温かい言葉に、
ふと昨日の悲惨な出来事、
自分に与えられた侮辱と虐待のことを
思い出しました。
彼女は、
そのまま涙を流したくなりました。
彼の胸に抱かれて、
昨日のことを全部打ち明け、
彼に慰められたいと思いました。
しかし、それは、
ただの想像のままで終わりました。
ペンドルトン嬢は微笑みながら、
自分の腕をつかんでいる彼の手を
そっと引き離しました。
ペンドルトン嬢は、
ダルトン氏にお礼を言った後、
あなたも自分の一番大切な友達で
誰とも代えられない友達だという
言葉だけを残してテラスを出ました。
ダルトン氏は
ペンドルトン嬢の後ろ姿を見ながら
何も言えませんでした。
一番大切な友達。 誰とも代えられない。
その言葉は、ドキドキする心臓に
棘となって刺さりました。
自分は彼女の友達でした。
それ以上を望むなら、
見捨てられてしまうに
決まっている、ただの友達でした。
心の中に渦巻いていた告白の言葉が
散り散りに消えました。
しばらくの間、彼は独りで
そのまま立ち尽くしていました。

ペンドルトン嬢はテラスから離れて
再び舞踏会場に戻って来ました。
会場内は、最初に来た時より
優に100人は増えていました。
蒸し暑い空気が、
彼女の肺に入り込みました。
息が詰まるような熱気と
騒々しいざわめき。
ペンドルトン嬢は
そわそわした気持ちが、
さらに、かき乱されました。
彼女は、人々の間をかき分けて
通り過ぎました。
その間、何人かの紳士が
彼女にダンスを申し込みましたが、
ペンドルトン嬢は断りました。
ダンスをする気分には
到底、なれませんでした。
彼女は、そのまま
女性用休憩室に歩いて行きました。
女性用休憩室は
すでに人でいっぱいでした。
待機していたお針子に、
スカートのほつれを
直してもらっている淑女。
頭に飾っているリボンの結び目を
互いに直し合っている淑女たち。
鏡を見ながら、
身だしなみを点検する淑女たち。
単に女性同士で
気楽にお喋りをするために
座っている淑女たち。
そして壁の花になりたくなくて
隠れている淑女たち。
舞踏会に参加した淑女の5分の1は、
ここに集まっているようでした。
あまりにも混んでいたので、
ペンドルトン嬢は、
座る場所が見つかりませんでした。
彼女は再び出て行こうとして
振り返ると、
聞き慣れた声が聞こえました。
彼女は、そちらへ顔を向けました。
声の主は、
ビクトリア・ウィルクス嬢でした。
彼女は、スカートの後ろの裾を
お針子に直してもらいながら
スーザン・ドノバン嬢と
お菓子を分け合って食べていました。
ウィルクス嬢は、
「今日こそ必ず、
ワルツを申し込むだろうから・・」
と言っている途中で、
ペンドルトン嬢を見つけ、
「あら、ペンドルトン嬢!」と
声を掛けました。
彼女は、
自分の隣に席があるので、
こちらへ来てと誘いました。
ペンドルトン嬢は
首を横に振ろうとしましたが、
そばにいたドノバン嬢まで加わって
両腕をやたらと自分の方に振りながら
「早く来てください」と叫びました。
彼女たちは、先ほどの舞踏会場で
彼女を片付けるという計画が
挫折したことを
挽回しようとするかのように、
熱狂的に彼女を呼びました。
ペンドルトン嬢は困惑しながら
彼女たちを見つめました。
知らない人の間に気楽に座って
感情を整理したかったけれど、
顔見知りの淑女たちに
見つかった以上、彼女たちを
無視することはできませんでした。
彼女は淑女たちに近づきました。
ドノバン嬢はペンドルトン嬢に、
ドレスを直しに来たのか。
それとも、
装飾がずれてしまったのか。
自分たちが直してあげようかと
親切に尋ねました。
ペンドルトン嬢は、それを否定し
少し休もうと思っていると
答えました。
ウィルクス嬢は、
それでは、
自分たちと一緒に休もうと言って、
隣のクッションを片付け、
席を作ってくれました。
ペンドルトン嬢は快く
彼らのそばに座りました。
しかし、
あれほど熱心に呼んだのに、
ペンドルトン嬢が実際にそばに座ると
彼女たちはペンドルトン嬢のことは
どうでもよくなりました。
2人は再び頭を寄せ合って、
ひそひそ話を続けました。
今回のカドリールも
フェアファクス氏と
踊ることになったが、
おそらく、次のワルツは
ダルトン氏と踊るだろう。
ああ、ランス嬢と、
彼女のダンスの相手について
話していたのね。
ペンドルトン嬢は、
使用人が持って来てくれた
レモネードを受け取り、
口を潤しながら、
黙って彼女たちの話を聞きました。
そうだろうか?
ダルトン氏がどこにいるのか
見当もつかない。
最初のワルツを
フェアファクス氏と踊るなんて
もったいない。
彼はハンサムだけれど、
ただの次男ではないか。
うちの母の話によると、
優良な財産は全て兄に渡ったそうだ。
持っている土地も
手のひらほどの大きさで、
カントリーハウスも、
豪邸とは呼べないほど小さいそうだ。
ダルトン氏と比べると雲泥の差だ。
こんなことを言うのもなんだけれど
ドーラの相手としては
足元にも及ばない。
ドーラの相手はダルトン氏だ。
条件であれ、家柄であれ、
ああ、特に人物が!
そうね。
ダルトン氏は本当にハンサムだ。
今回の社交シーズンも
来月から終わりに近づく。
おそらく、秋になる前に
結婚式を挙げるだろう。
ドーラ・ランスが
ドーラ・ダルトンになる日も
遠くない。自分が断言する。
ペンドルトン嬢は彼女たちの会話に
心が重く沈みました。
ランス嬢の側近が
そこまで話をするのを見ると、
ランス嬢とダルトン氏は
秘密裏に婚約したようでした。
やはり、
ダルトン氏の心を占めた淑女は
ランス嬢でした。
ペンドルトン嬢は、
レモネードでもう一度喉を潤して
心を落ち着かせました。
ダルトン氏の相手は決まった。
彼はランス嬢と結ばれることになった。
ロンドンの社交界に、
完璧なカップルがもう一つ
誕生することになった。
彼女にとっても、
ランス嬢にとっても、
ダルトン氏にとってもそうでした。
あとは、自分だけが、
しっかり、今のこの感情を胸に秘めて
整理すれば良いだけでした。
しかし、続けて二人の淑女が、
ところで、一体ダルトン氏は
いつ頃プロポーズするのかと
言うのを聞いて、
ペンドルトン嬢は混乱に陥りました。
分からない。
今日するのか、明日するのか。
しかし、あの人の心の中に
ドーラがいるのは確かなので、
それは問題にならない。
自分たちは、
ブライズメイド用のドレスのことを
考えておこう。
自分はピンクが好きだけれど
あなたは?
それは新婦が選択しなければならない。
でも、自分はラベンダー色が好きだ。
2人は、自分たちの肌に
よく似合いそうな色合いを、
あれこれ口に出し始めました。
その間、
隣にいたペンドルトン嬢の顔は
すっかり青ざめていました。
この淑女たちは、
一体、何を話しているか。
2人は、まだ婚約した仲ではないのか。
ペンドルトン嬢は本能的に
辺りを見回しました。
休憩室を満たしている淑女たちは
皆、黙っていました。
そうではないふりをしているけれど
彼女たちは2人の方へ
聞き耳を立てていました。
それは当然のことでした。
ランス嬢は、
社交界に出ているお嬢様の中で
最も美しい淑女でした。
その彼女の恋愛事情が
気にならないはずが
ありませんでした。
ペンドルトン嬢は
頭がクラクラして来ました。
ここに集まっている淑女たちだけでも
優に80人は超えていました。
この淑女たちが、今聞いた内容を
騒ぎ立てたら、どうなるだろうか。
2人が恋人で、もう婚約までしたと
誤まって伝えられてしまったら?
ランス嬢とダルトン氏が、
確かに婚約している仲なら
構いませんでしたが、
もし、そうならなければ、ランス嬢が
自力で評判を回復することは
到底できないはずでした。
社交界では、
ある男女が一度恋人同士だと
噂になると、4、5年間は
まるで背中に
レッテルを貼られたかのように、
その話が付いて回る所でした。
そして、そのレッテルは
淑女にとって致命的でした。
ペンドルトン嬢は
それをよく知っていました。
知らざるを得なかったのでした。
ペンドルトン嬢は、
急いでウィルクス嬢に、
今、他の同行者はどこにいるのかと
尋ねました。
彼女は、
ランス嬢はフェアファクス氏と
踊っていて、オーソン嬢は
ジャネット・フェアファクス嬢と
噴水の近くの椅子に座って
お喋りしているだろうと
答えました。
ペンドルトン嬢はお針子に
スカートの修繕は
どのくらい進んでいるかと
尋ねました。
ウィルクス嬢のスカートの後ろに
うずくまっていたお針子は、
糸の結び目の先をハサミで切りながら
「終わりました」と答えました。
その言葉が出るや否や、
ペンドルトン嬢は2人の淑女に
早く同行者と合流するよう
催促しました。
2人の淑女は、もっと座って
お喋りをしたがっていましたが
ダンスが終わったら
ランス嬢が2人を探すだろうと
ペンドルトン嬢が言うと
すぐに立ち上がりました。
ウィルクス嬢とドノバン嬢は、
手にしていた器を
自分のスカートの裾を直すために、
20分以上うずくまっていた
お針子に適当に投げ渡すと、
ペンドルトン嬢に付いて
休憩室を出ました。
2人の淑女と人波をかき分けて
休憩室を出ている間も、
ペンドルトン嬢は、後ろから誰かが
髪の毛を引っ張っているような
気がしました。
休憩室に集まった淑女たちの
関心に満ちた視線が
彼女たちに注がれていました。
ゴシップを求める
淑女たちの飢えた視線。
その視線の持ち主たちは
ランス嬢とダルトン氏について
どんな噂を流しているのだろうか。
ペンドルトン嬢は
暗澹たる気持ちになりました。
もう遅すぎました。
ランス嬢は
噂を避けることはできないだろう。
今や、唯一の希望は、
ダルトン氏とランス嬢が
実際に婚約することだけでした。

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ゴシップを求める淑女たちの
飢えた視線。怖いですね。
かつてペンドルトン嬢も
噂話をすることしか脳のない
淑女たちの犠牲に
なってしまったのですね。
4、5年間、その噂から逃れられず、
それに加えて
血筋のことまで言われて
どれだけ辛かったことか。
だからこそ、ランス嬢に
同じ思いを味わせたくないと思う
気持ちは理解できますし、
彼女は本当に優しい人だと思います。
でも、ダルトン氏は、
ペンドルトン嬢以外の女性のことなんて
屁とも思っていないので、
ペンドルトン嬢が
ランス嬢とダルトン氏を
くっ付けようとしても、
絶対に無理でしょう。