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122話 ティラの結婚式当日となりました。
バスティアンは約束を守りました。
ベッカー夫婦の結婚が宣言されると
初めて、その事実が実感できました。
オデットはそっと目を上げて、
バスティアンを見つめました。
他の参列者たちのように
祝福の拍手を送っていましたが、
ただそれだけ。
バスティアンの眼差しは、
すでにティラの存在を
きれいに消してしまったように
徹底的なまでに無心でした。
結婚式は、新郎と新婦が交わす
誓いのキスで締めくくられました。
オデットは心からの拍手を送りながら
ベッカー夫妻の将来を祝いました。
少なくとも、ティラの幸せだけは
守りたいと必死になっていた
過去の努力が報われた瞬間でした。
その選択が最善だったこと。
全てが、
水泡に帰したわけではないこと。
だから無意味に、
この結婚に終止符を
打つことになったわけではないことを
証明してくれるような結末。
それで良いのだと
オデットは思いました。
ふと浮かんだ疑問は
気に留めませんでした。
それが正しかったです。
そのようでした。
新郎新婦の退場行進が始まった
まさにその瞬間
意外だ。命のように大切に思っていた
異母妹の結婚式なのだから、
涙でも流さなければ
いけないのではないかと
低く囁くバスティアンの声が
聞こえて来ました。
オデットは慌てた様子を、
まだ完全に隠し切れない顔で
彼と向き合いました。
バスティアンは、
どこか歪んだ笑みを湛えた目で
彼女をじっと見下ろしていました。
その青い瞳が呼び起こした昨夜の記憶が
オデットの頬の辺りを赤く染めました。
冷たい体を包んだ
男のコートに宿っていた温もりが、
かろうじて持ち堪えていたオデットを
崩れ落ちさせました。
バスティアンが彼女を抱き締めたのは
むしろこのまま
砕けて消えてしまいたくなった
瞬間でした。
それ以降の記憶は
断片的な場面としてだけ
残っていました。
メイドを退ける声。
直接ベッドに寝かせ
服を脱がせる手つき。
凍りついた体を抱き締めた
大きくて硬い腕のようなもの。
拒否すべきだと知りながらも
オデットは、バスティアンを
押し退けることができませんでした。
瞼を持ち上げることさえできないほど
疲れているオデットにとって、
彼はあまりにも手強い相手でした。
どうせ指一本押し退けられない男に
立ち向かいたくありませんでした。
そのような無力感と惨めさまで
耐える自信のない夜でした。
オデットは諦めたように
自らを差し出しました。
すでに互いの底を、
全てさらけ出した関係でした。
これ以上、何も憚ることは
ありませんでした。
オデットは、
ただ、夜が長過ぎないことだけを
願いながら、意識を手放しました。
そして、
夜の終わりが近づいた頃になって、
死のように深い眠りから
目覚めました。
バスティアンの胸の中で
彼を抱き締めながら。
オデットは混乱に包まれながら、
目の前の男を見つめました。
バスティアンは、まだ眠っていました。
一糸纏わぬ姿で抱き合っていましたが
それ以上のことが起こった形跡は
ありませんでした。
予想せぬ出来事だったので、
オデットはとても戸惑いました。
なぜなのか。
どうしても答えが見つからない疑問を
反芻しているうちに、
夜明けの光が、カーテンの隙間から
差し込んで来ました。
青い霧のような闇が晴れて
朝が明けるまで、オデットは
ぐっすり眠っている
バスティアンの顔を見つめました。
額にかかった髪に
そっと触れてみたのは
衝動的な選択でした。
もしかしたら夢ではないかと
思いましたが、
指先に伝わる柔らかな感触は
決して幻ではありませんでした。
オデットは、
ベッドが朝日で染まるほどの時間が
経ってから、この状況を
収拾しなければならないことに
気づきました。
まず腰を抱き締めている
バスティアンの腕を押し出し、
絡まっていた足を解きました。
あまりにも大きな男である上に
眠っていることもあって、
扱うのが容易ではありませんでした。
やっとの思いで
彼の懐から抜け出した時は、
体を支えるのが難しいほど
疲れていました。
オデットは
ベッドヘッドにもたれかかり、
めまいが収まるのを待ちました。
バスティアンが目覚めたのは、
気力を回復したオデットが
立ち上がろうと決心したのと
ほぼ同時でした。
彼は微動だにせず、
ぱっと目を開けました。
一瞬で見つけたオデットを凝視する
瞳には、
目が覚めたばかりの人とは思えない
澄み切って冷たい眼光が
漂っていました。
オデットは為す術もなく
その視線を受け止めました。
肩から胸へと視線を滑らせていた
バスティアンの眼差しが、
再び顔に注がれると、
突然、頬が熱くなりました。
困ったオデットが、シーツを引き上げて
何も着ていない体を覆っている間に
バスティアンが先に
ベッドを離れました。
その気配につられて、
思わず顔を向けたオデットは、
ひどく慌てて目をそらしました。
一糸纏わぬ彼の体が、
明るい日差しの中に
露わになっていました。
途方に暮れているオデットとは違って
彼には何の動揺も見られませんでした。
サイドテーブルに置かれているコップを
空にしたバスティアンは、
それほど急ぐ様子もなく
ガウンを羽織りました。
乱れたプラチナブランドの髪を
撫でつける手と、浴室へ向かう足取りも
いつもと変わらず落ち着いていました。
閉ざされた浴室のドアの向こうから
水の音が聞こえ始めると、
オデットは、ようやく、
まともな息を吐き出しました。
しかし、速くなった心臓の鼓動と
頬の熱気を鎮めるには、
もう少し時間が必要でした。
むしろ彼が、心ゆくまで
自分の欲を満たしてくれた方が
良かったかもしれないなどという
滑稽な思いに駆られました。
それは、もう慣れてしまった不幸に
過ぎないからでした。
けれども、
このような安らぎと平穏は
あまりにも不慣れで、だからこそ
恥ずかしさを覚えました。
オデットは、
その見知らぬ感情が嫌でした。
しばらくオデットを
じっと見つめていたバスティアンは
何だか、
すっきりした顔をしていると言うと
目を細めました。
はっと我に返ったオデットは
慌てて彼の目を避けました。
あえて釈明はしないことにしました。
ティラに対する愛着が
思ったほど大きくないという
誤解をしてくれれば、
むしろ好都合でした。
「お姉様!」
ちょうど近づいて来たティラのおかげで
気まずい会話が終了しました。
オデットは、
泣きじゃくりながら抱きついてくる
ティラに、喜んで胸を広げました。
この世に、たった2人だけだった時代に
ずっとそうだったように。
この子を愛する気持ちは
今も変わらないと
確信することができました。
たとえ、このように悲惨で
出口の見えないどん底まで
追いやられることになったとしても、
オデットはこれまでの献身を
後悔しませんでした。
その報いはティラの幸せで十分でした。
それは一点の偽りもない本心でした。
それなのに、なぜ悔恨は、
まだ、その場に
留まっているのだろうか?
オデットは、
再び訪れたその疑問に努めて背を向け
ティラの涙を拭いてやりました。
指先にまとわりつく
バスティアンの視線が感じられましたが
振り返りませんでした。
明日には全て終わるだろう。
それで十分でした。
そうしなければなりませんでした。

オデットはホテルの前で
ティラと別れました。
次の予定を消化しなければならなかった
バスティアンが去ったおかげで、
一層安らかな気持ちで、
別れの挨拶を交わすことができました。
涙で濡れたティラの顔を
じっと見つめていたオデットは
「幸せになって。
それだけでいいの。 分かった?」
と念を押すように言いました。
ティラは、しゃくり上げながら
涙を堪えて頷きました。
数歩離れた場所で待っていた
ニック・ベッカーは
申し訳ないけれど、
もう行かなければならないようだと
困った顔で了解を求めました。
オデットは赤くなった目で
周囲を見回しました。
披露宴に一緒に行くことになっていた
一行が、出発の準備を終えたまま
ティラを待っていました。
ベッカー夫妻は、
そこで一晩過ごした後、
明日の朝、出航する旅客船に
乗り込む予定でした。
「さよなら、ティラ」
ティラには、
もうティラだけの世界ができました。
そして、その世界には
オデットの居場所がありませんでした。
オデットは、その事実を受け入れ、
淡々と別れを告げました。
言えなかった多くの言葉は、
胸の奥深くに
しまい込むことにしました。
この瞬間が
悲しみとして記憶されるのは
望んでいなかったからでした。
「愛してる」
最後の挨拶をするオデットの声からは
それでも隠すことができなかった
湿り気が、微かに滲み出ていました。
幸い、ティラは、
それに気づかないまま、
夫の手を握り、子供と一緒に
新しい世界へ去っていきました。
ベッカー夫妻を乗せた車は、
騒がしいクラクションを
鳴らしながら去って行きました。
オデットは、
これ以上、無駄な未練を残さずに
背を向けました。
車の窓を開けたティラが
泣きながら手を振っていることは
知っていましたが、
振り返りませんでした。
ロビーを通ってエレベーターに乗り、
再び長い廊下を横切る間も、
オデットは、ただ前だけを見ながら
歩いて出て行きました。
もう次のことを考ねばならない時。
過去のことを振り返る余裕は
残っていませんでした。

明日の今頃は、フェリア行きの列車に
乗っているはず。
オデットは、
スイートルームの応接室の窓際を
うろうろしながら
再度計画を整理しました。
まずはバスティアンと一緒に
ヘルハルト家を訪問し、
適当な時期を見計らって
都心に出る予定でした。
男たちは、
夜遅くまで狩場に留まるだろうから
バスティアンを振り切るのは
それほど難しくないはずでした。
ホテルに戻って荷物をまとめて、
マルグレーテと一緒に
駅に移動する時間は長くて2時間。
カルスバル中央駅から出発する
フェリア行きの特急列車は、
1日4本でした。
目標は午後4時発の列車でしたが、
もし状況が思わしくなければ
終電に乗っても大丈夫でした。
ティラを
見送ることができなくなったのは
残念でしたが、
交通の便がはるかに良い
カルスバルの駅を
利用できるようになったのは
確かに大きな利点でした。
荷物を最小限にまとめたカバンと
お金を、もう一度念入りに確認した
オデットは、
最後の問題を解決するために
持って来た包みを取り出しました。
もうすぐ5時。
夕食の予定を尋ねに
メイドが来る時間でした。
荷物をテーブルの上に置いたオデットは
夕暮れの日差しの中に座って
モリーを待ちました。
ノックの音は、正確な時間に
軽快に響き渡りました。
ご主人様は、
夜遅く帰って来るそうなので、
奥様の夕食だけ
部屋に上げるよう伝えておいたけれど
大丈夫かと尋ねるモリーに、オデットは
話があるので座るようにと促し
落ち着いが眼差しで、
向かいに置かれている椅子を
指しました。
へへッと笑ったモリーは、
それほど驚いた様子のない顔で
客室のドアにしっかり鍵をかけました。
そして、戻って来ると、
素早くオデットが指した席に座り
もう考えがまとまったかと尋ねました。
坊ちゃんをたぶらかしたとかで
テオドラ・クラッヴィッツが
この女を片付けようとしていると
モリーは、
おばから話を聞いていました。
戯言だと、よく分かっていましたが、
モリーは適当に同調してやりました。
金持ちの内輪もめなんて
どうでもいいこと。
モリーにとって重要なのは、
今回のことさえ、上手く片付けば、
このうんざりするメイド生活とも
おさらばという事実だけでした。
テオドラ・クラウヴィッツが約束した
報酬なら、立派な家一軒は、
余裕で購入することができました。
今までおばにしてきたことを見れば
絶対に空約束をするはずが
ありませんでした。
モリーの期待感が最高潮に達した瞬間
オデットが、
明日の午前中に出て行くように。
目的地はどこでも構わないけれど
できるだけ遠い所の方が、
あなたにとって有利だと思うと、
突拍子もない命令を下しました。
モリーは眉間にしわを寄せ、
首を傾げながら、
今、何て言ったのかと尋ねました。
オデットは、
明日には、バスティアンが
あなたの正体を知るだろう。
誰がどんな目的で送り込んで、
今まで、どんなことをしてきたのか
自分が全て話すつもりだ。
彼は、あなたの言う通り怖い人なので
継母の手先を
絶対に放っておかないと思うけれど
どう思うかと、
冷ややかな目で、
じっとモリーを見つめながら
尋ねました。
ビクッとしたモリーは、
思わずスカートの裾を捻じって
握りました。
モリーは、
まさか今度はご主人に
へつらうつもりなのか。
それで自分のことを密告して
信任を得ようと思っているのかと
尋ねました。
オデットは、
モリーが、
何か誤解しているようだけれど
あなたは、
そのような役割を果たせるほど
重要な存在ではない。
ただ、もうあなたを
我慢したくなくなっただけなので
自分の目の前から消えるように。
逃げられる機会を与えるのは、
これまで、あなたが持って来た
野の花の値段だと思っておくようにと
答えました。
モリーは、
勘違いするな。
今さら、こんなことをしたところで
あなたを受け入れてくれるとでも
思っているのか。
息子でも1人産んでやれば、
また女主人の座をつかめるとでも
思っているのか。
身の程知らずな夢だ。
本当に救いようのない馬鹿だと
悪口を吐くと、侮辱感に震えながら
椅子を蹴って立ち上がりました。
「座って、モリー」と、オデットは
動揺のない顔で命令しました。
しかし、モリーは鼻で笑うと、
これ見よがしに、
意地の悪い笑みを浮かべながら、
それでも
貴族の真似事はしたいようだ。
見せかけだけの乞食姫の身の上を
帝国中が知っている・・・
と、興奮して喚き散らしていた
モリーが毒舌を終わらせるより先に
パチンと、
鋭い打撃音が響き渡りました。
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バスティアンは、
ティラがいなくなって
せいせいしていると思います。
彼がティラの結婚式まで
お膳立てしてやったのは、
ティラが幸せになれば
オデットがティラに
執着することがなくなり、
彼女の気持ちを自分の方へ
向かせることができると
思ったからではないかという
気がしました
ティラにとって
オデットは母親同然で、
彼女が守ってくれたからこそ
今のティラがあるので、
オデットと別れるのが
辛くてたまらないのも
当然だと思います。
オデットも、ティラを守り続けて
幸せにするという使命に支えられて
どんな辛い目に遭っても
耐えることができたのだと思います。
でも、オデットは、自分の代わりに
ティラを守ってくれる人が現れると
すぐにその役目を渡してしまった。
ティラへの愛情は
昔と変わらないけれど、
自分が不要になれば、
離れることを厭わない。
オデットは子供の頃から
失ったものが多かったので、
今では、それが家族であっても、
未練を残さないように
それを失う前に、自分の方から
その関係を
断ち切っているのではないかと
思いました。
だから、いつか別れることになる
バスティアンのことも
絶対に愛さないように
心を押さえ付けていたのかも
しれません。
バスティアンが、もっと早く、
自分の気持ちを伝えていたら、
ティラを優先することがあっても
バスティアンを
裏切らなかったかもしれません。
いくらテオドラのスパイでも
モリーは、メイドとして
オデットに仕えている以上、
主人に対して、
罵詈雑言を吐いてはダメでしょう。
オデットを馬鹿にできるほど
自分が立派な人間だと
思っているのでしょうか。
オデットの平手打ち?に
スッキリしました。
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