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117話 以前、サンドリンの画家の恋人は、フランツの作業室にオデットの絵があることをサンドリンに教えましたが・・・
フランツ・クラウヴィッツの
アトリエは、フレベ大通りの近くの
高級住宅街にありました。
窓の前に近づいたサンドリンは、
興味深々といった眼差しで
街を見回しました。
上流階級のタウンハウスが
密集している静かな街でした。
貧しい無名の芸術家たちが
ここに定着したのは、
全面的にフランツのおかげでした。
ドアが開いたという
興奮したノアの叫び声が、
深い夜の静寂を破りました。
眉を顰めて
カーテンを閉めたサンドリンは、
静かに階段を上って
2階に向かいました。
ノアはドアが大きく開いた
フランツ・クラウヴィッツの
作業室の前に立って
彼女を待っていました。
真夜中に、泥棒のように
他人の家に忍び込んだ自分の姿が
ふと滑稽になりましたが、
その程度の恥辱感は
いくらでも我慢できる
価値のあることでした。
ほら、やっぱり
上手くやれると思ったと言う
愛情のこもった褒め言葉で、
サンドリンは、
鍵のかかったドアを開けるのに
苦労した彼の苦労を称えました。
額にたまった汗を拭いたノアは、
ただ嬉しそうに笑いました。
最後の罪悪感さえ消してしまったような
顔をしていました。
フランツ・クラウヴィッツの絵を
見せて欲しいと最初に言われた日、
ノアは、
いくらなんでも、そんな風に
友人を裏切ることはできないと、
断固として
拒絶の意思を明らかにしました。
しかし、サンドリンは、
彼が、結局は折れるだろうと
信じていました。
そのように友情と義理が大切なら
むやみに友達の秘密を覗き見たり
悪意のある噂を
流したりするはずがありませんでした。
まさか、高額の報酬を提示してから
5日も経たないうちに
気が変わるとは思いませんでしたが。
フランツは、鉄道事業か何かで
忙しいと言っていたので
しばらくここに来ないだろうから、
安心するように。
他の同僚たちは皆、
別のアトリエで開かれる
パーティーに行ったと、
満足そうな顔で説明すると、
ノアは先頭に立って
フランツ・クラウヴィッツの
作業室に入りました。
照明を点けると、
暗闇に包まれていた部屋の中の風景が
目に入りました。
サンドリンは少し驚いた顔で
敷居を跨ぎました。
フランツ・クラウヴィッツの絵は
思っていたより、
はるかにレベルが高いものでした。
お金持ちの気弱な坊ちゃんの
贅沢な趣味程度として片付けるのは
難しそうでした。
サンドリンは、
実業家としてよりも、
芸術家としての方が
少しは役に立つように見えるけれど
残念だと言いました。
ノアは、
まあ、かなり才能がある人だと言うと
サンドリンが見たがっていた絵がある
間仕切りの奥の作業室の裏側の空間に
彼女を案内しました。
思わずそこへ向けられた
サンドリンの目が丸くなりました。
油絵、水彩画、版画、
スケッチに至るまで、
多彩な技法と素材を使用していましたが
テーマは、どれもオデットでした。
一目で分かるほど
精密かつ繊細に表現された
バスティアンの妻が
四方を埋め尽くしていました。
美しいモデルに対する
芸術家の情熱だけでは
説明がつかない奇怪な光景でした。
自分の言った通りでしょう?と
無邪気にはしゃぐ子供のように
クスクス笑っていたノアが、
一番奥まった所に立てられている
大きなキャンバスを指差しました。
そこに目を向けたサンドリンは、
思わず乾いた唾を飲み込みました。
一糸纏わぬオデットが
ベッドの上に横たわる絵でした。
シーツは酷くしわくちゃになっていて
月明かりに染まった肌は
汗で濡れていました。
観客を見つめる朦朧とした目つきが、
絵の中の女性を、さらに、
扇情的に見せていました。
バスティアンに会って来た父親が、
彼は当分の間、
今の結婚生活を維持するつもりだと
言っていたと、
素晴らしい話を聞かせてくれましたが
それを思い出したサンドリンは
つい笑ってしまいました。
これを見たバスティアンは
どんな表情をするだろうか。
サンドリンは、ふと気になりました。
一体、いつまで
オデットの夫の役割を続けられるかも
分かりませんでした。
父親は次善の策を考えるよう
助言しました。
結婚が実現しなくても
事業上の利益を保障するという約束を
取り付けたので、
ここで終わらせても
損することはないと言いました。
しかし、それは、
心臓が数字で満たされた父親の
取引方式に過ぎず、サンドリンは
そうではありませんでした。
必ず結婚すると、サンドリンは、
もう一度決意を固めました。
報われない恋に苦しみ、
2度目の離婚に至っても
構いませんでした。
少なくとも、あの男を
完全に手に入れたという達成感の記憶は
残せるようになるだろうから。
深く考え込んでいたサンドリンは、
展示会の開幕式はいつだと
言っていたかと
声を潜めて尋ねました。
ノアは、今年の年末に
リンジャーギャラリーでと答えました。
サンドリンは、
なかなか良い所を借りたと言いました。
ノアは、
全てフランツのおかげだ。
自分たちのような貧乏人たちが
夢にも思わないことを
てきぱきとやり遂げるからと、
皮肉な笑みを浮かべながら
自嘲しました。
フランツへの感謝の気持ちが
嘘ではないのは確かだけれど、
ただ、それを圧倒するほど
大きく強烈な感情、
例えば劣等感と自責の念などに
覆い隠されていました。
このようなことに
最も有用に使われる武器でした。
サンドリンは、
それなら恩返しをすべきではないかと
提案すると、
穏やかな笑みを浮かべた顔で
ノアと向き合いました。
大きな野心を抱く勝負師を求めていると
バスティアンは言いました。
ならばサンドリンは、喜んで
そのような女になるつもりでした。
愛する恋人のために、いくらでも。

オデットが目を覚ましたのは、
夜明けが近づいて来た頃でした。
まだ青みがかった闇が残っている
寝室は、
深い水の中に沈んだ世界のように
静かでした。
ベッドに腰掛けている男の後ろ姿もまた
その風景の一部のように
寂寞としていました。
起き上がろうとして
気が変わったオデットは、
布団の襟を握ったまま
息を殺しました。
昨夜の記憶は、
あの男の下でもがいていた瞬間で
止まっていました。
このように美しい姿で
羽毛布団の中に横になったような
最後ではありませんでした。
一体なぜ?
頭の中が混乱して、
解決できない疑問を
繰り返して考えている間に
闇の向こうをじっと見つめていた
バスティアンが立ち上がりました。
オデットは寝ぼけ眼で、この状況の、
唯一の答えであるかのような
彼を見つめました。
暖炉の明かりが作りだす陰影に
覆われたバスティアンの
何も着ていない姿は、薄暗い中でも
かなりの存在感を示しました。
立派な骨格と
引き締まって滑らかな筋肉の調和が、
一見すると、古代の軍神像のような
印象を与えました。
神から授かった肉体を
強靭で美しく鍛えることが
信仰そのものだった時代の理想郷。
その体いっぱいに刻まれている
神聖への冒涜のような傷痕は、
そのため、さらに
異質に映っていました。
英雄という称号を得るための
代償だったのだろか?
その傷ができた経緯を
推測している間に、
バスティアンはガウンを羽織り
振り返ることなく
オデットの寝室を去りました。
幸いなことでした。
次第に遠ざかって行く足音が消えると
オデットはゆっくりと体を起こして
座りました。
暖炉の前に並べられていた食卓は
きれいに片付けられていました。
彼が直接やるはずはないので
使用人が片付けたはずでした。
おそらく、そういった理由で施した
善行なのだろう。
オデットは淡々と結論を下しました。
他人に見せるためには
後片付けが必要だっただろうから。
オデットは
ベッドヘッドにもたれかかり、
明け行く朝を見ました。
体調は昨日と
大きく変わりませんでした。
その事実が悲しくて虚しくなった瞬間
通路のドアが開き、
バスティアンが姿を現わしました。
制服を完璧に着た男は、
まるで鎧をまとったように
強靭に見えました。
背後でドアを閉めたバスティアンが
ベッドに近づき始めました。
一定の歩幅を保ちながら
踏み出す規則的な足音が、
明るくなり始めた朝の光の中に
響き渡りました。
ベッドから一歩離れた所で
立ち止まったバスティアンは
会計を忘れていたと言って
深まる沈黙を破りました。
オデットは落ち着いた眼差しで
彼を見ました。
軍用コートのポケットから
財布を取り出すバスティアンの顔には
一見、寛大そうな笑みが
浮かんでいました。
その行動の意味を理解したと同時に、
彼はつかんだ紙幣を差し出しました。
オデットは、
落ち着いてお礼を言いながら
手を差し出しました。
長く伸びて来た柔らかい日差しが
届きそうで届かない
2人の手を照らしました。
受け取らなければ。
頭は、そう判断したけれど、
心は躊躇いました。
道に迷った子供のように
途方に暮れた気分に包まれ、
躊躇している間に
失笑したバスティアンが
握っていたお金を投げました。
ヒラヒラ舞っていた紙幣は、
すぐにベッドと床の上に
静かに落ちました。
バスティアンは
露骨な嘲笑を浮かべた目つきで
オデットを見下ろました。
依然として、
首をピンと伸ばしたまま
平穏を装っているけれど、
羞恥心に染まった両頬まで
隠すには力不足でした。
この女は、いつもこんな感じでした。
へりくだって
服従しているふりをしているけれど
よく見ると、
このような状況に至っても
依然として、取るに足らない自尊心を
手放すことができませんでした。
それが情けないけれど、
一方では嬉しくもありました。
そのおかげで、
隠し切れていなかった
みすぼらしい心を踏みにじる楽しさを
享受することができるのだから。
時間を確認したバスティアンは
そのくらいで背を向けました。
オデットが
お金を拾い始めたのは
それと、ほぼ同時でした。
布団の上に散らばっている紙幣を
拾ったオデットは、
落ち着いてベッドの下に降りました。
耳たぶはもちろん、
首まで赤く染まったままでした。
歩みを止めたバスティアンは、
目を細めて
その光景を見守りました。
オデットは一糸纏わぬ姿のまま、
床に落ちている紙幣を
拾い始めました。
サイドテーブルの上、スリッパの間、
彼の影の下に至るまで、
一枚も逃さぬというように
ひたすら金をかき集めました。
あと残っているのは
彼のつま先にある
小額紙幣1枚だけでした、
しばらく躊躇ったオデットは、
ついに、
その紙幣まで拾いました。
自分の足元にうずくまる
何も着ていない女の背中を
見下ろしていた
バスティアンの口元が
斜めに歪みました。
乞食。クルチザンヌ。
皇宮の舞踏会で乱暴を働いた
イザベル皇女が叫んだ言葉が
突然、脳裏をかすめました。
救いようのない世間知らずでしたが
少なくとも、人を見る目だけは
自分よりも優れていたと、
バスティアンは
認めざるを得ませんでした。
オデットが立ち上がろうとすると、
彼女の頭の上に、
もう少し気を配ってやると言う
笑いの混じった声が舞い降りました。
オデットは深く息を吸い込みながら
頭を上げました。
感情がこもっていない
平穏な顔をしたバスティアンが
再び財布を開けていました。
彼は、
業務が増えたから
報酬も上げるべきだろうと言うと
彼の署名入りの小切手4枚が
床に落ちました。
増えた業務が何を意味するのか
理解するのは、
それほど難しくありませんでした。
目の前が遠くなるほど恥辱的でしたが
それでもオデットは、彼がくれたお金を
黙って受け取りました。
月給よりも金額が大きいので、
もう一度、卑屈になれない理由は
ありませんでした。
じっとその姿を見つめていた
バスティアンは、何も言わずに
寝室を立ち去りました。
オデットはドアが閉まる音を
聞きながら、体を起こしました。
胸の奥深くで
何かが崩れるのを感じましたが、
気にしませんでした。
オデットはまず、
サイドテーブルの引き出しの中に
札束を詰め込みました。
フットベンチの上に
たたんで置かれてあった
ネグリジェとガウンを着て、
乱れた髪も整えました。
ノックの音が聞こえて来たのは、
両目いっぱいに溜まっていた涙が
乾いた後でした。
「奥様、お目覚めですか?」と
続けて聞こえて来た
溌溂とした声の持ち主が誰か
オデットはすぐに気づきました。
最近になって、めっきり
この部屋の出入りが多くなった
メイドのモリーでした。
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バスティアンが事を終えた時、
オデットは、
まさにフランツが描いた絵のような
姿をしていたのではないかと
思います。
そんな姿を、
使用人に見せるわけにはいかないので
バスティアンはシーツをきれいに整えて
オデットに
布団をかけてあげたのでしょうけれど
その行為に、彼の思いやりが
全くなかったとは言い切れないと
思います。
バスティアンは
オデットに酷い仕打ちをし、
彼女を嘲り、蔑んでいますが
彼は、オデットの裏切りによって
受けた傷が大きすぎて、
そうでもしないと、
心を平静に保てないのではないかと
思いました。
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