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135話 オデットは、フランツと不適切な関係を結んで、父親が誰なのか分からない子供を身ごもったことにしようと提案しましたが・・・
オデットは、
その噂が事実だと認めれば、
自分を捨てる名分ができ、
あなたは罪のない被害者となって、
この泥沼から抜け出すことができる。
その代わりに、フランツが
泥沼に足を踏み入れることになる。
もちろん、自分も、
夫の異母弟と不倫をした女という
汚名を着せられることになるだろうから
あなたにとっては、
何かと得をした結果になるはずだと
主張しました。
空っぽになったバスティアンの皿の上に
オデットの影が落ちていました。
近づいた距離だけ鮮明になった
体の匂いが鼻先をかすめると
カトラリーを握った手に、
そっと力が入りました。
バスティアンは一気に空にしたグラスに
再びワインを注ぎました。
ゆらゆらと揺らめく暖炉の火に
照らされた顔の輪郭は、ここ数日の間に
さらに鋭くなっていました。
バスティアンは、
そろそろオデットの長広舌が
退屈になって来ましたが、彼女は
だから、もう離婚を受け入れて欲しい。
子供と一緒に去らせてくれるなら
自分を売ることで
バスティアンが窮地を脱する
手助けをするという結論に至りました。
カトラリーを置いたバスティアンは
ナプキンで口元を拭いました。
ますます頭痛がひどくなって来たのは
おそらく蓄積した疲労のせいでした。
バスティアンは、
充血した目をじっと閉じたまま、
乱れた息を整えました。
数日間、仮眠で耐えてきたという事実に
ふと気づくと
改めて虚脱感が押し寄せて来ました。
その結果が、こんな戯言だなんて、
なかなか、達成感のある成果でした。
自分との取引を提案している
落ち着いたオデットの声が
深まる冬の夜に染み込みました。
ついに、
捨てられることになるだろう。
自分が巻き込まれたスキャンダルを
知った瞬間、
オデットは、そう予感しました。
バスティアン・クラウヴィッツは
この世の誰よりも、
損得勘定に長けていました。
取り返しのつかないほど
評判を傷つけた女から得た子供は
彼にとって
致命的な汚点に過ぎないという事実を
知らないはずがありませんでした。
いくら復讐が重要だとしても、
そのような莫大な損害を
甘受しようとはしないはずでした。
オデットは、
どんな釈明をしても、
すでに悪意的に歪められた世論を
変えることはできないだろう。
それなら、それを利用して
実利を得るのが、
今の最善策ではないかと提案しました。
バスティアンは、
確かに、
自分にとって有利な取引だろうと
快く同意しました。
父の没落とオデットの破滅。
2つの復讐を
1度で終わらせることができる
絶好のチャンスでした。
ただオデット。
喉に刺さった棘のようなその名前が、
再び理性を曇らせました。
オデットは、
一生秘密を守ると約束できる。
後で、あなたの子供としての権利を
主張することもないだろうと告げると
彼女の瞳が微細な希望で
輝き始めました。
真冬に、一文無しの身の上で、
ましてや子供を身籠っているのに
自ら追い出されることを
招いているなんて、
信じがたい様子でした。
バスティアンは、
最高の復讐は、勝てないふりをして
この女の願いを
叶えてやることかもしれないと
ふと思いました。
どうせオデットの子は
皇室との繋がりに
なってくれないだろうから。
ただ、愚かな親を持ったという罪だけで
姪さえ、非情に突き放した皇帝が、
最悪のスキャンダルの中で生まれた
姪の子供を
受け入れるはずがありませんでした。
今や足枷にしかならなくなった
子供を差し出す代償として
オデットを利用すれば、
彼は無事に、この泥沼から
抜け出すことができました。
そして、オデットは
奈落に落ちるだろう。
それは子供を奪われることより
はるかに大きな罰になるはずでした。
バスティアンは、ため息交じりに
何も変わることはないと
返事をすると
再びカトラリーを握りました。
バスティアンは、
よく分かりませんでした。
明確な数字と計算が
与えられたにもかかわらず、
答えを見つけることが
できませんでした。
考えてみると、
この女性と関連した全てのことが
そうでした。
皇命とはいえ、いくらでも、
うまく避けられた縁談でした。
しかし、あえて、
そのような努力をせず、
皇帝のチェスの駒となりました。
2年間の偽りの妻が必要になると、
当然のように
オデットを思い浮かべました。
皇帝の姪は、
一番使いにくい相手だということを
知りながらも、
気にしませんでした。
ただオデット、あなたが欲しかった。
初めて会った瞬間から今に至るまで
いつも、そうだった。
愚かな愛が猛毒のような憎悪になっても
変わることはありませんでした。
それは実利とは無縁な領域にある
渇望でした。
責任と使命、出世と復讐。
バスティアンの人生を支えてきた
他の何物とも繋がっていない。
だからこそ、
計り知れませんでした。
オデットは真っ青な顔で、
どうか理性的に判断して欲しい。
望むのは、ただ子供だけだと
言うように、
もう一度切実に懇願しました。
家族はもちろん、拾ってきた犬、
甚だしくは他人の子供まで
心を込めて大切にし、
愛する女らしくなりました。
ネグリジェの下にうっすらと浮かぶ
わずかに膨らんだお腹を
なぞるように見ていた目を上げた
バスティアンは、
オデットを見つめながら、
自分の元を去ったら、その次は?
人生を台無しにした男の子供を抱えて
夫の弟と不倫をして
離婚された女という汚名まで
着せられたまま、
安い借家を転々としながら、
日雇いのような身になり、
惨めに生きていくつもりなのか。
本当に、それを望んでいるのかと
尋ねました。
オデットを映した
バスティアンの瞳は、
この夜の一部のように深く静かでした。
一体、なぜ?
オデットは、
混乱した気持ちに囚われたまま
唾を飲み込みました。
万全の準備をしていましたが、
このような状況は
予想していませんでした。
まだ、この子が役に立つと
思っているのだろうか。
オデットは、深く考えてみましたが、
答えを見つけることが
できませんでした。
まだ裏切りの代償を全て
払っていないと思っているのなら?
そこまで考えが及ぶと、
これ以上平静を装うことが
難しくなりました。
オデットは、
あなたは自分が惨めになることを
誰よりも望んでいる人ではないかと
言うと、冷たく澄んだ目で
バスティアンを直視しました。
堅固な仮面のようだった男の顔に
微細な亀裂が生じていた。
オデットは、
結局あなたの望み通りになったのに、
なぜ今さら、
こんな無理を言うのかと尋ねました。
バスティアンは、
「止めろ」とオデットを制止し、
自分があなたを
どこまで我慢できると思っているのかと
非難しました。
オデットは、
もうそんな必要はないので
自分を捨てるように、
今からでもすぐに、
立ち去ることができると言いました。
バスティアンは、オデットが、
多大なる犠牲と献身を捧げる
聖女でもあるかのように
振る舞っているけれど、
結局、あなたは骨の髄まで利己的だ。
その立派なプライドのために、
子供の人生を台無しにするという
母性愛が実に涙を誘うと
皮肉を言いました。
両目に溢れて出ていた涙が
視界をぼやけさせていましたが、
オデットは、
自分を見つめるバスティアンの顔が
怒りで歪んでいることを
知ることができました。
ギュッと閉じていた目を開いた
バスティアンは、
自分の子供を路頭に迷わせ、
惨めな生活を送らせることなど
絶対にあり得ないと、低く沈んだ声で
吐き捨てるように言いました。
荒くなった彼の息遣いに
オデットの胸が詰まりました。
罪を犯したのはフランツなのに、
この男が憎くて、 恨めしくて
傷つけたいと思いました。
自分でも理解しがたい
不条理な感情でした。
オデットは、
愛もないのに財布を開けてくれた
父親のもとで、
あなたは幸せだったのかと尋ねました。
バスティアンは、
持っているのは愛だけだった
母親を持つあなたは
とても幸せだったのかと
尋ねました。
鋭い刃のような激情で
互いを斬り合う2人の間から
丁重なノックの音が
聞こえて来ました。
オデットは、
今にも溢れ出しそうな涙を堪えながら
慌てて顔を背けました。
その間にドアが開き、
デザートを運んで来たメイドが
中へ入って来ました。
バスティアンは、
まだ微かな熱気が残っている声で
妻の分の料理を
もう一度、用意するようにと
淡々と命令しました。
窓ガラスに映った彼を見つめていた
オデットは目を見開きました。
バスティアンは、
温かいパンとスープだけで結構だ。
簡単でいいと命令しました。
「かしこまりました」と返事をし
慌てて頭を下げたメイドが
逃げるように立ち去ると
息が詰まるような静寂が訪れました。
なぜ?
辛うじて感情を落ち着かせた
オデットの眼差しが
再び揺れ始めました。
一体あなたが、なぜ?
悲鳴でも上げたいと思った瞬間、
バスティアンが
オデットの方を向きました。
凍りついたガラス窓の上で
二人の視線がぶつかりました。
その静かな見つめ合いは、
オデットの食べ物を取りに行ったメイドが
戻ってくるまで続きました。

しばらく空中を見つめていた
ジェフ・クラウヴィッツは、
フランツが購入した、
新興独立国の債券が
紙切れになったという意味かと、
ゆっくり尋ねました。
嵐の前の静けさのような沈黙の中に
立っていた秘書は、
真っ青な顔で頭を下げると、
現時点ではそういうことだ。
債券が暴落したせいで、
会社全体の資金繰りに
支障をきたしている。
鉄道購入の残金を支払うのが
厳しい状況で、
支払い猶予を申請してみたけれど
どうも難しそうだと答えました。
ジェフ・クラウヴィッツは、
もう一度説得してみろと指示しましたが
秘書は、
フェリアの財務大臣の意向は
極めて強硬だ。
債務不履行に陥った際は、
契約書の条項どおりに
処理すると言っていると伝えました。
失笑したジェフ・クラウヴィッツは
血の気が引いた手で
タバコの箱を開けました。
今回の鉄道購入の立役者だった
フェリアの財務大臣が、
手のひらを返すように
態度を変えました。
フランツの結婚の破談がもたらした
惨事でした。
最初に
そのスキャンダルを聞いた時は、
大したことないと笑い飛ばしました。
そうは言っても、たかが絵1枚。
適当に釈明すれば収拾できると
信じていました。
血迷ったクライン伯爵が
ぶち壊しさえしなければ、
そうなるはずでした。
ジェフ・クラウヴィッツは、
一瞬にして
天国から地獄に墜落しました。
ここが底かと思えば、
必ず、さらに深い底が訪れました。
一体どこが終わりなのか、
今は見当もつきませんでした。
ジェフ・クラウヴィッツは
できるだけ早く、現金化できる株を
全て処理するようにと命令すると
細かく震え始めた手で
タバコに火を点けました。
バスティアンは、
債券の購入に失敗したわけでは
ありませんでした。
競争に飛び込んで
債券価格を吊り上げた後
意図的に爆弾を押し付けたのでした。
フランツの体に流れる貴族の血に、
彼は改めて感謝しました。
その血統がなければ、
息子を殴って死に至らしめた
父親という汚名まで
背負うことになっただろうから。
あれこれ考えて悩んでいた秘書は、
それは、あまりにも危険な方法なので、
いっそのこと、
鉄道を諦めたらどうかと
慎重に反論しました。
しかし、ジェフ・クラウヴィッツは
余計なことは言わずに
自分の仕事をしろと命令し、
断固として首を横に振りました。
すでに彼は、全帝国の嘲弄の的に
成り下がっていました。
鉄道王の名声まで失えば、もはや
起死回生の余地がないはずでした。
ノックもせずに、
勢いよくドアが開いたかと思うと
真っ青な顔の中年の男が飛び込んで来て
「た、大変です!」と
叫びました。
株式市場の動向を調べに出かけていた
取締役でした。
ジェフ・クラウヴィッツは
タバコの煙が混じったため息を
長く吐きながら立ち上がりました。
もう株価暴落のニュースくらい
眉一つ動かさずに
聞くことができました。
その事実がふと悲しくなった矢先に、
取締役は、
イリスが鉄鋼会社の株式公募を始めたと
全く思いがけない災いを伝えました。
鉄鋼?鉄道じゃなくて鉄鋼なのかと
尋ねるジェフ·クラウヴィッツの
眉間のしわが深くなりました。
取締役は、唾を飲み込んで頷くと、
電撃的に株式公開をし、
買収合併を通じて、
帝国最大規模の鉄鋼会社を設立した。
株式市場の反応も爆発的で
異変がなければ
買入価格の2倍以上の利益を
得られるというのが大方の意見だと
報告すると、そっと後ずさりしました。
そして、まもなく
ジェフ・クラウヴィッツが投げた
灰皿が、床に叩きつけられました。
自分が捨てた息子に首筋を噛まれた
父親の苦痛の悲鳴も
その後に続きました。
結局、天罰を受けることになる。
秘書は、
どうしても口に出せない言葉を
飲み込んで、顔を背けました。
どうやら転職先を
調べた方が良さそうでした。
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バスティアンにとっての愛は
オデットを手放さないこと。
彼女にとっての愛は、
彼と別れること。
2人で正反対のことを
考えているのだから
上手くいかないのは当然だと思います。
オデットは
バスティアン以上に、
自分の感情に蓋を閉めているし
彼が自分のことを愛していると
露ほども思っていないので
バスティアンの方から先に
オデットへの愛を告白し、
子供も一緒に育てたい。
スキャンダルは痛手だけれど、
オデットと一緒だったら
乗り越えられると伝えれば
膠着状態から抜け出せると
思うのですが・・
バスティアンは、
オデットが自分のことを
嫌っていると思っているし、
拒絶されるのが怖くて、本心を
打ち明けられないのかもしれません。
オデットもバスティアンも
じれったくてたまりません。
私は株式市場のことは
全く分かりませんが、
2倍以上の利益が得られるという
イリスの鉄鋼会社が株式公募すれば
人々はそれを買おうと
躍起になると思います。
ジェフ・クラウヴィッツが
手持ちの株を現金化しようとしても
人々のお金は
バスティアンの方へ流れてしまうので
よほどの優良株でもない限り、
ジェフの持っている株を
買おうとする人は
いないのではないかと思います。
バスティアンは、
彼にだけは
負けたくないと思っていた
フランツの気持ちを利用し、
後に暴落すると分かっていた
債権の値を吊り上げることで
フランツの競争心を煽り、
まんまと高値で買わせることに
成功したというわけですね。
そして、
ジェフ・クラウヴィッツの会社が
資金難になれば株を売ることまで
見越して、この時期に
帝国最大の鉄鋼会社の
株式公開をしたのだとしたら、
バスティアンは
ジェフ・クラウヴィッツを
遥かに超えた実業家として
成長したと思います。
この素晴らしい息子を捨てなければ
バスティアンの成功を
共に喜ぶことができたはずなのに。
秘書の考えている通り、
妻の命を奪って、
息子を捨てた罪の報いを
今、受けているのだと思います。
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