![]()
118話 オデットは妊娠したようです。
マクシミンは、
体の具合が悪そうで心配だと
これ以上、
我慢できなくなった言葉を
慎重にオデットに伝えました。
秋の花が満開の庭で走り回る
アルマと子犬を見つめていたオデットは
ようやく彼に視線を向けました。
パーゴラの下に差し込む光が
静かな笑みを浮かべる彼女の顔を
照らしていました。
オデットは、
自分は大丈夫。心配は要らないと
答えました。
マクシミンは、
実は、
自分がアルデンに行くことがあれば、
クラウヴィッツ夫人に
一度会って来て欲しいと
トリエ伯爵夫人に頼まれた。
近頃、オデットの健康が、
急激に悪化したようで心配だけれど、
しばらく、他の都市に住む親戚を
訪問することになり、
直接行くことが困難だと言っていたと
冷めたお茶を一口飲んで、
この訪問の目的を告白しました。
続けて彼は、
前もってオデットに連絡すれば、
きっと大丈夫だという嘘をつくから、
適当な言い訳を用意して、
とりあえず尋ねてみるようにと
アドバイスされた。
もしクラウヴィッツ夫人に
何か頼まれたら、
できるだけ聞いて欲しいという
言葉も添えられていたと話しました。
オデットは、
「ああ、はい、そうだったのですね」
と答えると、低いため息をつきながら
頷きました。
ジェンダス伯爵から電話があったのは
今朝でした。
アルデンにある別荘で週末を過ごして
帰ろうとしているところだけれど
できれば午前中に少し立ち寄って
お茶を一杯、一緒に飲みたいと
言われました。
度々、あったことなので、
オデットは淡々と承諾しました。
ジェンダス家の車を利用して
質屋に行けるかもしれないという
希望も、全くないわけでは
ありませんでした。
マクシミンは、
どうして、トリエ伯爵夫人が
それほど親密でない間柄の自分に
そのようなお願いをしたのかと
思っていたけれど、
あなたと直接会って、
分かったような気がする。
医者には診てもらったのかと
尋ねました。
マクシミンの眼差しが
一層深くなりました。
オデットは断固として首を横に振り
大したことではないと答えました。
マクシミンは、
必要であれば、ジェンダス家の主治医を
紹介することができる。
もちろん秘密は厳守するので
その点は心配無用だと
優しい力が込められた声で
言いました。
夫が帰って来てから
オデットが変わりました。
何度考えてみても、
マクシミンの結論は同じでした。
しばらくは、
父親の死のせいかもしれないと
思っていましたが、
今では確信することができました。
この女性が、
日に日に衰えて行く理由は
まさに夫だと。
オデットは、
気持ちはありがたいけれど、
その提案は断る。
それは、十分、優秀な医者である
クラーモ博士に対して、
大きな失礼に当たると思うからと
丁重な断りの言葉を伝えながら、
肩を包んでいるショールを
整えて握りました。
かなり防御的な反応でした。
まるで何かに追われているようにも
見えました。
緩んだ結婚指輪を
注意深く見ていたマクシミンは、
再びオデットを見つめながら、
彼女が心配で失言したことを
謝りました。
その後の気まずい沈黙は、
ちょうど戻って来たアルマによって
解消されました。
オデットの前に
ちょこちょこ駆け寄ったアルマは
クラウヴィッツ夫人にあげると言って
後ろに隠して来た花束を
差し出しました。
オデットの花壇から
摘んできたものでした。
マクシミンは、
許可なく花を摘んだアルマを
叱りましたが、オデットは、
大丈夫、叱らないでと言って
急いでマクシミンを制止し、
優しい笑みを浮かべながら
子供がくれたプレゼントを
受け取りました。
オデットは、
アルマのように可愛い花だと
お礼を言いました。
アルマは首を振りながら
「いいえ」と答えて、
そっとオデットの手を握ると、
花は世界で一番きれいなので、
クラウヴィッツ夫人のように
きれいだと、
言わなければならないと
子供を教える大人の口調を真似して
真剣に反論しました。
その突拍子もない愛らしい子供を
じっと見つめていたオデットは、
つい無防備に笑ってしまいました。
アルマもキャッキャッと
済んだ笑い声を爆発させました。
わけも分からないまま、
ウキウキしたマルグレーテも
キャンキャン吠えながら
調子を合わせました。
オデットは頭を下げて
アルマの頬にキスをしました。
自分の手作りのリボンを付けた
柔らかい髪の毛を撫でると、
言い表せない悲しみが
押し寄せて来ました。
「オデット」
思いやりのある声が、
際限なくアルマを見つめていた
オデットを我に返らせました。
アルマを放したオデットは、急いで
礼儀正しい笑みを浮かべました。
残っているのは、あと三日でした。
今は、それ一つを考えるだけで
手一杯の時でした。
無意味な感傷に浸って、
事を仕損じることはできませんでした。
必ず去らなければならない。
モリーを通じて届けられた
テオドラ・クラウヴィッツの手紙を
受け取った後、その願望が
より切実なものとなりました。
助けが必要ならお金をくれると
彼女は言いました。
要求事項はただ一つ、冬が来る前に
自分が消えることでした。
バスティアンとフランツの
目に付かない所で、死んだように
生きなければならないと。
素晴らしい親切心でも使っている
振りをしていましたが、
結局、その本質は脅迫でした。
異母兄の妻に
異常な執着を見せる息子を守るために
講じた方法に違いありませんでした。
毒も同然のお金。
オデットは手紙を燃やしながら、
二度と、あの女の策略に
翻弄されることはないと
決意しました。
モリーを追い出しても、
他の手先を潜り込ませることが
明らかなので、しばらく
保留にしておいただけでした。
彼女と再び手を組む気など、
最初からありませんでした。
少なくとも
バスティアンを害そうとする計略を
企んではいないという事実は
確認したので、
きれいに片づけて去る時でした。
気を引き締めたオデットは、
もうラッツへ行くのかと、
丁寧な方法で、
会話の終わりをほのめかしました。
マクシミンは、
礼儀を知っている客らしく、
それを受け入れました。
彼は、一旦アルマを家に送ってから、
また研究室に出向く予定だ。
そろそろ
出発しなければならないようだと
言うと、オデットは、
ひとつお願いしたいことがあると
しばらく躊躇っていた言葉を
虚しくも、簡単に口にしました。
マクシミンは、
温情と憐憫が滲み出る目で
オデットを見つめながら微笑むと
「いくらでも言ってください」と
答えました。

練兵場を走る軍人たちの気合の声が
微かに聞こえて来ました。
習慣的に左手をあげて
時計を確認しました。
作戦司令部の会議に
出席しなければならない2時まで、
まだ30分余りの時間が残っていました。
手で顔を擦ったバスティアンは、
すぐに体を起こし、
簡易ベッドから降りました。
休憩室の窓越しに見える水の庭園は
すっかり秋の色に染まっていました。
目が覚めた瞬間にぼやけて行く
夢の一場面を、
朧気ながら思い出させる風景でした。
彼は、果てしなく広い野原を
一人で歩いていました。
四方が全て真っ赤でした。
血だと思いましたが、
改めて見ると花でした。
赤い花の波の上に、
金色の煌びやかで眩しい日差しが
降り注いでいました。
地平線の向こうから
誰かが近づいて来ていたような
気もしましたが、
その後の記憶は不明でした。
そのくらいで、
無意味な雑念を払ったバスティアンは
洗面台の前に近づき、
冷たい水で顔を洗いました。
意識が一層、はっきりして来ました。
今夜、父親に会うことにしたのかと
背後から、
聞き慣れた声が聞こえて来ました。
バスティアンは濡れた顔を拭きながら
体を起こして振り返りました。
ニコニコしながら近づいて来た
エーリッヒが、
タバコの箱を差し出しました。
遠慮なく一本受け取ったバスティアンは
窓際に近づき、
タバコに火を点けました。
様子を窺っていたエーリッヒは、
そっと彼の後を追いました。
近くで見たら、バスティアンの目が
赤くなっていました。
両目を血走らせながら、
自分の父親の息の根を
止めているという世間の評判が、
単なる比喩的な表現だけでは
なさそうでした。
エーリッヒは、
聞いたところによると、
昨日は、エヴァルト伯爵の
ご機嫌取りに行ったそうだ。
こんな風に仮眠を取りながら
苦労する必要があるのか。
どうせフランツ・クラウヴィッツは
長くはもたない。
彼の母親の庇護下から離れれば
自ら倒れるだろうと言いました。
エーリッヒは、バスティアンが
しらじらしく笑う程度で
ごまかすと思っていましたが、
「うんざりだ」と
意外な返事をしました。
エーリッヒはビクッとして
タバコを握り直しました。
確かに、お前の継母は
短命そうに見えないので、
あまりにも長い年月を
待つことになるだろう。
だから、早めに終わらせた後、
一体、どんな面白いことをしたいのかと
尋ねました。
バスティアンは
「そうですね」と答えると、
これといった熱意のない顔で
タバコを深く吸い込みました。
出世に狂った野心家という評判には
相応しくない無念な態度でした。
エーリッヒは
苦笑いを浮かべながら
タイの結び目を
引っ張って降ろしました。
そういえば、
いつもこうでした。
あまり切実に望んでいないようでも
黙々と義務と責任のために献身し、
結局、輝かしい成果を出しました。
それより、もっと驚くべきことは、
その成功に対しても
あまり未練がないように
見えることでした。
制服に鈴なりにぶら下がっている
あの勲章と記章の数を
きちんと覚えていないと言っても、
それほど、
驚くことではなさそうでした。
エーリッヒは、
誰も無視できない立派な会社を設立し
最年少の海軍提督の座も
すでに手中に収めたも同然だ。
さらに欲を出すようなものが
残っているだろうか。
それとも初心に戻って
古物でも拾ってみるのはどうかと
うっかり口走りました。
彼は、後になって、
自分の失言に気づきました。
すっかり緊張して様子を窺いましたが
バスティアンは平然としていました。
何事もなかったような顔で
タバコを吸いながら、フッと笑って頷き
それも悪くないだろうと
返事をしました。
あまりにも普通な口調が、
再びエーリッヒの自尊心を
傷つけました。
ちょうど定刻15分前を知らせる
鐘が鳴ったおかげで、
その辺で、会話を
終わらせることができました。
父親の機嫌を取るのは
苦労が多いだろうけれど、
とにかく健闘を祈ると、
わざと虚勢を張って体面を保った
エーリッヒが去ると、
再び深い静寂が訪れました。
制服を着たバスティアンは
鏡の前に立ち、
もう一度身なりを点検しました。
うんざりだ。
無意識に吐き出した
その答えを繰り返すと、
乾いた笑いが漏れました。
かなり非合理的な
感情ではありました。
妻の命を奪い、
子供を虐待した奴にも、
ただ、うんざりしているだけなのに
たかが書類を何枚か盗んだ女を、
これほど猛烈に憎悪するなんて。
計算が合わない算法を
熟考している間に、
「クラウヴィッツ少佐!」と
デメル提督の力強い声が
聞こえて来ました。
最後に肩章の形を整えた
バスティアンは、
準備しておいた資料を持って
休憩室を出ました。
海軍本部の廊下は、
会議に出席するために移動する
将軍たちと、彼らの副官たちで
賑わっていました。
バスティアンは、
今回の会議の議題を要約して
説明しながら、
また、あの赤い夢を思い出したのは、
二つの建物をつなぐ回廊に
入った時でした。
思わず顔を回すと、
紅葉に染まった庭が見え、
当然の流れのように
夢の残像が浮かび上がりました。
相変らず、ぼんやりとしている
記憶を振り返っている間に、
いつの間にか
回廊の終わりが近づいていました。
バスティアンは、
このくらいで無駄な考えを消し、
司令部に入りました。

ジェンダス伯爵家の車は、
ラッツの都心にある公園の西側で
止まりました。
オデットが指定した場所でした。
眠りについたばかりのアルマを
胸に抱いたマクシミンは、
穏やかなため息をつきながら
オデットの方を向きました。
額にたまった冷や汗を拭った
オデットは、
地味な帽子をかぶって
カバンを手にしました。
とても大きくて重そうな荷物でした。
マクシミンは、
正確な目的地を言うように。
そこまで乗せて行くと申し出ました。
しかし、オデットは、
ここから、それほど遠くない所だし、
車で行くと、かえって不便になると
頑なに譲りませんでした。
なかなか安心できませんでしたが、
マクシミンは、その辺で
一歩引いてくれました。
礼儀正しい別れの挨拶を残した
オデットは、
急いで車から降りました。
マクシミンは、
複雑な心境がこもった眼差しで
去っていくオデットを見守りました。
運転手が再び車に乗り込みましたが
出発を命じるのは困難でした。
はたして、
このまま放っておくのが最善なのか、
確信が持てないせいでした。
「は、伯爵様!」
突然の叫び声が響き渡ったのは、
やはりオデットを
再び連れて来た方が良いという判断を
下した時でした。
急いで車から降りた運転手が
公園に面している歩道の上に
走って行きました。
その場所を見たマクシミンの口からも
悲鳴のようなうめき声が流れ出ました。
驚いて目を覚ました子供が
泣き出しましたが、
今はそれを気にしている時では
ありませんでした。
アルマを車に残して降りたマクシミンは
路上に倒れているオデットに向かって
夢中で走り出しました。
![]()
![]()
バスティアンが猛烈に
オデットを憎んでいるのは、
それと同じくらい、彼女のことを
愛しているからではないかと
思います。
もし、彼女のことを心底憎んでいるなら
皇帝との取引が終わった時点で
彼女を追い出すこともできたと
思います。
でも、バスティアンは
自分を裏切ったオデットを
憎んではいるけれど、その一方で
彼女を手放したくない気持ちがある。
だから、子供が生まれるまで
オデットを手放す時期を先に延ばし
いざ子供が生まれても
オデットを手放す気になれなかったら
新たな手段を考え出すのではないかと
思います。
あるいは、バスティアンは、
オデットにとって自分が
何者でもないと思っているので
憎まれてでも、オデットの何かに
なりたいと思っているのか、
あるいは、
バスティアンを裏切ったことで
オデットは、
「ごめんなさい」と謝ったけれど
彼に許しを請うていなかったと
思うので、彼女がそうしてくれるのを
待っているのかもしれないと
思いました。
![]()