![]()
128話 バスティアンが雇っている探偵が、逃げたオデットを見張っています。
バスティアンは、
青く染まる夜明けの光の中で
目を覚ましました。
闇に包まれていた物が、ぼんやりと
輪郭を現し始める時でした。
わざわざ時計を確認する必要は
ありませんでした。
決まった時間に起きることは、
軍人として生きてきた年月と同じくらい
古い習慣だったので。
乾いた顔を撫で下ろして
眠気を払ったバスティアンは、
すぐにベッドを離れました。
そして、水を一杯注いで飲み、
バスルームへ行き、ガウンを脱いで
シャワーの下に立つという行為が
機械的に続きました。
バスティアンは頭上から降り注ぐ
水に打たれながら
オデットのことを考えました。
それもまた、
意志とは関係なく行われる
習慣の一部でした。
フェリア・・・
バスティアンは、
オデットに張り付かせた探偵から受けた
報告の内容を思い起こしながら
ゆっくりと顔を洗いました。
眠っているオデットを見守っていた朝
何かが起こるだろうと、
バスティアンは予感しました。
まさか、こんな、
正気の沙汰とは思えないことをするとは
夢にも思いませんでしたが。
目的を果たすためなら、
手段を選ばないという点では、
彼女も彼と同類でした。
2度も見事にやられたのだから、
今は彼女の方が一枚上手だと
認めてやるべきかも知れませんでした。
オデットが逃げたという事実に
気づいた時でさえ、
当然、異母妹と一緒に
移民船に乗っただろうと思いました。
しかし、あの女は意外にも、1人で
フェリア行きの汽車に乗りました。
持って行ったのは、
犬とスーツケース1つだけでした。
安ホテルに
閉じこもっているのを見ると、お金も
ろくに持っていないようでした。
雑音を最小限に抑えるためには、
すぐに連れて来るべきでしたが、
バスティアンは、
いったん決定を保留にしました。
再会したオデットに
寛容を示すためには、
彼にも時間が必要だったからでした。
どうせ目と耳の代わりを務める
ケラーを付けておいたので、
急ぐ必要はありませんでした。
シャワーを浴びたバスティアンは、
寝室に戻って、
出勤の準備を始めました。
朝食は、一握りの角砂糖を入れた
濃いコーヒーに取って代わりました。
その習慣を不満に思っていた執事も
最近は小言を付け加えませんでした。
出発の準備を終えた頃、
顔色を窺っていたロビスが、
ラッツオペラ劇場の
会員資格審査の件について、
口を開きました。
身だしなみを整えていたバスティアンは
ゆっくりと向きを変えて
執事と向き合いました。
ロビスは、
昨夜、デメル家から
連絡があったけれど、
帰りが遅かったので報告できなかった。
どうやら、審査に通るのは
難しそうだとのことだと伝えました。
かなり困っているロビスとは違って、
バスティアンは淡々と頷きました。
ラッツオペラ劇場は、
会員証の発行が難しいことで
悪名高い所でした。
芸術界で名を馳せてきた、
有力貴族の家門出身者で構成された
審査委員団の半分以上の同意を
得る必要がありましたが、
極めて保守的かつ閉鎖的な気風ゆえ、
すでに数回、苦杯をなめていました。
今回は、デメル提督が人脈を動員して
力を貸してくれたおかげで、
事が順調に運ぶかと思われましたが
オデットの逃亡事件によって
雰囲気が急変しました。
しかし、すでに予想していたので、
それほど驚くことはありませんでした。
ロビスは、
出過ぎた真似だということは
承知しているけれど、
1日も早く奥様を連れて来て、
誤解を解いた方がいいのではないかと
躊躇いながらも、
慎重なアドバイスをしました。
バスティアンは事務的な笑顔で
返事の代わりをしました。
有力社交クラブの会員証を
全て手に入れるという目標を
達成するための挑戦の一環に過ぎず
そもそもオペラなどには
何の興味もありませんでした。
どうせ、あの女なしでは、そこに
足を踏み入れることもないだろうから
失敗したら、
次の機会を狙えばいいだけでした。
ロビスは寝室を離れようとした瞬間
デメル提督が、ジェンダス卿に
一度連絡を取ってみた方がいいという
助言をしたと、
意外な言葉を付け加えました。
バスティアンは眉を顰めて
彼を見つめました。
ジェンダス卿は審査委員の中で
最も影響力のある人なので、
彼が力を貸してくれれば
形勢を変えることも
できるかもしれないという
デメル提督の伝言を、
ロビスが伝えている途中で、
バスティアンは、
分かった。残りの話は、海軍省で
提督と直接話すことにすると
丁重でありながらも、
断固とした口調で、
ロビスの言葉を遮りました。
ビクッとして、
乾いた唾を飲み込んだ彼は、
その辺で頭を下げることで
本分を尽くしました。
短い黙礼を残したバスティアンは
大股で歩いて部屋を出ました。
廊下の窓の向こうに広がる
アルデンの海は、
青と緑が絶妙に混ざった青緑色に
輝いていました。
バスティアンは、
オデットが元気に過ごしていることを
心から願っていました。
この機会に、心穏やかに療養して
健康を回復するのも、
悪くないはずでした。
そうすれば、お腹の中にいる子供も
よく育つだろうから。

オデットは少しずつ
生活半径を広げていきました。
しばらくの間は、ホテルの近くを
慎重にうろつくだけで精一杯でしたが
今では都心まで、散歩に出かけることが
できるようになりました。
追われていないという確信が
持てたおかげでした。
食料品店に立ち寄って、
リンゴを買ったオデットは、
それほど遠くない所にある公園へ
足を向けました。
フェリアで亡命生活を送っていた時代に
よく訪れた場所でした。
オデットは、比較的閑散としている
公園西側の遊歩道を
マルグレーテと一緒に歩きました。
葉をすべて落とした木々が
寒々と枯れてゆく季節ではありましたが
風が穏やかで日差しが心地良く、
あまり寒くありませんでした。
池のほとりの鴨を見て
興奮したマルグレーテを
「ダメ、メグ」と制止して
抱き上げたオデットは、
日当たりの良い場所に置かれた
ベンチに座って、
ため息をつきました。
まだ体力が回復していないので
疲れやすくなっていましたが、
それでもベルクを離れた時よりは
ずっと良くなりました。
フェリアに無事到着した後も、
オデットは、
なかなか、不安を振り払うことが
できませんでした。
最初の数日間は、
ホテルの部屋に隠れて過ごしました。
カーテンはもちろん、
雨戸までしっかり閉めておいたので、
昼間も光が入らない小さな部屋は
まるで冬眠する獣の洞窟のようでした。
そこで、オデットは
時間の流れを忘れたまま、
ぐっすり眠りました。
やむを得ず食事に行く時を除けば、
1日のほとんどを、
眠って過ごした日々でした。
そうして3日が過ぎると、
ようやくカーテンを開けることが
できました。
そして、さらに2日が経つと、
街に出る勇気を
出せるようになりました。
責任を負わなければならない
マルグレーテがいたからこそ
可能だったことでした。
そして、この子も。
手袋を外したオデットは、
少し気まずい気分で、
静かにお腹を触ってみました。
子供はあらゆる逆境の中でも
屈することなく、
よく耐え抜きました。
まだ存在感が薄いものの、
そのうち、ティラの子供のように
育つだろうし、
昼が一番長い夏の日が来る頃には
腕に抱くことができるだろう。
その日を思い描いていたオデットは、
ある瞬間、
いつの間にか、子供と共にする未来を
当然のこととして受け入れていることに
ふと気づきました。
死んだように深く眠り、
目覚めた後から始まった変化でした。
バスティアンが正しかったです。
この子はオデットの家族でした。
そしてオデットは、
どうしても、この家族を
見捨てることができませんでした。
あの男とそっくりな子供を
産み育てるという最悪の事態を
仮定してみても
結論は変わりませんでした。
自分の子供。
改めて決意を固めたオデットは、
迷いの消えた眼差しで、
陽光が降り注ぐ
午後の風景を見つめました。
どんな理由で妊娠したとしても、
誰に似ていても、そんなことは、
もう、それほど
重要ではありませんでした。
自分の体の中で育って、
この世に出て来て、
自分と一緒に生きていく自分の子供。
それだけで十分でした。
オデットが
立ち上がろうとしたその時、
「こんにちは」と
きちんとした身なりの紳士が
話しかけてきました。
彼は、
オデットが1人で来ているようだと
推測し、
美しい淑女をエスコートする機会を
与えてもらえないかと申し出ました。
しかし、オデットは、
申し訳ないけれど、
夫を待っているところだと、
平然とした顔で嘘をつきました。
疑いの眼差しを向けていた男は、
猛々しく吠えるマルグレーテを
制止する手の上で輝く
結婚指輪を発見して、
ようやく一歩後退しました。
男は、大変失礼したと、
急いで謝罪して立ち去ると、
マルグレーテも静かになりました。
オデットは、
物思いに耽った目を下ろして、
緩んだ結婚指輪を見つめました。
逃走資金を用意するために売り払った
ガラクタを全て合わせたものより
高価な品でしたが、
容易には手を出せませんでした。
バスティアンの疑いを招くのを
恐れたためでした。
無事に逃げ切ったら
処分しようと決めていたけれど、
その事実をすっかり忘れていました。
オデットの視線は、長い間、
偽りの結婚を誓った指輪の上に
留まりました。
今頃、クラウヴィッツ少佐夫妻の
破局の噂が広まっているはずでした。
もしかしたら、すでに離婚届が
提出されているかもしれませんでした。
その気になれば、
バスティアンの消息を知る方法を
見つけられるだろうけれど、
今は、できる限り、
身を潜めるべき時でした。
しばらくは、死んだように
過ごさなければなりませんでした。
オデットは自分自身を戒めながら
再び手袋をはめました。
まだお金が足りないわけではないので
指輪を売るのは、もう少し、
保留しておくことにしました。
札束を持って頻繁に移動するのは
危険だから。
保管が容易なのは、
やはり指輪に違いありませんでした。
荷物を持ったオデットは
急いで池のほとりのベンチを
離れました。
もう少し歩きたかったけれど
今日は、この辺で
引き返すことにしました。
さきほど、話しかけて来た男が、
まだ辺りをうろうろしていました。
嘘がばれては困りました。

オデットは、
公園の代わりに繁華街を散歩した後、
ホテルに戻りました。
窓を大きく開けて換気をし、
寝具の埃を払って整えました。
掃除を終えた後は、
散歩の途中で買って来たリンゴを
マルグレーテと分けて食べました。
あまり好きな果物ではなかったのに
最近は、毎日のように
リンゴが欲しくなりました。
どうやら子供の好みのようでした。
果汁が滴る手を丁寧に拭ったオデットは
マルグレーテを抱いて
ベッドに横になりました。
短い昼寝をして目が覚めると、
西の空が赤く染まっていました。
オデットは窓際にもたれかかって
日の沈む風景を見つめました。
バラ色の街に降り注ぐ大聖堂の鐘の音が
平和な夕方の雰囲気を
一層、深めていました。
ここで過ごした幼い頃の記憶を
思い出させる風景でした。
追放令が下されて
故国に帰ることができなくなった
母親と父親は、
フェリアに居を構えました。
オデットは、その亡命生活中に生まれ
ここで育ちました。
皇帝が変わって
ベルクへの入国が許可されたのは、
14歳になった年でした。
それまでは、フェリアを母国として
暮らしていたので、
事実上ここが故郷というわけでした。
だから、うまくやっていけるだろうと
オデットは慎重な希望を抱きました。
馴染み深い場所なので、
新たに根を下ろすことができるだろう。
もちろん、頼れる所が一つもないのに
子供を産んで育てるのは
容易ではないだろうけれど、
それでも方法を見つけられると
信じてみることにしました。
少なくとも、
酒と賭博に目がくらんだ父親と
分別のない幼い妹を
1人で世話しなければならなかった
時代よりも、
暗鬱ではないはずだから。
もう自分だけの世界で、
自分だけのための人生を
生きることができる時になりました。
オデットは、
その事実が与えるときめきの中で
日が暮れて星が昇る空を見つめました。
初めて享受した
完璧な自由と平穏でした。
![]()
![]()
オデットが休息できるよう
旅行を勧めたと、
マリア叔母に告げた言葉は
嘘だったけれど、
オデットを、しばらく放っておき、
彼女が元気に過ごす機会を与えたことで
以前より健康になった彼女が
戻って来れば、
その言葉が嘘でなかったと、
バスティアンが
主張できるのではないかと思いました。
そこまで打算的な考えをするとは
思いたくありませんが。
バスティアンが与えてくれたとは
知らずに、
完璧な自由と平穏を
手に入れたと思っているオデットが
気の毒ですが、今の彼女は
健康を回復することが重要なので、
短い期間でも、
何のしがらみのない生活を
満喫して欲しいです。
![]()