
62話 ローラは家庭教師専門職業紹介所へ行きました。
ローラは看板を見つめながら
唾をゴクリと飲み込みました。
彼女の人生に
不安な瞬間は多かったけれど、
今回のような、
新たな挑戦は初めてでした。
社交界に初めて出る時も
こんなに不安ではありませんでした。
彼女は髪を整え、
襟をきちんと整えた後、
中へ入りました。
中に入ると、
待合室がありました。
日当たりが良く、明るかったものの
家具や壁紙の状態のせいで、
どこか薄暗い雰囲気を
漂わせていました。
壁際には長椅子が置かれていて、
何人かの質素な服装の
若い淑女たちが座り、
自分の順番を待っていました。
ローラは待合室の片隅にある
机に座っていた女性に、
初めて来た者だ。
仕事を探していると話しました。
女は瞬く間に、
彼女の顔と身なりを隅々まで見回すと
椅子に座って待つようにと言いました。
ローラは椅子に座りました。
心臓が大きく鼓動しました。
手袋がびしょ濡れになるほど
手のひらから汗も滲み出ました。
まもなく何人かの名前が呼ばれ、
座っていた淑女たちが、
机の向こうの事務室に
すっと入って行きました。
彼女は落ち着いて順番を待ちました。
待合室に残っていた淑女たちが
誰もいなくなった頃に
彼女の名前が呼ばれました。
ローラは、すぐに立ち上がり
事務室の中に入りました。
事務室は、待合室よりも、
ずっと立派に設えられていました。
壁紙もキャビネットも清潔な新品で、
頑丈なブナ材の机と、その上に置かれた
「アニー・ストッパー」という名札は
高級感さえ漂わせていました。
事務所のオーナーである
中年のストッパー嬢は、
彼女に丁重に挨拶をした後。
家庭教師の仕事を探しているのかと
尋ねました。
ローラはぎこちなく微笑みながら
「はい」と答えました。
ストッパー嬢は、
この仕事をしたことがあるのかと
尋ねました。
ローラは「いいえ」と答えました。
ストッパー嬢は、
それなら推薦状もないだろう。
良い職を得るには、
それが必須なのにと告げると、
ひとまず、
何を教えることができるのかと
尋ねました。
ローラは、
普通の学校で学べることは
すべて可能だと答えました。
ストッパー嬢は、
算数、地理、文学、歴史、フランス語
ドイツ語といったところか。
それに加えて、絵と音楽を少し?
と尋ねました。
ローラは、
ストッパー嬢は、しばらく彼女を
ぼんやりと見つめた後、
聞き返しました。
ローラは「はい」と答えました。
ストッパー嬢は、
失礼だとは思うけれど、
どのくらいかと尋ねました。
ローラは、
バッグから取り出したノートを
いくつか開いてみました。
ストッパー嬢は、
びっしり書かれたラテン語と、
その下に翻訳された新約聖書全体に
ざっと目を通しました。
彼女は驚いたように
ノートをパラパラめくった後、
すぐに別のノートを見ました。
オデュッセイアの全文が
英語に翻訳されていました。
ストッパーさんは、
これを、どこで習ったのかと
尋ねました。
ローラは、グラント女学校で
7年間学びながらと答えました。
ストッパー嬢は、
グラント女子校。
名門女子校を卒業されたのですねと
感嘆すると、しばらく
耳たぶを引っ張りながら
ローラを見つめました。
彼女は、
もしかして家族が亡くなったのかと
尋ねました。
ローラは、
祖母が亡くなったと答えました。
ストッパー嬢は、
もしかして、そのことが
家庭教師になったことと
ほんの少しでも関係があるのかと
尋ねました。
ローラは、
ないとは言えないと答えました。
ストッパー嬢は腕を組んで考え込んだ後
名門学校を卒業して、29歳まで
家庭教師の経験がないということは
もしかして、経済的に苦しくなり
働かざるを得なくなった
貴族の令嬢ではないかと尋ねました。
ローラは無表情で首を横に振りました。
ストッパー嬢は、
ローラの顔をじっと見て、頷くと
それが正しかろうが間違っていようが
誰に聞かれても、
ずっと、そう答えるように。
家庭教師として名乗り出た
貴族の娘など
誰も雇いたがらないから。
それでは、
有能なローラ・シェルドン嬢のための
職を探してみようと言って、
ファイルをめくりました。
彼女は、ローラが、
息子と娘の両方がいる家庭でも
歓迎されるだろう。
しかし、率直に言って、
息子の教育には、男性の家庭教師を
より好む傾向がある。
同じラテン語文法でも、
なぜか女性の家庭教師が教えると
頼りなく感じられるようだ。
しかし、教育指導者を雇うには、
お金がたくさんかかる。
家庭教師の値段で
生活が苦しい家では、
両手を広げて歓迎するだろう。
さて、年俸50ポンドで、
レイジン家が7人の子供たちの
家庭教師を募集しているけれど、
どうだろうかと尋ねました。
ローラは首を横に振りました。
50ポンドは、家庭教師の
一般的な給与レベルでした。
7人もの子供を預かるのに、
その給料では、話になりませんでした。
ローラが、あまり
乗り気でなさそうな表情をすると、
ストッパー嬢は、
さらにファイルを探し続けました。
そして、デニーズ家の2人の男の子の
家庭教師の職を紹介しました。
年俸は60ポンド。
パブリックスクールに進学する前の
予習を助ける指導者を求めていて
家庭教師がいれば
喜んで雇うというものでした。
ローラが、
相場より10ポンド高いと言うと、
ストッパー嬢は、
ただ、この家は気をつける必要がある。
デニーズ氏は、かなりケチで、
1年間せっせと、こき使っておいて、
いざ給料を払えと言うと、
使わないカーペットや変な壺などを
家宝だと言い張って押し付けた。
数年前にも、
家庭教師の1人がやられて、
訴訟すると泣きわめいていたけれど
結局は、給料を
受け取れなかったという話だ。
よくもまあ、
そんな不届きな人がいたものだと言って
笑いました。
ローラは、彼女が一体何が面白くて
笑っているのか
分かりませんでした。
ストッパーさんは一度笑うと
ローラの表情を見て、
再びファイルをめくりました。
まもなく、60ポンド、55ポンド、
45ポンドの求人が次々と出て来ました。
しかし、どれも、
預かる子供たちが多すぎたり、
雇用主の評判が
ひどく悪かったりしました。
ローラは前途を覆う暗雲に、
呆然と立ち尽くしました。
最後に、彼女は、
65ポンドで、
ローランド家の8人の子供を教える
仕事を紹介されました。
面白いことに、料理や掃除、
赤ん坊の世話にも長けた家庭教師を
探していました。
どう見ても、
家庭教師兼、料理人兼、保母兼、
メイドを募集しているのは
明らかでした。
ストッパー嬢は、自分が見ても
お粗末な求人リストに決まりが悪くなり
訳もなく耳たぶだけを
引っ張り続けました。
そして、すでに、
出せるものは全て出し尽くした書類を
パラパラめくりました。
ローラは、来週また訪問すると告げて
職業紹介所を出ました。

ローラは陰鬱な気分で、
ウェストエンド通りで貸し切り馬車を
捕まえると、
そのままウォータールー駅付近へ
向かいました。
露天商で賑わう
ニューカット通りに着くと、
彼女は、すぐに馬車から降りました。
数十人の行商と品物を見に来た
人々の間をようやく抜け出ると
彼女は角を1つ曲がりました。
すると、7軒の貴金属店が
ずらりと並んでいる路地が現れました。
彼女はそこに順番に立ち寄り、
自分が持って来た
貴金属の袋を空けて見せました。
舞踏会でもお茶会でも、
一度も悪評を聞いたことのない
アクセサリーでしたが、
彼らの中の誰1人として、
宝石に80ポンド以上を
払おうとしませんでした。
彼女は、最も印象が良さそうな社長に
数時間かけて事情を説明し、
説得を重ねた結果、83ポンドで、
自分が持っていた宝石類を
全て手放しました。
彼女は貸切馬車に乗らず、
ゆっくりと歩いて銀行へ向かいました。
そして、
宝石と引き換えに受け取ったお金を
全て貯金しました。
財布にある1ポンド紙幣1枚と
何枚かの硬貨を除けば、
彼女の現在の財産は583ポンドでした。
そして、今後、この預金が急激に
増えそうにもありませんでした。
年収50ポンドから65ポンドの労働力。
それが、現在の彼女の価値でした。
彼女は改めて、自分が新たに
適応しなければならない人生を
肌で感じました。
この人生は、ドレス一着仕立てるのに
数十ポンドを消費し、
良い料理人を雇うために
数100ポンドも辞さない世界では
ありませんでした。
50ポンドから65ポンドという安月給で
自らの1年を
抵当に入れなければならない
労働市場でした。
そして、その中で自分は、それほど
優れた商品でもありませんでした。
彼女が積み上げてきた学問など、
せいぜい似たり寄ったりの選択肢が
ほんの少し増える程度のものに
過ぎなかったのでした。
彼女はゆっくりと歩いて、
自分が泊まっていたホテルへ
向かいました。
1時間以上かかる距離でしたが、
先ほど自分の相場を知ってからは
わずか数ペンスに過ぎない
貸切馬車を捕まえることさえ
憚られました。
彼女は、ベンチや、
人のいない住宅街の階段が現れる度に
座って足を休ませながら
ゆっくり移動しました。
ホテルに着く頃、彼女は
へとへとになっていました。
これほど長く歩いたことは
ありませんでした。
まだ早い午後で、
昼食さえ食べていなかったけれど、
すごく疲れていました。
彼女は服を脱いできちんと掛けた後
ベッドに横になりました。
雑に漆喰が塗られた天井の、
ひび割れた部分が目に入りました。
彼女は瞬きしながら考えました。
相場が50ポンド。
10年働けば500ポンド。
20年働けば1000ポンド。
相場通りに働いていては、
50歳までに3000 ポンドを作ることは
不可能でした。
ローラはクスッと笑いました。
おそらく伯父は、
祖母が残した5000ポンドが
どれほど自分の役に立つか
知っていたに違いありませんでした。
だから、大きな損失を甘受してまで
奪ったのだろう。
自分が、今、お金のために
頭を悩ませていることを知れば
伯父はかなり満足するだろう。
ペンドルトン家を去る直前、
彼がどれほど怒りに包まれていたかを
思い出しました。
プライス氏の投資金の回収と
祖母の遺言まで、彼は全ての怒りを
自分にぶつけました。
その全てが、伯父自身の判断ミスと
薄情だった結果だということを
自ら認めたくなかったようでした。
ローラは首を横に振りました。
5000ポンドの遺産も伯父も、
もはや自分には関係がなく
既に過ぎ去ってしまったことでした。
彼女は過去のことは、
脳裏から全て消し去り、これからは
考えないように決めました。
過ぎ去ったことを振り返っても
どうせ役に立たないのだから。
しかし、彼女は、
記憶喪失になったわけではないので、
ペンドルトン嬢として生きてきた人生を
全て忘れることはできませんでした。
彼女が置いてきたものの中には
大切なものが多く、
重要なものもありました。
その中で一番気になるのは
祖母の葬式でした。
彼女は目を閉じました。
棺の中に横たわる祖母の姿。
黒衣の弔問客。
冷ややかな表情で立っている伯父。
退屈な表情で立っているチャールズ。
今頃、人々が集まり、牧師の司式で
葬儀が行われているだろう。
いえ、もしかすると、
もう墓地への埋葬が
終わっているかもしれない。
ローラは、
祖母の棺に蓋が締められる様子を
想像しました。
深い穴へと降ろされる棺。
その上に掛けられる土。
祖母の最後を見守れないという想像は
一度もしたことがなかったのに。
ローラは心臓が締め付けられました。
彼女は、すぐに、また起き上がり
机に座りました。
彼女は葬儀に出席できませんでしたが
それは社交界の人々に、
興味深い好奇心を呼び起こすに
違いないと思いました。

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今までローラは、
裕福な貴族の家庭で働いている
家庭教師しか見て来なかったので
自分の能力さえあれば、
そのくらいできると、少し甘く
考えていたのかもしれません。
条件の良い所で働けている
家庭教師は、家同士で紹介し合うとか
卒業生の中で、
良い家庭教師候補はいないかと
直接、学校に相談するなどして、
街中の斡旋業者に
頼ったりしないのではないかと
思いました。
祖母の葬儀に参列できず、
想像するしかないローラが哀れです。
でも、ローラも推測しているように
伯父の薄情さは、
人々の口に上るでしょうし、
遺言書まで偽造する悪人なので、
いつか伯父は、
自分の犯した罪の報いを
受けることになると思います。