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130話 フェリアでのオデットの生活は?
3つ目の宿は、
都市の外れにある静かな住宅街に
位置していました。
気難しい老婦人が経営する下宿でした。
荷物を解いたオデットは
ベッドの端に腰掛けて息を整えました。
下宿代が最も安い部屋は
最上階の北向きに位置していました。
日辺りが悪いので、
寒くて薄暗かったけれど、
暖炉が備わっていたため
大きな問題にはなりませんでした。
居心地のよい住まいを見つけたという
事実だけでも、オデットは、
ただ感謝しました。
この部屋を手に入れるために
どれだけ苦労したかを考えると
なおさらでした。
中流階級の女性の下宿人だけを選んで
受け入れているという老婦人は
流れ者を嫌いました。
家庭教師の職を求めて都市へやって来た
没落したジェントリ出身の淑女。
そのように身分を偽装したオデットは
彼女の前でピアノを演奏して見せ、
知性と教養を試すための
討論に近い会話を経て、
ようやく、ここで暮らす資格を
得ることができました。
本当に良かった。そうでしょう?
オデットは訳もなくマルグレーテに
話しかけてみました。
逃亡生活を始めてから生まれた
癖でした。
新しい住まいを探っていた
マルグレーテは、
トコトコと駆け寄って来ると、
尻尾を振って
調子を合わせてくれました。
その愛らしい仕草を見守る
オデットの顔の上に、
かすかな笑みが浮かびました。
目の前が真っ暗になっても、
こんな時には、
また勇気が湧いて来ました。
もう1ヶ月が
過ぎようとしているけれど
心配していたことは
起きませんでした。
オデットが安定を取り戻している間
お腹の中の子供も元気に育ちました。
これまでの不安や心配が
虚しく感じられるほど
平穏な日々が続きました。
オデットは、
懐に抱いたマルグレーテを
撫でながら、
今後の計画を整理しました。
この冬は、ここで
過ごすことができるだろうけれど
春が来たら、子供と一緒に住む借家を
探さなければならないようでした。
その頃には、お腹が大きくなって
目立つだろうし、この家の主人は
とても潔癖な性格の持ち主なので
父親のいない子供を持つ下宿人を
我慢するとは思えませんでした。
そのためには、1日でも早く
お金を稼がなければ
ならないのではないか。
じっくり考え込んでいたオデットは
ささやかな希望を込めた目で
指先を見下ろしました。
若い頃は、
家庭教師の仕事をしていたという
下宿の主人が、オデットの演奏を
かなり気に入ってくれました。
すぐに、
正式な紹介状を書くのは無理だけれど
パートタイムの
ピアノ教師の口くらいなら
探してやれると言ってくれました。
万が一の危険を避けるために、
しばらくは、
引きこもるつもりでしたが、
もう全てが終わったのなら、
あえて時間を無駄にする必要は
なさそうでした。
今日の夕食の席で、
仕事を頼んでみようと
決意を固めたオデットは、
一層軽くなった気持ちで
体を起こしました。
残った荷物を整理して
服を着替える間に、
短い冬の日が暮れました。
オデットは、
ようやく暖炉に火をつけました。
薪を無駄に使えない状況なので、
しばらくは日が暮れた後にだけ
暖房をつけるつもりでした。
自分のものではない贅沢を享受した
この2年間が異例だっただけでした。
家運が急激に傾いてからは、
ずっと、こうやって
冬を過ごしてきたので、今更、
驚くことではありませんでした。
ただ本来の位置に戻っただけ。
オデットは謙虚に
現実を受け入れました。
オデットはマルグレーテに、
苦労をかけていることを
謝りました。
温もりを求めて
暖炉の前に近づいて来た
マルグレーテを見つめるオデットの目に
罪悪感が滲んでいました。
枯れ枝を拾える場所を見つければ、
冬を越すのに
大いに役立つはずでした。
マルグレーテのためにも、
急いで周辺の地理を
覚える必要がありました。
まもなく、
夕食の時間を告げる鐘の音が
鳴り響きました。
急いで身だしなみを整えたオデットは、
思わず立ち止まり、
少しずつ膨らみ始めたお腹を
撫でました。
最近になって、
体の変化が急激になりました。
近いうちに、ゆとりのある服が
必要になるかもしれないという
気がすると、
働き口を探すという決心が
さらに固まりました。
大きなショールを羽織って、
変化しつつある体を隠したオデットは
落ち着いた足取りで部屋を出ました。

「よくやった、フランツ。
お前がやり遂げた」と褒めながら
息子を見る、
ジェフ・クラウヴィッツの目には
かつてない愛情と誇りが
滲み出ていました。
フランツは、
夢でも見ているような気分に
囚われたまま、
ぼんやりと父親を見つめました。
ずたずたに引き裂かれて
捨てられるのが常だった報告書は、
まだ、
ジェフ・クラウヴィッツの膝の上に
きちんと置かれていました。
スピードを上げて走り始めた車が
フレベ大通りに入った頃になって
ようやく、フランツは、この状況を
完全に理解できるようになりました。
フランツは、
自分のしたことが、今回の一件で
助けになったと言っているのかと
尋ねました。
ジェフ・クラウヴィッツは、
イリスの足を
引っ張ったわけだけれど、
ただ助けただけだなんて、
それは謙遜しすぎというものだと
答えると、豪快に笑い、
息子の肩を軽く叩きました。
表面的には
鉄道王の座を巡る戦いでしたが、
その裏には、
傘下に収めた会社の数多くの利権が
絡んでいました。
クラウヴィッツは、
鉄道会社が他の数十社を傘下に収める
構造を有していましたが、
バスティアンは、
その方式を、そのまま模倣して
イリス商事を再編しました。
まるで鏡の中の自分と
戦っているような感覚を
振り切るのが難しかったのは、
そのためでした。
ダイヤモンド鉱山を使った詐欺を
目論んで、失敗した2年前は、
下層から浸透して
上層を揺さぶるという戦略を
取っていましたが、今回は、
各自の鉄道会社を前面に出して
対決する全面戦を選びました。
その間に
イリス商事が所有する鉄道会社が
クラウヴィッツと肩を並べるほどに
成長したからこそ、
可能な挑発でした。
向こうが全力を尽くすのであれば
こちらも、引き下がるわけには
いきませんでした。
鉄道が打撃を受ければ、
その傘下にある海運や鉄鋼まで
連鎖的に崩壊するはずでした。
言い換えれば、鉄道さえ打てば、
うんざりするイリスを
倒すこともできるという意味でした。
バスティアンは、
フェリアとベロップを結ぶ
鉄道事業権の落札に
総力を挙げているところでした。
ややもすれば、無謀に見えるほど
攻撃的な戦略を駆使しましたが、
やはり自信過剰になると
隙が生じるものでした。
フランツはその隙を正確に突いて
バスティアンが狙っていた
新興独立国の債券を
一足早く買い入れることに
成功しました。
イリス商事の資金調達に
大打撃を与えた今、
確実に優位に立ったと見ても
差し支えありませんでした。
しかも、今回の国有鉄道売却の件を
陣頭指揮している
フェリアの財務大臣は
クライン伯爵家の親戚でした。
バスティアンがいくら悪巧みをしても
この差を縮めることは
難しいはずでした。
ジェフ・クラウヴィッツは、
今回の鉄道事業権の落札が、
お前の時代を切り開く
第一歩になりそうだと告げることで
ようやく、
まともな実業家の役割を
果たすようになった息子を
再び称賛しました。
その間に車は、
ラッツ中央駅の前に停まりました。
2人の父子は、
自信に満ちた足取りで
駅の中に入りました。
ベルクの鉄道王に気づいた
人々の視線が集中すると、
ジェフ・クラウヴィッツの興奮は
さらに高まりました。
2日後には、
この戦争の勝者が発表されます。
彼らがフェリアから帰国する頃には、
父親の鉄道王の座を
脅かしているなどという戯言で
騒ぎ立てることは
できなくなるはずでした。
「あっ、お父さん!」
駅の中央に達した頃、
フランツの表情が急激に曇りました。
反対側から、大勢の人々を従えた、
背の高い将校が
こちらへ向かって来ていました。
一目で分かる顔、
バスティアンでした。

久しぶりです。お元気でしたか?
先に沈黙を破ったのは
バスティアンでした。
並んでいる父子に向き合った
バスティアンは、
平然と挨拶をすることで
礼儀を尽くしました。
一見、普通の家族のように見える
光景でした。
ジェフ・クラウヴィッツは
殺気立った目で
バスティアンを睨みながらも、
声を荒げることはしませんでした。
努めて怒りを抑えながら、
上品に頷いて応える姿を見せました。
鉄道王が、自分の聖殿も同然の
首都の中央駅で、
息子と取っ組み合いをしたという噂は
到底容認できないようでした。
バスティアンは父親に、
直接フェリアへ行って
入札発表を見守るようだ。
思ったよりずっと積極的だと
言いました。
ジェフ・クラウヴィッツは
お前の目的も同じように見えると
言い返しました。
バスティアンは「はい」と答え、
フェリアはベルクの同盟国なので
今回の訪問で、友好的な雰囲気を
作り出すことができると
見込んでいると話しました。
あまり強くない忍耐心が尽きた
ジェフ・クラウヴィッツは、
今の状況で、
あえてお前の顔を売ることが
得策だとは思えないと、
本音を露わにしました。
バスティアンは呑気に笑いながら
肩をすくめると、
かなり高く売れる顔をしているので
そんな心配は無用だと答えました
ジェフ・クラウヴィッツは
お前の言う通り、フェリアでも、
お前がかなり有名なのは事実だから、
今回のことについての噂も
すでに広まっているはず。
自分の妻1人の面倒をまともに見られず
恥をさらしているような間抜けに、
重責を任せたいと思うだろうかと
皮肉を言いました。
バスティアンは、
それは、そのうち分かるだろうと
答えました。
ジェフ・クラウヴィッツは
どこまでやれるか見せてもらおうと
威嚇すると、
王国を視察する君主でもあるかのように
意気揚々とした態度で
去って行きました。
フランツも、
すぐに彼の後を追いました。
噂を聞きつけて来た
見物人たちまで加わると、
駅は人波でごった返しました。
クラウヴィッツ親子の存在は
すぐに忘れ去られました。
今や大衆の関心は、
連日ゴシップ誌に名を連ねている
海軍の英雄に集中していました。
バスティアンは、
安全を確保するために来た
警官たちの案内を受けて
プラットホームに移動しました
ジェフ・クラウヴィッツ一行は
すでに姿を消した後でした。
目的地は同じでしたが、
それぞれの会社を利用するため
乗る列車は違っていました。
飴を一つ咥えさせておいたから
しばらくは静かだろう。
状況を把握したバスティアンは、
すぐに特等室の客室へ向かいました。
ドアを開けると、
先に到着して待っていた随行団が
慌てて席から立ち上がりました。
トーマス・ミラーを筆頭とする
今回の作戦の実務担当者たちでした。
バスティアンは、
虚飾は不要なので、
早速、始めようと告げると、
空いている席に座り
準備されていた資料を広げました。
今後の計画を整理し、
細部を調整している間に
列車が出発しました。
会議が幕を閉じた時は、
いつのまにか窓の外が
濃い闇に染まっていました。
最後まで残って
議事録を整理している師匠を見た
バスティアンは、
微かな笑みを浮かべながら彼を労い、
次の段階に進む前まで
ゆっくり休んで欲しいと告げました。
トーマス・ミラーは、
穏やかなため息をつきながら
立ち上がると、
それは自分の言いたいことだと
返事をしました。
テーブルを片付けた彼は
部屋の明かりを消しました。
残った明かりは、ベッドの横を照らす
サイドテーブルのランプ1つだけでした。
トーマス・ミラーは、
もう十分だ。万が一にも、
再び仕事に目を通そうなどとは考えず
自分が立ち去ったら、
すぐにでも休むようにと告げました。
バスティアンは
「はい、そうします」と答えましたが
トーマス・ミラーは、
今回も口で言っているだけなら
自分の失望は大きいと嘆きました。
何度も繰り返し念を押した
トーマス・ミラーが退くと、
客室は、夜の闇のように深い
静寂に包まれました。
バスティアンは、その姿のまま
ベッドに横になりました。
溢れるほど与えられた宝石を
そのまま置いて去ったオデットは
安ホテルを転々としながら
仕事を探していました。
暇さえあれば
燃料を拾い集めに行っているという
ケラーの報告を受けた日、
バスティアンは呆れて
しばらく笑い続けました。
そして、その翌日、
彼は海軍省に休暇を申請しました。
フェリアへの出張に
同行するための決断でした。
泥にまみれてしまった評判に加えて
こんな手間までかけさせて。
オデットによる損失を計算すると、
またもや虚しい笑いが漏れました。
一番高く売られている顔は、
もしかしたら、
あの女かもしれませんでした。
タイを放り投げながら見た窓の向こうに
青白い月が浮かんでいました。
もうすぐ会うことになる
高価な顔を思い描きながら、
バスティアンは再び目を閉じました。
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もしかして、バスティアンは
あまりお金を持っていない
オデットが、いつか
生活が立ち行かなくなり、
自分のもとへ戻って来るのを
待っていたのかもしれないと
思いました。
ところが、オデットは
2年間、贅沢な暮らしをしていたのに
それは自分のものではなかったと
割り切り、
元の苦しい生活に戻っても
平気な様子。
いくら待ってもオデットは
帰って来ないと判断したバスティアンは
もう我慢ができなくなって
オデットを
迎えに行くことにしたのだと
思いました。
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