
63話 ローラが祖母の葬儀に参列しないことで、社交界の人々が興味深い好奇心を抱くだろうと彼女は考えましたが・・・
すでに、
ペンドルトンの姓を捨てたので、
彼女が気にする必要は
ありませんでしたが、
自分のことを、心から心配してくれる
友達がいました。
彼女はトランクから紙を取り出して
友達に手紙を書き始めました。
自分の状況を心配させない程度に
簡単に知らせる内容でした。
彼女は10人前後の親しい友達に
手紙を書きました。
全ての手紙に封をする頃、
脳裏にイアン・ダルトンの名前が
過りました。
しかし、彼女は手紙を
フェアファクス氏にも送るので、
彼も自然に知るだろうと思い、
彼は抜かしました。
彼女は再び外へ出て
郵便局に手紙を出しました。
帰り道、
いつの間にか日が暮れていて、
店が閉まり始めました。
ローラは駅から溢れ出て来る
大勢の人々と、仕事を終えて
家路につく通行人たちに混じって
道を歩きました。
彼女のそばを、
数多くの人が通り過ぎました。
口ひげを生やした
みすぼらしい中年の男たちと
子供を背負った女性たち。
そして、時々、
自分のそばを通り過ぎる馬車。
今まで高級馬車の中からしか
眺めていなかった
平凡な群衆の風景の中に
自分が混じっていました。
初めて味わう、奇妙な感覚でした。
まるで、いつも額縁越しに
鑑賞していた絵の中に、
どっぷり浸かったような気分でした。
見知らぬ寂しさでしたが、
何か、心が弾むような
新鮮な感じでした。
再びホテルに戻った頃には、
食堂は人でいっぱいで
賑やかになっていました。
彼女は、
すぐさま、食堂へ向かいました。
昼食を抜いていたので
ひどくお腹が空いていました。
彼女は味が薄い魚料理に
サラダを一皿食べた後、
静かに部屋に上がりました。
部屋の中は、
もう暗くなっていました。
彼女は指の長さほども残っていない
ローソクに火を点けました。
部屋の中が少し明るくなりました。
彼女は、
銀行から受け取った領収書を綴り
あれこれ取り出したせいで
ごちゃごちゃになった
トランクの中を整理して
残りの時間を過ごしました。
廊下を歩き回る人々の足音が
次第に少なくなって行きました。
夜が訪れたのでした。
彼女は、静かに机に座り、
ローソクをじっと見つめながら
今日1日を振り返りしました。
見知らぬホテルの部屋で目を覚まし
ロンドンのあちこちを彷徨い、
どこか変な味がする食事をしました。
ほとんどの状況が、
思ったより良くない方向へ
流れて行きました。
家庭教師の仕事に対するケチな給料。
元の価格の1/4も受け取れずに
手放した宝石。
交通費を節約するために
ふくらはぎがズキズキするほど歩いた
ロンドンの街。
知り合いが1人もいない孤独な環境で
委縮しなかったと言えば
嘘になるだろう。
恐ろしくて緊張した瞬間が多かったし
精神的失望と肉体的疲労が
彼女を疲れさせました。
しかし、ローソクの前に座った
彼女の心は、
極めて安らかな状態でした。
なぜだろう。一日中不安だったし、
がっかりしたし、疲れたのに、
少しも落ち込むことがなかったのは
本当に不思議でした。
彼女は、じっくり、
そのことについて考えてみました。
そして、やがて彼女は、
今日1日中、1度も無理に
微笑んだことがなかったという
事実に気が付きました。
誰にも、
わざと親切を施さなかったし、
他人の視線を意識することも
ありませんでした。
ただ生きるために1日を
一生懸命過ごしただけでした。
楽でした。息がつける気分でした。
まるで、1日中
ウェストを締め付けていた
コルセットを
解いてしまったかのようでした。
ペンドルトンという姓が
自分を締め付けていたことが
より、いっそう明らかになりました。
ペンドルトンではない
シェルドンの人生は貧しくて
劣悪だったけれど、
ペンドルトンの豪華な生活が与えた
苦痛はありませんでした。
痛みのない状態が幸せなら、
彼女は今幸せだと言えました。
この自由が、
どれくらい持続できるだろうか。
彼女は、
家庭教師として生きる人生について
考えました。
自由のない雇われの身。
子供たちの教育に対する
雇い主の干渉と
労働に縛り付けられる時間。
しかし、
これまで彼女を苦しめて来た
親のレッテルも、
ペンドルトンとしての義務も
ないだろうし、
雇用主に、最低限の敬意を
求めることもできました。
彼らが自分に敬意を払わなければ
いくらでも去ることができる。
自分は自由でした。
自由。ローラは、
その言葉を繰り返してみました。
その言葉は、
もはや遠い昔に失われた時間への
郷愁を呼び起こしませんでした。
今、彼女は、
自由の真っただ中にいました。
彼女は 完全に自由でした。
そして、この自由は、
子供の頃のそれとは違っていて
状況により、
人に奪われるわけでは
ありませんでした。
自分が守ることができ、
やりくりすることができました。
彼女は大人で、
いくらでも仕事ができました。
いくらでも、思い通りに
生きて行くことができました。
ローソクが指の一節よりも
短くなりました。
彼女はトランクから聖書を取り出し
机の上に置きました。
そして、その上に手を合わせて
祈りました。
ローラは神に、
天に昇った祖母が、
すでに天にいる母親と
無事に会えたことを願い、
今日1日、何事もなく
無事に過ごすことができたことに
感謝し、1日も早く、
身の丈に合った良い働き口を
与えてくれるよう願い
最後に、
自分に自由を与えてくれたことに
感謝しました。

ローラは、数日間、さらに数軒の
家庭教師の職業紹介所を回りました。
しかし、ウェスターウェイより
良い結果は得られませんでした。
家庭教師の職は
どれも似たり寄ったりで、
要求は多いのに低賃金でした。
職を探し始めて4日目、
彼女は、また別の職業紹介所で
失望を味わい、街に出ました。
彼女はホテルに戻るために
ロンドンの通りを
ゆっくりと歩きました。
青果店やパン屋が立ち並ぶ通りや
人混みの激しい大通りを
通り過ぎました。
喧騒と慌ただしさに満ちた
ロンドンの街でした。
彼女は馬車なしで、埃をかぶって
ホテルに移動することに
数日で、かなり慣れました。
それは、
あまり悪くない気分でした。
適当な働き口さえ現れれば、
新しい人生を、
より楽しく過ごせるのに。
ところがホテルに近づく頃、
ローラはホテルの前である
見覚えのある紳士の人影を
発見しました。
彼女の足がピタッと止まりました。
心臓が落ちそうになりました。
まっ黒な髪。
すらりとしてしなやかな体つき。
彫刻のように整った、
透き通るような象牙色の横顔
紳士の顔が
彼女の方に向きました。
イアン・ダルトン。 彼でした。
彼はローラを発見するや否や
歩いて来て
ローラの目の前に立ちました。
彼が「ペンドルトン嬢」と呼ぶと
ローラは、反射的に、礼儀正しく
そっと膝を曲げました。
そして、
こんな所で、どうしたのかと
尋ねました。
彼は、まるで言葉を失ったかのように
口をつぐんでいました。
彼の目は飾り気のない平たい帽子と
洗練されていない革のバッグ、
そして長く歩き続けて、
埃がたくさん付いた靴へと
視線を走らせました。
彼の顎が、
歯を食いしばっているように
硬くなりました。
彼は、
一体、どういうことなのかと
尋ねました。
ローラは、
言葉が見つかりませんでした。
どういうことなのかを全て話すには
3泊4日かけても
足りないはずだからでした。
ローラはダルトン氏に、
フェアファクス氏へ送った手紙を
読んだかどうか尋ねた後、
そこに書いてある通り、
伯父と一緒に暮らすわけにはいかず
家を出た。
ここに泊まりながら、
家庭教師の職を探しているところだと
説明しました。
そして、手紙には、
自分の居所を書かなかったのに、
どうやって自分を見つけたのかと
尋ねました。
ダルトン氏は、
馬車に乗っていた時に、通りすがりに
あなたを見かけたと答えました。
ローラは頷きました。
彼女は、この状況で
彼に会ったのが意外で、
あまり嬉しくもありませんでした。
彼は、自分が社交界にいた時に
知り合った友人でした。
このように、
何の心の準備もないまま、
自分の有様を晒すことになり、
戸惑いを隠せませんでした。
自分はもう、
淑女ではありませんでした。
仕事を探し回る小市民でした。
この事実が、
彼に対する自分の気持ちを
変えたわけではないけれど、
彼の気持ちがどうなのかは
知る由もありませんでした。
彼女は、ダルトン氏の顔を
じっと、のぞき込みました。
彼は心の読めない顔で
彼女を見つめていました。
どこか、怒っているようでもあり、
悲しんでいるようでもある
複雑な感情が入り混じっていました。
推測するのが大変でしたが、
彼女が恐れていた
嫌悪の感情はありませんでした。
彼女は内心ほっとしました。
そのような人ではないことは
分かっていたけれど、彼が、
階級が低くなった自分に
不快感を示したら、
傷ついたはずだったからでした。
それは、今の生活に
満足していることとは別でした。
彼の表情に浮かんでいたのは
強いて言えば
悲しみのようなものでした。
彼は自分に同情しているのだろうか。
自分が、
彼の同情の対象になったのだろうか。
それなら彼は、善意を
無駄にしているようなものでした。
ダルトン氏は、
自分と行こう。ウィリアムの家に
あなたが泊まる客室がある。
荷物は使用人が持って来る。
自分と馬車に乗ってくださいと言って
ローラに手を伸ばしました。
ローラは、確かに自分が
彼の同情の対象になったことに
気づきました。
ローラは苦笑いすると、
自分は行かないと答えました。
ダルトン氏は、
その理由を尋ねました。
ローラは、自分がもう、
ローラ・ペンドルトンではないから。
自分はフェアファクス氏のような人の
客に資格がないと答えました。
ダルトン氏は、
資格だなんて、
あなたはウィリアムの親友だし
そして自分も、
いつまでもあなたの友達だと
言いました。
しかし、ローラは、
自分はもう、自分の身分に
慣れなければならない。
フェアファクス氏のような人の
客だなんて、とんでもないことだと
言い返しました。
彼女はイアンの肩越しに、
自分の居場所である2流ホテルを
チラッと見ました。そして、
自分は新しい人生に慣れるために
最善を尽くしている。
だから、どうか自分を
ペンドルトン嬢の時代の生活に
引き戻さないで欲しい。
再びペンドルトン嬢の生活に戻ったら
自分は耐えられない。自分は初めて・・
と言いかけたところで、
言葉を飲み込みました。
自分が今、夢に描いていた自由を
享受していることを、
彼に納得させられそうにないと
思ったからでした。
彼はローラを、
彼女のみすぼらしい身なりを
じっと見つめました。彼女は、
呆れるほど落ちぶれた姿でした。
彼が知っていたペンドルトン嬢では
ありませんでした。
店の従業員やメイドの姿と
変わりはありませんでした。
ところが、不思議なことに
表情は、はるかに
明るくなっていました。
いつも青白い状態に近い顔に
血色が戻り、健康に見えました。
今にも倒れそうだった過去とは
全く違っていました。
そして、理解はできませんでしたが
はるかにリラックスしているように
見えました。
彼は彼女に差し出した手を
引っ込めました。
そして、やや事務的な表情で、
この前、あなたに提示した仕事を
覚えているかと尋ねました。
数日前の、彼女の最後の舞踏会で
持ち出した、
甥たちの家庭教師の職のことを
言っているのだと思ったローラは
「はい」と答えました。
ダルトン氏は、
まだ、悩んでいるのかと尋ねました。
ローラは、
慌ただしくて、すっかり忘れていたと
答えました。
ダルトン氏は、
それでは、今から真剣に考えて欲しい。
自分は、様々な点で、あなたが
甥たちの立派な先生になってくれると
思うと言いました。
ローラは考え込みました。
社交界の友達に仕事を頼むことを
今まで考えたこともありました。
しかし、彼女はそれを、
最後の手段として取っておきました。
友人たちに負担をかけることに
気が引けたのもあったけれど、
身分が落ちた者が、
落ちぶれる前の友人の家に
雇われ人として入った時に生じる
様々な不便を
十分に予想できたからでした。
友人は、
自分の子供の教育問題について
雇い主として当然できる指示さえ
友情のために飲み込まねばならず、
ローラ自身は、一時、社交界で
互いにスカートを直し合った友人を
主人として、
仕えなければならないので
気まずいことが起きるのは
明らかでした。
ダルトン氏は、
1日5時間。
算数と歴史。
これだけに集中して、
残りの時間は自由に使うように。
週に1回の休暇も提供すると
言いました。
ローラはダルトン氏に
少し待って欲しい。自分は・・
と返事をしようとすると、彼は、
それで年150ポンドはどうかと
尋ねました。
ローラは、しばらく、
ぼんやりと彼を見つめました。
年間150ポンドですか?

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ローラには、
半分平民の血が流れているという
レッテルが貼られていて、
一時は、付き合っていた男性に
捨てられたというレッテルまで
貼られていた。
レッテルの恐ろしさを痛感していた
ローラは、これ以上、
レッテルが貼られないように
自分の行動に細心の注意を
払っていたのですね。
しかも、最近まで
プライス氏の執拗な求愛と
伯父からのストレスもあって、
心身ともに疲労困憊していたのでは
ないかと思います。
精神的な束縛から解放されて
自由を味わうローラの変化に
すぐに気づいたダルトン氏。
さすがです。