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123話 モリーに口汚く罵られたオデットは・・・
モリーは、
まともな悲鳴さえ上げられずに
よろめきました。
いつの間にか、目の前まで迫っていた
オデットを発見してから、
何が起こったのかを
理解することができました。
呆然としていたモリーは、
自分を殴るなんて、
何様のつもりなのかと
激しく喚き散らし始めました。
オデットは、
機会を与える時に去れ。
そして、ニ度と
バスティアンの周りに近づくなと
命令しました。
モリーは、
今さら良い妻のふりをする姿が
どれほど滑稽か分かっているのか。
結局、夫を食い物にした
破廉恥な分際のくせにと罵りました。
もう一度、
オデットが頬を叩きました。
その瞬間も、
モリーを見つめる眼差しは
ただ静まり返っていました。
その凄みに気圧されたモリーは
思わず唾を飲み込みました。
オデットは、
最低限の好意も断るなら、
今すぐバスティアンに
言うこともできると言いました。
モリーは、
そんなことをして、
あなたは無事だと思うのかと
尋ねました。
オデットは、
自分はもう、
恥部を全てさらけ出したので、
これ以上失うものなんてないと
答えました。
モリーは、
その気になれば、
いくらでも、でっち上げられる。
フランツ・クラウヴィッツと
デキていたと、
あなたの夫に告げ口すると言いました。
オデットは、
そんなことをすれば、
あなたが仕える本当の主人を
敵に回す選択になるだろう。
その覚悟はできているのかと、
抑揚のない口調で尋ねると
テーブルの端に置いておいた
包みを差し出しました。
モリーは、
うっかりそれを受け取りました。
銀の燭台と盃でした。
モリーは、
一体、これは何なのかと尋ねました。
オデットは、
明日になれば、
銀の燭台と盃を盗んで逃げた
コソ泥として、アルデンに、
あなたの噂が流れているはず。
よくあることだから、
あなたが突然消えた理由として、
ちょうどいいと思うと答えました。
モリーは、
向こうが約束した報酬が
いくらだと思っているのか。
自分がこんなもので、
引き下がるとでも思っているのかと
叫ぶと、呆れて失笑しました。
オデットは、
あなたへの贈り物に対するお礼を
もう一つしてあげる。
いくら報酬を約束されたところで、
そのお金が、
あなたの手に入ることはないだろう。
自分との約束を破った時、
テオドラ・クラウヴィッツは
あなたも捨てたからと言いました。
モリーは
でたらめを言わないでと叫びました。
しかし、オデットは、
バスティアンが全てを知って
自分を罰しようとした時、
あなたにも火の粉が飛ぶという計算は
できなかったのかと尋ねて、
小さく首を傾げました。
そのオデットの顔には、依然として
何の表情もありませんでした。
もし、あなたを大切に思っているなら
前もって知らせて、
難を逃れさせてくれただろう。
けれども、そうしなかった。
まるでバスティアンが
自分と一緒にあなたまで
始末してくれることを
望んでいたかのように。
あなたが今まで無事でいられたのは
純粋に、バスティアンの寛容という
変化要因が発生したおかげだ。
そうでなければ、
とっくに断罪されていただろうと
言いました。
モリーが反論できずに
「それは・・・」と、
もごもごしている間に、
オデットがもう一歩近づきました。
そして、
まだ目的を果たせていない以上、
監視役をつけておく必要があるけれど
あの状況で、
別のスパイを送り込むのは難しい。
だから、図らずも
有効期限が延びたあなたを、もう少し
利用することにしたのだと思う。
そうしているうちに機会が来たら
自分と一緒に
片づけてしまうつもりだったのだろう。
今がまさにその時だと、
オデットは声を荒らげることもなく、
モリーの息の根を止めるかのように
追い詰めて行きました。
怒りのせいで肩で息をしながらも、
モリーは反論できませんでした。
狂った女のようでした。
この2年間、手玉に取って来た
可愛そうな世間知らずの痕跡は
どこにも見当たりませんでした。
一体これまで、どうやって
この本性を隠して生きてきたのか。
その徹底した二重性に
鳥肌が立ちました。
オデットは、
だから、その間、
あなたを放っておいた。
ハエの命同然の消耗品は
脅威的ではないから。
もちろん、あなたを通じて
テオドラ・クラウヴィッツの
動向を探ることができるという
利点もあったと言いました。
モリーは、
本当に不思議だ。
何もかもお見通しの聡明な人が
どうして無様にやられて
崖っぷちまで
追い詰められたのだろうかと
皮肉を言いました。
オデットは、
痛い目に遭ったおかげで分かった。
これほど骨身にこたえる教訓は、
他にないからと言うと、
若干の疲労感が滲み出ている
微笑みを浮かべながら
窓際のテーブルに戻りました。
いつのまにか
西の空が赤く染まっていました。
やがて、最後の夜が訪れるはずでした。
焦って唇を噛み締めていたモリーは、
こんな生半可な脅迫なんて
自分には効かないと
激しく叫びました。
その瞬間も、
危なげに震えている瞳を
じっと見つめていたオデットは、
理解すると言わんばかりに頷き
あなたも、
そのような教訓を得たいのなら、
そうするようにしなさいと
言いました。
モリーは、
自分を追い出したからとって
何が変わると思うのか。
どうせ、あなたは、もう終わった。
あちこちに取り入って、
甘い汁を吸った挙げ句、双方から
無残に見捨てられることになると
毒づきました。
しかし、オデットは、
モリーの呪いのような言葉を
浴びせられても、
平静さを失いませんでした。
すでに知っていたことなので、
改めて驚くこともありませんでした。
ただ、この全てが耐え難いほど
虚しいだけでした。
オデットは、
明日の正午までに立ち去るように。
自分が戻って来た時も
ここに留まっているならば、
その時は、あなたの決定を尊重すると
素っ気なく通告することで
会話の終わりを知らせました。
それと同時に、
スイートルームのドアを
ノックする音が聞こえて来ました。
その後の状況は
予測通りに流れて行きました。
一瞬にして表情を変えたモリーは、
平凡なメイドを装いながら、
ホテルの女給を迎えました。
狡猾な子供らしい振る舞いでした。
オデットは次第に濃くなって行く
夕陽の光の中に座って
夕食の食卓が用意される光景を
見守りました。
豪華な食器に盛られた料理は
どれも美味しそうでしたが、
何一つ、
食欲をそそられませんでした。
食事の準備を終えた女給は、
他に必要なものがあれば、
いつでも言って欲しいと
愛想よく声を掛けました。
オデットは、
吐き気を抑えようと努めながら、
儀礼的な笑みを浮かべました。
空腹を刺激した甘い匂いの記憶を
消そうと努力している間に、
女給が退きました。
包みを抱えて、
キョロキョロと目を泳がせていた
モリーも、
逃げるようにその後を追いました。
気が進まない豪華な食事の前に
一人残されたオデットは、
首を回して、
日が暮れる街の風景を眺めました。
依然として、あの場所で煌めいている
観覧車の光に向き合うと、
よだれが出るほど食べたかった
綿菓子への思いが
より切実になりました。
子供のおやつに、
これほど執着する自分が
自分でないように思えて
戸惑いましたが、
その切望が容易に消え去ることは
ありませんでした。
少し外出して、
綿菓子を買って来たいという衝動まで
込み上げて来ると、
泣きたいような笑いがこぼれました。
全てを失って
崖っぷちに追い詰められ、
逃げることを考えている最中に
食欲が湧いて来るなんて。
今の姿があまりにも滑稽で、
悲しくて、何よりも虚しく
全てが無駄でした。
オデットは、
もはや否定しようのない真実に
向き合いました。
この地獄を選んだ理由だった
ティラを守ったにもかかわらず、
心は虚しいばかりでした。
何によっても満たされることのない
底知れぬ虚無感でした。
たった一つの意味でも残したくて
必死でしたが、この結婚は、結局
これほどまでに
無意味に終わりました。
何も取り戻せない絶望の淵の中で。
生涯消えることのない
悔恨にまみれたまま。
オデットは、
諦めた無期刑囚のような顔になり
食卓の前で立ち上がりました。
しかし、一歩も踏み出せずに
再び座り込んでしまいました。
突然、襲ってきためまいのせいでした。
両腕でお腹を抱えたのは
本能的な行動でした。
遅れて、その事実に気づいた
オデットの瞳が深まりました。
じっと空を見つめている間に
日が暮れて
食べ物が冷めて行きました。
霧がかかったように曇っていた意識は
一日の最後の光が消えた後に、
再び明瞭になりました。
姿勢を正して座ったオデットは、
血の気のない手で
カトラリーを握りました。
全く、気が進みませんでしたが、
それでも、無理やり、冷めた食べ物を
口の中に押し込みました。
その義務的な食事は、夜が更けるまで
ゆっくり続きました。

犬が吠えました。
鍵をコンソールの上に
無造作に放り投げたバスティアンは、
ゆっくりと目を下ろして、
騒ぎの根源地を見つめました。
客室のドアが開く音を聞いて
駆けつけたマルグレーテが
ドアの前に立ちはだかっていました。
寝ている途中で飛び出して来たのか
毛があちこちに押し潰された姿に
クスッと笑いが漏れました。
どうも、主人の望み通りに
立派な淑女になるのは
無理そうでした。
シーッ。
バスティアンが注意すると、
マルグレーテはビクッとして
後ずさりをしました。
真夜中をはるかに過ぎた時間なので
オデットは、
すでに眠っているはずでした。
大人しくなったマルグレーテの頭を
撫でてやったバスティアンは、
いつもより明らかに遅い足取りで
スイートルームの応接室を
横切って行きました。
驚いて、遠くへ逃げた犬は、
いつの間にか忍び寄って
足もとをうろうろしていました。
バスティアンは、
士官学校時代の師であった退役提督を
訪問して来たところでした。
唯一のライバルに挙げられていた彼は
白髪が目立つようになった今も
相変わらずの
酒豪ぶりを誇っていました。
バスティアンも、
酒が弱い方ではありませんでしたが
その2人を相手にする時は、今のように
しばしば酔うことがありました。
バスティアンは強い酒の匂いが
濃く染み込んだ息を吐きながら
寝室のドアを開けました。
歯をむき出しにしたまま
尻尾をヒラヒラしていた犬は、疲れて
暖炉の前のクッションに戻りました。
静かにドアを閉めたバスティアンは、
気配を最小限に抑えた足取りで、
ベッドへ近づきました。
オデットは体を小さく丸めて
眠っていました。
広々としたベッドの端っこだけを
辛うじて使っている様子は、
ひどく惨めったらしかったけれど
あえて深い眠りを覚ましたい気持ちは
ありませんでした。
コートとジャケットを脱いだ
バスティアンは、倒れるように
ベッドの上に横になりました。
微動だにしない妻の背中を見ると
自嘲的な笑いが漏れました。
温もりを求めて
自分の胸に潜り込むオデットを
抱きしめて眠りについた昨夜が、
遥か遠い昔のように感じられました。
考えてみれば、
この女はいつもそうでした。
金。盗み出した機密書類。
あるいは、凍りついた体を
溶かしてくれる体温。
得るものがある場合にのみ、
傍らを譲ってくれましたが、
それさえも、
長くは続きませんでした。
バスティアンは、すっと目を閉じ、
濃い疲労感と共に押し寄せる酔いに
この辺で身を任せました。
望めば、
いくらでも思い通りにできる女を
ただ、そのまま放っておきました。
ようやく完全に手に入れた女。
自分が守り、自分が台無しにする
自分のオデット。
バスティアンは
自嘲の笑みを浮かべながら
タイを解いて放り投げました。
ティラ・ベラーの結婚や移民を
邪魔するような気持ちは
最初からありませんでした。
もし、オデットが
手を回していなかったら、
自分で片付けていたはずでした。
何よりもバスティアンは
役立たずの姉のことなど、
すっかり忘れるほど、
そして、二度とオデットの憐みが
届く隙を与えないように、
ディセン家の私生児が、
幸せになることを望んでいました。
それでも、その名を口にしたのは、
ただオデットを束縛する口実が
必要だったためでした。
すべてが思い通りに運んだ。
バスティアンは、
卑俗ながらも甘美な充足感の中で
意識を手放しました。
再び目を開けたのは、
夜が更けた頃でした。
空いている隣の席を
通り過ぎた彼の目は、
青白い月明かりが差し込む窓際に
立っている女の上で止まりました。
彼の妻、オデットでした。
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何てしたたかなモリー。
さすがテオドラのスパイを
していただけあると思いましたが
最後は、
オデットの皇女の娘としての威厳に
勝つことはできませんでした。
皇后はバスティアンに
イザベラはオデットに
怒りに任せて
平手打ちをしていましたが、
皇室の一員たるもの、むやみに
人に手を上げてはいけない。
しかし、
自分の尊厳を守るためなら
そうすることもやむを得ないと
ヘレネに教わっていたのでしょうか。
いつも消極的なオデットの
力強い一面を発見できました。
やはり、バスティアンは、
オデットが、今後
ティラのことを心配しなくて済むよう、
彼女を幸せにして
追い出すつもりだったのですね。
彼女が起きている時は
ひどいことばかり言うけれど、
オデットが寝ている時は
彼女への思いやりを示すバスティアン。
ようやく彼女を
独り占めできたことを喜ぶのは、
オデットへの愛が
失われていないからだと思います。
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