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136話 オデットはバスティアンに監禁されています。
今は困る。
奥様の健康が回復した後、
改めて訪問して欲しいと告げる
執事の口調は、丁重だけれど
断固としていました。
マクシミンは、
さらに疑いが深まった目で
固く閉ざされたクラウヴィッツ家の
玄関のドアを見つめました。
社交活動の範囲内にいる客を
このように冷遇するのは、
決して常識的なことでは
ありませんでした。
事前に連絡なしに訪れた
招かれざる客であることを考慮しても
結論は変わりませんでした。
マクシミンは、
手紙を送っても返事がなく、
電話をかけても
繋いでもらえないので、
直接、足を運んで来たのに、
面会すら不可能だなんて変だ。
一体、どれほど重い病気なのかと
尋ねました。
執事は、
その件について、
自分の一存で答えることはできない。
申し訳ないけれど、今日はこれで
お引き取り願いたいと、
依然として、
立ちはだかった壁のような態度を
固守しました。
説得が不可能だと判断したマクシミンは
この辺で、
ひとまず引き返すことにしました。
「ジェンダス卿!」
聞き慣れた声を乗せた海風が
吹いて来たのは、ちょうど
玄関の階段を下りた瞬間でした。
マクシミンはビクッとして
振り返りました。
声が聞こえて来たのは、
邸宅の3階の端の方でした。
「なんてことだ、オデット!」
開いた窓の前に立っている
女性を発見したマクシミンは
目を見開きました。
距離が遠くて、顔を見分けるのは
難しかったけれど、
間違いなくオデットだと
確信することができました。
驚いた胸を落ち着かせたマクシミンは
急いでオデットのいる窓の下へ
駆け寄りました。
マクシミンは、
「話してください!聞いています!」
と、大きく手を振りながら叫ぶと、
オデットが窓から顔を出し、
「トリエ伯爵夫人に私の消息を・・」
と返事をしました。
しかし、「奥様!」と
突然、現れたメイドが
窓の前に立ちはだかりました。
マクシミンは、呆然とした目で
その光景を見つめていました。
オデットを連れて行ったメイドが
消えると、
別のメイドが駆けつけて来て
窓を閉め、カーテンを閉めました。
一瞬の出来事でした。
突発的な事態が発生したことに気づいた
クラウヴィッツ家の侍従たちが
駆けつけて来て、
マクシミンを取り囲み、
そんなことをしては困ると告げました。
素直に退かなければ、
武力でも行使する勢いでした。
マクシミンは、
熱くなる胸の内を抑えつけながら
頷きました。
彼は、
承知した。帰るので
道を開けて欲しいと告げました。
オデットが監禁されているのは
確実でした。
騒ぎが大きくなると、
彼女に危険が及ぶ可能性もあるので、
他の方法を講じた方が
良さそうでした。
退いた侍従たちの間を
通り抜けたマクシミンは、
振り返ることなく、
待機中の車に乗り込みました。
荒くなっていた息を整えた
マクシミンは、目的地を変更し
トリエ伯爵邸へ向かうよう
指示しました。
オデットが言おうとしたことを
最後まで、
聞くことはできませんでしたが、
彼女が、トリエ伯爵夫人の助けを
必要としていることだけは
確信することができました。
マクシミンの見解も同じでした。

離婚後に、
サンドリンが新しく用意した住まいは
ラッツ公園の西側に位置し、
バスティアンが所有する
タウンハウスから、
それほど遠くない所にありました。
公園の塀の下に車を停めた
バスティアンは、道を渡って
目的地へ向かいました。
約束の場所を、ここに決めたのは
サンドリンでした。
「さすがに、
公共の場でするような話では
ないでしょう?」 と尋ねながら、
彼女は明るく笑いました。
愛人との企みがバレたことは
少しも気にしていないようでした。
呼び鈴を押すと、間もなくドアが開き
サンドリンが直接姿を現しました。
彼女が
「ようこそ、 待っていました」
と歓迎すると、 バスティアンは
「こんにちは、ラビエル嬢」と
挨拶を返しました。
サンドリンは、
自分たちの間柄で、今更、
そんな大げさな礼儀は必要ない。
早く中に入って。
このままだとお茶が冷めてしまうと
告げると、一歩、後ろに下がり
催促の手振りをしました。
バスティアンは落ち着いた足取りで
玄関に入りました。
後から来たサンドリンは、直接、
彼の帽子とコートを受け取りました。
じっと、サンドリンを見つめていた
バスティアンは、
しばらく会わないうちに、
随分、気さくになったと
目を細めて告げました。
サンドリンは、
使用人たちには休暇を与えた。
あえて、理由は、
説明する必要がないでしょう?
と尋ねると、厚かましく笑いました。
その彼女を見つめていた
バスティアンの口元から
フッと失笑が漏れました。
度胸の大きさだけは、
彼女の父親より優れた女でした。
このような娘を、
単なる結婚商売の手段として
利用しているラビエル公爵が
やや残念でした。
彼女を後継者にして
会社の運営を任せていたら、
今以上の成果を得られるはずでした。
サンドリンは2階の応接室に
バスティアンを案内しました。
豪華なアフタヌーンティーが
用意されたテーブルの上に、
午後の光が差し込んでいました。
蓄音機から流れる甘美な音楽と
暖炉の炎まで、
至れり尽くせりのもてなしでした。
サンドリンは、
鉄鋼会社の話は聞いた。
あなたの素晴らしい勝利を祝う意味で
久しぶりに実力を発揮してみたけれど
どうだろうかと、
バスティアンの感想を聞くと、
ティーテーブルに座り、
飲み頃になったお茶を注ぎました。
サンドリンは、
クッキーとケーキは、料理人が
あらかじめ準備して行ったので
怖がらずに座ってと、
バスティアンを促しました。
余裕たっぷりに冗談を飛ばす
サンドリンの顔には、
テーブルを彩る瑞々しい花々のように
清々しい活気が宿っていました。
日増しにやつれていくオデットとは
完璧に対称的でした。
バスティアンは、
まずティータイムに参加することで
招待された客らしい礼儀を
尽くしました。
最近の安否や近況。社交界の年末行事。
平然と雑談をしていたサンドリンが
本心を露わにしたのは、
バスティアンのティーカップの底が
現れた頃でした。
彼女は、
自分からのプレゼントは気に入ったか。
どうか、そうであって欲しい。
一生懸命準備したと尋ねました。
ちょうど始まった管弦楽曲の旋律が、
サンドリンの鋭い声音と
調和をなしていました。
バスティアンは、
確かにそのようだ。
三流芸術家を好む令嬢の趣味に、
大いに助けられた。
ノア・ホフマンにもお礼を言うと
答えました。
サンドリンは快く頷き、
そうする。 ノアも喜ぶだろうと
返事をして、笑いました。
どうせ、バレることを承知で
始めたことでした。
もし最後まで気づかなかったなら、
バスティアンに
大きく失望したはずでした。
サンドリンは、
それでは、今度は
あなたが恩返しをする番だと、
さらなる一歩を踏み出しました。
変わらぬ笑みを浮かべてはいても、
その瞳の奥には、
隠しきれない冷ややかさが
宿っていました。
サンドリンは、
ウェディングドレスを
オーダーメイドしたい。
どうせなら、
春の花嫁に相応しいものをと
訴えました
バスティアンは躊躇うことなく頷き
令嬢の意のままにするようにと
返事をしました。
予期せぬ反応に驚いたサンドリンは
目を見開きました。
彼女は、
本気なのかと尋ねました。
バスティアンは、
もちろんだ。
もしサビネを予約したいなら
言って欲しい。
すでに予約がいっぱいだろうけれど
叔母を通じて頼めば、
融通を聞かせてくれるだろうと
答えました。
どこか他人事のように
傍観していたバスティアンでしたが
その顔に、
穏やかな笑みが浮かびました。
彼は、
まさか、あの田舎者の無名の画家に
ここまで本気だとは思わなかった。
意外な選択ではあるけれど、
令嬢の意思を尊重する。
お似合いのカップルだと告げました。
その言葉にサンドリンは
「・・・何ですって?」
と聞き返しました。
何かが間違っていると
予感したのと同時に、バスティアンは、
「ご結婚、誠におめでとうございます。
ラビエル嬢」と
丁重にお祝いの言葉を述べました。
からかわれていることに気づいた
サンドリンの顔が
怒りで熱くなりました。
「バスティアン!」と叫ぶ
サンドリンの鋭い声が
響き渡りました。
時間を確認したバスティアンは、
落ち着いた笑みを浮かべながら
席から立ち上がりました。
バスティアンは、
念入りに準備した公演の最中に
席を立つ失礼をして
申し訳ないけれど、土曜日の午後は
あまりにも交通渋滞がひどい。
妻との夕食に遅れないためには、
もう行かなければならないと
告げました。
サンドリンは、
今、自分の前で、
あの女を奥さんと呼んだのかと
尋ねました。
サンドリンの猛烈な怒りの前でも、
バスティアンは動揺しませんでした。
多分に意図的な発言であることは
明らかでした。
サンドリンは、
そんなことなら、
なぜ自分の前に現れたのかと
尋ねました。
バスティアンは、
非公式ではあったけれど、
それでも結婚を約束した間柄だ。
電話で最後の別れを済ませるのは
あまりにも、
ひどい仕打ちではないかと、
大したことではないという風に
答えると、身なりを整えました。
制服のボタンに反射した光が、
ぼんやりとしたサンドリンの目を
刺しました。
バスティアンは、
自分の出世のためにあなたを利用し
あなたは愛人と手を組んで
自分を裏切った。
互いに一発ずつ、やり合ったのだから
これで公平になった。
これで借金を精算したことになると
告げました。
サンドリンは、
まさか、今、
自分との婚約を破棄すると
言っているのかと尋ねました。
バスティアンは、
そんな大げさな言葉を使うのは
少し滑稽な気がするけれど、
それでも意味は
おおよそ同じだろうと、まるで
帳簿の数字を整理するかのように
無情で簡潔な計算法で
サンドリンの心を踏みにじりました。
バスティアンは、
今回ばかりは、
令嬢に免じて大目に見る。
先に契約を破った責任は自分にあるし
何より、一夜にして
フランツを葬ってくれたおかげで
大きく得をしたのは事実だから。
自分にも、
泥水が跳ねかかって来たけれど
これまでの友情を考えて、
その程度の損害は甘んじて受け入れると
一方的に通知すると、
バスティアンは頷きました。
そして、
自分たちの関係は、
これで精算されたものと承知しておくと
淡々と別れの挨拶を残して
背を向けました。
バスティアンを見るサンドリンの顔が
泣いているようで、
笑っているように歪みました。
あの男は、最初から
こうするつもりだったのだと
今になって、ようやく分かりました。
肝心な自分が、
その事実を知らなかったことが
彼女をさらに惨めにしました。
サンドリンは、
もう一度、考え直してみてはどうか。
このまま行ってしまったら、
あなたの奥さんが困ることになると
告げると、
テーブルクロスの下に隠しておいた紙を
取り出して、席から立ち上がりました。
ひたすら現実を否定しようと
必死になってきただけで、
これを事前に用意した時に、
もしかしたら、
最悪の状況が訪れるかも
しれないということを、すでに、
ぼんやりと予感していました。
サンドリンは、
展示会場に掛けられた絵は、
息子への愛情が深い
クラウヴィッツ夫人が処理し、
あの絵が掲載された新聞と雑誌は
あなたが処理したと聞いた。
おそらく、それで全て終わったと
思っているようだけれど、
これは、どうしましょうかと
尋ねると、
残念そうにため息をつきながら、
手に持った絵を振りました。
フランツ・クラウヴィッツの
作業室から持ち出した絵の1枚で
木炭を使って描いた精密画でした。
世間を騒がせた問題作よりも、
はるかに過激に描かれていました。
バスティアンは、
ようやく立ち止まり、
サンドリンを振り返りました。
絵を見ると、
彼の眼差しが深く沈みました。
眉間には、それとなくシワが寄り
唇はさらに固く結ばれました。
微細な表情の変化でしたが、長年
バスティアン・クラウヴィッツを
見守ってきたサンドリンは
今、あの男が動揺していることに
気づきました。
それを望んで準備した罠だけれど、
いざ願いが叶って、現実に向き合うと
恥辱感を覚えました。
サンドリンは、
わざと悪ぶった笑みを浮かべながら
バスティアンへ近づきました。
次第に距離が縮まり、やがて
お互いの息づかいが届くまで、
彼の視線は、ただフランツの絵に
釘付けになっていました。
サンドリンは、
画風が自分の好みだからと告げると
手を伸ばして、
バスティアンの頬を包み込みました。
ようやく彼女を映した氷のような瞳に
微かに冷笑が浮かびました。
サンドリンは平然と笑いながら
ジャケットのボタンを外しました。
彼は拒否しませんでした。
サンドリンは、
それでフランツの作品を
さらに何点か収集しておいたけれど
それを全部公開したら
どんなことが起こるだろうか。
自分がオデットなら、
恥ずかしくて、
むしろ死にたくなると思うと告げると
さらに大胆な手つきで
タイの結び目を引っ張りました。
サンドリンは、
少なくとも、ここまでどん底に
落ちたくなくて、
努力してきましたが、
もう気にしませんでした。
バスティアン・クラウビッツと
共にするバラ色の未来は、
すでに粉々になってしまったので、
それなら彼女は、
中身が空っぽの殻だけでも
手に入れるつもりでした。
少なくとも、この長い年月の間、
騙され続けた代償だけは
持って行けるように。
サンドリンは、
妻と子供の人生が
どうなっても構わないのなら、
行ってもいい。
しかし、そうでなければ、
自分に慈悲を求めるようにと
告げると、
解いたタイを床に投げ捨て、
今やシャツのボタンを
外し始めました。
サンドリンは、
自分が望む代償が何かは
よく分かっているはずだと
信じている。
それを餌に、自分を思う存分
弄んだではないと非難しました。
じっと彼女を見下ろし、
自分が高価なのか、
それとも、あなたが安っぽいのか。
どちらでしょうね?と尋ねる
バスティアンの口元が
そっと歪みました。
サンドリンは返事の代わりに、
力いっぱい背伸びをして
唇を重ねて来ました。
すぐに熱く荒くなった息づかいが、
午後の平穏を乱し始めました。
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実際は、そうではないのですが、
オデットとマクシミンとのやり取りが
親に付き合うのを反対されて
会うことも許されくなった恋人に
必死の思いで会いに来たけれど、
当然、会わせてもらえなくて、
仕方なく帰るところを、
彼が来たことに気づいた彼女が
遠くから声を掛けるという
メロドラマのシーンに思えました。
マクシミンと結婚すれば、
オデットは、こんなに苦労をせず
穏やかな生活を送れるのにと
思います。
でも、バスティアンは
オデットと離婚をしたとしても、
マクシミンとの結婚だけは
絶対に許さないと思います。
とうとう、サンドリンと
そういうことに
なってしまうのでしょうか・・・
でも、それは、
オデットの絵の代価としての
行為なので、
それに応ずるしかないのかも
しれませんが・・・
それにしても、
ずっとサンドリンとの結婚を
匂わせておいて、
こんなに呆気なく彼女を
捨ててしまうバスティアンは
興味のない人に対しては
限りなく残酷になれるのですね。
さすがにサンドリンが
可哀想に思えました。
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