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139話 オデットはフランツに拉致されました。
バスティアンの車は、虚しく
視界から消えて行きました。
彼を呼びながら
車の窓を叩いていたオデットの手が
力なく落ちました。
必死にもがいて、
手首を縛っている縄を解いた瞬間、
バスティアンが姿を現しました。
最後の望みと信じて
すがりつきましたが、
結局、届きませんでした。
今まで、いつもそうだったように。
フランツは、
外国へ行こう。誰も知らない場所で
新しい人生を始められるようにと
バラ色の未来についての妄想を
まくし立てながら
危険な疾走を続けました。
すっかり興奮した様子でしたが、
その瞳は虚ろでした。
それがオデットの目に入ったのは、
全身が冷たく冷めていくような
恐怖が訪れた瞬間でした。
後部座席の床に放り出された
旅行カバンの下から
冷たい光が鋭く閃きました。
銃だと気づいたオデットは
息を殺したまま
フランツの様子を探りました。
幸いなことに、相変わらず彼は、
自分の世界に没頭していました。
オデットは、
慎重に荷物の山に近づきました。
小刀を握り締めて、人里離れた夜道を
1人で歩いていた頃を思い出すと
意識が一層、はっきりしました。
どうせ、いつも1人だったので、
今さら救いの手にすがるなんて
滑稽でした。
フランツは、
お腹の中にいる子供は
自分の子供として面倒を見てやる。
あの獣同然の男の獲物として
差し出されたのは、
あなたのせいではないので、
自分は、いくらでも理解できると
言いました。
今や、フランツの妄想は、
兄の妻と甥を奪って築いた
幸せな家庭へと流れて行きました。
その狂気が恐ろしかったけれど
オデットは、
銃をつかむための努力を
止めませんでした。
フランツは、
ハンドルをきちんと操作できないほど
酔っていました。
夜の海に墜落して、
惨めな死を遂げる前に、この車を
止めなければなりませんでした。
フランツは、
あなたも自分を愛するようになることを
自分は知っていると、
笑いながら泣き、再び笑って
妄想を並べ立てました。
好機を窺っていたオデットは、
その隙にカバンを押し退けて
銃を握りました。
破裂しそうなほど
激しく鼓動する心臓の音の合間に
「よく見ておくように」と言う
射撃を教えてくれた時の
バスティアンの声が
思い浮かびました。
すっかり忘れたとばかり思っていた
あの日の記憶が
まだ鮮明に残っていることを、
オデットは、その時になって
ようやく気づきました。
空と海の間から吹いて来た風と
金色の日差し。
背後を守ってくれていた
男の体温まで。あの日の全てが、
今のことのように蘇りました。
オデットは、その記憶を頼りに
不安で途方に暮れる気持ちを
引き締めました。
彼女は、あの日に戻ったのだと、
思い込むことにしました。
背後には彼がいるので、
全てが大丈夫だと。
オデットは、
教わった通りにライフルを構え
運転席に向かって
狙いを定めました。
銃身を握る力を調節し、
呼吸を整えることも
忘れませんでした。
あの日、何度もミスをして
バスティアンが直してくれた
部分でした。
ライフルを撃つ準備を終えた
オデットは、
「すぐに車を止めて」と警告しました。
フランツは、
ようやく空しい夢から覚めました。
ルームミラーに映っている
オデットをぼんやりと
見つめていたフランツは、
先程のことで気を悪くしたのかと
尋ねると、クスクス笑い始めました。
子供の幼稚ないたずらでも
見たかのような反応でした。
フランツは、
あなたを救うためだったということを
知っているでしょう?と尋ねました。
しかし、オデットは
吐き気がするような言い訳は止めてと
冷たく一喝すると、
照準を上げました。
ライフルの銃口は、
今や正確にフランツの頭を
狙っていました。
バスティアンが来ると
オデットは信じていました。
今頃、彼は邸宅に到着しているはず。
そうすれば、
何か尋常でないことが
起きたという知らせが
伝わっているはずでした。
怪我をしたマルグレーテと
もみ合った痕跡が何を意味するのか
きっと気づいたはずだから。
バスティアンは、どんな手を使ってでも
子供を奪い取ろうとする
執念を持った男でした。
子供のためにも、
必ず来てくれるだろうから
何とか車を止めて時間を稼げばいいと
オデットは再び揺れる心を
引き締めました。
オデットは、
フランツが汚い欲望で自分を侮辱し
拉致劇まで起こした
破廉恥な犯罪者に過ぎないという
現実を冷徹に知らせながら
引き金に指をかけました。
フランツは、
よく考えた方がいい。
あなたには、もう本当に
自分だけしかいないと、
クスクス笑いながら
大声で叫びましたが、
そっと速度を落としました。
オデットをチラチラ見る目からも
不安感が滲み出ていました。
フランツには、命をかける度胸が
あるはずがないという予想が
的中したようでした。
オデットは、
車を止めなければ撃つと、
最後の警告をすると、
静かな眼差しでフランツを見つめながら
息を整えました。
その時、
闇に沈んだ海岸道路の向こうから
閃光が見え始めました。
車のヘッドライトと思われる
光の筋が、
急速に距離を縮めて来ていました。
それに気づいたフランツは、
悪口を吐きながら
再びスピードを上げ始めました。
最後の機会さえ
逃してはならないという決断を下した
オデットの瞳から
最後の躊躇の光が消えました。
「前を見ろ」と言う
バスティアンの落ち着いた
説明の声が、
オデットの耳元で蘇りました。
「頭を上げて」
姿勢を直してくれた手も、
今のことのように、鮮明に
思い浮かべることができました。
オデットはあの日の記憶の中に戻り、
引き金を引きました。
気が遠くなるような恐怖が
襲って来ても、最後まで、
目標を注視しました。
「目を閉じるな」
心の奥深くに残っていた
バスティアンの
最後のアドバイスのように。

銃声が聞こえて来てからまもなく
急ブレーキをかける
鋭い金属音が響き渡りました。
バスティアンは急いでハンドルを切り
危なげに揺れる
テールランプの光を追いました。
ガードレールに衝突した車は
反対側に跳ね返り、
街路樹に衝突した後に、
ようやく止まりました。
バスティアンは荒い息を吐きながら
事故現場に車を走らせました。
頭の中が真っ白になり、
全ての思考と感情が一気に消え、
残っているのはオデット、
あの女の名前だけでした。
「どうか・・・」
何を願っているのかも分からないまま
バスティアンは祈りました。
「どうか、どうか、頼むから」
狂ったように叫びたくなった瞬間、
壊れた車体が視界に入って来ました。
幸い、車が
徐々に速度を落としていたおかげで、
損傷状態は
深刻ではありませんでした。
しかし、あれは確かに銃声だった。
あの恐ろしい音を思い出した
バスティアンが
道路に飛び出したのと同時に、
壊れた車の後部座席のドアが
開きました。
暗闇を照らすヘッドライトが
よろめきながら歩いて来た女を
照らしました。
海風になびく黒い髪と
青いコートに気づいた
バスティアンの唇から
新たに荒い息が漏れました。
血まみれになった腕を握り締めた
フランツが、
運転席から降りたのはその時でした。
オデットは、
「そこに立っていて!
近寄らないで!」と叫ぶと、
後を追いかけて来た
フランツに向かって
両腕を上げました。
必死に握りしめている
ライフルに気づいた
バスティアンの眼差しが
大きく揺れました。
オデットは、
乱れのない姿勢と眼差しを保ちながら
まるで冷徹な狙撃手のように
フランツに銃口を向けていました。
今にも、
オデットに飛びかかる勢いだった
フランツは、ビクッして
その場に立ち止まりました。
バスティアンは、ようやく
狂乱の疾走に終止符を打った
銃声の意味を理解しました。
オデットは無事だ。
改めてその事実を噛み締めると、
ようやく、
まともな息ができました。
硬直した顔を撫で下ろす
バスティアンの手は、
寒気がしているかのように
震えていました。
バン!
もう一発、銃声が鳴り響いたのは、
バスティアンが、
ちょうど足を踏み出した瞬間でした。
空中に向かって銃を撃ったオデットは
再び完璧に近い照準の姿勢を
整えました。
息を整えたバスティアンは
慎重な足取りで、
オデットに近づきました。
彼女は怯えたまま
銃を構えている状態でした。
今、最も重要なのは、
彼女を驚かせないことでした。
「オデット」
名前を呼ぶ優しい声が
風に乗って伝わって来ました。
オデットは、
まだフランツに向かって
銃口を向けたまま首を回しました。
両目に溢れている涙が
視界を曇らせていましたが、
ぼんやりとしたシルエットだけでも
背後に立っている男を
見分けることができました。
彼が来てくれた。
その事実を認識すると、
必至に耐え続けていた体から
すっと力が抜けていきました。
オデットの手から
落ちそうになったライフルを
受け取ったバスティアンは、
手慣れた様子で、分離した弾倉を
ガードレールの向こうに投げました。
「よくやった。もう大丈夫」
波の前の砂の城のように崩れる
オデットをつかんで抱いた
バスティアンが低く囁きました。
通行を遮っている
事故現場付近に止まった車の
ヘッドライトが、
まるで舞台を照らす照明のように
彼らを照らしました。
オデットは、
慣れ親しんだ温もりに
身を委ねたまま、涙を飲み込み、
呼吸を整えました。
ようやく
体を支えられるようになった頃
「何てことでしょう。奥様」と
ドーラの声が聞こえて来ました。
運転手が運転して来た車から
降りたメイド長は、
慌ててオデットに駆け寄りました。
武器を持った侍従たちも
列をなして後を追いました。
できるだけ早く
妻を連れて行くようにと指示して
彼らにオデットを渡した
バスティアンは、
気が狂ったようにニヤニヤしている
フランツの方を振り向きました。
割れたガラスに引っかかれた傷から
流れた血と涙が
苦痛に歪んだ顔を覆っていました。
父親があれほど渇望した
貴族の血を引く後継者は、
今や回復が不可能などん底まで
落ちてしまいました。
それを如実に証明する光景を見つめる
バスティアンの眼差しが
冬の夜の海のように深く沈みました。
オデットを利用して
フランツを陥れるのは
彼が構想した戦略の1つでした。
そのため、
これまでフランツの歪んだ欲望を
傍観してきました。
夫の腹違いの弟と不倫をした
ふしだらな女という離婚理由を
1つ加えて、
オデットを踏みにじることができる
機会でもあったからでした。
だから、今さら、
サンドリンとフランツを責めるのは
滑稽でした。
むしろ、代わりに
目標を達成してくれた彼らに
感謝すべきかもしれませんでした。
「クズ野郎」
フランツが吐き捨てた罵声が、
2人の兄弟の間に築かれていた
沈黙の壁を破りました。
裏切られただけでも足りないのに
また見捨てられるくせに、
白馬に乗った王子様ごっこを
しているのか。
まさかオデットを愛しているのかと
フランツは喚き散らしながら
すすり泣きました。
バスティアンは黙っていました。
フランツは
お前が勝ったと思っているのか?
結局、お前が全て奪い取ったと
思っているのか?とんでもない。
何をしようと、
あの女を手に入れらないのは、
結局、お前も自分と同じ。
いや、妻にして、妊娠させても、
心すら得ることができなかったので
より悲惨な敗北者だと
バスティアンを罵りました。
自らを放り出したようなフランツを
じっと見つめていたバスティアンは
何も答えることなく背を向けました。
車から降りた見物人たちが
彼らの周りに集まり始めていました。
道化役はこれで十分でした。
計算が狂った。
自分の失敗を認めたバスティアンは
オデットを乗せた車に向かって
大股で歩いて行きました。
怒りに狂った叫び声を上げている
フランツの存在は
すっかり忘れ去られていました。
バスティアンの五感はただ1ヶ所、
この混乱の始まりであり終わりである
女だけに集中していました。
愛せなければ憎むことにした。
そうすれば
終わりが見えるだろうと
信じていました。
しかし、バスティアンは
憎しみは愛の影に
過ぎなかったということを
もう分かったような気がしました。
結局、自分はあなたを愛していた。
かつては、煌めく光の中で、
今はその光が落とした影の下で。
あまりにも虚しい真実を自覚した瞬間
鈍い衝撃と共に、
肩を打たれる痛みを感じました。
獣の雄叫びのような奇声に
振り向くと、
血のついたナイフを持ち上げている
フランツが見えました。
周りの悲鳴を聞いて初めて
バスティアンは、
それが自分の血だという事実を
認識しました。
「バスティアン!」
オデットの鋭い悲鳴が聞こたのと同時に
さらに激しくなった打撃音が
響き渡りました。
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オデットがバスティアンに
すがりつこうと思ったのは
いつだったのでしょうか?
オデットは、
あまり感情を露わにしないので
分かりにくいのですが、
バスティアンにあげたリボンが
水溜まりに落とされていた時と
昼食を取る約束をして
反故にされた時のことと、
バスティアンからもらった
綿あめを食べられなかったことと
バスティアンと一緒に
観覧車に
乗れなかったことくらいしか
思い浮かびませんでした。
もっとも、これらは
すがりつくというよりも、
見捨てられたとか、
気持ちを踏みにじられたような
感じを受けますが・・・
それでも、オデットが、
期待をする度に
事が上手く運ばなかったことで、
自分はやはり1人なのだと
再確認し続けていたように思いました。
ようやくバスティアンが
オデットへの愛を認めました。
そして、オデットも、
自分が窮地に陥った時に
いつもバスティアンが
助けに来てくれると思っていた。
ケガを負った彼をオデットが介抱し
2人の間のわだかまりが解けて
互いの愛を確認するという展開に
なるといいのですが、
そう簡単に
事は運ばないのでしょうね。
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