
60話 祖母の死後、ローラはペンドルトン家を1時間以内に出て行けと伯父に命令されました。
家庭教師の服装。
それは曖昧なものでした。
メイドたちの制服よりは
優雅でなければならないけれど、
主人たちよりは質素に
見えなければなりませんでした。
派手な貴金属も許されず、
鎖骨が見えたり
お尻が膨らんでいるドレスは
当然、禁止でした。
アンは困惑しました。
ペンドルトン嬢は、
他の社交界の娘たちよりは
質素な方でしたが、
ロンドンの社交界に出入りしていた
貴族の令嬢でした。
彼女の服は、
ほとんどが貴族社会で通用する
格式のあるものでした。
ディナードレス、
舞踏会用のイブニングドレス、
お茶会や外出用ドレスなど、
帽子も手袋も、高級でないものは
一つもありませんでした。
アンは、
ペンドルトン嬢の20着のドレスのうち
家庭教師に相応しいドレスは
たった3着しか見つけらませんでした。
縁に黒い蔓の刺繍が入った
グレーのドレス。
飾り気のない緑色の
タータンチェックのドレス。
そして、やや際どいけれど、
素朴なケープを羽織れば
上品に見えそうな
茶色のシルクのドレスでした。
彼女は、それらの服を
トランクに詰め込みました。
トランクが
半分いっぱいになりました。
ペンドルトン嬢は残りの半分に
手紙の束と自分の本、ラテン語の聖書
ドイツ語の哲学書と
フランス語の随筆数冊を
詰め込みました。
ペンドルトン嬢はアンに、
不要な書類と手紙を全て
燃やすよう指示した後、
化粧台へ向かいました。
そして愛用していたヘアネットを
折りたたんでポケットに詰め込み、
今まで持っていた宝石類を
小さな布袋に全て入れて、
トランクの奥深くに入れました。
そして何の飾り気もない手袋と靴、
ブラシ類を用意して
トランクに入れました。
真っ白なレースのショールは
悩んだ末に一緒に入れました。
すぐに、アンが
書類を全部燃やして戻って来ました。
ペンドルトン嬢は、
何か忘れたものがないか
部屋の中を見回していました。
アンは、
葬儀には来るのですよねと
尋ねました。
ペンドルトン嬢は首を横に振りました。
アンは、
遺言状を公開する時はどうするのかと
尋ねました。
ペンドルトン嬢は微笑みながら
自分に回って来る財産はないだろうと
答えました。
アンは、その理由を尋ねました。
ペンドルトン嬢は、
伯父が遺言状を変えた。
いえ、正確に言えば偽造した。
今や自分の持ち物は、
このトランクの中身が全てだと
答えました。
アンは
ペンドルトン嬢に飛びつくと、
弁護士が呼ばれて公証人もいたのに
あり得ないと叫びました。
ペンドルトン嬢は、
彼らは、それでお金持ちになった。
伯父は彼らに10000ポンドずつ
渡したらしいと答えました。
アンは、
そこまで悪辣だなんてあり得ないと
非難しました。
ペンドルトン嬢は、黙って机まで行き
ノートと筆記具を
いくつか持って来ました。
アンはペンドルトン嬢に近づき
訴訟を起こそうと提案しました。
ペンドルトン嬢が
「訴訟?」と聞き返すと、アンは
自分の婚約者が弁護士であることは
知っていますよね?
もちろん、事務所に入って
まだ1年も経っていないけれど、
有能で賢いし、
もう裁判で3度も勝訴した。
一度も負けたことがない。
この事情を知れば、お嬢様のために
戦ってくれるだろうと言いました。
ペンドルトン嬢は
アンをじっと見つめました。
そして、彼女の肩に手を乗せて
撫でながら、
アンにお礼を言いました。
アンは、
そんなことを言わないで欲しい。
お嬢様は、いつも自分に温かくて
情け深い人だった。
自分が初めて仕えた時、
失敗しても毎回見逃がしてくれた。
顔も見たことのない自分の姉たちが
結婚する度に、祝儀として
給料も上乗せしてくれた。
まずは遺言状が公開された後に
自分が聞いた内容を証言して・・・
と言いましたが、
ペンドルトン嬢は首を横に振りました。
アンは、
このまま引き下がるわけにはいかない。
遺言状を偽造するのは明らかに違法だ。
きっとお嬢様が勝訴する。
おばあ様の最後の遺産を
取り戻したくないのかと尋ねました。
ペンドルトン嬢は
もちろん、取り戻したいけれど、
自分は可能性のないことに、
そこまで多くのものを
犠牲にすることはできないと
答えました。
可能性がないというのは
証拠がないということか。
証拠は自分の耳があるし、
犠牲になるものは何だと言うのかと
尋ねました。
ペンドルトン嬢は
アンの結婚だと答えました。
アンが「えっ?」と聞き返すと
伯父は死んでも負けない。
絶対に負けるような人ではない。
20年前の祖母と伯父の
法廷闘争を考えると、答えが出る。
弁護士を何十人も雇って、
7年も裁判を引き伸ばしながら、
祖母が勝手に疲弊するようにした。
あれほど裕福だった祖母も
結局、降参した。
アンの婚約者が有能だということは
信じるけれど、彼はこのことによって
他の事件を引き受ける機会を
逃すことになる。
そして、その分、アンの結婚が
果てしなく延期されるだろう。
5年、いえ、もしかしたら
10年にもなるかもしれないと
答えました。
アンは、
自分は大丈夫。お嬢様の無念を
晴らしてあげることができるなら、
結婚は後回しにすると言いましたが
ペンドルトン嬢は首を横に振りました。
彼女は、
このことは、いくら考えてみても損だ。
勝ったとしても弁護士費用を支払えば
自分に残るものなんてない。
むしろ、その時間に、子供たちを
教えることに集中した方がマシ。
それに、元々、
自分のお金でもなかったので、
忘れることにしようと言いました。
アンは「でも、でも」と叫びながら
地団駄を踏みましたが、
すぐに泣き出しました。
ペンドルトン嬢は、
悔しくて悔しくて仕方がないと
叫びながら、わんわん泣くアンを
じっと見つめました。
いつも自分よりもっと、
自分のことに気を配ってくれたアン。
自分がいつも抑えていた感情を
代わりに爆発させてくれたアン。
彼女は自分の大切な友達でした。
社交界で結んだ縁よりも、
ずっと大切でした。
ペンドルトン嬢は、
自分は大丈夫。自分の手元には、
これまで少しずつ貯めておいた
お金がある。
そして頭の中には知識がある。
ロンドンで、自分ほど知識のある
家庭教師はいないだろうう。
自分は、
いくらでも1人で生きて行ける。
だから、もう泣かないで。
自分の心を痛めないでと言って
アンをなだめました。
アンが泣き止む頃、
10分余り、時間が残っていました。
ペンドルトン嬢はアンに、
自分が持っていけない
高価なドレスと帽子、手袋、靴を
別れのプレゼントとして
自分の代わりにメイドに配るよう
頼みました。
そして紙袋を握らせながら、
男性の使用人たちに、
中に入っているポンドを1枚ずつ
配ってくれと頼みました。
アンは、最後まで
主人としての道理を尽くす
お嬢様のために
再び泣き出しました。
ペンドルトン嬢は、
喪服の上に黒いケープを羽織り、
飾り気のない
平たい黒い帽子をかぶったまま
階段を下りて行きました。
皆が、各々の悲しみに暮れており
家の中には、
1人も使用人がいませんでした。
ペンドルトン嬢は誰の目にも触れずに
玄関まで下りることができました。
玄関に立ったペンドルトン嬢は
ふと足を止めました。
何かが彼女を
引き留めている気がしました。
彼女は、しばらく
その場に立ち尽くした後、
すぐにアンに、応接室にある
ホワイトフィールドの絵を
持って来て欲しいと頼みました。
アンは急いで
応接室へ走って行きました。
その時、階段の上で
ドスンドスンと歩く音が聞こえました。
ジェラルド・ペンドルトンでした。
彼は、
1時間経ったので、 早く出て行けと
命令しました。
ペンドルトン嬢は
まだ持って来ていないものがあると
訴えましたが、ジェラルドは、
知ったことではない。
使用人たちを呼んで追い出す前に
早く出て行けと命令しました。
しかし、ペンドルトン嬢は
そのまま立っていました。
すぐに、彼は
力強い使用人たちを呼びました。
息を切らしながら出て来た彼らは
あの女を引きずり出せという
ジェラルド・ペンドルトンの命令に
混乱しました。
ペンドルトン嬢は
自分にたった1分の品位も許さない
伯父の気持ちはよく分かった。
これ以上、慈悲を求めないと言うと
そのままトランクを持ち上げました。
ずっしりとした重みに、
肩の筋肉が痛むほど引っ張られました。
ペンドルトン嬢は辛うじて、
それを引きずって行きました。
彼女を助けようと
使用人が近づきましたが、
ジェラルドは、
誰であれ、あの女を助けた瞬間、
裸足で追い出されることを覚悟しろと
脅しました。
使用人の動作が一斉に止まりました。
その時、
応接室から絵を持って来たアンが
その姿を見て、
あたふたとペンドルトン嬢に近づき
自分が持つと言って、
トランクを掴みました。
ペンドルトン嬢は断りました。
すると、
その荷物から手を離せという
ジェラルドの雷のような声が
響きました。
アンは充血した目を見開きながら
本当にひどいと叫びました。
ペンドルトン嬢は、
アンを制止しました。
彼女は涙を呑んで
ペンドルトン嬢を見ました。
彼女は首を横に振りました。
使用人が主人に逆らうのは
許されないことでした。
ジェラルドの気性なら
直ちに解雇でした。
ペンドルトン嬢は、
アンの手にある絵を受け取り、
トランクを引きずりながら
ペンドルトン家を出ました。
ロンドン最高の富裕層街である
グロヴナー通りの
最も華やかなタウンハウス、
そこの実質的な女主人
ペンドルトン嬢は、
使用人たちの助けも受けず、
誰の見送りもなしに
12年ぶりに追い出されてしまいました。

ペンドルトン嬢は
トランクを両手で握り締め、一歩一歩
グロヴナー通りを歩きました。
暗くなった通りは、
人影もなく静かでした。
彼女は、遠くの
グロヴナー・スクエアに向かって
歩いて行きました。
夜の公園には
人影がありませんでした。
ペンドルトン嬢は
持っていたトランクを下ろして
ベンチに座りました。 深夜でした。
誰も歩いている人はいませんでした。
ペンドルトン嬢はベンチにうずくまり
自分の身を包んでいる
喪服の不慣れな感触を味わいました。
喪服を着たのは初めてでした。
いつか着ることになるだろうと思い
用意しておきました。
そして、ついに、その日が来ました。
この世に、
たった一人きりになってしまった日が
来たのでした。
ペンドルトン嬢には祖母がいて、
使用人たちは、
いつも彼女の指示を待っていて、
社交界で彼女を知っている人も多く
友達もたくさんいました。
しかし、振り返ってみると、
自分はいつも一人きりだと
感じていたようでした。
ふわふわと漂う塵のような気分。
居ても居ないかのような気分。
いつも誰かに、自分が役に立つことを
証明しなければならないような気分。
12年間、緊張の中で暮らしながら
彼女はいつも
神経性の頭痛に悩まされ、
いくら食べても
体重が増えませんでした。
たったの1日も、完全に気楽に
過ごしたことがありませんでした。
彼女が完全に休める時は
ペンドルトン家を離れて生きる
未来について
想像する時だけでしたが、
それさえも短い瞬間でした。
しかし、いざその日がやって来ると、
彼女は井戸の底に
落ちてしまったような気がしました。
落ちても落ちても
果てしなく続く長い闇の中へ。
自分をペンドルトンに住まわせた
祖母が亡くなり、
12年間暮らしたペンドルトン家から
追い出されました。
今まで閉じ込められていた
社交界とも決別し、
今はペンドルトンという性すら
名乗れなくなりました
まるで無国籍者になった気分でした。
土から根こそぎ引き抜かれた
植物になった気分でした。
ペンドルトン嬢は、
さらにギュッと体を丸めました。
内臓がすべて逃げ出したかのように
体の中が空っぽで寒くなりました。
体内にある腱が全て切れたように
体を支えるのが大変でした。
彼女は、
自分を閉じ込めておいた塀が、
もしかすると、
今まで自分を守ってくれた
柵だったのかもしれないという
気がしました。
あれほど自由を求めていたのに、
いざ完全に自由になってみると
水の外に引きずり出された魚のように
息が詰まりました。
ペンドルトン嬢は深呼吸しました。
6月の爽やかな空気が
お腹の中に染み込みました。
彼女は、
それでも6月に家を出ることができて
幸いだった。
冬だったら、今よりもっと
途方に暮れていたと思いました。
しばらく彼女は、
そうして、うずくまっていました。
体から抜けた力は戻ってくる気配が
ありませんでした。
彼女は涙さえ流す気力も
ありませんでした。
体の生気が全て抜けたようでした。
ただ虚しい気分に
浸っているだけでした。
彼女は顔を上げて
真っ黒な闇に閉ざされた
グロヴナー・スクエアを
見つめました。
フフフ。
力が抜けたような笑いが
こぼれました。
この12年間、通り過ぎることさえ
嫌がっていたここに
自然に来てしまった自分が
滑稽でした。
12年前のあの出来事。 初恋。
すでに全ての人の脳裏から
消えてしまった
社交界の取るに足らない
スキャンダル。
しかし、彼女の脳裏には
昨日のことのように鮮明でした。
忘れかけた頃には、
夢の中に出て来て、
忘れ去るのを妨害したのでした。
その記憶は、首に掛けている
真珠のペンダントと共に
ローラの心を固く閉ざす役割を
果たしました

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たったの1日も、完全に気楽に
過ごしたことがなかったとはいえ
ローラ・ペンドルトンとしての
生活は、ローラに
染み付いていたと思います。
それが、一瞬にして奪われれば
いくら自由を求めていたとはいえ
途方に暮れてしまうのは
当然だと思います。
せめて、祖母の葬儀に参列して
彼女との別れの時間を
持つことができれば、
心を整理することもできたのに、
ジェラルドには
血も涙もないと思います。
アビゲイル夫人が亡くなった途端、
ローラを追い出したことは、
社交界の人たちに
知れ渡ると思います。
それだけでも、
ジェラルドの評判は落ちそうですし、
彼がアメリカまで行って
長男の事業に投資をしてくれる人を
探しに行ったのは
イギリスには投資をしてくれる人が
いなかったからではないでしょうか。
評判が悪い父親に
役に立たない2人の息子。
ペンドルトン家は
お先真っ暗だと思います。