
77話 フェアファクス夫人はイアンに、ローラが高い木のてっぺんまで登った話をしました。
いっそ空を飛ぶ姿を想像する方が
まだ簡単だ。そんなことをして、
万が一、落ちたりでもしたら
どうするつもりなんだと、
イアンは危険を冒すローラの行動に
不機嫌になりました。
フェアファクス夫人は、
そうしてこそ、
ジョージとダニエルから
尊敬を得ることができる。
猟犬には、
自分を手なずけてくれる飼い主が
必要なように、
ジョージとダニエルには、
彼らを操縦してくれる大人が必要だ。
ペンドルトン嬢は、ここに来た直後に
直ちに、それに気づいたと
話しました。
イアンは、
あいつらに何かを教えるためには、
先生ではなく、飼育係に
ならなければならないということをね
と言いました。
フェアファクス夫人は、
その通りと答えて微笑みました。
彼女は、
今やダニエルとジョージは、完全に
ペンドルトン嬢の手中に落ちた。
毎日のように、花や果実を集めて
先生に捧げているそうだ。
まるで主人の後を追いかける
子犬たちのようだと話しました。
イアンはクスッと笑いました。
フェアファクス夫人は、
オリビアも平気なふりをしながら
ペンドルトン嬢に
たじたじになっている。
フランス語の発音が
ジャンヌ先生と差がないそうだ。
最初は、
ツンとお高くとまっていたくせに
今では、
ペンドルトン嬢の真似をしている。
自分もペンドルトン嬢のように
ピアノを弾くと言って、
目を閉じて鍵盤を叩いていると
話しました。
イアンは、
「それで、姉さんは?」と
不意に声を掛けると、
姉の顔をじっと見つめながら、
ペンドルトン嬢を直接見て、
どう思ったのかと尋ねました。
フェアファクス夫人は、
しばらく言葉を止めました。
何か考えているようでした。
イアンは姉が
ペンドルトン嬢のことで悩んでいるとは
思いませんでした。
彼が知っている姉は、
人間に好意を抱く時、
あれこれ長々と考えたり
損得を考えたりする性格では
ありませんでした。
好きなら好き、嫌いなら嫌い。
それだけでした。
すぐに彼女は、
ペンドルトン嬢は一日中、
走り回って転げ回り、時には、
リスのように木登りもする。
背中を丸めて座って、
クロスステッチだけをする
普通のお嬢さんたちとは全く違う。
あの程度の体力があれば、
子供を5人は産めるだろうと
答えました。
イアンは、
まるで雌馬に対するような評価だ。
彼女の他の面はどうなのかと
尋ねました。
フェアファクス夫人は、
先ほども言ったように賢い女性だ、
心優しいし、あなたのことを
とてもよく理解している。
それで十分だと答えました。
イアンは、
自分を理解しているって?
と聞き返しました。
フェアファクス夫人は「そう」と答えて
微笑みました。
彼女は、
イアンがお世辞が下手で、気難しくて
潔癖症で、厄介な性格だけれど、
あまり悪い人ではないということを
ペンドルトン嬢は、よく分かっている。
自分があなただったら、
決してこの機会を逃さない。
ペンドルトン嬢のような女性は珍しい。
特にあなたにとっては、と話しました。
イアンは、
そう言ったではないかと抗議すると
そっと懐から、
銀製のシガレットケースを取り出し
浮彫された模様を静かに撫でました。
喫煙ができない状況でも
タバコと関連した何かを
いじらなければならない
喫煙者特有の癖でした。
イアンは、
彼女は自分のものになると
断言しました。
フェアファクス夫人は
かなり自信があるようですね?
と尋ねました。
イアンは微かに笑うと、
自分がここまで、
ペンドルトン嬢を連れて来た。
想像もしたことのない
女たらしの役回りをし、
気が進まない詐欺まで働いている。
たかが子供たちの先生をさせるために
そんな苦労をしたと思っているのかと
答えると、
シガレットケースの蓋を開けました。
フィルターに包まれたタバコが
一列に並んでいました。
彼はそれらを一通り撫でてみました。
彼女は
自分の花嫁にならなければならない。
そうなるだろうと断言しました。
フェアファクス夫人は
でも、どうやって?
彼女からは、
あなたに対する友情は感じられても
愛は感じられなかった。
そして何より、彼女は自分自身の境遇を
とても、よく分かっている。
心が通じ合ったとしても、
あなたを受け入れるどころか、
あなたのために去ってしまう人だと
言いました。
イアンは眉を顰めました。
彼の姉は、万事、天下泰平な上に
とんでもない迷信に執着する
分別のない人でしたが、
意外にも、このように人を見る目が
鋭い時がありました。
彼は苦笑いしました。
イアンは、
自分から離れるくらいなら
死んだ方がマシだと思うほど、
自分を愛するように
しなければならないと言いました。

ローラがダンビルパークへ来てから
1ヶ月が経とうとする頃、
いくつかの変化が起こりました。
まず、ローラは、
ダニエルとジョージと
授業らしい授業を始めました。
ローラが午前中ずっと、森の中に、
様々な英国王たちのメモを隠しておけば
子供たちは、それを探して来て、
順番に地面に並べた人が
勝つ遊びでした。
ローラの関心を引きたい少年たちは、
一日中森を歩き回りながら
メモを探し回り、
ローラが持っている本で
英国の王たちを見つけ出して
順番を照らし合わせ始めました。
子供たちと森での授業をしていると
たまに新しい客が来たりもしました。
それはダルトン氏で、
彼は主にスケッチをするために
ダンビルパークを訪れ、
彼の主な関心は自然物にあったので
よく森で出会うようになりました。
彼女はダルトン氏に会う度に、
嬉しい反面、当惑もしました。
いつも森の中で
子供たちと走り回っているため
身なりが、いつも滅茶苦茶でした。
服は土埃まみれで、
髪の毛は、いくらしっかり
ヘアネットに固定していても、
いつも何本も、はみ出していました。
彼はいつも突然現れたので、
前もって、
身だしなみをチェックする暇も
ありませんでした。
彼女は、ただ森の中を歩いていると
突然、現れたリスのように、
無防備に、彼と顔を合わさざるを
得ませんでした。
ダルトン氏は、
ローラがどんな状態であろうと
紳士的でした。
もしかしたら、
彼女が自分の身なりを恥じているのを
察したからこそ、なおさら
何でもないように振る舞っているのかも
しれませんでした。
彼は英国王たちのメモを探しに
少年たちが消える度に
一人で待っている彼女のそばで、
不便なことはないか、甥っ子たちが
無作法に振る舞ったりしていないかと
彼女の普段の生活について尋ねました。
ローラにとっては、
少しの不便もない生活だったので、
いつも同じ答えしか出ませんでしたが
まるで彼女の便宜を図ることが、
自分の全ての
関心事でもあるかのように
彼はいつも同じことを聞きました。
彼らは子供たちがメモを探してくる間
一緒に切り株や岩の上に座って
話を交わしたりしました。
聞こえるのは、
笛の音のように澄んで鋭く鳴く
山鳥のさえずりと、
ガサガサと音を立てる
野獣の足音だけの森の中で、
彼らは静かに
日常的な会話をしました。
彼らの間には、
ダンビルパーク、フェアファックス家
田舎暮らしという
共通の関心事がありました。
特にローラにとって田舎暮らしの感覚は
新鮮でした。
彼女は、森と共に生きる生活を
ほとんど体験したことが
ありませんでした。
子供の頃、少しだけ、
ペンドルトン家のカントリーハウスに
住んではいましたが、
そこでは何かを楽しむ余裕が
ありませんでした。
彼女は、
最近味わっている新鮮な感興について
誰かに思いっきり
話したいと思っていました。
しかし、フェアファクス家には、
そのような人が、
あまりいませんでした。
子供たちは幼すぎたし、
フェアファクス夫妻は
自分を大切にしてくれましたが、
立場は雇用主でした。
しかし、ダルトン氏は友人でした。
彼女は彼に、
毎日、土と木の葉を踏みながら
感じる喜びと、
子供たちと遊びながら味わう
解放感のようなものについて
存分に話しました。
イアンは、
その全ての話に耳を傾けました。
話を聞いている間、彼の眼差しは
彼女を理解しているという光を
帯びていました。
彼は子供の頃から森に囲まれて
森と一緒に暮らして来た男で、
生涯を通じて、
静かで美しい自然を愛して来ました。
時々、ローラは、
胸に溢れるこの感情が、
あまりにも新鮮過ぎて、
言語で上手く表現できませんでした。
その言葉を、イアンは、
正確な言語で話してくれました。
ローラはイアンの言葉を通じて
自分の感情を
整理することができました。
さらに、彼が、自分と全く同じ気持ちを
抱いていることに気づきました。
木々や山鳥や湧き水や果実。
そして、その他の、
森を構成する全てのものへの
畏敬の念。
イアンと一緒に森の切り株に座って
空気を吸い、話をしていると、
不思議なほど、
彼に対する壁が消えて行きました。
ロンドンでの交流とは、
また違った感覚でした。
ロンドンでも2人は、
とても親しかったし、
一緒にお茶を飲んで散歩をしながら
話を交わす時は、
いつも興味深くて楽しかったです。
しかし、2人の間には
紳士と淑女が守るべき、
社交界の礼法という
見えないハードルがあり、
2人の関係を支配していました。
しかし、森の中で一緒に座っている
この時間だけは、
ローラとイアンの間に、
何の境界線もありませんでした。
新しい空間で
同じ感覚を共有する気分は、
2人の間にある壁を取り除きました。
ローラは
作法にこだわるのを止めました。
イアンは冷笑の代わりに、
優しさを示しました。
森はそれを可能にしました。
ある日、ローラはイアンに、
これまで描いた絵を見せて欲しいと
頼みました。
彼は快く、自分のスケッチブックを
見せてくれました。
スケッチブックは表紙に
Dと書かれていました。
ダンビルパークに来る時に
持って来るという意味でした。
ローラはスケッチブックを広げ、
すぐに、その中に、
自分が登ったエルムの木と、
ジョージがフキの実を摘んで来た茂み
虫たちを観察していた沼地、
キツネが子を産んで乳を飲ませていた
小さな穴を発見しました。
ローラは笑いながら、
このすべての場所が、
ダニエルとジョージが
自分に教えてくれた所だと話しました。
イアンは、
日付を見てと言いました。
ローラは目を大きく見開いて、
絵の片隅を見ました。
そこには、絵を完成させた日付が
書かれていて、全てが
15年から20年前の日付でした。
ローラは、
子供の頃に描いた絵ですねと
尋ねました。
イアンは「そうです」と答えました。
ローラは、
フェアファクス氏と遊んでいた場所かと
尋ねました。
イアンは頷きました。
ローラは、
2人の紳士の子供時代の遊び場が
今では、小さなダニエルとジョージの
遊び場になったと言いました。
イアンは、
嬉しいことにそうなったと答えました。
ローラは、もう一枚ずつ
絵をめくってみました。
子供の頃、描いたのに、
木と草の葉の描写が素敵でした。
ローラは、
自分も女学校時代に絵を習ったけれど
完成すると、いつも決まりきった
結果にしかならなかった、
秘訣は何なのかと尋ねました。
イアンは、
興味のあるものだけを描くことと
答えました。
ローラは「それから?」と尋ねました。
イアンは、それで全部だと答えました。
ローラはプッと笑い、
冗談を言わないで欲しいと頼みました。
しかし、イアンは
冗談ではない。
興味のないものを描くときは、
技術的でありきたりな
面白くない絵しか描けない。
良い結果を得たければ、
好きなものを描けというのが、
幼い頃の絵の先生の教えだった。
絵を描けば描くほど、
その言葉は正しかったと
実感していると話しました。
ローラはもう一度絵を見ました。
絵の描写には、
関心と真心が表れていました。
ローラは、
この人が何を愛しているのかを
知りたいなら、
この人が描く絵を見れば良いと、
内心思いました。
遠くから、荒々しい足音が
聞こえて来たかと思うと、
ダニエルが汗だくになって
走って来ました。
ダニエルは、
動詞を5つ、全部見つけたと叫ぶと
ズボンのポケットから
何かを探りながら
ローラのスカートの上いっぱいに
こぼしました。
土がたくさん付いた紙切れでした。
メモの中には、ラテン語の単語が
たっぷり書かれていました。
ローラは、メモの中に
名詞や副詞が混ざっていないか
確認するために、単語を調べました。
何と、全て動詞でした。
おそらくローラが出発前に見せた
ラテン語の教本で、
動詞を熱心に覚えていった
おかげのようでした。
ローラはダニエルに
よくできた。
今日はあなたが勝ったと告げると、
ダニエルは
「バンザイ!」と叫びました。

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自分の描きたいものしか
描かないと言うイアン。
ローラはそれを見ることで、
イアンの好きなものを
知りたがっていますが、
イアンがローラに見せていない
スケッチブックには、
ローラの絵が描かれているのです。
きっと、今は、以前よりも
ローラの絵が増えているはず。
もしも、ローラが、
イアンの愛情が溢れ出している
ローラの絵を目にすることができたら
彼の気持ちに
気づけるのにと思います。
ウィリアムは子供の頃から
イアンと多くの時間を
過ごして来たのだから、
彼が描きたいものしか
描かないということを
知っていたのではないでしょうか。
それなのに、
ランス嬢とジャネットの絵を
無理矢理、描かせるなんて
罪作りなことをしたと思います。