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140話 バスティアンはフランツに刺されてしまいましたが・・・
フランツは、いつ、バスティアンに
ナイフを奪われたのか
知りませんでした。
反撃されたことに気づいた時、
フランツは、すでに冷たい道路の上に
横たわっていました。
バスティアンの手に渡ったナイフは、
すぐに、
ガードレールの後ろに投げられた
弾倉の後を追いました。
あっという間の出来事でした。
フランツは、
近づいて来るバスティアンの足音を
聞きながら、発作的に笑いました。
どうせ勝てない相手だということは
分かっていました。
それでも奇襲すれば、
致命傷くらいは与えられると
思っていたのに、
結局、この有様でした。
やはり、規格外の代用品に
過ぎなかったというわけでした。
フランツは夜空を見上げて
横になったまま
そろそろ卑しい獣の本性が
出て来たようだね?と
バスティアンを挑発しました。
ナイフで刺されながらも、
少しの乱れもない姿に
鳥肌が立ちました。
こんな怪物に勝つなんて、
最初から不可能な戦いでした。
オデットがついに引き金を引いた銃が
車の窓を粉々に砕いた瞬間、
フランツ・クラウヴィッツの人生は
もう終わったということに
気づきました。
実は、とっくの昔に知っていた
真実でした。
一生、異母兄の落とす影の中で
生きていくことになるだろうと
予感した幼少期のある日から。
もしかしたら、もう1人の
バスティアン・クラウヴィッツに
生まれなかった瞬間からだったのかも
しれませんでした。
足を止めたバスティアンは、
自分がなぜ今まで、
お前を見逃していたのか分かるかと
低い声で囁きました。
フランツは彼の影の下で
よろよろと体を起こしました。
バスティアンは、
お前は、お前の母親の
付属品に過ぎなかった。
別個の存在として
扱う必要などなかった。
ところが、
お前の母親とは無関係な欲望を抱いて
自分に牙をむくなら話は別だと
言いました。
静かにフランツを見下ろす
バスティアンの顔は、
深まる真冬の夜のように
冷たい光を帯びていました。
フランツは唾を飲み込みながら
後ずさりしました。
一瞬たりとも、真剣に
自分を相手にしたことのなかった
バスティアン・クラウヴィッツが
猛烈な怒りを露わにしていました。
その事実に気づくと、恐怖と共に
大きな喜びが訪れました。
死刑が宣告されたも同然の人生に、
フランツは、
もう、うんざりしていました。
むしろ、このまま終わって欲しいと
願っていました。
それなら、
バスティアン・クラウヴィッツを
執行者にするのも
悪くないはずでした。
結局、彼のいる場所に
辿り着くことはできなかったけれど
少なくとも自分のいる底まで
彼を引きずり下ろす力は
残っていました。
それに気づくと、フランツは、
もはやバスティアンを
恐れませんでした。
生まれて初めて、
彼と対等な存在になったような
気さえしました。
「本当に愛しているんだね?」
フランツは息も絶え絶えに
ケラケラ笑いながら手を叩きました。
バスティアンが密かに世話をしていた
野犬のことを思い出したフランツは、
バスティアンが、
主に裏切り者を愛する悪趣味でも
あるのか。
あの犬もそうだったではないかと
言うと、
瞳を嬉しそうに輝かせました。
あの犬を発見したのは偶然でした。
やりたくない乗馬の練習を避けて
隠れていた森の中で、フランツは
狼のように大きな野犬を見ました。
そのそばには、犬に餌をやっている
1人の少年がいました。
驚いたことにバスティアンでした。
慌てて食べ物を平らげた犬は、
バスティアンがいる木の下に
近づきました。
バスティアンは遠い空を眺め、
野犬は、そんなバスティアンを
見つめました。
その平穏な風景から、フランツは
しばらく目を離せませんでした。
長い欠伸をした犬は、
遠慮なくバスティアンの膝を枕にして
横になりました。
そんな犬の頭を撫でている
バスティアンの手は、
花が咲いた森を吹き抜ける風のように
柔らかでした。
木の葉の間を通り抜けた春の日差しに
染まった顔に浮かんだ微笑みもまた
そうでした。
兵隊人形のようだった兄が、
初めて普通の少年のように見えた
瞬間でした。
それが不思議だったフランツは、
そのまま、真っすぐ母親を訪ね、
自分が見たことを話しました。
その野犬が死んだのは、
それから数日後でした。
薬の入った肉を食べて狂った犬が
狩りの授業中だった
バスティアンに噛みつき、
絶体絶命の窮地に追い込まれた
バスティアンは、結局、自分の手で
その犬を撃って死なせました。
そしてしばらくして、
家門の後継者が変わりました。
バスティアンが古物商の孫となって
去ってくれたおかげでした。
肉の塊に目が眩んで
お前を噛んだ犬を愛し、
妹を守ろうとして、
お前の背中にナイフを突き立てた
女を愛している。
かなり涙ぐましい愛だと言うと、
フランツは、
バスティアンの秘密を知った日の
母親のように笑いました。
フランツは、
あとは命を奪うことだけかと
会心の一撃を食らわせながら
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべました。
凍りついた水面のような
バスティアンの青い瞳に浮かんだ
微細な亀裂が、
しびれるような勝利感を
かき立てました。
「それが、お前の愛し方なんだよね。
そうだろう?」と、
フランツが最後の餌を投げると同時に
バスティアンの拳が
顔に飛んで来ました。
フランツは、悲鳴さえ
まともに上げることができないまま
地面に倒れました。
息をまともにすることが
できないほどの痛みが消える前に、
体が宙へ浮かび上がり、
すぐに再び墜落しました。
驚いた侍従が駆けつけて
制止しましたが、
バスティアンは止まりませんでした。
鼻と唇から流れた血で
顔がぐちゃぐちゃになっても、
フランツは、
歓喜の笑みを浮かべました。
ひどく痛んだけれど、
目的を達成したという証拠でした。

何かがおかしい。
血まみれになりながらも
ニヤニヤしているフランツと
目が合った瞬間、
オデットは直感しました。
一方的で無慈悲な暴行を
受けている最中にも、
フランツは幸せそうに見えました。
まるで彼女を拉致して
狂乱の疾走を繰り広げた
瞬間のように。
「ダメです、奥様!」
バスティアンの所へ行こうとする
オデットを阻んだドーラは、
断固として首を横に振りました。
ドーラは、
危険なので早く車に乗るように。
お腹の中の子供のことを
考えなければならないと言いました。
ドーラの指摘が正しいことは
分かっていましたが、オデットは
なかなか、足を踏み出すことが
できませんでした。
駆けつけた侍従たちが、
必至で争いを止めようとしましたが
無駄でした。
彼らを振り払ったバスティアンは、
地面を転がるフランツを立たせ、
殴り倒し、
そして再び立たせることを
繰り返していました。
まるで手術を執刀する外科医のように
落ち着いて冷徹な態度が
バスティアンを、
さらに残酷に見せていました。
見物人たちの目にも
同じように映っているはずでした。
このままではフランツは、
兄の手により
惨めな死を遂げるかもしれない。
考えがそこまで及んだ瞬間、
オデットは、
今、劣勢に立たされているのは
むしろバスティアンだということに
ふと気づきました。
引き止めるドーラの手を振り切った
オデットは、
急いでバスティアンに向かって
走って行きました。
頭が判断する前に
体が先に動きました。
自分が何をしているのかに
気づいた時、オデットはすでに
バスティアンの背中を
抱き締めていました。
「止めてください、
バスティアン!」
オデットの必死の願いが
白い息に乗って広がりました。
バスティアンは、
道路の上に倒れている
フランツへ向かっていた足を
ぴたりと止め、
激しく息を切らしました。
視線を落とすと、
腰を抱きしめるオデットの両腕が
見えました。
オデットは、
お願いだから止めて欲しい。
このままでは、
あなたが危険になると懇願しました。
背中に伝わるオデットの体温が、
冷たい炎のような怒りに
蝕まれていた理性を
次第に呼び覚ましました。
恐怖に震えながらも、
オデットは退きませんでした。
オデットは、必死で
バスティアンにしがみつき、
あなたの目的である子供を
守らなければならないのだから
どうか自分を助けて欲しいと
彼を説得しました。
子供。
オデットが捻り出した言い訳を
頭の中で繰り返していた
バスティアンの唇から、
荒い息と共に、
不意に失笑が漏れました。
彼女の目に映った自分の姿を
彷彿とさせる単語でした。
どんな手を使ってでも
子供を奪って復讐を遂げるという
一念に憑りつかれた怪物。
否定する術がないという事実が
さらにバスティアンを
惨めにしました。
オデットを押し退けようとした手を
引いたバスティアンは、
血走った目を閉じたまま、
乱れた呼吸を整えました。
フランツの意図を承知の上で、
巻き込まれました。
理性を失わせた、その狂気の名前を
バスティアンは
よく知っていました。
あの汚れた絵を差し出した
サンドリンに向き合った瞬間に
感じたのと同じ殺意でした。
「・・・バスティアン」
心に響く澄んだ声で囁く名前が
風に乗って流れて来ました。
バスティアンは、
熱いため息をつきながら
目を開けました。
オデットは、いつの間にか、
彼の前に立ちはだかっていました。
弱点はいつか必ず攻撃材料となる。
バスティアンは、
その事実をよく知っていました。
それでも弱点がばれてしまい、
結局、攻撃されました。
肝心な自分が
気づいていなかった弱点だという事実が
さらに胸に刺さりました。
オデット。
サンドリンとフランツが武器にした、
自分の急所を突く
その致命的な弱点を見つめる
バスティアンの眼差しが
深淵のように深く沈みました。
その時、
暗闇の向こうから疾走して来た
車1台が急停車しました。
息子を探しに来た
テオドラ・クラウヴィッツでした。
「なんてこと、フランツ!」
彼女は息が詰まりそうな悲鳴を上げて
息子の元へ駆け寄りました。
死体のように倒れて
喘いでいたフランツは、
助け起こそうとする母親の手を
振り払いながら、バスティアンに、
続けろ、自分の命を奪えと
悪態をつき始めました。
フランツは、
発作でも起こしたかのようにもがき、
頭を掻きむしり、ついには、
冷たい道路に額を打ちつけました。
何とかして息子を落ち着かせようと
必死だったテオドラは、
結局、諦めたように座り込んで
泣き出しました。
彼らをかすめたバスティアンの視線が
再びオデットに向けられました。
自分を湛えている澄んだ瞳の中に
バスティアンは、
父の顔で、父の作った地獄の底で、
あれほど嫌悪していた父の人生を
そのまま踏襲している醜い怪物を
見ました。
継母が放つ呪いの言葉と
フランツの血を吐くような絶叫。
見物人のざわめき。
それら全てが一瞬消え去りました。
焦点がぼやけた目から光が消えると、
視界までもが暗転しました。
バスティアンは、
襲いかかって来た闇の中に
閉じ込められたまま、
乱れた息を切らしました。
まるで眠りについたまま、
深い夜を彷徨っていた
時代のようでした。
これ以上、
自分自身をコントロールするのが
難しくなった頃、
そっと頬に触れる手が感じられました。
「バスティアン」
月明かりに似た声が、
奇妙な静寂の中に染み込みました。
バスティアンは、その光を頼りに
意識を整えました。
急流が押し寄せるように
周囲の騒音が襲いかかり、
すぐさま凄惨な光景が
視界を埋め尽くしました。
バスティアンは、
虚無と幻滅の入り混じった視線で
泥沼の中を転げ回って来た自分の人生を
そのまま映し出したかのような
その光景を凝視しました。
その時、顔を包み込んでいる手に
そっと力が入りました。
オデットは、
もう大丈夫だと告げると、
慎重な手つきで、
バスティアンの視線を引き寄せました。
追われる獣のように
荒い息を吐いていた彼は、
そっと頬を撫でるオデットの手の中で
次第に落ち着きを
取り戻して行きました。
「一緒に帰りましょう」と告げる
オデットは、
泣きそうな顔で笑いました。
光であり闇のようでした。
弱点は、
いつか必ず攻撃材料となる。
自分の手で命を奪った
野犬が遺したその教えを、
バスティアンは、一時も
忘れたことがありませんでした。
だから、
手放さなければならないということを
知りながらも、結局、彼は、
指先だけでも振り払える女から
逃れられませんでした。
明確な数字と計算で構築した
完全無欠な世界は崩壊しました。
バスティアンは、
その廃墟に残った唯一の美しいものを
力いっぱい抱き締めました。
絶望的な救いでした。
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子供だったバスティアンを
襲った野犬に、
実は、彼が餌をやっていて、
可愛がっていた事実に驚きました。
フランツは
野犬がバスティアンを襲った理由を
明らかにすることで、
彼の心を傷つけようとしましたが
バスティアンは、すでに
それを知っていたのですよね。
だから、夢遊病という弱点を
人に知られないように
寝る時に、自分の体を
縛り付けるようになったのだと
思います。
野犬に襲われたのは
何歳の時のことなのか
分かりませんが、
そこまで考えられるほど、
バスティアンは賢かったのだと
思います。
バスティアンは
自分が父親の人生を踏襲していることを
嘆いているけれど、
ジェフ・クラウヴィッツが
貴族の血を引く息子欲しさに
バスティアンを捨てたことを
後悔して欲しいです。
もしかして、バスティアンは、
オデットがマルグレーテを
飼いたいと言った時、
かつての自分の姿をオデットと
重ね合わせていたのではないかと
思いました。
バスティアンが犬を遠ざけていたのは
自分の手で野犬を始末した時の心の傷が
そうさせていたのではないかと。
でも、バスティアンは、
犬が嫌いだったわけではないので
マルグレーテに、こっそり食べ物を
分け与えていたのではないかと
思いました。
そして、とうとうバスティアンが
自分の気持ちに気づきました。
遅すぎます。
もっと早く気づいていれば、
ここまで事が拗れることは
なかったのではないでしょうか。
オデットも、
自分の力でバスティアンの暴走を
止められると
思っていなかったかもしれませんが
バスティアンのことを考えて
勇気を出したのは、
彼への愛があるからではないかと
思います。
このまま2人が
上手くいくといいのですが、
悪の権化テオドラが、このまま2人を
放っておくわけがないですよね。
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