
72話 ローラはフェアファクス家族と一緒に夕食を取りました。
食事が終わると、家族は皆、
居間に席を移しました。
家族団らんの時間でした。
フェアファクス氏はチェステーブルへ。
フェアファクス夫人は、
暖炉のそばに座って刺繍をし、
オリビアはピアノの前に座って
演奏を始めました。
フェアファクス氏はローラに
チェスができるかどうか尋ねました。
ローラが「はい」と答えると、
フェアファクス氏は
自分と一勝負しようと提案し、
嬉しそうに手をこすりながら、
チェステーブルの向こう側にある
椅子を勧めました。
ローラは、突然、
今日初めて会った自分の雇用主と
同じテーブルで向かい合って、
チェスをすることになりました。
ダニエルとジョージは、
父親と新しい先生の
チェスの試合を見るために
チェステーブルの両側に座りました。
ローラは、
自分のチェスの駒を動かしながらも
このような場に、
気兼ねなく一緒にいることに
とても気まずさを覚えました。
このような時間には、
雇用人が退くのが普通でした。
しかし、フェアファクス家の人々の中で
彼女がこの場に一緒にいることを
気まずく思う人は誰もいませんでした。
甚だしくは、
彼女を不満に思っているのが明らかな
オリビアでさえも、そうでした。
皆、ごく当然だというように、
まるで家族の一員のように、
彼女を自分たちの時間に
巻き込んでいました。
フェアファクス氏はローラに
チェスに集中するよう促しました。
ローラは、すぐさま正気に戻り、
目の前のチェス盤に集中しました。
フェアファクス氏は、
新しく家の中に入って来た
ローラのチェスの実力が
とても気になりました。
男性とは狩りを、
淑女とはチェスをしてみるのが
フェアファクス氏が
人を評価する方法でした。
その評価というものは、
ただ単に「非常に好きな人」と
「あまり好きでない人」を区別する
非常に単純なものに
すぎませんでしたが。
ローラは、
これが一種の面接だということに
それとなく気づき、
気を引き締めました。
幸いなことに、チェスは
祖母と毎晩していたので、
ローラにとっては、
とても馴染み深い遊びでした。
彼女はゆっくりと
自分の駒を前進させて行きました。
フェアファクス氏は、
勝負がかかったことなら
何にでも真剣に取り組む男でした。
しかし、それに比べて慎重さが欠け、
頭がやや足りませんでした。
その致命的な欠点は、
狩りのような活動では、
さほど問題になりませんでしたが、
チェスのような
戦略、戦術が必要なゲームでは
かなり不利に働きました。
フェアファクス氏にとっては
残念なことだけれど、
ローラは頭の回転が速い上に、
めったに興奮しない性格でした。
彼女はすぐに、
フェアファクス氏の短気な性格と
二手先以上を読めない
近視眼的な思考を見抜き、
悠々と自分の駒を動かしました。
「チェックメイト」
始めたばかりなのに、ローラは
フェアファクス氏のキングを
制圧しました。
あっという間にやられてしまった
フェアファクス氏は、
戸惑いの目でローラを見ました。
それから駒を並べ替えて、
もう1回やろうと誘いました。
5試合続けた結果、フェアファクス氏は
最後の2試合以外、全て、
新しい家庭教師に
敗北してしまいました。
その最後の2試合さえ、
フェアファクス氏のプライドのために
気づかれないように、
わざとローラが負けたのでした。
5戦中2勝。屈辱的なスコアでしたが、
フェアファクス氏は、
むしろ喜びました。
今までチェスをする相手は
幼い息子たちだけでしたが、
彼らに勝つのは、赤子の手をひねるより
簡単なことだったからでした。
ローラのような
熟練したチェスの相手は、
彼の夜の時間に不可欠な存在でした。
彼は、すぐに彼女を
「大好きな人」に分類しました。
ローラも久しぶりにチェスをして
かなり楽しかったけれど、
疲れがたまった状態で
頭を酷使したせいか頭痛がしました。
ローラはダニエルに
自分の席を譲りました。
そして、隣で父子がチェスをするのを
見物しました。
ダニエルは父親に勝とうとして
頭を掻きむしりながら
駒を動かしましたが、
父親と同じ短気な性格を
受け継いでいたため、
いつも遮られてしまいました。
フェアファクス氏は、
退屈な勝利を収めると、
敗者の額を指で弾きました。
オリビアは、ピアノばかり弾くのに
飽きてしまったのか
チェスを見に近づいて来ました。
オリビアが加わると、
チェステーブルの周りが、
非常に混雑するようになりました。
オリビアは見物人に触れられるのが
嫌なので、一歩離れた所で、
首をぐっと伸ばして
試合を見物しました。
ちょうどローラは
頭痛が治らなかったので、
居心地悪そうに見物していたオリビアに
自分のいた場所を譲りました。
そして、先ほどオリビアが座っていた
ピアノの椅子に座ると、蓋を開けて
鍵盤を何度か叩いてみました。
フェアファクス家のピアノは
高級感があり、
きちんと調律されていました。
ローラは自然に指を動かし、
自分が一番好きな
ショパンのワルツの第18番を
弾きました。
数百回は練習し、数十回は
人前で披露したことがあるので、
目を閉じていても弾ける曲でした。
彼女は本当に目を閉じました。
そして、まるで盲目の演奏者のように
暗闇の中でピアノを弾きました。
視覚が遮断されると、
聴覚と指先の触覚だけが
彼女にとって唯一の刺激でした。
次第に疲労感と頭痛が和らぎました。
女学校時代には、
先生に鞭で打たれながら
厳しく習わされ、20代の時には、
教養のレベルが高い客を
満足させるために、うんざりするほど
鍛えなければならなかった
ピアノの演奏が、今は、
彼女にとって休息となりました。
彼女はまるで、この空間に
自分だけが全てであるかのように
自ら作り出す旋律を楽しみました。
一曲弾き終えたローラは、
いっそう軽やかな気分で
目を開きました。
ところが、ピアノを止めると、
自分の頬に視線が注がれるのを
感じました。
ローラは横を見ました。
オリビアが、
取り憑かれたような表情で
ローラを見つめていました。
2人の目が合いました。
オリビアはビクッとしました。
ローラはオリビアに
軽く微笑みかけました。
するとオリビアは、素早く視線を、
チェステーブルに向けてしまいました。
ローラは、
チェステーブルの方を見ました。
今は、フェアファクス氏とジョージが
向かい合って座っていました。
フェアファクス氏は、
ジョージがむやみに駒を動かすと、
怒って、頬をつねって振さぶりました。
フェアファクス氏は、
なぜキングを前に出すのか。
頭が付いていないのかと非難しました。
ジョージは、
えっ、どうして?
隊長なら、当然、戦いになった時に
先頭に立たなければ
ならないのではないかと尋ねました。
フェアファクス氏は、
息子のあまりにも間抜けな物言いに
舌打ちをしました。
そして、そんな頭で、
よくもまあ、立派な海軍になれると
思ったものだと皮肉を言って
ジョージを小突き、追い払った後、
ピアノの前に座っている
ローラに向かって、
退屈なピアノばかり弾いていないで
自分ともう1回やろうと叫びました。
ローラはチェステーブルに
再び座りました。
ローラがチェスをしている間、
オリビアはピアノに近づき、
先ほどローラが演奏した
ワルツの曲を弾き始めました。
ところが、しきりに
とんでもない鍵盤を叩くので、
曲の流れが、ぎこちなくなりました。
ローラは、そっと
ピアノの方に視線を移しました。
オリビアは、
先ほどローラがそうしていたように、
目を閉じてピアノを弾いていました。
突拍子もないところを叩いては、
目を少し開けて、
正しい場所に手を置き直す。
そして、再び目を閉じて弾き始め、
また突拍子もない鍵盤を叩くと、
再び目を開けて
手を正しい位置に戻すことを
繰り返していました。
しばらく、
ピアノと格闘していたオリビアは
すぐにイライラして来たのか
演奏を諦めてピアノの蓋を
閉めてしまいました。
ローラは、
そんなオリビアの姿が可愛くて
笑いました。
そして、笑っているのがバレて
オリビアを恥ずかしくさせないために
すぐに、
チェステーブルに目を向けました。
ローラが、オリビアに
気を取られてしまったせいで、
今回の試合では、
フェアファクス氏がぎりぎりで
チェックメイトに成功しました。
フェアファクス氏は興奮し、
ローラに、もう1回チェスをしようと
頼みました。
しかし、フェアファクス夫人が、
先生は疲れているだろうから、
もう部屋に戻るべきだと言って、
次のチェスの試合は流れました。
ローラは、フェアファクス夫人の仲裁に
感謝の気持ちを感じながら、
先に部屋に上がりました。
彼女は部屋に入ると、
ローソクを灯して、着替えました。
そしてソファーに座って
今日1日を振り返りました。
全てが彼女の予想とは正反対で
劇的なほど全てが良かったと
思いました。
まだ、ここで暮らして
1日しか経っていないけれど、
今日1日、
邸宅の家族と過ごしてみた結果、
これから起きる悪いことは
いくら悲観的に考えてみても、
子供たちが勉強時間に
言うことを聞かない程度だと
思いました。
その夜、彼女は跪いて
心からの感謝の祈りを捧げました。
こんなに良い人たちに出会えたこと。
良い環境を得られたこと。
心配していた多くのことが
杞憂に終わったこと。
これらすべての幸運に、
彼女は心から感謝しました。
しかし、祈りを終えた後、
ベッドに横になった彼女の心の中に
最もはっきりと浮かんだ存在は
イアン・ダルトンでした。
すべてが神の摂理だとしても、
いずれにせよ、
神が自分のために送ってくれた人は
ダルトン氏でした。
彼がいなかったら、
自分はここにいることも
できなかったのだから。
彼女はベッドに横になると、
改めて自分が、
ダルトン氏が住んでいるヨークシャーで
ダルトン氏の一番近い親戚の家に
泊まっていることを思い出しました。
そして、ダルトン氏の領地もまた
すぐ近くにありました。
真っ白な白樺の森に囲まれた
ホワイトフィールドホールは、
1時間で着くほど近くにありました。
ローラはその事実に
途方もなく胸がドキドキしました。
彼がプレゼントしてくれた絵だけでしか
見たことのない場所が、
こんなに近い所にあるなんて。
彼が心を込めて描いてくれた
美しいホワイトフィールドが。
そして、当然、今ダルトン氏は
そこにいるはずでした。
そこまで考えると、ローラの心臓は
さらに激しく鼓動しました。
彼女はすぐに首を横に振りながら
目を閉じました。
そして、この動悸は、
感情を高ぶらせる夜の力のせいだ。
闇、月の光、温かい布団、だるさが
心を揺さぶっているのだと、
自分に言い聞かせました。
彼女は、夜の力から逃げるために
頭の中の考えを消し去って
眠りにつけるよう努力しました。
幸いなことに、疲れた彼女は
簡単に夢の国へ
行くことができました。
ダンビルパークから1時間の距離にある
ホワイトフィールドホールの執務室の
窓際で、今頃、客室で眠っている
彼女を想像しながら
タバコをくゆらせている
紳士がいるということを
彼女は想像もできませんでした。

彼女が想像した通り
ダンビルパークでの生活は順調でした。
ダンビルパークに到着した翌日、
ローラは、
フェアファクス夫人の許可を得て、
執事とダンビルパーク邸を
見学しました。
頑丈で格調高い邸宅でした。
執事の説明によると、建てられてから
少なくとも、
400年は経っているとのこと。
管理に非常に気を遣っているので
どこ一つとっても、非の打ち所がないと
執事は誇らしげに言いました。
ローラはさらに見回しながら、
執事の言葉が誇張ではないことに
気づきました。
窓枠や手すり、隅々に至るまで、
傷ついたり汚れていることなく
きれいな状態でした。
邸宅の中は、一つの家門の歴史が
刻み込まれていました。
ローラは、
邸宅のあちこちに掛けられている
フェアファクス家の先祖たちの絵、
先代たちが戦争で使った武器と
グランドツアーから持ち帰った
貴重品を見物しました。
フェアファクス家の先祖たちは
代々、狩りの趣味があったのか、
家のあちこちで、容易に動物の剥製を
見ることができました。
しかし、
ダンビルパークで最も印象深いのは
外の風景でした。
緑の草原が広がる公園は
周囲を森と湖に囲まれており、
風景だけを見れば、
最高の位置を占めていると言えました。
ローラは執事に了解を求めた後、
午前中、ずっと周辺を散歩しながら
さわやかなイギリスの夏を
満喫しました。

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フェアファクス氏にとって、
自分を楽しませてくれる人が
大好きな人。
もしも、ローラが5勝していたら
フェアファクス氏はローラが
太刀打ちできない相手だとみなし
彼女とチェスとしても
少しも勝てなくて、楽しくないので
あまり好きでない人に
分類してしまったかもしれません。
ローラは、出自以外のことで
自分が蔑まされることがないよう、
社交界で気を遣いながら
生きて来た過程で、自然と処世術を
身に着けることができたと思います。
そして、もともと賢い人なので
自分が勝つことよりも、
彼を勝たせて喜ばせてあげた方が良いと
自然に考えられたのだと思います。
オリビアとの間は、
まだギクシャクしているけれど、
彼女の以外の人たちは、皆、
ローラのことが
すぐに好きになると思います。
ところで、グランドツアーとは、
17世紀初頭から19世紀初頭まで
イギリスの裕福な子弟が
学業を終える時に行った
大規模な国外旅行のことで、
家庭教師が同行するので、
観光だけでなく、勉強したり、
知識を手に入れたりしたそうです。