
57話 ペンドルトン嬢はランス嬢との会話を最後に、すぐに家に帰って来ました。
彼女は、家に帰る間ずっと、
ランス嬢とダルトン氏の問題で
そわそわしていましたが、
馬車がグロヴナー通りに入ると
すぐにその問題を忘れました。
今、自分の目の前には、
もっと大きな問題が
あったからでした。
伯父はきっと、
自分が帰って来るや否や
書斎に呼び付け、
結婚問題について追及するだろうし
自分は真実を話すしか
ありませんでした。
自分が今日したことを聞いて
伯父は何と言うだろうか。
どんな反応を見せるだろうか。
昨日よりひどいことが
起きるかもしれない。
そう考えると、
右手の指がズキズキしました。
ペンドルトン嬢は、
手袋に包まれた手を撫でながら
窓の外を見ました。
そうなったら、
自分も黙ってはいない。
負けるのは明らかなので
一緒に戦うことはできないけれど
少なくとも物を投げつけたり
逃げることはできる。
とにかく、昨日のようなことを
また、されたりはしない。
馬車がタウンハウスの前に
止まりました。
ペンドルトン嬢は馬車から降りて
家の中に入りました。
ところが、家の中の空気が
先ほど家を出た時とは
全く違っていました。
雰囲気がどんよりとして
使用人たちが皆暗い顔で
彼女を迎えました。
ペンドルトン嬢はメイドに
自分のいない間に何かあったのかと
尋ねました。
メイドは、
ウェブスター先生が来たと
答えました。
ペンドルトン嬢は、
医師が突然来たことを聞いて、
まさか自分がいない間に祖母が・・!
と焦りながら尋ねましたが、
メイドは、
ただ気を失っただけ。
ウェブスター先生が
お嬢様を待っていると答えました。
ペンドルトン嬢は、そのまま
急いで上の階に上がりました。
祖母の部屋の中では
ウェブスター先生と、
アンを含むメイド3人が
祖母のそばに付き添っていました。
ウェブスター先生は、
ペンドルトン嬢が入って来ると、
そのまま立ち上がりました。
ペンドルトン嬢は、
彼に挨拶をすることも忘れて、
祖母の様子を見ました。
死人のように青白い顔で
横になっている祖母の姿は、
まるで死んでいるように見えました。
ペンドルトン嬢は
祖母の鼻に耳を近づけました。
微かに息遣いが聞こえたので、
彼女は、ようやく
安堵のため息をつきました。
ペンドルトン嬢はウェブスター先生に
祖母は大丈夫ですよね?
と尋ねました。
彼は困り果てた表情で、
心の準備をした方がいい。
自分の所見では、
4日以上持ちこたえるのは
難しいだろうと答えました。
ペンドルトン嬢は祖母の姿を
ぼんやりと見つめました。
隣でウェブスター先生が
何か言いましたが、
何も聞こえませんでした。
先生は意味のない薬の処方箋を
数枚、使用人たちに渡した後、
そのまま往診カバンを持って
部屋を出て行きました。
その間、ペンドルトン嬢は、
意識のない祖母の姿を
ただ見つめるだけでした。
衝撃のあまり、涙さえ出ませんでした。
使用人たちは、
死にかけている大奥様と
魂が抜けたお嬢様を置いて
どうしても、部屋を出て行くことが
できませんでした。
彼らは大奥様とお嬢様を
愛していたからでした。
そして、その中で、
一番、切なさを感じているのは
アンでした。
しかし、彼女は、ご主人様のためにも
感情に溺れているわけには
いかないということを知っているほど
賢い女性でした。
アンは、
ただでさえ重い寝室の雰囲気に
使用人たちの感情まで
加える必要がないと思いました。
それで使用人たちそれぞれに、
薬剤師のところへ行って
薬をもらって来いとか、
台所にいる他の使用人たちに
様子を知らせてくれと言うなどして
仕事を割り振り、送り出しました。
そして、自分は外に出て、
ペンドルトン嬢が1人で
気持ちを落ち着かせる時間を
作ってあげました。
10分後、アンは
グラス1杯のワインを持って
再び部屋に入りました。
ペンドルトン嬢は、
祖母のベッドの片隅に座っていました。
アンはペンドルトン嬢に近づきました。
アンはペンドルトン嬢を呼びましたが
彼女は微動だにしませんでした。
顔が真っ青でした。
アンはペンドルトン嬢に
ワインの入ったグラスを渡すと
これを一口だけ飲んでみるように。
気力が湧いてくるからと勧めました。
ペンドルトン嬢は顔を上げて
アンを見ました。
アンは黙って
ペンドルトン嬢の口元に
ワイングラスを差し出しました。
ペンドルトン嬢は一口飲んだ後、
それを離しました。
ペンドルトン嬢は、
昨日、お見舞に来た時は
まだ大丈夫そうだったのに。
元気そうに見えたのに、どうしてと
呟きました。
アンはしばらく
聡明な栗色の目で、苦しそうに
ペンドルトン嬢を見つめました。
ペンドルトン嬢は、
伯父はどこにいるのか。
伯父を呼ばなければならないと
言いました。
アンはため息を飲み込みながら
お年寄りは外出中だと答えました。
ペンドルトン嬢は、
どこへ行くとも
言っていなかったのか。
4日以内なら、いつでも帰れる。
意識が少しでも戻ったら、
臨終に立ち会えるように
しなければならない。
外にいる使用人に、
行き先を告げて出かけたのか
聞いてみるように。
もしかしたら、
ナイズリー夫人の家で、
プライス氏と
一緒にいるかもしれないと・・・
話している途中で、アンは
「お嬢様」と呼び、
彼女に向かって首を横に振りました。
ペンドルトン嬢は不思議そうな表情で
アンを見ると、彼女は、
奥様はお年寄りに会いたくないだろうと
告げました。
ペンドルトン嬢は、
どういうことなのか。
何かを知っているのかと尋ねました。
アンは、
まず、ワインをもう一口飲むように。
夕食も食べないで出かけたので
倒れるのではないかと心配だ。
全て飲んだら話すと答えました。
ペンドルトン嬢はアンの言う通りに
ワインを全部飲みました。
アンはその間、
暖炉のそばにあるロッキングチェアを
引き寄せて、ベッドの横に置きました。
そしてペンドルトン嬢から
空のグラスを受け取り、
椅子に彼女を座らせました。
ペンドル嬢は、
今すぐ教えて。
一体どうしたのかと尋ねました。
アンはペンドルトン嬢の足元に
小さなクッションを置き、
その上に座りました。
そして、ペンドルトン嬢の手を取ると
奥様は、
ペンドルトンのお年寄りのせいで
倒れたと話しました。
ペンドルトン嬢は目を見開きました。
アンは、自分が見聞きした
先ほどの状況を全て話してくれました。

アンは、
奥様のスープを持って
上の階に上がっていました。
彼女は、とても
気分がよくありませんでした。
奥様の部屋に入る度に、
いつも金魚のフンのように
くっ付いている
ジェラルド・ペンドルトンに、
また、会わなければ
ならないからでした。
お嬢様の手を
あんな状態にしておきながら、
白々しく、また奥様の
ご機嫌取りをしているのだろう。
アンは今日の午後、
舞踏会に出発する前、
身支度を終えたお嬢さんの手に
手袋をはめてあげながら見た
彼女の右手を忘れませんでした。
指4本に痣ができていて、
黒いインクでも撒いたように
真っ黒に変わっていました。
彼女は、湯気の立つスープを
ジェラルド・ペンドルトンの顔に
ぶち撒ける想像をしながら
奥様の部屋の前に立ちました。
奥様の部屋から、
母子の囁くような話し声が
聞こえて来ました。
優しくて穏やかな奥様の声と、
見せかけの親切さが滲み出ている
お年寄りの声でした。
アンはため息をつきました。
奥様は、
お年寄りが孫娘にしたことを
知らないだろう。
お嬢様が、秘密にするようにと
何度も念を押したので、
話すこともできませんでした。
彼女は、
腸が煮え繰り返りそうでした。
いくら死を目前にして
息子が恋しいからとはいえ
あんまりでした。
今まで老母に知らん顔して
暮らして来たくせに、
遅ればせながら訪ねて来た
息子と過ごしながら、
これまで真心を込めて
自分を世話してくれた孫娘を
無視するなんて。
アンは、
腸が煮え繰り返っていましたが、
すぐに首を横に振り、
お盆の底を片手で支えました。
そして、
もう一方の手でノックをしようと
ドアに近づけました。
ところが、
ノックをしようとした瞬間、
「ジェラルド!」と
奥様の怒声が聞こえて来たので
アンは息を止めました。
彼女はノックをする代わりに
耳をドアの近くに近づけました。
中から、何かブツブツ言う声と
ゼーゼー息を切らす声が
聞こえて来ました。
アンは、
ドアにもっと耳を近づけました。
自分が、なぜ、
そうしなければならないのかと
お年寄りの怒りに満ちた声が
聞こえて来ました。
ローラは今まで自分のそばにいて
全力を尽くしてくれた。
あの子を手ぶらで追い出すのは
ひどい仕打ちだ。
だから、あの子に、
それくらいのお金を渡すのは
当然のことかもしれない。
お前が自分を
許してくれたのだから
ローラに対する
長年の恨みもないと思うと
アビゲイル夫人は答えました。
「はい、ありません。
ありませんとも」と、
ジェラルド・ペンドルトンは
唸るように言いました。
アンは彼の返事と話し方が
全く別物だと感じました。
アビゲイル夫人は、
自分がチャールズに
相続させる財産は、
現金価値で30万ポンドを超える。
それなら、
ローラに5000ポンドくらい
渡せないことはないだろうと
言いました。
アンの目が大きくなりました。
5000ポンドといえば、
貴族の家では
大したことのないお金でしたが、
平凡な人々にとっては
人生が変わる金額でした。
自分が死んだら、
あの子は一文無しになる。
お前も人情のある子なのだから、
それが心苦しくないだろうか。
自分は、お前があの子を
引き取ってくれることを
期待もしていないし、
あの子も、
お前に期待するとは思わない。
だから、あの子が
新しい出発ができるように、
たった5000ポンドだけでも
残してやったらどうか。
当主としての人情を見せろと
奥様は優しくなだめました。
ジェラルドは、
心配しないように。
自分はもちろん、
ローラのことを考えている。
それで、あの子のために、
夫候補を探しておいた。
あの子には、
分不相応なほどの夫だと答えました。
アビゲイル夫人は、
それは一体誰のことかと尋ねました。
ジェラルドは、
この前、母親がトムのことを
とても良い男だと言っていたけれど
母親の見立て通りだ。
トムはとても良い友達で
豪快で、責任感がある。
それで、自分はアメリカにいる間、
彼をローラの結婚相手に
決めておいたと話しました。
中からは、
何の声も聞こえませんでした。
アンは息を殺して盗み聞きしました。
トム・プライスと
ローラ・ペンドルトン。
お前の友達と自分の孫娘。
アビゲイル夫人は、自分が
聞き間違えてはいないよねと
尋ねました。
ジェラルドは、
聞き間違えていない。
母親は、
まだ耳がしっかりしている。
トムはローラを愛していて、
とても熱心に求愛した。
しかし、分別のないローラは
しきりに彼の求愛を断っている。
今日、あの子は舞踏会で、
もう一度、彼から
プロポーズを受けるだろう。
あの子がトムの手を握るなら、
金持ちの奥さんになるのだから
ローラの未来は順風満帆なまま。
だから、ローラの心配は
もうやめるようにと言いました。
順風満帆な人生だなんて
とんでもない。
真っ暗な絶望の淵だ。
アンは歯ぎしりしました。
一体奥様が、どう反応するのか
気になりました。
やがて奥様の声が聞こえました。
今までの優しくなだめる口調は、
すっかり消えていました。
アビゲイル夫人は、
お前に一つ警告する。
あの無責任な、お調子者の
老いぼれが、ローラのそばを
うろうろし続けるなら、
チャールズに渡すはずだった
遺産は、一銭も残さず
テムズ川に、ばら撒くつもりだと
覚えておけと言いました。
中からは何の声も
聞こえませんでした。
唇を噛み締めていたアンは、
音を出さずに
感嘆の声を漏らしました。
ジェラルドは、
どうして、そんなことを言うのかと
尋ねました。
アビゲイル夫人は、
お前こそ、どうして姪に
そんなことができるのか。
トム・プライスは、お前と同年代で
ローラより24歳も年上だ。
棺桶に入って
横になる日が遠くない男と
姪を結びつけようとしているのか。
お前は正気かと尋ねました。
中で、再び沈黙が漂いました。
アンは我慢できず、
お盆を注意深く下ろした後、
鍵穴から
中をのぞき込みました。
ジェラルド・ペンドルトンは
激しく息を切らしながら、
呆れたように
額に手を当てていました。
自分はローラの未来を
心配しただけ。正直に言って、
ローラは売れ残りではないか。
29歳まで誰にも売れなかったのは
淑女として、
とてつもない不名誉だ。
しかも、あの子の血統や血筋は
長く語るまでもない。
自分は、あの子に相応しい夫候補を
紹介した。
あの無分別な子は、
自分の立場も知らずに
大騒ぎをしているけれど、
それでも、あの子は、
今日プロポーズを受け入れるだろう。
見ているようにと言いました。

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1900年の1ポンドの価値は
日本円で1500円とのことなので
5000ポンドは750万円。
30万ポンドは15億円!
それだけあるなら、
5000ポンドくらいあげても
バチは当たらないと思います。
でも、長男は、
どんな事業をやっても
上手くいかないし、
ジェラルドが
次男に与える財産はなし。
彼は1ポンドすらローラに
渡したくないのでしょう。
そんな善意すら見せず、
本当は長男への投資金欲しさに
姪を売ったくせに、
ローラの幸せのためだとか
御託を並べて、
家長の役割を果たしていると
アピールするジェラルド。
イアンに彼を
ギタギタにして欲しいです。