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133話 サンドリンの企みが、幕を開けようとしています。
サンドリンは、
静かなため息をつきながら
ティーカップを置きました。
フランツ・クラウヴィッツが後援する
展示会が開かれる
リンジャー・ギャラリーは、
カフェの向かい側に位置していました。
開幕式が始まる時間が近づくと、
客が1人2人と到着し始めました。
中には、
サンドリンが人脈を動員して招待した
有力日刊紙の記者と
評論家も混じっていました。
おそらく30分くらい。
サンドリンは、
この平穏が崩れるまでの
残りの時間を数えながら、
冷めた茶を注ぎました。
あの絵を掛けることは
予想していたより順調に進みました。
あのアトリエいる他の画家たちも
加勢してくれたおかげでした。
フランツ・クラウヴィッツが
貧しい芸術家たちの
パトロン気取りに飽きてしまったのが
災いの元でした。
父を補佐するために
フェリアへ出張することになった彼は
突然、展示会の開幕式への不参加を
通告し、その後のことについても
手を引くという意思を
明らかにしました。
金銭的な支援を
打ち切ったわけではないけれど
クラウヴィッツの人脈を利用して、
ラッツの芸術界で足場を固めようと
それだけを頼りに突き進んで来た
者たちにとっては
絶望的なニュースでした。
全く愚かなことだ。
ノアの口からその知らせを聞いた日、
サンドリンは、久しぶりに
爽やかな気持ちで笑いました。
今の自分がそうであるように、
不安は不安を生み、
不安ほど人間を簡単に壊す感情は
ありませんでした。
サンドリンは、
いずれ見捨てられるかもしれないという
恐怖に囚われた無名の画家たちの
守護者を自任しました。
友情だの恩恵だのと
うるさく騒いでいた者たちが
主張を変える決心するのに
3日もかかりませんでした。
今頃は、彼らが掲示した問題作が
展示会場で、
観客を迎えているはずでした。
あの愚かな坊ちゃんは、まだ彼らを
友達だと信じているだろう。
フランツ・クラウヴィッツは、
父親のように卑劣でも、
母親のように狡猾でもなく、
ただ、父親の虚栄心と
母親の貪欲さだけを、
そっくり受け継いだだけなのに、
あの失敗作に
バスティアンが敗北したなんて、
とても信じられないニュースでした。
よりによって、
このような重要な時期に
バスティアンを窮地に追い込んだのは
オデット。
彼女が失敗の原因だと
サンドリンは確信していました。
厳密に言えば、
あの女を切り捨てられなかった
バスティアンの自滅に近いものでしたが
恋人に、恨みの矢を向けるわけには
いきませんでした。
だから、これは、
バスティアンを慰めるための
贈り物でもありました。
サンドリンは、
満足そうな笑みを浮かべながら
時計を確認しました。
今頃、クラウヴィッツ一家は、
さぞかし、
意気揚々としているだろうけれど
彼らが、身の程知らずにも、
バスティアンを侮辱する武勇伝を
吹聴する機会は与えられないだろう。
もうすぐ世界中の非難を浴びる立場に
転落するのだから。
そろそろ退屈になり始めたサンドリンが
ハンドバッグから
タバコを取り出している間に、
一群の観客が
展示会場を飛び出して来ました。
フランツ・クラウヴィッツの傑作に
深く感銘を受けたのか、
皆、とても興奮した顔をしていました。
その光景を見守りながら、
サンドリンは、
のんびりとタバコを吸いました。
ふとバスティアンを見たくなりました。
正確には、
あの絵の前に立つバスティアンを。

テオドラは、
これは、全て伯爵夫人が
あらゆる手段を
尽くしてくれたおかげだ。
つまらないものだけれど、
感謝の気持ちを伝えたくて
用意したプレゼントなので
断らないで欲しいと告げると
嬉しそうに頭を下げながら
用意してきた宝石を差し出しました。
クライン伯爵夫人と
密かに神経戦を繰り広げてきた
これまでの時間は、
きれいに忘れることに決めました。
フランツがソフィアの息子に勝った。
この傲慢な女の娘こそ、
この記念すべき勝利の
一番の功労者だと考えれば、
以前になかった忍耐心と包容力が
自然と湧き上がって来ました。
クライン伯爵夫人は、
フランツが良い成果を上げたと聞いて
自分も嬉しい。
これで実業家としての足場は
十分に固めたようだけれど、
いよいよエラが
ウェディングドレスを着る日が来たと
考えてもいいのだろうかと尋ねると、
そっと目を伏せて、
テーブルに置かれた宝石箱を見ました。
テオドラは待っていたかのように
頷きながら明るい笑顔を見せました。
テオドラは、
ちょうど、その話をしようと
思っていたところだ。
5月の花嫁になるのはどうだろうか。
クライン家の意向はどうだろうかと
尋ねました。
クライン伯爵夫人は、
まあ、悪くない。
少し差し迫った感はあるけれど
婚約期間が長かったおかげで
少しずつ準備しておいたので、
大きな問題はなさそうだと答えました。
棘のある返事が気に障りましたが、
テオドラは今回も、
喜んでプライドを捨てました。
フランツは、元々責任感が強い子なので
家長の役割をする準備ができる前に
結婚をするのが負担だったようだ。
それだけエラを
大事にしているということなので
どうか怒りを解いて欲しいと、
テオドラは頼みました。
クライン伯爵夫人は、
そっと宝石箱を手に取ると、
隣に座っている娘の方へ
視線を向けながら、
もう一度騙されてみようと思うけれど
あなたの気持ちはどうかと
エラに尋ねました。
エラは、
つんと澄ましていましたが、
いつの間にか満面の笑みを浮かべながら
自分は、いつものように
両家の意思に従う準備ができていると
答えました。
テオドラは時機を逃さず、
もう一つの宝石を、
嫁候補の手に握らせました。
エラは遠慮することなく
さっとプレゼントを受け取ると、
本当に美しいブローチだと
無邪気に感嘆しました。
テオドラは、
これまで、心労が絶えなかっただろう。
フランツに、
あなたのような良い伴侶がいてくれて
どれほど嬉しいか分からない。
あなたは、
我が家門に与えられた祝福だと
告げました。
少なくとも最後の賛辞だけは、
心の奥底から湧き出た本心だと
テオドラは断言できました。
フランツに目がくらんだ
エラ・フォン・クラインの
愚かなまでの執着がなかったら、
とっくにダメになっていたはずの
縁談でした。
結婚式についての詳細な議論は、
より和やかになった雰囲気の中で
行われました。
まだフランツの確答は
得られていませんでしたが、
問題になることはありませんでした。
バスティアンの妻がいなくなってからは
フランツも徐々に、
気持ちを整理している様子でした。
何よりも、今回の件で
多くのことを感じ取っただろうと
テオドラは信じていました。
たとえそうでなくても
構いませんでした。
首輪をつけて引っ張ってでも、
フランツを結婚式場の壇上に
立たせるつもりでした。
ちょうど結婚式の日取りが
確定した時、「奥様!奥様!」と
真っ青な顔のメイドが
飛び込んで来ました。
クライン伯爵夫人は、
まだ客がいるのに、
何という無礼を働くのかと
メイドを叱責しましたが、
彼女は、
早く電話に出るようにと
クライン伯爵夫人を急かすだけで
なかなか退きませんでした。
結局、クライン伯爵夫人は
急ぎの電話に出るために
しばらく席を外しました。
無視されるのは、あまりにも
気分が良くありませんでしたが
テオドラは、
努めて平常心を保ちました。
フランツのためなら、
この程度の屈辱は、いくらでも
甘受することができました。
真っ赤な顔をしたクライン伯爵夫人が
戻って来たのは、
エラとウェディングドレスについて
話を始めた直後でした。
「この虫ケラにも劣る者たちが!
よくも、ぬけぬけと!」
頭がどうかなってしまったかのように
罵った伯爵夫人は
大切に保管していた宝石箱を
投げつけました。
驚いて制止しようとする娘の手を
振り払った彼女は、
エラの分のプレゼントまで
投げつけるほどの狂気を見せました。
テオドラは、
どういうことなのか分からないけれど
まずは落ち着いて・・・と
クライン伯爵夫人をなだめましたが
テオドラが言い終える前に、
激しく頬を叩く音が響き渡りました。
熱い痛みを感じてから、
彼女は自分に起こったことを
理解しました。
テオドラは、
こんな狂ったことをするなんて
一体どういうことなのかと
抗議しました。
怒りに震えるクライン伯爵夫人は、
狂っているのは、あなたの息子だと
逆上して叫びました。
そして、
こんな無作法で卑しい連中とは
最初から関わるべきではなかった。
気持ち悪くて耐えられないと
言いました。
テオドラはクライン伯爵夫人に
理解できるように話してみてと
促すと、クライン伯爵夫人は
気になるなら、今すぐ
リンジャーギャラリーへ駆けつけて
直接、確認するように。
そして、二度と自分たちの前に
現れるな。
今日限り、エラは、
あなたの汚い息子の婚約者ではないと
言い放つと、
途方に暮れて泣いている娘の
手首をつかみ、
そのまま応接室を去って行きました。
突然の騒動の中に
一人残されたテオドラは、
侮辱感と怒りに耐え切れず、
ぶるぶる震えながら、
持って来た物をまとめました。
すぐに追いかけて
仕返ししたい衝動に駆られましたが
激しい怒りはかろうじて抑えました。
リンジャーギャラリー。
一体何が、あの女を狂わせたのか、
直接確認するために
まずは、そこへ行ってみなければ
ならないようでした。

警察に要請しておいた護衛官たちが
まもなく到着する。
それまでは、
ここで待機した方がいいと思うと、
困った顔をした車掌が
バスティアンに了解を求めました。
バスティアンは、
客室の窓を覆っている
カーテンの隙間から
外の状況を窺いました。
カメラを構えた記者たちが、
客車の出入り口を
幾重にも取り囲んでいました。
たとえ彼らを撒くことに
成功したとしても、
プラットホームを埋め尽くしている
凄まじい人混みが待ち構えていました。
カーテンを閉めたバスティアンは
車掌の方へ振り向き、
どうしたのかと尋ねました。
しかし車掌は、グズグスしながら
顔色を窺うだけで、すぐに
口を開くことができませんでした。
車掌は、
ここでは少し話しづらいと
躊躇いながら伝えると、
静物のように
静かに座っているオデットに
目を向けました。
その意味に気づいたバスティアンは
まず客室の外の通路に出ました。
慌てて後を追った車掌がドアを閉めると
深い沈黙が客室を包みこみました。
普通ではない雰囲気を感知した
オデットは、立ち上がって
窓の前に近づきました。
興奮した群衆の熱気が、
そのまま伝わって来ました。
驚いたことに、彼らは
到底信じられないほど低俗な
罵声と共に、
オデットの名前を連呼していました。
彼女は、
ついにカーテンを開けられないまま、
後ずさりしました。
空っぽになったかのように
虚ろだった瞳は、いつの間にか
不安の色に染まっていました。
ますます速くなる心臓の鼓動が
他の全ての騒音を消してしまった瞬間
バスティアンが戻って来ました。
オデットは、
一体、何が起こったのかと
どうしても聞けませんでした。
ただ乾いた唇を震わせ、また一歩、
後ずさりしたのが全てでした。
バスティアンは静かな目つきで
オデットを見つめました。
固く閉ざされた唇の端が、
微かに歪んでいました。
今まで一度も見たことのない
何とも計り知れない顔でした。
鋭い警笛の音が鳴り響いた後、
警官たちが到着したという、
待ちに待った知らせが届きました。
秩序を保とうする警官の怒鳴り声が
大きくなるほど、
怒りの声も高まって行きました。
激情を鎮めたバスティアンは
脱いだコートを持って
オデットの前に近づきました。
こんなにみすぼらしい身なりをした女を
狼の群れの前に放り投げるわけには
いきませんでした。
女王のように豪華に装っていたとしても
結果は変わらないだろうけれど。
バスティアンは自分のコートで
オデットを包みました。
頭のてっぺんから被せて顔を隠し、
しっかりとボタンを留めました。
死んだようにじっとしていろと
落ち着いて警告したバスティアンは
オデットを抱きしめました。
一瞬の出来事でした。
慌てたオデットは、もがきましたが、
バスティアンは難なく制圧しました。
髪の毛一本も見せるなと警告して
オデットを、胸の奥深くに抱き締めた
バスティアンは、
すぐに客室を出ました。
廊下を通り抜け、客車から
プラットホームに足を踏み出すと、
騒々しいフラッシュの音と
興奮した群衆の叫び声が
怒涛のように彼らを襲って来ました。
降り注ぐ激しい光と野次の中でも
バスティアンは動揺しませんでした。
世間の目から徹底的に隠した
妻を抱き抱えて
颯爽とプラットホームを
横切っていくだけでした。
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オデットがバスティアンと一緒に
帰って来ることを、他の人たちは、
どうして知っていたのでしょう?
対外的には、オデットが
旅行へ行っているということに
なっていたけれど、
オデットが逃げたという噂が
広まっていたので、
それを払拭するために
バスティアンは、自分と一緒に
オデットが戻って来ることを
公然と話していたのかもしれないと
思いました。
オデットが、他の人の目に入らないよう
コートで包んで抱きかかえるなんて
オデットのことを
大事に思っていなかったら
できないことだと思います。
ところで、マルグレーテは
どこにいるのでしょうか?
連れているのでしょうね。
サンドリンのやったことは
オデットを傷つけることになる反面
クラウヴィッツ一家に
大打撃を与えたでしょうから、
バスティアンとしては
複雑な気分なのではないかと
思います。
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いつも、
コメントをありがとうございます。
私の脳内ではずっと
レチェン=イギリスで、
もしかしたら、レチェンは
ついにラルスを属国にして、
レチェンを名乗らせていたのでは?
とまで、思いましたので
81様のコメントを読んで、
思い込みはいけないと反省しました。
そして、もしかしたら
エルナとビョルンのハネムーンは
地中海クルーズだったのかもと
新たな考えが浮かびました。
空知様
オデットとバスティアンの間の
辛い展開は、あと40話程度です。
ただ、その後、戦争のシーンに
移って行くので、
それはそれで辛いものがありますが
その頃、
二人の関係は良くなっています。
Lupinus89様
青いコートの画像については
ChatGPTを
褒めてあげてください(笑)