
70話 2部 舞台はヨークシャーへ移ります。
トントン。
ペンドルトン嬢は
耳の奥に響く、不快な騒音に
窓の方を見ました。
狭い道に入ると、道の両側に
びっしりと垂れ下がって
絡み合った木の枝が
馬車の窓を叩いていました。
どのくらいの時間、
走って来たのだろうか。
彼女は、
質素な革のベルトの付いた腕時計で
時間を確認しました。
1時間が過ぎていました。
この馬車に乗ってから、
それだけの時間がかかっていました。
いつ頃、到着するのだろう。
彼女は、先ほどから、
いつもより激しく鼓動する心臓を
静めようとして、手袋をはめた両手を
ギュッと握りました。
イアン・ダルトンが提案した
家庭教師の職を受け入れてから3日後
彼から手紙が届きました。
今度の月曜日に汽車に乗って
ヨークシャーへ来るようにという
内容でした。
フェアファクス夫人は、
全ての事情を知りながらも、
喜んで家庭教師として
ローラを受け入れてくれました。
彼女は手紙を受け取ると安心し、
残りの数日間で、ヨークシャーへ
出発する準備をしました。
モートン夫妻と、
フェアファクス兄妹をはじめとする
親しい友人たちに別れを告げ、
荷物をまとめ、
教材として使える本を選び、
足りない衣類を安値で
何着か、さらに購入しました。
彼が送って来た手紙の中には、
彼女が乗る汽車の出発時間と
ヨークシャーに到着した時に
降りる駅の詳細な略図が
添付されていました。
彼女は、彼の親切な説明の通りに
汽車に乗り、丸一日かけて旅をして
ヨークシャーに到着しました。
駅に到着して入り口を出ると、
彼が説明した通り、
ダンビルパークの馬車が
彼女を待っていました。
御者は、まるで貴族のように
彼女を丁重に迎え、
ゆっくりと馬車を出発させました。
御者は無口でした。
彼女は汽車の旅で
とても疲れていたので、
彼が話しかけて来なくて
良かったと思いました。
胸のときめきと不安が入り混じり、
彼女の心は、ひどく混乱していました。
初めての家庭教師の仕事、
新しい場所での生活、新しい人々。
全てが初めてでした。
彼女の心臓が、緊張で
ギュッと締めつけられました。
彼女は、
これから待ち受ける見知らぬ状況を
目の前に描いてみました。
新しい家族との、ぎこちない初対面。
腕白坊主たち。狭くて慎ましい寝室。
雇われの身としての自由と不自由が
背中合わせの暮らし。
彼女は、
空想的な性格とは程遠かったため、
非常に現実的な想像しか
思い浮かびませんでした。
決して快適でリラックスした生活では
ありませんでした。
しかし、選んだ以上、
それに適応してみるつもりでした。
きっと、できるはず。
社交界でも耐え抜いた自分なので
どこでだって、
生きていけるはずでした。
彼女を本当に不安にさせたのは、
自分の新しい役割を、きちんと
果たすことができるのかという
疑問でした。
労働を経験するのは
初めてのことでした。
女学校時代、
度々、低学年の子供たちに
綴りを教えたことはありましたが、
それは経験と呼べるものでは
ありませんでした。
これまで、
一度も本格的に果たしたことのない
「教師」という役割。
その真価を問われる試験の時が、
刻一刻と目の前に迫っていました。
馬車が狭い林道を通り抜け、
2、3の丘を越え、川を1つ渡り、
再び林道に入りました。
とても長い森でした。
終わらないのではないかと思うほど
長々と走りました。
しかし、どんな道でも
終わりはありました。
生い茂った木々が次第に消え、
目の前が開け、
見渡す限りの野原が現れました。
彼女は野原の頂上から、
木立に囲まれた邸宅を
見ることができました。
遠くから見ているにもかかわらず
その巨大で厳かな様子が
感じられました。
ローラは身だしなみを
もう一度点検しました。
茶色の帯が巻かれた
平たい淑女用の帽子をかぶり、
黒いヘアネットで束ねた髪の毛から
毛が飛び出ていないか点検しました。
緑色のタータンチェック柄のドレスと
その上に羽織った栗色のショールに
埃がついていないか確認し、
手にはめた紺色の手袋に、
縫い目がほつれた部分がないかも
一通り目を通しました。
馬車は、
森を抜け、緑の芝生が広がる野原と
湖を通り過ぎると、
手入れの行き届いた庭園に囲まれた
邸宅の前に停まりました。
彼女は、
踏み台を降ろしてくれた
御者の手を握って馬車から降りました。

ローラは邸宅を見上げました。
薄茶色の石で造られた
4階建ての邸宅でした。
横に大きく広がった構造で、
よほどの天災地変にも、
びくともしないほど
頑丈そうに見えました。
邸宅の前に立っていた男性が
近づいて来て、
彼女に頭を下げました。
彼は、自分を
この邸宅の執事だと紹介しました。
彼女はすぐに挨拶をしました。
執事は、
フェアファクス夫人が
待っていると告げると、
ローラを邸宅の中へ案内しました。
玄関のドアを開けて入ると、
広々として快適なホールが現れました。
古い邸宅ならではの
木や石の匂いがしました。
ローラは、家の中を
じっくり見たかったけれども
余裕がありませんでした。
彼女は執事に付いて
廊下の右側を歩いて行きました。
彼らは廊下の奥の、
2つのドアが付いた部屋の前で
止まりました。
執事は、ローラを
しばらく入口に待機させた後、
中へ入りました。
奥から、
新しい家庭教師の先生が
到着したと告げる、
執事の声が聞こえて来ました。
奥から低い女性の声が
聞こえて来ました。
やがて、部屋から出て来た執事が
中に入るよう、ローラに告げました。
ローラは部屋に入りました。
入るや否や、ローラは、
そこが居間だということに
気づきました。
広々とした空間には、
20人は座れそうなソファーと
グランドピアノがあり、
壁の片隅には、
酒と氷の入ったボックスが置かれた
小さなバーがありました。
初夏にもかかわらず、
暖炉は勢いよく燃えていました。
そして中年の女性が1人、
暖炉の近くに座って
刺繍をしていました。
ローラは彼女に近づきました。
引き締まった顎のラインと黒髪が
印象的な女性でした。
ローラは、すぐに膝を曲げ、
頭を下げて、挨拶をしました。
女性は挨拶を返すと、
リラックスして笑いました。
女性は、
ローラが引き受ける2人の子供の母親の
マーガレット・フェアファクスだと
自己紹介をし、通常、
ロバート・フェアファクス夫人と
呼ばれていると告げました。
ローラは頷きました。
フェアファクス夫人は、
ローラの顔をじっと見つめました。
自分の顔をじっと見つめる瞳は
髪と同じくらい、
とても黒い色をしていました。
彼女はすぐに、
目の前の女性と血を分けた1人の紳士を
思い出すことができました。
見た目は全く違っていましたが、
その黒い色だけは全く同じでした。
すると、なぜか、
初めて会う雇用主なのに
親しみを感じました。
ローラを注意深く見ていた
フェアファクス夫人は、
子供たちに先に会うか。
それとも、ひとまず行って休むか。
長い旅だっただろうから、
自分は後者を勧めると
すぐに優しく言いました。
ローラは、
まずは子供たちから会うと
答えました。
フェアファクス夫人は、
選択に負担を感じる必要はないと
言いましたが、ローラは、
まずは子供たちに会ってみないと
ゆっくり休めないと思うと
返事をしました。
フェアファクス夫人は、
待機中の執事に、
子供たちを連れて来るよう
指示しました。
子供たちを待っている間、
フェアファクス夫人は、ローラを
自分の隣にあるソファーに
座らせました。
フェアファクス夫人は、ローラが
初めて家庭教師をすることを
確認しました。
ローラが「はい」と返事をすると、
フェアファクス夫人は、
うちの息子たちは
手に負えない連中だ。
いたずらっ子で集中力も良くない。
言うこともよく聞かない。
ペンドルトン嬢の仕事運が悪いのは
確かなようだと言いました。
ローラは、
その年頃の少年たちが
大人の言うことを、よく聞くのを
望むことはできないだろうと
返事をしました。
フェアファクス夫人は、
そんなことは、
最初から望んでもいない。
自分はただ、彼らが机の前に
きちんと座っているだけでも
奇跡だと思っているからと
言いました。

執事が2人の少年を連れて来ました。
子供たちは清潔な衣服を身にまとい
栗色の癖毛が印象的でした。
同年代より背が高くて体格もよく、
がっしりしていましたが、
まだ第二次性徴が現れておらず、
男という感じが少しもない、
文字通り幼い子供たちでした。
フェアファクス夫人は、
ジョージとダニエルの2人の子供たちを
紹介しました。
彼らは、おずおずしながら、
うつむいて挨拶をしました。
ローラは彼らに優しく微笑みながら
挨拶をしました。
ローラは彼らを1人1人見つめました。
彼らは自分たちの新しい先生を
好奇心半分、警戒心半分で
見つめていました。
フェアファクス夫人は、
ローラが担当する生徒はこの2人で
13歳の娘のオリビアは、
外部のダンスと絵画の先生が、
週に2回来ているので、
その子の教育については
気にする必要はないと言いました。
ローラは頷くと、
今まで2人に家庭教師はいたのか、
勉強はどの程度進んでいるのか、
どこへ通わせる計画なのかについて
フェアファクス夫人から、
情報を聞き始めました。
フェアファクス夫人は、
2人の少年は、
自分の名前を書く程度の
アルファベットと、
一つの皿に盛られた飴の中から、
自分の分を計算する程度の算数能力、
イギリスとヨーロッパ大陸が
離れているという程度の
地理常識以外、何も知識がないと
遠慮なく答えました。
フェアファクス夫人は、
息子たちが小さいうちは、
とにかく、のびのびと遊び回らせて
育てるべきだというのが
自分の主義だ。
男の子というものは猟犬と同じで、
適当に放しておかないと、
かえって手がかかるものだ。
おかげで、
彼らは痩せたところが1つもなく、
骨太でポニーのように丈夫ではないかと
尋ねました。
ローラは、
発育状態の良い少年たちを見て
頷きました。
彼女は、
本当に同年代の子たちより背が高くて
健康に見える。
後でパブリックスクールに入ったら
ボート部に入れても大丈夫だろうと
言いました。
フェアファクス夫人は、
それは、ひとまず
入学した後に考える問題だ。
今まで、生きて来て、
勉強というものをしたことのない
子供たちなので、
授業についていけるかどうか、
それが心配だと言いました。
ローラは、
ラテン語を基礎から
学ばなければないので、
やるべきことが山ほどある。
今日、すぐに授業に入っても良いかと
尋ねました。
フェアファクス夫人は、
そこまで急ぐ必要はないだろう。
今週は、家の中を見て回ったり、
散歩をしたりして、
ただ邸宅に慣れる時間を
持ってみてはどうか。
ダンビルパークは、
遊歩道がとても素敵だと言いました。
実にのんびりとした夫人でした。
長男のダニエルが11歳なら、
パブリックスクールへの入学まで
2年も残っていない状況なのに。
ローラは、
フェアファクス夫人の心遣いに
お礼を言うと、
今日は、ただ休むことにする。
でも明日から授業に入りたい。
今すぐ勉強を始めなくても、
子どもたちが決まった時間に
机に向かう習慣を
身に着けさせたいと言いました。
フェアファクス夫人は、
突然、ケラケラ笑いました。
彼女は、
あなたたちに頼まれたように、
今週は自由を与えたかったけれど
新しい先生がダメだと言った。
どうしよう?
仕方なく、ラテン語の動詞を覚えながら
勉強部屋に
閉じこめられられるしかない。
いい時代は終わったと、
驚くほど意地悪に、
自分の息子たちをからかいました。
先ほどから、
自分たちの授業の問題について
交わされる話を聞きながら
憂鬱な表情をしていた少年たちは
母親のからかう言葉に、一層
しょんぼりとした表情になりました。
フェアファクス夫人が
息子たちをからかうのを
黙って見ていたローラは、
実際の授業は来週から始まる。
自分は、ただあなたたちと
親しくなる時間が欲しい。
先生は、どうすれば、あなたたちと
楽しく時間を過ごせるかが
一番の悩みなんだと
彼らに優しく言いました。
しかし、少年たちの表情は
明るくなりませんでした。
彼女は、
あなたたちを、1日中、
机にだけ座らせておくことはしない。
以前ほどではないだろうけれど
外で走り回って遊ぶ時間は
たくさんあるはず。
自分も、成長期の子供たちは
走り回って遊ぶべきだと
思っているからと、
さらに優しく話しました。
兄弟の中で小柄な、おそらく
ジョージ・フェアファクスと
思われる少年が、
1日中黒板ばかり見て、ラテン語の動詞を
覚えなくてもいいのかと尋ねました。
ローラは
「もちろんです」と答えました。
少年は、
毎日、数学の問題だけ
解かなくてもいいのかと尋ねました。
ローラは
「もちろんです」と答えました。
少年は、
問題を間違えるたびに、
天井に吊るして、
こん棒で叩いたりもしないですよねと
尋ねました。
ローラは驚いて
目をパチパチさせました。
天井に吊るすって、 子供を?

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長男のヘンリーは
まだ登場していませんが、
幼い頃から、跡取り息子として、
適切な教育を受けさせ、
オリビアは女の子だから、
あまり、お転婆にならないよう
淑女としての教育を
きちんと受けさせたのではないかと
思います。
でも、ジョージとダニエルの場合、
のびのび育てたいというのは
建て前で、
父親の拳銃を持ち出したことにも
気づいていないことから、
ただ、ほったらかしにして
いたのではないかと思います。
でも、長男のように
受け継ぐものがなければ
自分の力で生きる術を
身に着けなければならないので
ほったらかしにする利点も
少しはあったと思います。
やんちゃな子供たちがどう変わるか
ローラ先生のお手並みを
拝見したいと思います。