
61話 ローラはペンドルトン家を追い出されました。
今と同じような
真夜中のグロヴナー・スクエア。
大きなカバンを持ったまま、
今とは全く違う
緑色の絹のショールを羽織り
体を震わせながら
周りをキョロキョロ見回していた
自分の姿。
自分を乗せに来る
貸切馬車を待ちながら、
その中に乗っているであろう
自分のたった1人の恋人を想いながら
彼女は人通りのない公園に
立っていました。
しかし、愛の期待に満ちていた
少女の姿は、
1時間が過ぎ、2時間が過ぎるにつれて
次第に変わって行きました。
焦燥感から恐れへ、
恐れから絶望感へ。
そして結局、夜が明ける頃、
彼女の顔から、
全ての表情が消え去りました。
そして食料品を積んだ荷馬車と
教会に夜明けの祈りに行く
貴婦人を乗せた高級馬車が
街を走る頃、
彼女は全ての希望を失いました。
あの時の夢を見ると、
いつも全身が汗で
びっしょりになりました。
彼女は汗に濡れた体を丸めて
ブルブル震えました。
17歳の時に企てた
分別のない駆け落ちの計画は
結局、相手の徹底的な裏切りにより
幕を閉じました。
あの頃、彼女は
どれほど分別がなかったことか。
社交界に現れた若い青年。
ハンサムで明晰だったけれど
後援者なしでは無一文だった男。
社交界に出て来たばかりの
孤独で怯えていた自分を
理解してくれた唯一の男。
あの男が自分を救ってくれる。
自分を仲間外れにし、
空気のように扱っていた社交界から
自分を連れ出してくれると
思っていました。
しかし、彼は結局、
馬車に乗って現れませんでした。
彼女を裏切ってから2ヶ月後に
金持ちの女性と結婚したことで、
すでに2人が恋人同士だということを
知っている社交界の人々の間で
自分を愚か者にしてしまいました。
他の淑女の話を装って
自分の話をした時、
女性は自ら命を絶ったのかと
ランスさんが口にした言葉が
思い浮かびました。
むしろ、そうしていた方が
良かったかもしれませんでした。
その時、
彼女は完全に四面楚歌でした。
社交界の至る所で彼女の噂が囁かれ
嘲弄と冷笑は、
ティータイムの定番デザートでした。
しかし、彼女は
自ら命を絶ちませんでした。
自分のために、
たった1人の子供も見捨てた祖母に
絶望を与えることが
できなかっただけでなく、
ドロレス・ペンドルトンの娘が
母親のように
不運な死を遂げたという話を残して
世を去りたくありませんでした。
それは、
あまりにも恥ずかしいことでした。
そして、彼女は、
ペンドルトン家に預けられる前の
自由だったローラ・シェルドンとして
もう一度、
きちんと生きることを望みました。
彼女は歯を食いしばり、
レッテルを貼られたまま
社交界で耐えました。
自分を嘲笑う人の前で優しく微笑み
悪口を言う人にほど
礼儀正しく振舞いました。
祖母の喜びであり、
友人たちの優しい友人。
未婚の淑女たちの相談相手。
彼女は生きるために
歯を食いしばって耐えました。
ペンドルトン家を去る日まで
母の前轍を踏んだという話を
聞かないように、
祖母へ全ての恩を返して
去るためでした。
そして、ついに29歳。
自分はペンドルトンから
自由になりました。
彼女は拳を握って広げました。
いまだに、体に、
生気は戻らないままでした。
彼女は今、
自分の前にある自由について
考えました。
どこへでも行けるし、
どこにでも泊まれました。
もう自分は
「ペンドルトン嬢」ではなく
「ローラ・シェルドン」だから。
ローラ・シェルドン。
彼女は新しい名前を繰り返しました。
あまりにも昔に失ってしまった
名前だったので、
まるで、他人のもののように
感じられました。
しかし、
この名前が自分の名前であることは
明らかでした。
父が自分を呼んでいた声が
鮮やかに蘇りました。
ローラ。ローラ・シェルドン。
わが娘、ローラ・シェルドン。
ドロレス・シェルドンと
ルイス・シェルドンの娘
ローラ・シェルドン。
ローラ・シェルドン。
彼女は自分の名前を
繰り返し呼んでみました。
あまりにも馴染みが薄かったけれど
沈んでいた気持ちが高揚しました。
そう、ローラ・シェルドン。
これが新しい自分。
新しい人生を送る新しい名前。
ペンドルトン嬢は呪文のように
自分の新しい名前を
立て続けに繰り返しました。
繰り返すほど、馴染みのない感覚は
解放感へと変わって行きました。
彼女はいつの間にか、
馴染みのない新しい名前の
中毒になってしまいました。
際限なく呼びたかった。
自分の名前を延々と書きたかった。
誰かに呼んでもらいたいし、
サインをする時に使いたいし、
死ぬ時に自分の墓石に
残したいと思いました。
彼女は、
もう一度拳を握ってみました。
手のひらが、普通の握力で
ギュッと握り締められました。
たるんでいた筋肉が
ピンと張っていました。
彼女は初めて、なぜ自分が
ここに来なければならなかったのか
分かりました。
12年前、ある男を通じて
自由を得ようとした
ローラ・ペンドルトンと
永遠に決別するためでした。
カバンを持って、ふらつきながら
再びペンドルトン家に戻った
17歳の自分は、
もうローラ・ペンドルトンという
名前と共に、
永遠に葬られるだろう。
彼女は新しい名前を得たし、
いや、取り戻したので、
二度と昔には戻りませんでした。
ペンドルトン嬢は
ベンチから立ち上がりました。
そして、そばにあったトランクを
再び、持ち上げました。
依然として、ずっしりとした重みが
彼女の肩の筋肉を
痛々しそうに引っ張りました。
しかし、彼女は、
この中に入っているものが
12年前に詰めた荷物より、
はるかに使い道が多いということを
知っていました。
彼女はそれを引きずりながら、
新しい運命に向かって、
よろめきながら歩いて行きました。

翌日、ローラが目覚めたのは
キングス・クロス駅近くの
二流ホテルの
小さなベッドの上でした。
彼女は目を覚ますと、
いつも目を覚ましていた
高級な自分の部屋ではないことに
ギョッとしましたが、
すぐに昨夜のことを思い出しました。
夜遅い時間にやって来た自分に
嫌な顔を隠さなかったホテルの主人。
ガスランタンを持った主人に付いて
入った薄暗いホテルの廊下。
小さなろうそく1本だけが許された
小さな部屋。
そこで服を脱いで
すぐに眠りについた自分。
ローラは部屋の片隅に置かれた
小さな椅子を見ました。
脱ぎ捨てられた喪服が、そこに
無造作さに掛けられていました。
彼女はゆっくりと起き上がり、
再び、それに袖を通しました。
そして、
傍らに置かれた水差しを手に取り、
縁の欠けた陶器のたらいに
水を注いで顔を洗った後、
壁に掛かっている小さな鏡で
髪を整えました。
鏡の中の自分は青白く、
目元が赤く染まっていました。
彼女は今日すべきことを
考えてみました。
こんな格好では、
とんでもないことでした。
彼女は、
少なくとも痩せているように
見せるべきではないと考え、
すぐ下の階へ降りて行きました。
昨日、ホテルの主人が
面倒臭そうな表情を隠すことなく
案内してくれたことによれば
1つ下の階が食堂でした。
彼女は階段へ向かうために
ゆっくりと廊下を歩いて行きました。
廊下を通り過ぎる間、
彼女は、
ボロボロのフロックコートに
パイプをくわえた紳士の横を
通り過ぎ、
お揃いのウールの生地で作られた
ワンピースとシャツを着た
小さな兄妹が
激しく走り回っているせいで
脇に身を避けることもありました。
階段を下りると、徐々に
騒がしい音が耳に響いて来ました。
食堂の中は、とても広かったけれど
老若男女を問わず、あらゆる人々が
一つの空間に入り混じっていて
ごった返していました。
彼女がひとまず席に着くと、
すぐに、制服ではなく
普段服を着たウェイターが
彼女に近づき、うわの空で
何を食べるか尋ねました。
彼女はコーヒーとスープ、
パンを2つ注文すると、
彼は気だるそうに背を向けました。
すぐに
注文した料理が出て来ました。
彼女はそれらを食べながら
人々を観察しました。
多くの人々が、
テーブルに三々五々集まって
コーヒーを飲み、
新聞を読みながらタバコを吸い、
パンを食べていました。
服は概してみすぼらしく、
かなり良い場合でも、
質素な中流階級程度でした。
人々の会話を注意深く聞いた結果
彼ら全員が
旅行者であることが分かりました。
貴族たちのカントリーハウスで
働きながら、休暇を取り、
1日ロンドン見物に来たメイドたち。
ロンドンに出張に来た弁護士と秘書。
親戚に会いに田舎から上京した
商人の家族。
全国を回っている行商人。
彼女は彼らを1人1人、
興味深く見つめました。
彼らの中で
ローラは目立ちませんでした。
幸いなことに、
彼女が着ていた喪服は
貴族のものにしては
簡素なものだったので、その服から
彼女の昔の身分に
気づく人がいませんでした。
それに、
ここ数日間のストレスと疲労によって
目元がただれて腫れ上がり、
美しさも、
ある程度、隠されていました。
まだ、誰とも話したい気分ではない
彼女にとっては幸いなことでした。
彼女は黙って食事を終えると、
再び部屋に戻りました。
コーヒーと熱いスープで
元気が回復しました。
正直、先ほどの質素な食事は
ペンドルトン嬢が今まで食べた中で
最もひどいものでした。
コーヒーは酸味が出ていて、
スープの味は薄く、
パンは焦げていました。
しかし、それらは全て、不思議なほど
すんなりと喉を通りました。
消化もよく、
胃もたれするような感じもなく、
胃が楽になりました。
彼女は部屋に戻り、
ドアにしっかり鍵をかけました。
そしてトランクを開けて
書類の束を取り出しました。
そして、その中から、
銀行から受け取った
預金の領収書を見つけました。
一番最近の領収書は
2か月前のものでした。
彼女名義の口座には
合計 500 ポンドが入っていました。
彼女は12年間、質素に暮らしました。
祖母は、いつも彼女に
ドレスを買って着ろとか、
アクセサリーを用意しろとか言って
まとまった額の小遣いを
握らせてくれたものでした。
彼女はそれを、きちんと貯金しました。
彼女は、その領収書を
じっと見つめました。
500ポンド。 これくらいなら、
治安のよい商業地区に
台所付きの小さな家を
借りられる金額でした。
メイドは雇えないけれど、
大事に使いさえすれば、
10年近くは、
暮らしていけるはずでした。
しかし、その後は?
結局は、仕事をしなければ
ならないはずでした。
彼女は教師という職業について
集めた情報を思い出しました。
学校の教師であれ家庭教師であれ
50歳になると
一線から退くのが普通の職業でした。
それなら、少なくとも20年は
自分に働く時間が残っている。
健康でさえあればの話だけれど。
彼女の目標は、
50代まで家庭教師をした後、引退して
田舎に、小さなコテージを1つ
手に入れることでした。
家を守ってくれる男の使用人を1人
雑用をしてくれるメイドを1人置けば
年老いて体が不自由になっても
生活するのに支障がなく、
女性1人で暮らす不安からも解放され
安全に
過ごすことができるはずでした。
そのためには、
少なくとも3000ポンドは必要でした。
不測の晩年の病気まで想定するなら
3000ポンドもギリギリの金額でした。
彼女はしばらく考えた後、
トランクに入れておいた
実用的な革のバッグを
取り出しました。
そして、その中に、書類数点と財布、
トランクの奥深くに隠しておいた
貴金属の入った袋を入れました。
彼女は、平たい茶色の帽子と
黒いケープを纏って鏡を見ました。
朝食の影響か、
血色が戻って来ていて、
むくみもとれて、どうにか
顔の状態が良くなっていました。
彼女は安心して外へ出ました。
彼女は、まず貸切馬車に乗って
ウェストエンドに向かいました。
彼女は窓越しに、
かつて頭の中に刻み込んでおいた
看板を探すと、すぐに、
「ウェスターウェイ
家庭教師専門職業紹介所」の文字が
彼女の目に入って来ました。
彼女はすぐに馬車を止め、
代金を払いました。

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12年前、ローラは恋人に捨てられ
その後、社交界で、ひどい噂に
苦しめられても、祖母のために、
社交界へ出続けたのですね。
祖母は、それを分かっていながらも
ドロレスが果たせなかったことを、
ローラに託し、
諦めることができなかった。
ローラへ譲ることにした5000ポンドは
お詫びの意味も
あったのかもしれません。
伯父のせいで、その気持ちが
無駄になってしまいましたが。
父親がローラを祖母に預けてから
彼女は父親に捨てられたと
思うことがあったかもしれませんが
「ドロレス・シェルドンと
ルイス・シェルドンの娘
ローラ・シェルドン」という呼び方に
父親の愛を感じました。
父親が娘を預けたのには
何か理由があったのではないかと
思います。